最新更新日:2024/03/22
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江南市縁の七人の戦国武将 −2−

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このカテゴリーでは、草井小学校や草井地区、江南の歴史について考えていきます。
藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。
その七人の武将を順に紹介しています。
記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。

第2回は蜂須賀家政です。

江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連が出ます。
鳴子踊りに比べて動きは単純。
しかし、本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。

でも、なぜ江南で阿波踊り?
ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。

蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。
1558年に、小六の母の在所である安井氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。
小六は、6歳のときに、蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)から、母 安井氏の実家である宮後村(現 江南市宮後町)へと移り住んだのです。
安井氏は甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしいという話が残っています。

家政は幼児期を宮後で過ごし、曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。
当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。

1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。
その舞台が小折の生駒屋敷で、吉乃の仲立ちだと言われています。(諸説あり)

ここが歴史のロマンですね。

蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣なのです。
これが、後々に影響します。

家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。
1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。

その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。
そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。

この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりだったと言われています。
その原型が尾張の農民の踊りでした。
阿波踊りの原型は尾張の農民の踊りかもしれないのです。

さて、1586年には、父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻め小田原攻めで功を立てます。
朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。
しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。

この事件も、歴史のカギになります。

そして問題の関ヶ原の戦い。44歳の時です。
豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い。
どちらが勝っても、家は守りたい。
そこで、家臣を大坂に派遣し西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。
子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。

これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。

結果はご存じ、東軍の勝利。
蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も阿波国を治めることが出来ました。

1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。
大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。
夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。

豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。
子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。
再度、家政が阿波を守ります。
波瀾万丈の人生です。

秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。
戦国の世で生き残るすべなのでしょう。

家政は、郷土にも大きな恩を感じています。

母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。
さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺正堂を再建しています。

『くさの井史』P.182には、「曼陀羅寺を再建した蜂須賀家政のこと」として詳しく説明されています。
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