最新更新日:2018/06/23
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昨日はPTA委員会へのご参加ありがとうございました

田代墓地

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昨日は、3年生に生駒吉乃のお墓を案内しました。

写真は田代墓地です。
吉乃が荼毘にふされた所とです。

墓地は、神聖な場所として、地域で守ってきた所です。

田代墓地はかなり個性的で、(おそらく)地蔵菩薩が何十体とあることです。
○○家代々の墓石の隣にもあるほどです。

また正面両脇にある六体の地蔵菩薩は、いわゆる六地蔵像かもしれません。

仏教には六道輪廻の思想というのがあり、六道のそれぞれを6種類の地蔵が救うとする説から生まれたものです。
その名はいろいろあり、持ち物等である程度区別できますが、また、後日、じっくりと見てみたいと思います。

みなさんもお地蔵さんを見かけたら、手に何を持っているか見てみてください。
蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠など、いろいろです。合掌して何も持っていないお地蔵さんもいます。

こうしてみると、お墓やお寺に行くのが楽しくなりますよ。
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清水山墓地

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常願寺のやや南を少し奥に入ったところに、清水山墓地があります。

ここは、生駒 利勝(いこま としかつ)の墓所です。
利勝は江戸時代の尾張藩士、第6代尾張生駒家当主。

尾張藩士肥田孫左衛門の長子でしたが、母方祖父の生駒利豊が男子に恵まれず、利豊の養子として生駒宗家を継ぎました。

尾張藩2代藩主徳川光友に仕え、3代藩主綱誠の傳役(ふやく=守り役)を務めました。
尾張生駒家中興の祖と呼ばれる。

元禄7年(1694年)、66歳で死去しました。

織田信雄 焦りの書状

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昨年7月8日の中日新聞 朝刊に、「織田信雄 焦りの書状」という見出しの記事が掲載されました。
再掲します。

書き手は、布袋小学校区で産まれた織田信長の次男、織田信雄です。

注目なのは、書かれたのが、清洲会議(天正10年6月27日 1582年)の開かれた3日前だからです。

会議に集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興。

ドラマなどでは、秀吉が三法師(信忠の嫡男)を擁立し、勝家が信孝(信長の三男)を後継者に推して対立したということになっていますが、どうも実際には違うようです。


織田家の後継を、二男・信雄と三男・信孝が互いに主張したため、勝家や秀吉らが、事前に三法師を立てるように了解済みであったという記録が残っています。

そもそも、信雄と信孝は、母が異なり、誕生日もどちらが早いのか明確ではないのです。


この書状は、信孝との後継者争いに絡んで、秀吉の気を惹こうとする意思が読み取れます。

歴史は、生身の人間が生きた跡なのです。

続 江南市縁の7人の戦国武将 −3− 位階とは?

明日から修学旅行。この旅行をきっかけに、歴史に興味を持ってくれたらと思います。

今日は昨日の続き。マニアックなテーマです。

正一位(しょういちい)は誰?

正一位は、関白や太政大臣、征夷大将軍などのそうそうたる顔ぶれです。
その他、国家に対する偉勲の著しい者が叙されているということですが、実は、全然知らない人もたくさんいます。このあたりは、政治的な思惑もあるのでしょう。

生前に叙された人は史上6人しかいません。
多くは、亡くなってから贈られています。

有名なところでは、

藤原不比等 右大臣

橘諸兄 左大臣

藤原良房 摂政、太政大臣

菅原道真 右大臣

徳川家康 征夷大将軍、太政大臣

楠木正成 武将、検非違使、河内守

岩倉具視 右大臣

三条実美 太政大臣、公爵

豊臣秀吉 関白、太政大臣

織田信長 右大臣


この中で生前にもらっているのは、橘諸兄、三条実美のみです。
秀吉や信長に至っては、大正時代に叙されています。

また、時の権力を握った藤原道長や頼通は叙されていませんし、
徳川以外の征夷大将軍、源頼朝や足利尊氏・義満らはもらっていません。

また徳川将軍で唯一もらっていない人もいます。
15代将軍慶喜です。

この他、明治期に正一位になった人には・・・

楠木正成 武将、検非違使、河内守
新田義貞 武将、正四位下、左近衛中将、播磨守、越後守
徳川光圀 水戸藩主、従三位、権中納言
島津斉彬 薩摩藩主。従四位上、左近衛権中将兼薩摩守。
徳川斉昭 水戸藩主、権中納言、従三位
岩倉具視 右大臣
三条実美 太政大臣、公爵

これらは、明治政府の権威付け、および正当性を保証するためであると思われます。

戦後正一位はゼロです。
事実上、従一位が最高位です。
この正一位と従一位は、天皇から直接与えられる「親授」とされています。

続 江南市縁の7人の戦国武将 −2− 位階とは?

