最新更新日:2024/03/22
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江南市縁の七人の戦国武将 −3−

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このカテゴリーでは、草井小学校や草井地区、江南の歴史について考えていきます。
藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。
その七人の武将を順に紹介しています。
記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。

今日は平成最後の日。
第3回は前野将右衛門長康です。

前野長康も時代に翻弄された武将です。

1528年に、木曽川の川並衆、前野家に生まれました。
1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。後の秀吉の最古参の家来なのです。
1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。

この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。
これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。
聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。
その後、関白豊臣秀次付きとなります。
まさに、最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。

そして事件が起きます。
1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。

秀次は、秀吉の姉・智子の子です。
実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。
しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。

これが秀次事件です。高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。
このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。

秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。
これに伴い、淀君、石田三成が何らかの動きをしたのかもしれません。

もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。
180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。
本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。

いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦いの一因となったのです。

『武功夜話』は、前野家文書の一つです。
長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。

『くさの井史』P.157には、「秀次の家臣であった生駒利豊・前野勝右衛門は、秀次の失脚に伴って不幸を見る」として説明されています。
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5/5 こどもの日 PTA役員会・委員会
5/6 振替休日
5/8 第1回学校運営協議会委員会
5/10 あいさつの日
江南市立草井小学校
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