最新更新日:2024/09/26 | |
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第21回あじさい祭り 続報令和元年6月1日(土)から23日(日曜日)まで、琴聲山音楽寺境内で開かれています。 境内の33種類・約1200株の中の多くのアジアイが見頃を迎えました。 音楽寺の説明は、後日紹介します。 まずは、寺にある紹介文をご覧ください。 第21回あじさい祭り令和元年6月1日(土)から23日(日曜日)まで、琴聲山音楽寺境内で開かれています。 昨日も、早咲きのあじさいが咲いていました。 そろそろ梅雨を迎える時期。 今年も、境内の33種類・約1200株のアジサイが見事なあじさいが見られることでしょう。 運動会名場面集大きな声と大きな動きに魅了されました。 農繁休業学校教育法施行令 第29条には次のように書かれています。 第二十九条 公立の学校の学期並びに夏季、冬季、学年末、農繁期等における休業日又は家庭及び地域における体験的な学習活動その他の学習活動のための休業日は、・・・(以下略) 現在の法律に農繁期等における休業が明記されているのです。 それでは、実際に行われているのでしょうか? 昭和16年の草井村國民学校 学校日誌6月5,6日に次のように書かれていました。 農繁児のみ2時間授業にて帰宅せしむ さらに次のように続きます。 他の児童は初3以下は校庭の掃除を行はしめ、初4以上は小杁字河原開墾地の除草を行へり さらに、昭和21年の5月30日(木)に次のように書かれていました。 初5以上の非養蚕家児童出校 第1時 8時より9時 自習 9時より11時半まで 作業 すなわち、養蚕農家の児童は休みなのです。 本校の三輪先生によれば、宮田小学校では昭和34年まで農繁休業があったそうです。 さっそく草井小学校も調べてみました。 ありました。昭和34年の学校日誌、6月4日(木)、5日(金)に農繁休業と書かれています。 昭和33年には6月9日から11日までの3日間農繁休業がありました。 今でも農繁休業のある地域はあるのでしょうか・・・。 江南市縁の七人の戦国武将 −9−今日まで開催中のこうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 これまでに、その七人の武将を順に紹介してきました。 10連休の最後は、その関連として織田 有楽斎を紹介します。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 犬山ホテルの敷地内にある茶室「如庵」。 現在、国宝に指定されています。 その如庵を建てたのが、織田 有楽斎、織田 長益です。 東京の「有楽町」の名の起源である織田 有楽斎。(異説あり) 織田信長の実の末弟で、甥の信雄も慕っていました。 信雄の兄、信忠に、二条城で自害をすすめた人物といわれています。 自らは、二条城を脱出しました。異説もありますが・・・。 小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康の仲介役も務めています。 信長の実弟だからこそできることです。 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の有力武将・蒲生真令を倒す活躍を見せますが、悲しいかな、淀君は姪っ子。豊臣にも力を貸します。 大阪の陣では豊臣に付いていましたが、最後は離れます。 今回のテーマである、豊臣と徳川の間に揺れた一人といえるでしょう。 その結果、子孫は続きました。 「勝(か)ち馬(うま)に乗る」といいますが、一般的に戦国武将が有利な方につくのは、生き残る術です。 しかし、織田 有楽斎は、2人の姪(豊臣に嫁いだ茶々、徳川に嫁いだ江)のために、豊臣と徳川をつなごうと願っていたのでしょう。 江南市縁の七人の戦国武将 −8−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 こどもの日の今日は、信長の子織田 信雄です。 2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では、山崎裕太が演じました。 NHK大河番組HPには次のようにかかれていました。 信長の次男。本能寺の変の後、明智軍を攻めようと進軍するが、兵数が心もとないと撤退。清洲会議で織田家後継者の道を完全に断たれるが、のちに家康と組み、秀吉に対抗する。 また、三谷幸喜の映画「清洲会議」では、妻夫木聡がおおうつけとして演じていました。 映画HPでは、信長次男。おおうつけだが自分では頭が良いと思っている。秀吉によって信長後継に擁立される。というキャラクターとして紹介されていました。 この信雄も、他の尾張の武将と同様、豊臣と徳川の争いに翻弄されます。 信雄は、信長の第2子。もちろん吉乃の子です。 信長は伊勢平定のため、信雄を北畠具房の養子としました。 長島一向一揆や雑賀衆、伊賀攻めに、弟の信孝と共に参戦します。 本能寺の変の後には、尾張、伊勢、伊賀の100万石を得て、織田姓に戻ります。 賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、柴田勝家に付いた弟信孝を攻めて岐阜城を包囲、野間大坊に送り自害させています。 兄弟といえども厳しい世界です。 この後、秀吉からの大坂城の招待を拒否し、対立します。 信長の後継者を自認する信雄にとって、秀吉のとった行動は許せないものでした。 秀吉が信雄を攻撃するのに対し、信雄は徳川家康と同盟を結びます、というより助けを求めます。 これが小牧・長久手の戦いとなります。 家康が清洲城に到着した日、織田氏の家臣・池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を占拠します。 池田恒興は、姫路城を造った池田輝政の父です。 生駒屋敷(小折城)にいた信雄を訪ねた家康は、二人で富士塚古墳(写真下)に登って、秀吉側の動きを偵察したと言われています。 結果的に、領地を一部減らして秀吉と和睦。 長女(小姫)を秀吉の養女に出し、その小姫は徳川秀忠に嫁ぎます。 豊臣と徳川の間の微妙な位置関係に立ちます。 その後も、豊臣と徳川の間を立ち回り、子孫を存続させています。 