さて、先の昭和の日に春の叙勲が発表され、旭日章及び瑞宝章を合わせて4,151名の方々が受章されました。

この叙勲は、位階(いかい)と大きな関係があります。

江南市縁の七人の戦国武将には、次のような説明がありました。

浅野 長政  従五位下追賜従三位 
蜂須賀 家政 従五位下 
前野将右衛門長康 従五位下
生駒 利豊 従五位下
生駒 親正 従五位下
織田 信忠 従三位
織田 信雄 正二位


これらの 「従五位下」とか「従三位」が位階です。

位階とは、官吏における個人の地位を表す序列・等級です。

それとともに、国家に対して勲功・功績のあった者に授与される栄典の一つでもあります。
位階を授与することが「位階に叙する」であり、略して叙位といいます。

その始まりは、聖徳太子の冠位十二階

その後、冠位十三階、冠位十九階、冠位二十六階、冠位四十八階となり、
701年の大宝律令以後、位階制度(30階級)として整備されました。

それが、
正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位、正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下、正六位上、正六位下、従六位上、従六位下、正七位上、正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下 です。

正一位(しょういちい)は誰?

次回に詳しく見ていきましょう。

続 江南市縁の7人の戦国武将 −1− 織田 有楽斎

江南藤まつりにちなんで、「江南市縁の7人の戦国武将」を私見を交えて紹介しました。

若干の補足を続編としてお知らせします。
その第1弾は、織田 有楽斎です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

犬山ホテルの敷地内にある茶室「如庵」 。(下の写真)

現在、国宝に指定されています。
その如庵を建てたのが、織田 有楽斎(織田 長益)です。

東京の「有楽町」の名の起源である織田 有楽斎。(異説あり)
織田信長の実の末弟で、甥の信雄も慕っていました。

信雄の兄、信忠に、二条城で自害をすすめた人物といわれています。
自らは、二条城を脱出しました。これにも異説がありますが・・・。

小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康の仲介役も務めています。
信長の実弟だからこそできることです。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の有力武将・蒲生真令を倒す活躍を見せますが、悲しいかな、淀君は姪っ子。豊臣にも力を貸します。

大阪の陣では豊臣に付いていましたが、最後は離れます。

今回の一連のテーマである、豊臣と徳川の間に揺れた 一人といえるでしょう。
その結果、子孫は続きました。

「勝(か)ち馬(うま)に乗る」といいますが、戦国武将が有利な方につくのは、生き残る術なのです。

画像出典 犬山ホテルHP http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/joan/
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江南市縁の7人の戦国武将 −7− 織田 信雄

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いよいよGWもあと2日。

江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ7人目は織田 信雄です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

織田信雄は、どうも評判はよくないようです。

三谷幸喜の映画「清洲会議」では妻夫木聡が「おおうつけ」として演じていました。
映画HPでは、信長次男。おおうつけだが自分では頭が良いと思っている。秀吉によって信長後継に擁立される。というキャラクターとして紹介されていました。

実際はどうなのでしょうか?


江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

永禄元年(1558年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町) 幼名・茶筅丸、伊勢北畠具房養子具豊、信意、信雄、侍従中将、中納言内大臣 『正二位清洲城主 100万石』賜う 寛永7年(1630年)72歳 逝去


この信雄も、他の尾張の武将と同様、豊臣と徳川の争いに翻弄されます。

信雄は、信長の第2子。もちろん吉乃の子です。
信長は伊勢平定のため、信雄を北畠具房の養子としました。

長島一向一揆や雑賀衆、伊賀攻めに、弟の信孝と共に参戦します。
本能寺の変の後には、尾張、伊勢、伊賀の100万石を得て、織田姓に戻ります。

100万石です!

賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、柴田勝家に付いた弟信孝を攻めて岐阜城を包囲、野間大坊に送り自害させています。
兄弟といえども厳しい世界です。

この後、秀吉からの大坂城の招待を拒否し、対立します。
信長の後継者を自認する信雄にとって、秀吉のとった行動は許せないものでした。

秀吉が信雄を攻撃するのに対し、信雄は徳川家康と同盟を結びます、というより助けを求めます。
これが小牧・長久手の戦いとなります。

家康が清洲城に到着した日、織田氏の家臣・池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を占拠します。
池田恒興は、姫路城を造った池田輝政の父です。

生駒屋敷(小折城)にいた信雄を訪ねた家康は、二人で富士塚古墳(写真下)に登って、秀吉側の動きを偵察したと言われています。

※ 冨士塚の写真は、3年前の様子です。伐採したばかりで、よくわかります。

結果的に、領地を一部減らして秀吉と和睦。
長女(小姫)を秀吉の養女に出し、その小姫は徳川秀忠に嫁ぎます。
豊臣と徳川の間の微妙な位置関係に立ちます。

その後も、豊臣と徳川の間を立ち回り、子孫を存続させています。

優秀といわれた兄・信忠は早く命を落とし、それほどではなく、一部では「暗愚の将」とさえ言われた信雄の家系が続いていくのは皮肉です。

叔父有楽に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあったそうです。


今回で7人を紹介し終えましたが、明日からも続編として関連人物などを紹介します。

江南市縁の7人の戦国武将 −6− 織田 信忠

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第6弾は織田 信忠です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。


江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

弘治3年(1557年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町〕
幼名・奇妙丸、菅九郎、秋田城介
『従三位左近衛中将 岐阜城主』賜う
天正10年(1582年)26歳 逝去

信忠は、信雄・徳姫(見星院)同様、信長と生駒吉乃との間の子であり、信長の嫡男です。

15歳で浅井長政を攻め、その後長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍します。
18歳で信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となります。
25歳では武田勝頼を攻め、先鋒として功をあげました。
しかし、本能寺の変では、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃しました。

歴史に「もし」は禁句と言われていますが、私はそうは思いません。

いろいろな状況を総合的に考えるトレーニングができると考えています。
もちろん正解はありませんが・・・

もし、信忠が二条城を脱出していたら・・・・

天才の2世の割には優秀だといわれた信忠のことです。

武田攻めの時には、信長は信忠を総大将に送り込みました。
信長は、自分の到着までは、武田に攻め寄せることを禁じていました。
しかし、信忠はそれを無視して、相手の状況を判断して滅ぼしてしまいました。
これを聞いた信長は、側近に、「これで安心だ」というようなことを言っていました。

これだけの人ですから、本能寺の変のあとも、跡取りとして、他の家臣団に命じて光秀を討伐したでしょう。

柴田、丹羽などは信忠が絶対なので、秀吉といえども信忠には逆らえません。
織田家とその家臣団による天下統一の可能性は高かったと思います。

そして名古屋に幕府を開くのです。

などと、勝手な想像は楽しいですね。

江南市縁の7人の戦国武将 −5− 生駒 親正

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第5弾は生駒親正です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。


この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。

1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。

これまで紹介してきた尾張生駒氏とは違い、信長の母の土田氏に繋がる、土田生駒氏です。

その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます

60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。

そして、三中老のひとりなります。

三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。

生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。
ただ、3名が揃って活動した形跡は見あたりません。

ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。

五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。
どの武将もどちらに付けばよいか苦悩します。
親正もその一人。

讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。

結果はもご存知の通り東軍の勝利。
生駒家は安堵されます。

このように親子が東西に分かれることはよくありました。
蜂須賀家もそうでしたね。
「家」「氏」が生き残るためのすべなのです。

歴史上の他の戦でも、親子、兄弟、叔父甥などで、敵味方に分かれて戦争をした例の大半は、同じ理由だと思います。

高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。


明日は織田信忠です。

江南市縁の7人の戦国武将 −4− 生駒 利豊 《 後 編 》

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第4弾の後編です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

数年前に、江南市歴史民俗資料館で「生駒家文書展」が開かれました。
その時の様子です。

写真上の古文書は、尾張徳川家の徳川綱義(後の3代藩主・綱誠)が、その守役であった、生駒家6代生駒利勝に宛てたものです。次のように書いてあります。

 露月死去
 可為力落候
 謹言
 五月十日 綱義(花押)

