最新更新日:2024/03/22
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鴨ケ池

 東山小学校の場所には、以前「鴨ケ池」という大きな池がありました。この鴨ケ池は以前、溜め池として使われ、多くの鴨が集まっていたというところから、池の名前に鴨がついたのではないかと言われています。この池は1841年(江戸時代後期)の地図にも鴨ケ洞池上池として載っていて、また「寛文村々覚書」(1670年前後)にも鴨ケ洞上池と記されていることから、古くからあった池ということがわかっています。池ができた年代はわかりませんが、おそらく水利や治山のため、この池を造ったのではないかと考えられます。鴨ケ洞池上池だけでなく、鴨ケ洞池下池もあることから、干害の時の水の確保とともに、山から水が一度にあふれ出ないようにし、作物もとれるようにしようと段々に溜め池をつくり、水路で池をつなぎ、さらに水路(おそらく勘右衛門川)で田畑に水を送るようにするため、これらの池がつくられたのではないかと思われます。
 この池は昭和46年まであり、コイやフナなどの多くの魚がいたそうです。特に池の西側に面したフタコブラクダのような小山が絶好の釣りのポイントであったそうです。また3年に一度、池の底の土砂を取り除くため、水を抜いたとき多くの魚を地域の人々で捕まえたそうです。
 昭和46年、東山小学校造成のため、池のほとんどが埋め立てられ、池の一部が校舎の東側にも残っていましたが、その後グランド・プール改造のため、その池も埋められ、現在は東山小学校と元UFJ銀行瀬戸総合運動場の間にある池となってしまいました。しかし現在の鴨ケ池は、池の周りに、遊歩道や東屋などが造られ、多くの地域住民によって親しまれています。
(↓埋め立てられる前の鴨ケ池)

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学区が使用している愛知用水の水

 昔、水道のない頃は井戸を堀り、生活用水を手に入れていました。昭和の初めになり、瀬戸では浄水場がつくられ、次第に瀬戸の中心部より上水道の普及が始まっていきました。
 この学区では、現在、愛知用水の水を生活のときの水として使っています。この水の流れは、愛知用水→高蔵寺浄水場→上陣屋配水場(下写真参照)と、愛知池→尾張東部浄水場→上陣屋配水場という水路を通り、この学区へと水が運ばれています。
 そこで、この愛知用水について、少し調べてみました。愛知用水とは、木曾川から瀬戸の西部を通り、知多半島の先端までの約120キロメートルを結ぶ用水路です。特に愛知用水ができるまでは、知多半島は慢性の水不足に悩み、およそ3年に一度は大干ばつに見回れ、農作物が壊滅的な打撃を受けていました。そこで、そのような知多半島を緑あふれる大地に変えようと、ある篤農家と若き農業高校教師が立ち上がりました。しかし、知多半島からはるかに北の内陸を流れる木曾川から水をひこうという無謀な考え、目のくらむような巨額の資金、長期間にわたる大規模な工事の計画に対し、多くの人々は夢物語のように思っていました。しかし、2人は粘り強く人々に呼びかけ、説得し、組織をつくり、国にかけあいました。その彼らの熱意はついに国を動かし、愛知用水の建設が始まりました。しかし、それは、なまやさしい工事ではありませんでした。荒々しい自然と格闘する中で、多くの殉職者が出てしまったのです。そのような空前の難工事の末、昭和36年に愛知用水が完成するに至ったのでした。
 そのような話を聞くと、愛知用水の水は多くの人々の命をかけた水であり、現在使用している水の大切さを再認識していきたいと思います。

