最新更新日:2024/03/18
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笑瀾万丈15 活動期

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活動期
 その当時、神戸市や兵庫県では教職員組合が強く、若手の教員は組合の役員になることが求められた。下山手小学校では分会長となった。ストライキもあった。ストとなると、神戸市の教職員は市やしくょの南側の講演に集合した。出勤は3時間目くらいからであった。
 五位の池小学校でも組合の役員になった。はじめは分会長、次に地区の役員である。何もわからないヒロシは先輩から誘われ淡路島に組合の研修旅行に参加した。すると、待ち構えていたのは、地区の役員にならないかというお誘いだった。あのとき、旅館でのおいしい料理は組合への前金だった。
 甘い汁をすうと、後で大変なことになる。
 分会長と地区訳のちがいは、選挙などにときにどういうされることである。例えば、ビラ貼りや電話応援などであった。あるとき、学校から離れたところで、ビラ貼りを20時頃していたら、志水さんと声をかけられた。だれかと思うと、勤務校の養護教諭だった。こんな活動をしているとは思えなかったのだろう。びっくりだった。

教訓 甘い話にのると後が大変である。



ふと左へ

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3/18 今日のひとこと
昨日、あるスーパーへ行くのに、道を左に曲がった。
しばらくいくと、弘法さんにでた。知立市の弘法大師。
何十年ぶりである。
にぎわいがある。
偶然、寺の市をしていた。
お店がたくさんでていた。

立ち寄ることにした。
境内のお店で軽食をとった。

なんだかミニトリップであった。

志水廣 1032 動画 夢現大95 「算数・数学の問題はなぜ答えが一つなんですか? 」

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志水廣 1024 音声You Tube 動画 夢現大94 「一枚のプリント」

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笑瀾万丈14 五位の池小学校

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☆五位の池小学校時代
 神戸市の初任者は、3年間で転勤するという約束になっていた。転勤した学校は長田区にある五位の池小学校であった。学校の規模は、各学年5クラスあった。赴任しておどろいたのは、運動場の向かい側は団地群であった。だから、運動場の声が団地に響くのである。また、団地からフェンス越しに丸見えであった。
 前任校は、各学年2から3クラスであったから職員室の広さ、職員数の多さにびっくりであった。この学校は、ミドルリーダーになる先生が多く、活気があった。当然学年で行動することが多かった。当初、3年生を受け持ったが、ベテラン教師が2人、私、そして新任教師が2人いた。1つの学年に2人の新任とは驚くべき配置であった。学年主任の寺谷先生は書道家でもあった。この先生から斉藤喜博全集をお借りして読みあさった。
 校長先生は、神戸市の校長会の会長であり、その方のもとに優秀な教員が集まっていた。だから、いろんな教科に精通した人が多く職員研修も活発であった。学べきことがたくさんあった。
 住居は、灘区青谷から垂水区の学びが丘に転居した。ここは公団住宅で5階建ての1階であった。ベテランだごしに見える芝生は我が家の庭のようであった。
 通勤はバスと電車で1時間10分かかった。山陽電車の板宿駅から学校までは徒歩で12分ほどであったが、最後の200mの登坂がきつかった。
 五位の池小学校時代は張りきりボーイであった。


こちらから

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3/16 今日のひとこと
こちらからお願いしたことと、相手からお願いされたことでは成果が大きくことなる。

相手からお願いされたときの方が成果が大きい。

今年度の一年間はそのことの学びであったと思う。

組織と個人  船井幸雄の人間学の

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3/16 組織と個人
 働く一人一人の長所に着眼し、それを最大限に生かせる仕事を与えた上で、全体を組織目標に向かわせるのです。その組織目標に向かって一丸となってみんなが頑張っているときの、個人のわがままは許されませんが、個人の長所が伸びる仕事に個人がつくことはそれこそみんなのためです。そこをはき違えてはなりません。 (リーダーのあり方 PHP)

解説
船井は個人にどんな仕事をつかせるのかは、個人の長所が適合すると言います。そのうえでわがままはよくないと言います。野球のチームを考えればすぐにわかるともいいます。それぞれのポジションでわがままを言いだしたらチームとしての試合はできないからです。



志水廣 1031 動画  中学校数学科の授業(32) データの活用 クラウドを上手に活用し春休みの課題としよう!


