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紫におう 雲見が峰の 日々新しき 光をあびて 今に花咲く 若草若木 みんな元気に 元気にのびる ああ下品野 たのし学びや

1947年 終戦直後の思い出 昭和22年

 下品野小学校の先生が思い出を綴った資料を見つけましたので記載します。
 昭和18年9月30日に新卒で赴任をし、途中で兵役でぬけていますが、30年3月31日まで奉職をしていました。その間、最も印象に残っているのは終戦直後のいろいろな出来ごとです。
 午後、早引をさせてくださいと女の子が言ってきました。わけを聞いてもなかなか教えてくれませんでしたが、午後、山へヨーノメを採りに行かねばならぬとのことでした。何にするのか見当もつかなかったので問いただしたら、お米が足りないのでヨーノメ(食用になる若い木の芽)の雑炊を炊くのだと小さな声で答えてくれました。悪いことを聞いたなと今でもその子の顔をはっきり覚えております。
 学校にウシが飼ってあったのもこの頃です。各地でウシ泥棒が横行していたので、宿直を2人でして一晩中ウシの番をしたことも幾度かあります。寒い夜などは、手綱を宿直室まで引き込んで、布団の中から手綱の手ごたえでウシの存在を確認したものでした。これは当時の若い先生の大事な仕事でした。滑稽と言うか、時と共に流れた世の移り変わりを痛感いたします。
 上の写真は、運動場でとれたかぼちゃのの品表会の様子です。下の写真は筆者の先生と5年生の学級の子どもたちです。1クラス何人だったか数えられますか。
 歴史ある下品野小学校です。

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1946年 子どもたちの服装 昭和21年

 これは昭和21年、終戦直後の高等科卒業生(今の6年生)の写真です。はきものはわらぞうりかげたで、くつをはいている子は学級へ配給になったくつが抽選で当たった幸運な子です。女子はみんなモンペですが、モンペもズボンもみんなつぎはぎです。当時のお母さんの苦労、暖かい愛情がにじみ出ています。子どもたちはみんなドッヂボールをしました。ドッヂボールといってもゴム製品がないので、お茶の実とサヤヌカを中につめて、ボロをつなぎよせ集めて自分たちでぬい合わせたドッヂボールでした。
歴史ある下品野小学校です。
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子どもたちの服装の変遷(明治から昭和初期)

 子どもたちの服装に注目してみました。上から順に明治40年、大正9年、昭和9年の撮影です。着物から少しづつ学生服に変わってきています。履物は順にげたからくつに変わっています。明治のころは女の子はまげを結っているようです。男の子はみんな学生帽をかぶっています。今は見かけなくなりました。
歴史ある下品野小学校です。
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1925年 大正の校舎

 学校名についてはもう少し変遷があります。
昭和16年  品野町立下品野国民学校(国民学校令施行)
昭和22年  品野町立下品野小学校(6・3制施行)
昭和34年  瀬戸市立下品野小学校(瀬戸市へ合併)
 校舎は、一番上が大正14年、二番目が昭和2年(幼稚園も併設されました)、一番下が昭和29年です。
歴史ある下品野小学校です。
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1910年 頌徳碑建設 明治43年

 初代今井鎌三郎校長先生は、教育行脚と称して各家々を訪問したり、庚申講や念仏講に出席して教育の必要性を説きました。着任当時の就学率49.83%、出席率56.76%に対して、明治40年には就学率98.65%、出席率94.75%まで向上しました。
 今井先生は月給をそっくり村長のもとへ提出し、一日も早く新校舎を建設するよう懇請されました。その話を聞いた善明老尼も寄付をして、校長の意思を尊重するように乞われました。そこで明治35年の新校舎の竣工をみたわけです。
 明治43年(1910年)には、今井校長先生の頌徳(しょうとく)をたたえて有志、門下生によって岩屋堂に碑が建てられました。歴史ある下品野小学校です。 
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1908年 第3代校長着任 明治41年

 明治41年に伊藤源三郎先生が第3代校長に着任され、15年間校長をつとめられました。その遺徳を偲んで岩屋堂に碑が建てられました。このように記されています。

 先生は、明治十五年一月一日、愛知郡幡山村菱野に誕生。若くしてその資を認められ、下品野小学校今井校長の許に代用教員として薫陶を享け、明治三十六年、愛知県第一師範学校卒業後、瀬戸町外八ケ村二高等小学校に奉職。同四十一年、再び下品野尋常小学校訓導兼校長として着任。爾来十五年間名利をよそに孜々として本町教育に盡粋され、その教えを享けた者壱千五百余名。
 先生は体躯堂々、温容溢るる如く高潔なる人格に加うるに、激務の寸暇を割いて博く研鑽を怠らず。特に語学は最も蘊奥を極められ、典型的な師表として村を挙げて信望を聚められていた。後、瀬戸窯業学校に転じられ、左職約五ケ年で退職された。第二次世界大戦のために二男、三男を失われ、戦災者として最も不遇の中に昭和二十五年十二月二十八日、六十九才を以て尊い教育者としての生涯を終わられた。その訃を哀み、その徳を追尊する子弟相集いここに碑を建て先生の遺徳を永遠に伝えんとするものである。
   昭和二十五年五月建立  門下生一同
歴史ある下品野小学校です。