「↓上陣屋配水場」

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昭和10年代の松原町の様子

 現在の松原町には、多くの住宅(約340世帯…平成11年)があり、たくさんの住民の方が住んでいます。しかし、戦前は住宅が少なかったとお聞きしたため、今から70年前ぐらいの松原町の様子について知ってみえる方に、当時の様子をうかがってみました。すると、当時の松原町のほとんどが畑や山であり、家がところどころにあったくらいだったそうです。その他には南山神社、眞教寺(現在はない)、坪井農園(現在はない)があったくらいだそうです。この坪井農園では、主に葡萄や梨や柿などの果物を主に栽培していたそうであり、少年院近くにあった清風学園の生徒が手伝いに来ていたそうです。町内の南の方は主に畑でしたが、現在の緑ケ丘女学園のところは小高い山となっており、「松原山」と呼ばれていたことから、この町内はおそらく「松原町」と呼ばれるようになったのではないかと話してくださいました。町内の北の方の松原町から山手町にかけては山になっており、人家が少なかったそうです。
 また、戦争当時の様子を教えてくださった方もいて、米軍の戦闘機が何度も近くまで来て低空飛行しながら旋回していったことや、この近くでは共栄橋近くに焼夷弾が落とされたことを話してくださいました。この方は当時、水南国民学校(現水南小学校、以前この地区は水野村であったため、この町内の子は水南国民学校に通っていた)への登下校時に米軍の飛行機から鉄砲射撃に遭い、命からがら土手の方へ避難したそうです。
 今では当時の面影がほとんど見られないそうですが、南山神社だけは、松原町の変遷を静かに見守っていたことでしょう。

学区のバス路線

 学区には、現在JRバスの路線があり、「北山町」、「松原町」、「南山町」、「東山町」、「松ケ丘住宅前」というJRバスの停留所があります。このバス路線は昭和30年代に開通され、当初は瀬戸追分から名古屋駅まで路線がつながっていて、とても便利であったそうです。しかし、名鉄瀬戸線が栄町乗り入れになってから、名古屋駅までの乗客が少なくなったため、瀬戸追分から大曽根間の運行となり、その後、瀬戸追分から中志段味間になったそうです。現在では、中志段味からガイドウェイバスが走っており、中志段味から乗り換えにより名古屋中心部まで行くことができるようになりました。
 そして、平成18年12月23日より、瀬戸市コミュニティバスが走り始めました。(この学区の停留所は「コミュニティやまて坂」、「東山小学校」、「南山町」です。) 
(ちなみにJRバスの前進は省営バスであり、日本全国で省営バスが初めて走ったのは、昭和5年瀬戸−高蔵寺間、岡崎−多治見間です。) 

(↓瀬戸市コミュニティバスの停留所)

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「ケアプラザ」や「やまて坂南公園」のまわりの昔の様子

 東山小学校と南山中学校の間にケアプラザ瀬戸というりっぱな建物があります。このケアプラザ瀬戸(愛知労災特別介護施設)は家庭内で適切な介護を受けることができない高齢重度被災労働者の方々のためにその状況に応じた介護サービスを提供する施設として労働省(現厚生労働省)が設置したものです。内部は居住棟、厚生棟、管理棟からなり、庭園や噴水などもあり、とてもきれいですばらしい建物です。このケアプラザ瀬戸は平成5年3月に開所し、全国で2番目に建てられた施設です。それ以前のこの地の北側には赤池という池があり、各棟が建てられた所は赤池の南側の山の斜面を削った所です。また赤池も埋め立てられ、現在、施設の北側に広がった平地となっています。この赤池を埋め立てるときに使った土砂は少年院の山のものだそうです。たしかにやまて坂南公園の西の方を見てみると山の崖の切り通しが見られ、削り取られた土砂で池が埋め立てられたことがわかります。かつてこの山の一帯は少年院のものでしたが、少年院がそんなに広い土地がいらなくなったため、山の一部を財政的に処分し、山を削って、やまて坂の住宅の一部にしたところだそうです。この地には、昔、少年院と赤池・鴨ケ池などの池だけで閑散とした山でしたが、今や、にぎやかな住宅街となり、今なおさらなる変貌をとげようとしています。

