最新更新日:2024/04/25 | |
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江南市縁の七人の戦国武将 −5−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第5回も生駒利豊です。 数年前に、江南市歴史民俗資料館で「生駒家文書展」が開かれました。 上の写真がその時の様子です。 この古文書は、尾張徳川家の徳川綱義(後の3代藩主・綱誠)が、その守役であった、生駒家6代生駒利勝に宛てたものです。次のように書いてあります。 露月死去 可為力落候 謹言 五月十日 綱義(花押) ここでの、「露月」とは、利勝の父(5代利豊)のことです。 「可為力落候」は「力落としたるべきそうろう」と読みます。 あなたのお父さんが亡くなり、私も力を落としましたという内容のお悔やみです。 尾張徳川家の跡取りが、家臣にこのような書状を渡すことは珍しく、生駒家をいかに重視していたかがわかります。 写真上の下は6代生駒利勝の「遺書」です。 1688年に書かれたもので、今で言う「家訓」に当たります。 利勝が、その子宗勝へ書いたもので、当主としての心得を示したものです。 3条に分かれている第1条を見てみましょう。 一 忠功ハ不及申ニ先祖ヲ祭ル者ハ 冥加ニ叶也、就中露月尊君ノ 儀全ク粗略不可有、家伝記在 所古実覚え置、子孫ニ相伝 専用也、若妻子ニ愛着アラハ 可為家絶事 おおよその意味です。 「忠孝は言うまでもなく、先祖を祭るのは神仏の加護を得ることができる。とりわけ、先代(5代利豊)は疎略に扱ってはいけない。生駒家の歴史について子孫に伝えるのが(当主の)勤めだ。もし先祖より妻子に愛着が偏ると、この家は絶えてしまうに違いない。」 5代利豊から見ると、利勝は外孫に当たります。 すなわち利豊は、利勝の母方の祖父。 利勝が先祖を大切にしてきたことが実によくわかります。 実物はたいへんコンパクトで、片手にすっぽり収まる大きさです。 身近な所に置いておき、すぐに見ることができるようにしていたものと思われます。 「遺書」の第2条から、利勝の人柄や、当時の武家の暮らしぶりを想像してみてください。 一 勝手方身体ヲ第一可持立、 不如意ニ無之様ニ心掛常々不 失軍役等勤メ可被申人ハ、何時 不慮ノ儀出来流牢難知也、 一家知人中ニ無御苦労ヲ掛間 敷也、惣テ借金取持加判口入 断申達シ曽テ被仕間次敷事 主観的、かつおおよその解釈です。(間違っているかもしれません。) 「会計担当者は健康に気をつけるように。日ごろから失うことのないように、貧窮しないように心掛けるように。軍事上の負担をすることになると、何が起こるかわからない。みんなに迷惑をかけてはいけない。借金をしたり、連帯保証人になるようなことはしてはいけない。」 当主としては、やはり家計への気遣いが感じられます。 この遺書(家訓)の巻末には、次のように書かれています。 「この3条を、年中、2ヶ月に1回は目を通して守るように。これを守らないと、先祖や父母までが不幸になる。もちろん、後の代にもおよぶので、代々に伝達するように。」 生駒家中興の祖と言われる利勝らしい言葉です。 3年生 4月の授業風景図工では自分で書いた絵を立たせて立ち上がった絵の世界を作っています。 みんないろいろな発想で絵を立たせながら描いているので、どんな世界ができあがるのかがとても楽しみです。 3年生の最初の1ヶ月☆ゴールデンウィークでは4月の疲れをしっかりとって下さいね。 5月からは運動会の練習も本格的に始まりますので早寝早起きをしてリズムを崩さないように楽しい連休を過ごして下さい。 連休明けに元気な姿を見られることを楽しみにしています。 江南市縁の七人の戦国武将 −4−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 令和時代初めてとなる第4回は生駒利豊です。 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4c/49ce..." border="0"> 生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。 まずは、吉乃の兄、家長です。 家長は、初めは犬山織田氏についていました。 妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。 信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。 信長創世期の家臣だったのです。 その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。 家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。 利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。 関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。 以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。 ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。 宝頂山墓地(写真下)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。 中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。 奥が家長夫妻です。 6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。 生駒家に養子として迎えられました。 尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。 利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。 初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。 碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。 『くさの井史』には、 P.111「小折に在した生駒氏のこと−犬山の織田氏に従い、後信長に属する」 P.153「生駒利豊の兄と姉」 他、P.157,P.159,p.162,p.163 に登場します。 次回も利勝について紹介します。 令和元年の始まりさぁ、草の井っ子のみなさん! これからの時代を生きる力を 草井小で育み、鍛え、磨きましょう!! |
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