正しい人間観 船井幸雄の人間学

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3/15 正しい人間観
 リーダーにとって、正しい人間観は欠かせない。
 「人は何のために生まれてきたのか」。このことに関する深い洞察と哲学なくして、これからのリーダーは部下や組織を率いていくことは、難しいのではないかと私は思っています。といいますのも、特に日本のような先進国では、働く環境もまた暮らしのレベルも裕福な状態を獲得し、もはや、食べるためだけに働き生きた時代は遠い昔となりました。いまや、恵まれた環境のもと、人々の知識数順も高くなっています。衣食足って本質を求めるのではないですが、人間としての本質的な生き方が始まっているレベルに達しています。

解説
 人間はこの世になぜ生まれてきたのか。そして、この世を去るのか。生と死のなぞを考えると、自分の生き方が決まる。人の脳は快となるために生まれてきた。それを幸せという。しかも、自分だけのエゴでいきていくと生き苦しくなる。他者への喜びをもたらすことによって、脳は良いホルモンを出す。自他共に喜び分かち合うような生き方をしたいものである。

笑瀾万丈13 ☆下山手小学校から五位ノ池小学校へ

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☆下山手小学校から五位ノ池小学校へ

 ヒロシは、新卒四年目には神戸市の長田区にある五位ノ池小学校に転勤した。そして、同僚に恵まれて着実に教師力がついていった。四年を受け持ったときは、放送教育の主任から視聴覚教育の大切さを教わった。翌年は、六年生を突然受け持った。学級崩壊の学級を受け持ち悪戦苦闘した。この時の学年主任からは芯の強さを学んだ。三年目には三年生を受け持ち書道家の学年主任に豊富なアイデアを教えてもらった。算数教育についても神戸市の研究会や教育研究所で勉強させてもらった。組合の分会長や地区の役員もしていた。楽しい日々であった。

お役に立つ

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3/16 今日のひとこと

頼まれごとが来ることはありがたい。

しかも、本来やりたいことなら最高である。

昨日は2件の頼まれごとがきた。

いずれもやりたいことである。

わくわくするんだよね。

波瀾万丈12 Web公開 体のこと

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☆体のこと
教師の仕事は、立ち仕事で辛かった。体の調子は、 今ひとつすぐれなかった。実は腎臓病であった。尿に蛋白が出ていた。
三年目の夏休みに検査入院し、おおまかなことが判明した。ただし、腎臓の細胞のかけらを摘出する腎生検を受けようとしたが、点滴の薬にアレルギーが出て、結局は受けることができなかった。クレアチンという腎機能は悪くなっていなかった。以来、現在に至るまで腎臓病と付き合っている。ありがたいことになんとか持ちこたえている。生かされていることを自覚している。
確かに言えることは、病院にいると病人の気持ちになってしまうということである。三週間ほど入院していたら、足腰が弱くなっていた。働いていたほうが、気持ちもシャキッとした。
月に一度、神戸市民中央病院で検査をしていた。不思議なことに尿に蛋白は出るのだが、悪化はしていなかった。薬は特別でていなかった。
月一回、午前中に半休をとって病院に行くことは、現在に至るまでずっと精神的な負担になっている。とはいえ、病気が悪化していないのは、私が普段、病気を意識していないからである。思い悩んでいないからである。
心配ばかりしていては、人生は生きられない。
この病気があったから、いつまで小学校教師が勤まるだろうかという不安があった。この不安はこれまで誰にも話したことはない。
だから、20代に大学教員を夢見ていたのだと思う。実際に、大学教員になる難しさなどは全然考えたこともない。無知の世界であった。今、振り返ると、この病気が意識の底で転職へとつながっていたなあということである。

教訓:病気はあってもつかまない。


無限のものを

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3/14 今日のひとこと
3.14は、円周率。
無限に続く。
それを3.14や3で代用する。
つまり、有限として扱う。
本当の神秘さも分からないままに。



☆算数の本の執筆  笑瀾万丈11 Web公開

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☆算数の本の執筆

算数教育のことで特筆すべきことは、若くしてすでに本を執筆したことである。啓林館の「算数 低学年の数と計算」という単行本の中で、10ページほど執筆した。割り算の筆算のことを書いた。P3にはしっかりと、志水廣という名前が示されている。
この仕事は、学生時代の友人の岡野久雄氏が私に共同で書かないかと誘ってくれたものである。奈良女子大学附属小学校の大須賀康宏先生の編によるものであった。この編集会議は、大阪の阪神百貨店のレストランで会議と会食があった。集まった先生方は、附属小学校などのベテラン教師であり、すごいレベルの差を肌で感じた。その後、啓林館の教科書の執筆者になるとは、この時点では思いもよらなかった。
なにしろ算数の原稿を初めて書いたのは、25歳の時であった。このときの執筆は本当に苦しんだ、わり算の筆算の実践を書いたのであるが、二年くらいの経験で書くのだから、よくわからず、いろんな本を調べてイメージを作って書いた。できたときは、夢のようであった。職員朝集のとき、同僚に紹介した記憶がある。