            「↓ケアプラザ瀬戸」

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清風学園

 以前、瀬戸に少年院とともに青少年の健全育成・矯正教育を行った学園がありました。それは清風学園というところであり、現在のやまて坂南公園のあたりにあったそうです。この学園は、少年院を仮退院した少年の更生にたずさわっていたそうです。その碑が現在、東山小学校と南山中学校の間の道の一画にひっそりと立っています。そこで、今回は、碑の裏に記されていることを、以下に書かせていただきました。
    清風学園の記
 恩賜記念財団清風学園は真宗大谷派名古屋教区が創始した愛知自啓会付属の少年保護施設として昭和8年その創立をみた。
 御下賜金を基に翌9年11月には施設も落成して開園式を挙行し、少年院を仮退院した少年を収容・保護する学園として活動を始め昭和16年2月には愛知自啓会より独立して財団法人清風学園と改称した。
 爾来幾多の試練を経つつ、大乗仏教の精神に則って健全な社会人としての道を教え、少年の保護・育成に尽力し、着々とその成果をあげ、関係各位方面より高くその業績を評価されたが、昭和23年新少年法の制定にともない学園の施設、土地等を瀬戸少年院へ譲渡移管し、清風学園としての歴史を閉じるに至った。
 清風学園の精神並びに財団組織を継承する当協会は今日更生保護事業を助成する団体として鋭意活動中であるが、当初の目的に添うべくここに学園の沿革を記して記念とす。
 昭和63年3月
財団法人真宗大谷派清風更生保護事業協会
             会長
               加来 玄雄

           「↓清風学園の碑」

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水野駅

 学区の南に接する所に名鉄水野駅があります。この駅は名鉄瀬戸線の中でもカーブのきついところにある駅であり、明治38年に瀬戸自動鉄道(のちに瀬戸電気鉄道)が瀬戸〜矢田間に開設した当時は「今村駅」と呼ばれていました。また、この地は藩政時代の今村の街道分岐点に位置するところでした。この当時のホームの様子はわかりませんが、開設当初はセルポレー式蒸気原動車でしたので、ちょっとした坂でも停まってしまい乗客が降りて後押しをすることがあったり、予定では1時間30分で到着するものが4時間もかかることがあったそうです。
 昭和2年には、どこかの山荘を思わせるとんがり屋根の木造の駅舎ができたそうです。この駅舎の時(昭和14年)、駅名が「今村」から「水野」に変わりました。それは瀬戸電気鉄道と名古屋鉄道との合併に起因しているそうです。当時、名古屋鉄道には今村駅という同駅名(現新安城駅)があったため、水野駅に改称されたそうです。そして、以前、今の水野駅の場所が水野村大字中水野字南山でしたので、そのため水野駅になったのではないかと考えられています。このときの駅のホームは現在のホームの長さより短く、ホームの高さも半分くらいだったそうです。
 現在の駅舎は昭和60年に改築されたものだそうです。1日の平均利用者数は約3680人(平成15年度)であり、瀬戸市の西の玄関口として、地域住民に親しまれている駅です。(正式には学区ではありませんが、隣接しておりますので掲載いたしました。)

         「↓昭和40年頃の水野駅」

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学区の窯跡

 この学区にも鎌倉時代と思われる窯跡があったことが、「瀬戸市史(陶磁史篇1)」に載っていました。その窯とは、鴨ガ沢東下窯(東山町)、曾我洞奥窯(東山町1丁目)、鴨ガ沢西上窯(東山町1丁目)などであり、これらの窯跡からは、四耳壺、瓶子、山茶碗などが出土したそうです。また鴨ガ沢東上窯(東山町)からは、おろし皿、香炉、瓶子等が出土されており、ここでは、瀬戸では珍しい青磁釉に近い青釉の香炉の小片が見つかっているそうです。このほか、少年院の場所からは山茶碗・大鉢・広口壺などの出土や、松原町では山茶碗の窯があったことなどが記されていました。
 