優秀といわれた兄・信忠は早く命を落とし、それほどではなく、一部では「暗愚の将」とさえ言われた信雄の家系が続いていくのは皮肉です。 叔父有楽に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあったそうです。 『くさの井史』P.136には、「尾張は本能寺の変後、信雄が領主となる−曼陀羅寺へ禁制下る」と書かれています。 明日は、有楽を取り上げます。 江南市縁の七人の戦国武将 −7−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第7回は織田 信忠です。 信忠は、信雄・徳姫(見星院)同様、信長と生駒吉乃との間の子であり、信長の嫡男です。 15歳で浅井長政を攻め、その後長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍します。 18歳で信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となります。 25歳では武田勝頼を攻め、先鋒として功をあげました。 しかし、本能寺の変では、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃しました。 歴史に「もし」は禁句と言われていますが、必ずしもそうとは言えません。 いろいろな状況を総合的に考えるトレーニングができると考えています。 もちろん正解はありませんが・・・ もし、信忠が二条城を脱出していたら・・・・ 天才の2世の割には優秀だといわれた信忠のことです。 跡取りとして、他の家臣団に命じて光秀を討伐したでしょう。 秀吉といえども、信忠には逆らえません。 織田家とその家臣団による天下統一の可能性は高かったと思います。 そして名古屋に幕府を開くのです。 などと、勝手な想像は楽しいですね。 江南市縁の七人の戦国武将 −6−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第6回は生駒 親正です。 この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。 1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。 本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます 60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。 高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。 そして、三中老のひとりなります。 三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。 生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。 ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。 五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。 どちらに付けばよいか苦悩します。 讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。 さらに子の生駒一正は東軍につかせます。 結果はもちろん東軍の勝利。 生駒家は安堵されます。 高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。 ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。 江南市縁の七人の戦国武将 −5−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第5回も生駒利豊です。 数年前に、江南市歴史民俗資料館で「生駒家文書展」が開かれました。 上の写真がその時の様子です。 この古文書は、尾張徳川家の徳川綱義(後の3代藩主・綱誠)が、その守役であった、生駒家6代生駒利勝に宛てたものです。次のように書いてあります。 露月死去 可為力落候 謹言 五月十日 綱義(花押) ここでの、「露月」とは、利勝の父(5代利豊)のことです。 「可為力落候」は「力落としたるべきそうろう」と読みます。 あなたのお父さんが亡くなり、私も力を落としましたという内容のお悔やみです。 尾張徳川家の跡取りが、家臣にこのような書状を渡すことは珍しく、生駒家をいかに重視していたかがわかります。 写真上の下は6代生駒利勝の「遺書」です。 1688年に書かれたもので、今で言う「家訓」に当たります。 利勝が、その子宗勝へ書いたもので、当主としての心得を示したものです。 3条に分かれている第1条を見てみましょう。 一 忠功ハ不及申ニ先祖ヲ祭ル者ハ 冥加ニ叶也、就中露月尊君ノ 儀全ク粗略不可有、家伝記在 所古実覚え置、子孫ニ相伝 専用也、若妻子ニ愛着アラハ 可為家絶事 おおよその意味です。 「忠孝は言うまでもなく、先祖を祭るのは神仏の加護を得ることができる。とりわけ、先代(5代利豊)は疎略に扱ってはいけない。生駒家の歴史について子孫に伝えるのが(当主の)勤めだ。もし先祖より妻子に愛着が偏ると、この家は絶えてしまうに違いない。」 5代利豊から見ると、利勝は外孫に当たります。 すなわち利豊は、利勝の母方の祖父。 利勝が先祖を大切にしてきたことが実によくわかります。 実物はたいへんコンパクトで、片手にすっぽり収まる大きさです。 身近な所に置いておき、すぐに見ることができるようにしていたものと思われます。 「遺書」の第2条から、利勝の人柄や、当時の武家の暮らしぶりを想像してみてください。 一 勝手方身体ヲ第一可持立、 不如意ニ無之様ニ心掛常々不 失軍役等勤メ可被申人ハ、何時 不慮ノ儀出来流牢難知也、 一家知人中ニ無御苦労ヲ掛間 敷也、惣テ借金取持加判口入 断申達シ曽テ被仕間次敷事 主観的、かつおおよその解釈です。(間違っているかもしれません。) 「会計担当者は健康に気をつけるように。日ごろから失うことのないように、貧窮しないように心掛けるように。