教訓:仕事は友人から来る。


上司と部下のつき合い方  Web 公開

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3/14 上司と部下のつき合い方
 社長というのはすべての社員を好きにならなければならないんです。なれない人は人を使えない。 (船井幸雄の人生道場)

部下を差別しない。
言うまでもないことでしょう。しかし、感情を持つ人間の常として、相性が合う部下もいれば合わない部下もいるのが現実です。でもそういったことに分け隔てなくどの部下にも接するのが大人ではないでしょうか。人間的に文が成長いけば、どのような人包み込んで、温かく接することができるようになるものです。これがリーダーの条件です。 
(リーダーのあり方 PHP研究所)

解説
リーダーは部下を好きにならないといけないという。このあたりまえのことがなかなかできないのである。人と人とは本来分かり会えないものである。コミニュケーションにずれが生じるのは当然のことである。しかし、そのずれを少しでも修正していくのが大人としてのつき合い方だと船井は言う。
部下を好きになるというためには、部下の特性を認め、成長を喜ぶことである。このことを船井は親身法といって、親だと思って付き合うことだという。たしかにそうだと思う。

第13回 横田式 中学校学級経営のコツ  限定配信

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授業力アップわくわくクラブサロン会員のみなさま

こんにちは。
第13回 横田式 中学校学級経営のコツ

「最後の授業を意識し、集合写真を撮ろう!」動画を配信します。

わくわくクラブ限定動画です。どうぞご覧ください。

  授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子

笑瀾万丈10 Web公開

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☆結婚のこと
神戸市立下山手小学校に着任した、その年の終わりに結婚した。大学生時代からの付き合いであったので、普通から見れば早い結婚であった。母方の叔母は、結婚の話を聞いて無口な私がパートナーを見つけたこと自体信じられなかったようだ。
本当に、その頃の私は話題も乏しく、およそ女性を喜ばせるということはできなかった。デートをしていても、彼女がずっと話をしていた。その頃の私へのあだ名は「石部堅吉」であった。
仲人は、父方の叔父が引き受けてくれた。叔父は口うるさかったが、面倒見はとてもよかった。困ったときには頼りになった。
結婚は甘い生活だというのは理想であって、実際は異文化の人間同士が同居するのであるから、小さなことでもけんかばかりしていた。けんかしても負けることが多いので、夫婦関係とは、負けることをいかに学ぶことだと思い知った。連戦連敗である。
パートナーは、教員ではなかったので、余計に自宅に仕事を持って帰ることに理解できなかったようだ。

教訓:ひと言で言えば、人生の難事業が結婚である。相手もそう思ってい  ることだろう。


3/13 宮古島の庭の石起こし 船井幸雄の言葉

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3/13 宮古島の庭の石起こし
 宮古島に石起こしで有名な新城さんがいた。
 新城さんは、50歳をすぎてから庭の石起こしを始められた。その体験を通していろいろな知見を得ていた。巨石を起こして庭づくりをするように導いた何かの力、私自身の力ではない他力に、この世の仕組みや仕掛けを教えられ、今でき心から感謝しているのです。と話されている。
 船井幸雄は、その新城さんの労苦を耳にして、次のようにまとめられている。
 新城さんは自分にふりかかったことに心から感謝し、自然の内なる声に耳を傾け、それに素直にしたがっています。新城さんの心はいま満たされています。満たされてなお新しいことに意欲を燃やしているのは、そのたびに多くのことを教えられ、それが愉しみだからです。
二十一世紀の人間の愉しみとは、我欲から離れたこうした愉しみを、各自が見つけ、それを実行することだと思います。 
船井幸雄 「愉しみの発見」サンマーク出版 p109


解説
 船井さんがほんの中で紹介していたので、宮古島に旅行に行った。その際、新城さんがご存命のとき、彼の庭をおとずれた。たくさんの巨石が掘り起こされていた。確かに、そこは間違いなくパワースポットだと感じた。新城さんから一つのサンゴでできた石を渡された。手を近づけると、びりびりと波動を感じた。不思議なことがあるものだ。
船井さんは、我欲から離れて生きることを提案されている。欲は必要なものだと斎藤一人は言う。問題は、自分のための欲なのか、自分を含めた社会のための欲なのかである。私の人生を振り返っても、特別な活動をしなくても安泰な生活は遅れたと思う。しかし、次々と新しい局面が現れて解決していくうちにより広い活動ができてきた。宇宙は許してくれないんだよね。やればしんどいけれど楽しいんだよね。なんだか導かれているんだよね。