      「↓鴨ケ沢東上窯(東山町)から出土した瓶子の破片」

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学区にある団地

 学区内には、いくつかの団地があり、それらは昭和30年〜昭和40年代にかけて建てられたものだそうです。当時、瀬戸には多くの人々が働き場所を求め、地方より来ていたため、住宅が必要となり、この時期に団地の造成が行われたそうです。
 その中の一つに学区の北西に県営松ケ丘住宅があります。この団地のできる前は、この地には水がほとんど流れていない川があり、その周りは松林や雑木林だったそうです。この団地の造成にともない、それらが整備され、団地になっていったそうです。その当時の生活の様子として、この辺には店がほとんどなく、地元の食料品店が団地内に引き売りに来ていたそうです。この松ケ丘住宅も近年になり、北側の3棟の場所が少し変わり、以前より北に移転したそうです。
 また、学区の北山町には雇用促進北山住宅があります。この団地は、日本全国の炭坑の閉山などにともない職を新たに求める人々のために造られた団地であり、瀬戸には北山町のほかに、赤津、品野にもあるそうです。以前この地は畑であり、時代がさかのぼり戦争中では、この地の西の畑で效範国民学校の児童が食料としてサツマイモを育てていたそうです。しかし畑にするため、地面を掘ると窯糞(焼き物の失敗品や破片など)が多く、とても大変だったそうです。
 また、学区の南、水野駅の周りには、県営水野団地があり、ここは以前、田んぼだったそうです。

             「↓昭和40年頃の松ケ丘住宅」

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南山神社(松原町)

 南山神社は学区にある唯一の神社です。
 昭和初期までは、この地には神社はなく、山の神がまつられていたそうです。その山の神は自然石でつくられており、お社のような形をしていたそうです。このころまでの松原町は、北の方に向かって山があり、その山の神は山仕事等のため、山に入る前に、山の安全を願って拝むためのものだったそうです。
 やがて、昭和10年代になり、戦争へと駆り出されることが多くなり、武運長久を願うため、この地区の人々は小金町の金神社まで行っていました。しかし、この地区から金神社までは、少し距離があったため、昭和12年地元有志の方々により、この地区に新しい神社建設(社殿建設)の案がだされ、発起人会を結成することとなり、土地所有者のご理解を得て、着工が行われるようになりました。着工後3年を費やし、昭和15年に社殿が完成し、天照大神、大山祇神を勧請して、式典が行われ、現在の南山神社となったそうです。
 この神社には、社殿、数種の石造物の他に、立派な鳥居があります。この鳥居は自然石で造られており、昭和14年10月と彫られています。
 新年にはお神酒、みかんなどがふるまわれ、大勢の人々により参拝されているそうです。また、1月14日ごろには無病息災を願い、松飾り等を納める「どんど焼き」が行われているそうです。また秋には、子ども神輿等による秋祭りや、山の神祭などが行われているそうです。さらに境内には幾種かの樹木が植えられており、地元住民の心のやすらぐ所として、親しまれています。
                 「↓南山神社」

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北山町のお天王さん

 北山町の北山薬局の西のマンションの一角に、小さな祠があり、お天王さんが大切におまつりされています。このお天王さんは、北山町が安全であり、発展するようにと、まつられたものだそうです。
 市内にあるお天王さんに関すること(お天王さんのお祭り)について「広報せと」では、疫病をもたらす神とされている牛頭(ごず)天王のお祭りで、疫病を防ぐ願いをこめて行うお祭りと書かれていました。またお祭りは町内ごとにまつられているお天王さんの祠で行われ、お祭りの当日の1週間前までに町内の代表が牛頭天王がまつられている津島市の津島神社にお札をもらいに行き、新しいお札と取り替え、お供え物をするとも書かれていました。そこでお天王さんについてもう少し調べてみました。するとお天王祭りは江戸時代にはすでに行われていたそうです。昔、お天王さんは村の端と端におまつりされていて、お祭りの時は、しめ縄が張られていました。昔は、村の外れから疫病や魑魅魍魎などが入ってくると考えられていたため、これらが入ってこないように、しめ縄が張られていたそうです。現在でも片草町では、お天王祭りの時、しめ縄が張られているそうです。祠の色にも意味があり調べてみると、魔除けのために多くの祠には赤い色が使われているそうです。昔のお天王祭りの時は無病息災を願って、餅米で作った「あかだ」というものを村の人々に配っていたそうです。現在では、駄菓子が配られる地域もあり、その名残りとも考えられています。また提灯によるトボシアゲも昔は、笹で行われていたそうであり、市内の地区によってはオマント(飾り馬)が出たり、夜店が出店していたところもあったそうです。