 
ここでの、「露月」とは、利勝の父(5代利豊)のことです。
「可為力落候」は「力落としたるべきそうろう」と読みます。
あなたのお父さんが亡くなり、私も力を落としましたという内容のお悔やみです。

尾張徳川家の跡取りが、家臣にこのような書状を渡すことは珍しく、生駒家をいかに重視していたかがこの文書からわかります。

写真中は、6代生駒利勝の「遺書」です。
1688年に書かれたもので、今で言う「家訓」に当たります。
利勝が、その子宗勝へ書いたもので、当主としての心得を示したものです。

3条に分かれている第1条を見てみましょう。

一 忠功ハ不及申ニ先祖ヲ祭ル者ハ 
  冥加ニ叶也、就中露月尊君ノ
  儀全ク粗略不可有、家伝記在
  所古実覚え置、子孫ニ相伝
  専用也、若妻子ニ愛着アラハ
  可為家絶事 


おおよその意味です。

「忠孝は言うまでもなく、先祖を祭るのは神仏の加護を得ることができる。とりわけ、先代(5代利豊=露月)は疎略に扱ってはいけない。生駒家の歴史について子孫に伝えるのが(当主の)勤めだ。もし先祖より妻子に愛着が偏ると、この家は絶えてしまうに違いない。」

利勝が先祖を大切にしてきたことが実によくわかります。

実物はたいへんコンパクトで、片手にすっぽり収まる大きさです。
身近な所に置いておき、すぐに見ることができるようにしていたものと思われます。


「遺書」の第2条(写真下)から、利勝の人柄や、当時の武家の暮らしぶりを想像してみてください。

一 勝手方身体ヲ第一可持立、
  不如意ニ無之様ニ心掛常々不
  失軍役等勤メ可被申人ハ、何時
  不慮ノ儀出来流牢難知也、
  一家知人中ニ無御苦労ヲ掛間
  敷也、惣テ借金取持加判口入
  断申達シ曽テ被仕間次敷事



私の主観的、かつおおよその解釈です。(間違っているかもしれません。)

「会計担当者は健康に気をつけるように。日ごろから失うことのないように、貧窮しないように心掛けるように。軍事上の負担をすることになると、何が起こるかわからない。みんなに迷惑をかけてはいけない。借金をしたり、連帯保証人になるようなことはしてはいけない。」

当主としては、やはり家計への気遣いが感じられます。

この遺書(家訓)の巻末には、次のように書かれています。

「この3条を、年中、2ヶ月に1回は目を通して守るように。これを守らないと、先祖や父母までが不幸になる。もちろん、後の代にもおよぶので、代々に伝達するように。」

生駒家中興の祖と言われる利勝らしい言葉です。

明日は、生駒親正です。

江南市縁の7人の戦国武将 −4− 生駒 利豊 《 前 編 》

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第4弾は生駒利豊です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

やっと、布袋小学校校区内で産まれた人の登場です。

小折には、かつて生駒屋敷がありました。
現在の布袋東保育園周辺です。
布袋東保育園に「生駒屋敷跡」の碑が建っていることはご存じですね。

小折城ともよばれた、生駒氏の館です。奈良の生駒から移り住み、馬借などの商いで力を蓄えました。
一宮市千秋の加納馬場は、生駒氏の馬場があったところです。生駒屋敷の広さが分かります。
主要な街道が集まり、五条川の水運という利便性の高い小折の地を選んだのでしょう。

私は小学校2年生?の時に、堀に囲まれた中に藪に覆われた生駒屋敷を見学した記憶があります。遠足で曽本の二子山古墳へ行く途中ではなかったかと思います。
残しておけば、観光スポットになっていたことでしょう。

そこには、織田信長が通い、日吉(木下藤吉郎、秀吉)が出入りし、蜂須賀小六などの川並衆がたむろしていました。

日吉は一時期、松下長則に仕えましたが、17〜18歳ぐらいで生駒屋敷に戻ってきます。
吉乃から「藤吉郎」という名をもらい、吉乃の下人となり働きます。
これは、当時頻繁に生駒屋敷に出入りをしていた信長の下人となったと同じことです。
そこで認められて、また、吉乃の口利きがあって、信長に馬番として仕えるようになります。