波瀾万丈9 Web 公開

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☆新任教師

 昭和49年、神戸市の下山手小学校に赴任した。四年三組の担任としてスタートした。33名だったと思う。
 新任教師は何もかも初めてのことだらけである。授業するのも初めて、学級経営も初めて、保健の健康検診も初めて、家庭訪問も初めて、部活も初めて・・・。本当に初めてだらけであった。 
 数学科を卒業したので、子ども達をなんとかして算数好きにするぞという思いで教壇に立った。そのための工夫はいろいろした。教室の後ろに面白パズルを毎日貼ったり、計算練習のカードが良いと聞けば、それを手に入れて練習したりした。
 毎日が教材研究の連続であった。前日に教材を頭に入れて次の日に、吐き出すといった自転車操業であった。教材研究ノートを作って、授業の流れと板書をまとめて授業に望んだ。自宅に戻って教材研究するのであるが、あっという間に夜中になった。ところが、十分に教材研究したつもりでも、理科の指導書を完読したつもりでも45分間の授業が、もたないのである。授業の後半をいかに、もたせるかが課題であった。算数の時間は問題量があれば45分間はもった。反対に、時間が足りない教科があった。国語や社会科である。これらは指導書通りにやっていると、とても足りない。しかも、指導書にのっているような素晴らしい考えが出ないのである。国語の理想的な授業とは何かは、なかなか分からなかった。
 そんなこともあり、教育書はかなり買って読んだ。「教育技術」は毎月購読した。また、学級経営事典を購入して何かしら工夫すべきことはないかと、どんどん試していった。
毎週、土曜日の夕方、部活が終わって元町に出て、日東館という書店に行って教育書コーナーに行き二、3冊の本は購入した。体育の本、理科の本はもちろん、算数の本と片っ端から読んだ。最近の若手教師が本を読まないのには全く驚く。教師に知性がないと、子どもにダイレクトに影響する。これを自覚していない若手が多い。
 そのうち、毎日、教材研究するのではなく、日曜日にまとめて教材研究をするようになった。夕方からは時間があるからたっぷりできた。それでも、25時間分の教材研究は並大抵ではできない。水曜日までくらいの計画は立てた。だから、木曜日の授業はかなりきつかった。


波瀾万丈8 Web 公開

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第2章  神戸市の教員時代編

笑瀾万丈劇4 座りすくむヒロシ

☆職員室の机の上に指導書
 ヒロシは、大阪教育大学を昭和49年三月に卒業し、四月に出身の神戸市の小学校教員となった。希望に燃え溌剌としたヒロシであった。
 就職した四月の初め頃、ヒロシは、ある瞬間愕然となる。職員室でヒロシは立ちすくんでいた。いや、いすに座りすくんでいた。
 朝の八時三十分、職員朝集があった。教科書配給の担当の人が、
「先生方の机の上に、教科書と指導書を置かせていただきました。これは、3年間使うものですから、大事にお使いください。」
と話した。
 ヒロシは、その声よりも机の上に高く積み上げられた教科書とその指導書、すなわち、小学校だから教科書は国語、社会科、算数、理科、道徳、5冊、指導書は体育も増えて6冊積み上がっていた。高さ20cmはあった。これを見た瞬間、すくんでしまった。これを毎日読んで教えるのか。ぼくにできるかなあ。ヒロシは、不安にかきたてられ、ため息をついた。
 教育実習の時にはこんな感覚はなかった。与えられた時間に与えられた科目を教えるだけだったから、目の前の20cmという光景はヒロシにとっては驚愕以外に何もなかった。この先、小学校の教師として毎日、指導書を読み、展開を考え、教えるのかということを想像すると怖かった。ただ呆然と座っていた。きっと30秒間ほどの時間だっただろう。
しかし、この30秒間は5年くらいの気分であった。気がつけば職員室にひとりぼっちである。皆さんは、教室に向かって行った。ヒロシだけがたたずんでいた。いや、腰が引いていたのであった。この時からぎっくり腰だって、そんなわけないよ。びっくり腰だよ。
 前の方の教頭先生が心配そうにこちらを見ている。
 プロのきびしさを知った瞬間であった。
 それからというもの、毎日、重い指導書を持って帰る毎日であった。


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