軍事上の負担をすることになると、何が起こるかわからない。みんなに迷惑をかけてはいけない。借金をしたり、連帯保証人になるようなことはしてはいけない。」 当主としては、やはり家計への気遣いが感じられます。 この遺書(家訓)の巻末には、次のように書かれています。 「この3条を、年中、2ヶ月に1回は目を通して守るように。これを守らないと、先祖や父母までが不幸になる。もちろん、後の代にもおよぶので、代々に伝達するように。」 生駒家中興の祖と言われる利勝らしい言葉です。 江南市縁の七人の戦国武将 −4−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 令和時代初めてとなる第4回は生駒利豊です。 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4c/49ce..." border="0"> 生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。 まずは、吉乃の兄、家長です。 家長は、初めは犬山織田氏についていました。 妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。 信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。 信長創世期の家臣だったのです。 その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。 家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。 利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。 関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。 以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。 ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。 宝頂山墓地(写真下)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。 中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。 奥が家長夫妻です。 6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。 生駒家に養子として迎えられました。 尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。 利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。 初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。 碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。 『くさの井史』には、 P.111「小折に在した生駒氏のこと−犬山の織田氏に従い、後信長に属する」 P.153「生駒利豊の兄と姉」 他、P.157,P.159,p.162,p.163 に登場します。 次回も利勝について紹介します。 江南市縁の七人の戦国武将 −3−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 今日は平成最後の日。 第3回は前野将右衛門長康です。 前野長康も時代に翻弄された武将です。 1528年に、木曽川の川並衆、前野家に生まれました。 1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。後の秀吉の最古参の家来なのです。 1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。 その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。 この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。 これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。 聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。 その後、関白豊臣秀次付きとなります。 まさに、最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。 そして事件が起きます。 1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。 秀次は、秀吉の姉・智子の子です。 実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。 しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。 これが秀次事件です。高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。 このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。 秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。 これに伴い、淀君、石田三成が何らかの動きをしたのかもしれません。 もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。 180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。 本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。 いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦いの一因となったのです。 『武功夜話』は、前野家文書の一つです。 長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。 『くさの井史』P.157には、「秀次の家臣であった生駒利豊・前野勝右衛門は、秀次の失脚に伴って不幸を見る」として説明されています。 江南市縁の七人の戦国武将 −2−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第2回は蜂須賀家政です。 江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連が出ます。 鳴子踊りに比べて動きは単純。 しかし、本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。 でも、なぜ江南で阿波踊り? ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。 蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。 1558年に、小六の母の在所である安井氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。 小六は、6歳のときに、蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)から、母 安井氏の実家である宮後村(現 江南市宮後町)へと移り住んだのです。 安井氏は甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしいという話が残っています。 家政は幼児期を宮後で過ごし、曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。 当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。 1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。 その舞台が小折の生駒屋敷で、吉乃の仲立ちだと言われています。(諸説あり) ここが歴史のロマンですね。 蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣なのです。 これが、後々に影響します。 家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。 1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。 その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。 そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。 この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりだったと言われています。 その原型が尾張の農民の踊りでした。 阿波踊りの原型は尾張の農民の踊りかもしれないのです。 さて、1586年には、父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。 朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。 しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。 この事件も、歴史のカギになります。 そして問題の関ヶ原の戦い。44歳の時です。 豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い。 どちらが勝っても、家は守りたい。 そこで、家臣を大坂に派遣し西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。 子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。 これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。 結果はご存じ、東軍の勝利。 蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も阿波国を治めることが出来ました。 1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。 大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。 夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。 豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。 子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。 再度、家政が阿波を守ります。 波瀾万丈の人生です。 秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。 戦国の世で生き残るすべなのでしょう。 家政は、郷土にも大きな恩を感じています。 母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。 さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺正堂を再建しています。 『くさの井史』P.182には、「曼陀羅寺を再建した蜂須賀家政のこと」として詳しく説明されています。 江南市縁の七人の戦国武将 −1−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介します。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第1回は浅野長政です。 筆頭五奉行・浅野長政は、宮後城・安井家で生まれました。 