最新更新日:2024/04/23 | |
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江南市縁の七人の戦国武将 −6−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第6回は生駒 親正です。 この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。 1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。 本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます 60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。 高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。 そして、三中老のひとりなります。 三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。 生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。 ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。 五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。 どちらに付けばよいか苦悩します。 讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。 さらに子の生駒一正は東軍につかせます。 結果はもちろん東軍の勝利。 生駒家は安堵されます。 高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。 ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。 |
江南市立草井小学校
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