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1907年 明治の下品野小学校

 明治40年3月15日に校名が下品野村立下品野尋常小学校から品野村立下品野尋常小学校に変わりました。4月6日には今井初代校長が亡くなられ、第2代大野覺太郎が赴任されました。明治41年には第3代伊藤源三郎校長先生が15年間務められました。上の写真は校長室にある3代の校長先生方です。左から今井、大野、伊藤校長先生です。下の写真は伊藤校長先生と在校生との記念写真です。
 こんなことが記されています。
 その頃の科目には、読み方、修身、算術、書き方、つづり方、体操、唱歌でした。4年生になると、ソロバンもありました。当時は成績の悪いものは落第でまた1年同じ授業を受けたものでした。成績の良い者から席順が決められていて一等の者が一番後ろに並んだものでした。
 私が級長(学級委員)の時に、ある生徒が2、3人さつまいもを弁当に持ってきた時に、「これは弁当ではないから、明日からは本当の弁当を持ってこさせるように父兄に話して来い」と言いつけを伝えたこともありました。
 歴史ある下品野小学校です。
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1907年 第二代・三代校長

 第二代校長大野覺太郎先生、第三代校長伊藤源三郎先生について調べてみました。任期については、
初代今井校長 明治24年4月〜明治40年4月 17年1月
二代大野校長 明治40年10月〜明治41年4月 6月
三代伊藤校長 明治41年4月〜大正12年4月 15年1月
と、第二代大野校長は圧倒的に短期であり、記述もほとんどありません。写真のように第三代の伊藤校長先生を第二代校長として「第二代校長伊藤源三郎先生使用辞書」と誤記されている和英辞典が校長室に残っています。
 第三代伊藤校長については、温厚、篤実、研究熱心とされています。青年会を発起し、無給で小学4年を終えた約120人の生徒(当時は小学4年生で卒業していました)に夜、勉強を教えたことが記されています。講義の中で「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬ成けり」を例に出し、何事でもやろうと思えばやれるから心をくじけないように行えと教えたそうです。後に英語で中等教員の資格を得て瀬戸の窯業学校に転勤されました。
 歴史ある下品野小学校です。

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1891年 今井鎌三郎先生の略歴

 初代校長の今井鎌三郎先生の略歴を紹介します。
明治元年(1868)愛知県西加茂郡高橋村寺部の農家に生まれる。
明治12年(1879)小学校卒業後校長に望まれ、母校の授業補助となる。(11歳)
明治20年(1887)愛知県師範学校へ入学。
明治24年(1891)中品野学校に校長として赴任。(23歳)
明治40年(1907)4月6日登校前に机に向かって読書中に脳溢血(のういっけつ)で倒れ、そのまま死亡。(39歳)
 今井先生が校長先生になられた1年後に中品野学校から下品野村立下品野尋常小学校と改名しました。これが下品野小学校の創立と捉えたらいいのでしょうか。
 明治35年(1902)には、下品野植田に新校舎が建てられました。下の写真が現存する一番古い写真です。歴史ある下品野小学校です。
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1891年 今井鎌三郎初代校長 明治24年

 明治24年から40年まで初代校長として勤められた今井鎌三郎先生の像が校内3カ所にあります。今井先生は、次のような記録が残っています。
 教育の効果大いに上がり、今井校長の名声がひろまるや諸方より高給で招聘したいとの話があっても、彼はいつも「私はここで死にます。」の一言だった。今井先生の教育行脚の成果大い上がり村民は先生に傾倒し、我が村に一身をささげていただくため「住宅を建設しようと決まった。」と申し出たところ「教育者が村から金を恵まれて生活して真の教育ができるか。」と斥けられた。
 教育熱心な今井鎌三郎校長先生をスイスの教育学者ペスタロッチの名をかりで「今ぺス」と親しみを込めて呼び、校内に3カ所も像があるのです。3カ所の像を探してみてください。歴史ある下品野小学校です。
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1873年 草創期 明治6年〜20年

 下品野小学校の歴史を調べているうちに、次のような記述を発見しました。
 江戸時代の寺子屋教育を守りついで、明治5年8月に身分、性別にかかわらずすべての子どもが就学するように「学制」が発布されました。当時この品野地区にも寺子屋がありましたが、どこを「学校」として発足させるか協議の結果、上品野の祥雲寺に「同帰学校」として明治6年に発足しまた。しかし、下中品野地区の人たちが通うのに不便なので、明治9年7月に下品野の火の見下付近に品野学校として下、中品野2ケ村の学校として分離しました。当時は生活も貧しく子どもは家の手伝いをしなければ生活が成り立たない時代だったので子どもを就学させる家も多くありませんでした。
 明治20年に現在の中品野神明神社境内に芝居小屋があったものを改造して中品野学校(中品野他四ケ村立尋常小学校)を造りました。間口3間(1間=1.8m)、横5間、入口の両脇に教官控室と下駄箱がありました。中は教室の境はなく、背中合わせで先生の授業をうけていました。(分かりやすく表現した部分があります。)
 これから、「同帰学校」(明治6年)⇒「品野学校」(明治9年)⇒「中品野学校」(明治20年)ということがわかります。しかし、この間、写真や記録がないので詳しいことはわかっていません。歴史ある下品野小学校です。
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