安井家は、蜂須賀小六の母の実家です。 この後、織田信長の家臣で、叔父の浅野長勝の娘と結婚し、婿養子となります。 この浅野長勝は、秀吉の妻・ねねの養父。 すなわち、ねねと長政は義理の姉・弟(妹・兄説も)なのです。 当然のように、秀吉にかわいがられます。 1573年、27歳の時には<strong>浅井・朝倉攻め</strong>に従軍しています。 その10年後には、賤ヶ岳の戦に従軍し、近江・坂本城主として2万石を与えられました。 この「坂本」は、坂本龍馬の祖先の出身地といわれています。 4年後には、若狭国一国(8万石)城主となります。 1590年、秀吉が全国統一した小田原城攻め、奥州仕置でも陸奥国岩代へ出陣します。 さらに、朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)でも軍監として従軍します。 1598年には、五奉行の筆頭になります。 五奉行とは、豊臣秀吉が晩年設置した職制で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の5人。いわゆる文治派で、関ヶ原の戦いの遠因になります。 豊臣秀吉死没後は、かねてより友好関係にあった徳川家康に接近。 1599年、関ヶ原の戦の直前には、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて甲斐国に謹慎を命じられました。 これは、増田長盛が政敵である長政の失脚を狙ってのものですが、実力者である長政を石田三成ら奉行衆から引き離すための家康の謀略だったという説もあります。 家康なら、十分あり得ることでしょう。 隠居し、家督を子の浅野幸長に譲ります。 関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は子の浅野幸長が紀伊国和歌山37万石を拝領し、和歌山城主になります。 長政は、隠居料として<strong>常陸真壁に5万石</strongを支給されましたが、1611年、64歳で江戸で亡くなりました。 死没後、常陸真壁の5万石は三男の浅野長重が継承しました。 赤穂浪士の主君浅野内匠頭はその子孫です。 一宮の浅野公園は、尾張浅野氏発祥の地です。 浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられており、庭園式公園として整備されました。 広さは約9200平方メートル、公園の周りは堀で囲まれ、木々がたくさん植えられています。 御囲い堤 -3-柳津のカラフルタウンの西に境川が流れていますが、それがかつての尾張と美濃の境だったのです。 尾張と三河の間にも境川があります。その他、全国各地に境川という川や、境川という地名が残っています。 水問題研究所「木曽川物語」http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/ki...には、次のように書かれています。 貞観年間(860年代)繰り返し起こった洪水により河道が変わり笠松を通過する線まで南下して長良川へ流れるようになりました。このため、尾張の国の葉栗郡60ヶ村、中島郡29ヶ村が美濃側にいきました。 上の図をご覧ください。 貞観年間の洪水で、川島を挟む現在の木曽川の流域が現れました。(灰色部分) まさに、現在、江南市の北に流れている木曽川です。 この後が面白い! 尾張側は暴れ者の木曽川が尾張の国に居座られては困ったものだと、貞観7年(865年)河道を元に戻すよう工事を京に陳情しましたが、なんともなりませんでした。そして、翌年河道を元に戻そうとする尾張側とそうはさせまいとする美濃側との間で、「広野川の争い」と呼ばれる武力衝突が勃発しました。 何と、洪水の恐れがある本流を互いに押し付け合い、武力闘争にまで発展したのです。 それほど、生きるか死ぬかの話だったのです。 この広野川の争いについては、『くさの井史』P.41に詳しく書かれています。尾張側に、多くの犠牲者が出ています。 天正14年(1586年)の洪水では、笠松から南に流れる川ができて、ほぼ現在の木曽川の川筋になりました。 3年後に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を葉栗郡から羽栗郡へと改めました。 ここまで見てきたように、濃尾平野でくらす人は、川の氾濫のためにたいへんな目にあってきました。 「丈夫な堤防をつくってほしい!」というのは、この地域の人の永年の悲願であったのです。 それが、秀吉による文禄の治水、そして家康による御囲い堤となるのです。 続きます。 江南市縁の七人の戦国武将曼陀羅寺の藤が、かなり咲きそろってきました。(写真は今朝の様子です) 今年は、10連休が藤の見頃と重なりそうです。 次のサイトでは、藤まつり期間中、毎朝の藤の様子を見ることができます。 https://blog.goo.ne.jp/syaraku0812 さて、会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将とは? 1 浅野長政 2 蜂須賀家政 3 前野将右衛門長康 4 生駒利豊 5 生駒親正(ちかまさ) 6 織田信忠 7 織田信雄(のぶかつ) のことです。 これらの戦国武将について、次の10連休中に順に解説していきます。 江南市の歴史に興味を持っていただけたら幸いです。 御囲い堤 -2-それ以前の、天正14年(1586年)以前の木曽川の様子が残されています。 それをわかりやすくしたのが上の図です。(出典は 水問題研究所「木曽川物語」 http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/kiso02.html) これらの川は、現在も川・用水、あるいは川筋跡として残っています。 川筋跡は、ランニングをしていると、微妙な上り下りがよく分かります。 それでは、それ以前の木曽川はどんな川だったのでしょうか? 下の木曽川の河道変遷図をご覧ください。 (出典は、水問題研究所 http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/kiso01.html) 大昔、今の濃尾平野は、川の氾濫を繰り返していました。 上流に雨が降ると、土石流がながれ氾濫して堆積していきました。 