最新更新日:2024/04/23
本日:count up132
昨日:214
総数:922766

江南市縁の七人の戦国武将 −6−

画像1 画像1
このカテゴリーでは、草井小学校や草井地区、江南の歴史について考えていきます。
こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。

その七人の武将を順に紹介しています。
記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。

第6回は生駒 親正です。

この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。

1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます

60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。

そして、三中老のひとりなります。
三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。
生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。

ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。

五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦
どちらに付けばよいか苦悩します。

讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。

結果はもちろん東軍の勝利。
生駒家は安堵されます。

高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。

ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。
画像2 画像2
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
5/5 こどもの日 PTA役員会・委員会
5/6 振替休日
5/8 第1回学校運営協議会委員会
5/10 あいさつの日
江南市立草井小学校
〒483-8409
愛知県江南市小杁町長者毛西1
TEL:0587-57-8333
FAX:0587-57-6922