              「↓北山町のお天王さん」
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北山町の地蔵様

 北山町のパークホームズの踏切のところに一体のお地蔵様がおまつりされています。この地蔵様は約100センチメートルの石造物であり、昭和8年と彫られています。また風雨にさらされないように屋根で覆われています。近くの人に由来を聞いてみたところ次のように話してくださいました。
 この地蔵様ができる前に電車とオートバイの接触事故があり、オートバイに乗っていた方が亡くなるという痛ましい事故があったそうです。そのため、近くの方々がこのような悲惨な事故が起きないようにと、また亡くなられた方のご冥福をお祈りして、この地蔵様をおまつりしたそうです。そのため、しばらくは無事故でしたが、無念なことにその後、事故が起きてしまいました。それは、ある方が踏切を渡ろうとしたとき、電車にひかれ亡くなってしまったそうです。そのため、近くの方は地蔵様をおまつりしたものの、事故が起こってしまったので落胆していましたが、この事故を機にさらに多くの方が亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、再び無残な事故が起きないようにと、必死に安全祈願をしたそうです。そのため、その後、多くの人々の切なる願いが地蔵様に通じたためか、凄惨な事故が起こらなかったということでした。
 以前は、この地蔵様にお花やお水のお世話がされていたり、自然風化がすすまないようにと近くの方が頭巾をかぶせてくださったりしていたそうであり、現在でも時々供花があったりするなどして、多くの方々がこの地蔵様を大切にしているそうです。
 今後も、この地蔵様は線路の脇に静かに立ち、事故のない電車の往来を静かに見守ってくださることでしょう。

              「↓北山町の地蔵様」

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学区内の新たな住宅街

 平成一桁代に始まった「やまて坂」の造成により、東山小学校の児童数は、現在増え続け、以前にもまして、明るく賑やかで楽しい学校となっています。
 また、「やまて坂」以外の学区内においても、現在新たな住宅街が建設中です。その2・3の例をあげますと、
 元UFJ銀行グランドのところが、ガーデンヒルズ瀬戸東山、
 瀬戸高校の西側のところが、フォレストタウン東山
 東山小学校の東側のところが、エヴァーシーン瀬戸山手町
という住宅街へと変わろうとしています。
 そのため、昨今、児童数が少なくなっている学校が多くなっている中で、東山小学校は児童数の増加が見込まれ、現在校舎も増築中です。
 本校の校舎が大きくなるとともに、この学区内も、今後大きく変わっていくことでしょう。

       (↓造成中の「ガーデンヒルズ瀬戸東山」に造られた公園)

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移築保存されている古墳

 学区の近くに移築保存されている古墳があります。その古墳のある場所は南山中学校です。この古墳は南山中学校の東の企業団地にあったもので、企業団地造成のため、昭和48年に移転・復元したものです。古墳は穴田第6号墳と名づけられ、横穴式円墳です。この古墳からは、蓋坏、平瓶、鉄製のやじりと刀子などが出土したそうです。また、この古墳復元には、当時並々ならぬ苦労があったそうです。移転前、古墳の石室の石に、あとで復元しやすいようにとペンキで書かれた番号が運搬により不鮮明になったり、石の置き方の少しのずれにより石がうまく積めなかったりするなどで必ずしも復元がスムーズにいかなかったそうです。しかし、南山中学校教職員やその他大勢の方々の努力により、無事復元完了に至ったそうです。おそらく、消失を免れ復元された古墳の主は、静かに南山中学校の発展を願っていることでしょう。
(穴田6号墳より出土した物の一部は瀬戸蔵ミュージアムにて展示されています。また、ちなみに、穴田第4号墳は現地保存されています。そして、穴田第2号墳は森林公園の植物園内に移築保存されています。)
(正式には学区ではありませんが、隣接しているので掲載しました。)
                                 