そうして、平野がつくられていったのです。 どこを掘っても丸い石が出るのはそのためです。 3000年位前になると、人々は集落をつくり、魚や貝を採って生活し始めました。 集落跡や縄文土器、魚を採った痕跡がいろいろなところで見つかっています。 九州に米作りが伝わると、この地域にも伝わってきました。 しかし、大規模な水田跡は見つかっていません。 おそらく、川が氾濫を繰り返したために、定住するには適さなかったかもしれません。 しかし青銅器や鉄器などの道具の進歩などで米の収穫量が増え、集落が大きくなり、尾張氏、葉栗氏、丹羽氏などの豪族も出てきました。 尾張の稲沢市付近に国府がおかれた頃の木曽川の様子を、上記「木曽川物語」は次のようにまとめています。 木曽川は、8世紀ごろは鵜沼川と呼ばれ、9世紀ごろは広野川と呼ばれており、前渡のあたりから北西に、現在の木曽川より北を現在の境川の川筋で流れて長良川へ合流しておりました。(下図参照)そして、それより下流は美濃川または尾張川と呼ばれていました。 現在の境川がこの痕跡であり、美濃と尾張の国境になっていて、尾張の国はもっと北西に広がっていたのです。 長くなりそうなので、いったん切ります。続きます。 御囲い堤今回は、草井地区には欠かせない話題御囲い堤です。 『くさの井史』P177には「御囲い堤が築かれる」とあります。 本文を引用します。 平岩親吉は、検地奉行伊奈備前の守の発意になる尾張国境を擁護すべき大堤の築造を家康に進言し、家康の大命によって伊奈備前の守が木曽川修築工事の局にあたり、慶長14年(1609年)には略々築変されるというスピードさであった。築堤は犬山より延々50キロの弥冨に及び、ひとり木曽川の水害を防御するに止まらず、西国に備えての軍略上の意図が家康の主因とするところであった。よって、徳川幕府の要衝、尾張平野を安全に囲み、防護するものとして、この堤を、後世、「御囲い堤」と称せられる。 上の左図の画像出典は、『濃尾用水拾余話』3 御囲堤の功罪−美濃の不文律です。 ここから http://suido-ishizue.jp/nihon/12/03.html 史上名高い不文律「美濃の諸堤は、御囲堤より低きこと三尺たるべし」により、美濃の人々が苦しめられたいうことです。 また、下の画像は、3年生以上の児童が使用している『のびゆく江南』からお借りしました。 御囲い堤には、皆さんもご存じのように、写真のように桜が植樹された所が多くあります。 それはなぜ? 一説には、幕府が、「人々が桜を観賞することにより堤防が踏み固められる」と考えたからです。本当でしょうか? 『くさの井史』の一部です。 川面した側には、本堤の外に、二重の堤、三重の堤と称する副堤防や猿尾と呼ばれる水はね用の突堤を数多く築造して、今日の築堤学上よりみるも、その用意の周到さと規模の壮大さに驚嘆させられる。 草井地区、鹿子島地区などを守る堤がつくられたのです。 続きます。 魚入神社 −3−先日は小杁の魚入神社を取り上げました。『くさの井史』を読んでいたら、さらに詳しい記述がありました。 P15より引用します。 −−−−−−以下引用−−−−−−− 小杁にある村社魚入神社は「尾張本国帳」にいう葉栗郡従三位魚入天神、延喜式外の魚入神社の由緒をもつとしており、津田正生の「尾張国地名考」では魚入(うおいり)は庵入(いをいり)の転じたるものとして、庵入姫に由来するという。 また、尾張大海媛の孫で八坂入姫の腹に生まれた五百木姫の音が変化して、庵入姫となったもので、景行天皇の娘なりと「尾張誌」では見ている。 −−−−−−引用終わり−−−−−−− 「五百木」はいおきと読み、いをいり(庵入)と転じたことも十分考えられます。 「尾張誌」は、天保15年(1844年)に序のある近世後期のもので、愛知県図書館にある写本では丹羽郡だけでも、巻之三十六から巻之四十まで、260ページあります。 ここから https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/32.html 機会があれば後日紹介します。 江南市 誕生秘話 −3−
『くさの井史』より、江南市が誕生した当時の様子を紹介しています。
小玉市長が選挙に当選してからも、「古知野市」への市名変更、布袋町の分離問題に揺れていました。 8月末には、布袋地区を除いた分離予算が可決します。 その中で、市名変更案が廃案になります。 布袋地区の中で、市名変更案が廃案になった以上、脱退の理由はないという意見が出始めます。 その空気の中で、小玉市長は4町村の円満合併に向けて奔走します。 昭和30年度予算は満場一致で可決し、晴れて4月7日に祝賀の春を迎えます。 この間の出来事は、『くさの井史』には記述がありません。 ご存じの方は教えていただければ幸いです。 下の写真は、市制発足を祝う市役所の風景です。 10年後にできる現庁舎までは、古知野町役場を市役所として使っていました。 向かって車の左側に、初代小玉市長が写っています。 円満解決したことに、ほっとしてみえることでしょう。 小玉市長、おつかれさまでした。 江南市 誕生秘話 ー2−
江南市は、昭和29年6月1日に誕生しましたが、
・ 7月に旧古知野地区から市名を「古知野市」に変更せよと陳情 ・ 布袋地区はそれなら脱退すると表明。 ・ 7月9日には、江南市議会で布袋地区の分離を可決 商工業で発展している古知野 対 丹羽郡役所があった政治と文化の布袋のプライドをかけた戦いがありました。 どうなる?江南市! ここで市長選挙が行われました。 草井村鹿の子島出身の江南市擁護の小玉進亮氏が当選します。 下の新聞記事はその時のものです。 8月5日、最初の議会が、古知野南小学校の講堂で開かれました。 議長が布袋分離問題の責任をとり辞意を表明、布袋地区は総務委員会を除いて、議員をどの委員会にも送りません。 8月6日、布袋地区は分離予算を要求します。 8月10日、小玉市長は分離引き留めで動きますが、区長会では分離要求を県に陳情、古知野地区も古知野市へ変更せよと感情的に対立します。 宮田・草井地区もよい感情を持たず、市から脱退する空気も流れます。 江南市、ピンチ! 明日に続きます。 |
江南市立草井小学校
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