藤吉郎が信長の草履をふところで温めるという有名なエピソードがあります。
こうしたエピソードは、後々創作されたものが多いのです。
清洲で馬番として仕えていた時代のこととして伝わっていますが、私は、この生駒屋敷こそ、信長が藤吉郎を認めるそのような出会いがあったのではないかと想像しています。


江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

天正3年(1575年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・蜂須賀五郎八、家直、長知、利豊、隼人正、大炊佐因幡守、従五位下
秀吉より『小折村1500石、後4000石』賜う
寛文10年(1670年)96歳 逝去



生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。

まずは家長です。吉乃の兄にあたります。

家長は、初めは犬山織田氏についていました。
妹の吉乃が信長の室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。
信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。
まさに信長創世期の家臣だったのです。

その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。
家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。

利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。
関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。
以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。

ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。

江南市小折にある宝頂山墓地(写真中)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。
中央の大きな家型墓地が利豊です。96歳という長寿でした。


6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。
生駒家に養子として迎えられました。
尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。

利勝といえば、富士塚(写真下)を建てたことでも有名です。
初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。
碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。

次回も利勝について紹介します。

※ 3枚めの写真は3年前の今頃撮影したものです。剪定直後で見やすい状態です。

江南市縁の7人の戦国武将 −3− 前野将右衛門長康

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第3弾は前野将右衛門長康です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

前野長康も時代に翻弄された武将です。
ドラマも作れそうな波瀾万丈な人生を歩みました。

1528年に、木曽川の川並衆、前野家(現江南市前野町)に生まれました。(異説あり)
1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。
後の秀吉の最古参の家来なのです。

1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。

この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。
これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。

なお、長康の子、前野景定は、あの細川忠興ガラシャとの間にできた娘、於蝶を正室として出石で迎えました。
ご存じのようにガラシャは明智光秀の娘です。

長康は聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。

その後、関白豊臣秀次付きとなります。

まさに、秀吉に最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。

そして、あの事件が起きます。

1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。
秀次は、秀吉の姉・智子の子です。
実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。
しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。

これが秀次事件です。
高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。

このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。
これこそ「とばっちり」。

正室・於蝶は、処刑寸前のところを助けられました。

母のガラシャは父の謀反に、娘の於蝶は義父の謀反の疑いに巻き込まれたのです。
歴史の因果・因縁を感じさせます。

秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。

おそらく冤罪でしょう。

これに伴い、淀君、石田三成?が何らかの動きをしたのかもしれませんがわかっていません。

歴史的なバックボーンのある他の武将に比べて、農民から出世した孤高のトップ、秀吉の晩年が、いかに疑心暗鬼になっていたかをうかがい知ることができる事件です。

秀吉ほどの天才でも、弱点があったのですね。

あれほどの器の持ち主でも、晩年は哀れでした。

人間の限界なのでしょうか・・・。


もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。
180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。
本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。

私は? 
意見はありますが、ここではコメントを差し控えます。

いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦の一因となったのです。このことはまた後日紹介します。

『武功夜話』は、前野家文書の一つです。
『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記です。

写真上 吉田家の蔵から発見されました。
写真中は説明です。

長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。
「ドラマになりそうな人生」と書きましたが、最後があまりにも悲劇でした。

写真下の長康公は吉田家蔵の肖像ですが、かなり晩年のものと思われます。
不幸な晩年の悲哀を感じます・・・

明日は、生駒利豊を紹介します。

本曽寺の馬頭観音

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以前に本曽寺の馬頭観音を一体紹介しましたが、実は本曽寺には二体ありました。
見落としていました。

これで、布袋校区内で17体目となります。

この数は、布袋小校区がいかに交通の要所だったのかを物語っています。

「神使像めぐり」というサイトがあります。
この中の、「神仏を載せる動物たち」には、獅子、象、狐、猪、馬、魚、龍、亀、孔雀、鵞鳥、牛(水牛)と神仏との関係がわかります。
 ここから 

江南市縁の7人の戦国武将 −2− 蜂須賀 家政

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第2弾は蜂須賀 家政です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連(れん)が出ます。
私は昨年も、教員チームの一員として参加しました。
鳴子踊りに比べて動きは単純。
しかし、徳島の本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。

でも、なぜ江南で阿波踊り?


ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。

蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。
1558年に、小六の母の在所である安井氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。
昨日紹介した宮後城です。

小六は、6歳のときに、蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)から、母 安井氏の実家である宮後村へと移り住んだのです。

安井氏は甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしいという話が残っています。

家政の母は、宮後八幡社々家三輪若狭の妹まつ(後の大匠院)といわれています。
家政は幼児期を宮後で過ごし、三輪氏の檀那寺である曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。
当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。

1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。
その舞台が小折の生駒屋敷(現 布袋東保育園周辺)で、吉乃の仲立ちだと言われています。

布袋小学校の校区内で、戦国武将が力を蓄えていたと思うと感激です。

ここが歴史のロマンですね。

蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣なのです。
これが、後々に影響します。

家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。
1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。

その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。
そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。

この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりの原型だったと言われています。
その原型とは、尾張の農民の踊りでした。
阿波踊りの原型は、尾張の農民の踊りだった(かもしれない)のです。

さて、1586年には父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。
朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。
しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。

この事件も、歴史のカギになります。

そして問題の関ヶ原。44歳の時です。

豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い
どちらが勝っても、家は守りたい。
そこで、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。
子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。

これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。

結果はご存じ、東軍の勝利。
蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も阿波国を治めることが出来ました。

1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。
大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。
夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。

豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。

子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。

再度、家政が阿波を守ります。何とタフなのでしょう。
波瀾万丈の人生です。

秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。
戦国の世で生き残るすべなのでしょう。

家政は、郷土にも大きな恩を感じています。

母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。
さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺本堂を再建しています。
※ 本堂は現在修理中なので、一昨年の写真を使っています。

歴史はロマンです。

明日は、前野将右衛門長康です。

観音寺の馬頭観音

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今日も、初めての紹介となります。(これで16体目となります。)

小折五叉路南東にある観音寺にありました。

「馬頭」は一番上に見ることができます。

小郷の馬頭観音と同じタイプです。

江南市縁(ゆかり)の七人の戦国武将

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曼陀羅寺では、江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。

江南市縁の7人の戦国武将とは、

1 浅野長政

2 蜂須賀家政

3 前野将右衛門長康

4 生駒利豊

5 生駒親正(ちかまさ)

6 織田信忠

7 織田信雄(のぶかつ)

これらの戦国武将について、明日から順に解説していきます。

江南市(特に布袋)の歴史に興味を持っていただけたら幸いです。

宝蔵院の馬頭観音

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今回も、これまでに紹介していない馬頭観音です。(今回で15体目になります。)

学校の東側にある宝蔵院の墓地の中に、馬頭観音がありました。

風化のため馬の顔が見えにくくなっていますが、他の特徴から馬頭観音に間違いありません。

大切に祀られていました。
※ 写真は昨日撮影しました。

布袋町南の馬頭観音

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これまでに紹介していない馬頭観音です。

秦電化さんの少し北側の道路沿いになりました。

新しい花が供えてあり、大切にされていることが分かります。

馬頭観音を紹介します−2−

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布袋の歴史を特徴付ける馬頭観音を紹介しています。

布袋のまち中にも馬頭観音が祀られています。

昨日にも書きましたが、馬頭観音は、街道沿いに多く見られます。

馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなり、馬が急死した道端などに多く祀られました。

この馬頭観音は説明板には「洪水で流された」とありますが、かつては街道沿いにあったものがここに移されたのではないかと想像できます。

どこにあるっかですって?

下の写真をヒントに探してみてください!

馬頭観音を紹介します

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布袋は、歴史のある町です。
特に、多くの街道が集まる交通の要所でした。

そうしたところに多く見られるのが馬頭観音です。

専門的には細かくなりますが、一般的には「馬の守護仏」です。
交通の安全を願ったり、旅の途中で馬が亡くなっりしたたときに、慰霊の証として祀られました。家畜の馬が亡くなって、家人が祀った例もあります。

布袋地区は、五叉路を中心として、(私の知る限り)13体の馬頭観音があります。
順に紹介していきましょう。

この写真は、小折東栄にある馬頭観音です。
雨ざらしの時間が長かったようで、かなり風化しています。

明日からも1体ずつ紹介します。
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