「↓南山中学校にある古墳」       「↓穴田6号墳より出土した平瓶」

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效範公民館の移り変わり

 学区の北山町には、效範公民館があります。この效範公民館の始まりは、社会教育法に基づいて、昭和28年に、效範小学校の裁縫室を借りて活動がなされていました。
 その後昭和38年には、效範小学校に学校の講堂と公民館を兼ねる建物ができ、そこで活動を行うこととなったそうです。
 昭和56年には、現在地に效範公民館が新築移転を行いました。その後、平成4年となって大集会室が増築され、現在の公民館となりました。
  
               「↓現在の效範公民館」
   
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学区内にある「瀬戸少年院」

 東山小学校の北側には、瀬戸少年院があります。この少年院は、1934年(昭和9年)5月に創立されました。敷地面積約17万平方メートル。収容定員160名(男子のみ)全国で3番目の少年院として創立されました。14歳以上20歳未満の非行少年を収容して教育を行う法務省の施設です。現在の施設は昭和60年に全面改築を行ったものだそうです。
 少年院の教育(矯正教育)は、明るい環境のもとで、規則正しい生活を営ませながら、遵法の精神を培い、勤労の意欲を育んで、心身ともに健全な少年を育成することをめざしているそうです。主な活動としては、非行に直接関係のある生活態度やものの考え方を是正するための生活指導のほか、毎日の課業としての教科教育(中学生対象)、職業補導(窯業科、農業科等)、体育、各種行事(運動会、成人式、コーラスコンクール、意見発表会等)、野外訓練、デーキャンプ等のレクリェーション的な活動および、瀬戸市の各施設(老人ホーム・保育園)等への奉仕作業等を実施しているそうです。これらの教育に当たっては、瀬戸市のほか各種団体、篤志家の方々の援助と協力を受けているそうです。
 この少年院にはさまざまな樹木があり、瀬戸の名木の一つであるシダレヤナギ(市内で最大なもの)が植えられているそうです。

             「↓創立60周年記念航空写真…平成6年」

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学区内にある「瀬戸高校」

 瀬戸にはいくつかの高等学校がありますが、この学区には瀬戸高校があります。そこで瀬戸高校の歴史を調べてみました。瀬戸高校の前身は、瀬戸高等女学校でした。まず、瀬戸高等女学校から調べていくと、始まりは明治39年(1906年)瀬戸蔵の地にあった旧役場2階に仮校舎を造った町立瀬戸裁縫女学校でした。ここでは尋常小学校を卒業した子女を対象に修身・国語・算術と裁縫が教えられていました。大正12年(1923年)には、愛知県瀬戸実科専修女学校となりました。この時、町当局は独立校舎の必要性を認め東春日井郡水野村にあった愛知県圃場(現愛環鉄道「瀬戸市駅」付近)に新校舎を建設しました。大正13年には愛知県瀬戸高等女学校、その後昭和4年愛知県立瀬戸高等女学校となりました。
 戦後になり、新制高校の発足にともない、愛知県立瀬戸高等女学校も男女共学の愛知県立瀬戸高等学校となりました。はじめは普通科だけでなく、家庭科や商業科もありましたが、昭和30年代前半には普通科単独となりました。新制度が定着し、年々増加する生徒数、校舎の老朽化等のため、昭和38年(1963年)には、東山町1丁目にあった総ケ洞池のところに新築移転を行いました。その校舎が現在の校舎だそうです。

               「↓瀬戸高校」

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瀬戸市立東山小学校
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