最新更新日:2024/05/29
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笑瀾万丈61 ☆関川さんとのご縁

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☆関川さんとのご縁

スナックラブで京野さんから関川さんを紹介された。関川さんとは12歳違う。一回り違う。材木屋さんの社長で可愛がってもらった。一昨年(平成23年)の八月に亡くなるまでお付き合いをさせていただいた。1六年間のお付き合いであった。
関川さんのすごいところは、毎回必ず飲み代をおごってくれた。私が支払うと言っても受け取らなかった。それを16年間、やり続けることのできる人のすごさに魅了させられた。若者の面倒もよくみた。例えば、30歳そこそこの人が串カツ屋を開業した。その意気込みを買って、そのお店に通って支援していた。
関川さんは、飲む時はほとんど何も食べない。夕食をとらない主義だった。お店の人がいつも心配していた。でも、本人は平気だった。
ビールのオンザロックを飲むのが好きだった。カラオケはうまかった。ラブではカラオケはできなかったので、他の店に行き、カラオケを楽しんだ。
関川さんと行く店は、若い女の子はいなかった。そんな遊びは終わっているという感じだった。どちらかと言えば、おばちゃまの世界であった。しかし、それらの店のママは情が厚い。
また、関川さんにいろんな質問をすると、そんな場合はこうすればいいよと教えてくれた。豪快でかっこいい生き方をしていた。職種が違っていても人生の生き方については大先輩である。だから、質問には即時に回答してくれる。
生き方でこんなことを教えてくれた。
バブルの頃、羽振りのよい材木屋があった。どんどん一人勝ちしていた。銀行との付き合いも良かった。ところが、バブルがはじけた後は、その会社は一気に吹っ飛んだ。生き残ったのは、みんなで助け合った会社だった。だから、自分の所だけいいという発想では、この社会は生き残れないのだと教えてくれた。
親父を22歳のときに亡くしたから、関川さんの存在は生きる指針として本当に役立った。亡くなる前に娘さんからメールがあり、急遽、上京し病院に駆けつけた。一時間ほど面談できた。それから二日後亡くなった。とにかくかっこいい生き方であった。
何のご縁かわからないが、関川さんの娘さんは愛知教育大学の近く、豊明市に住んでいる。娘さんによれば、お父さんとヒロシが飲んでばかりいた印象らしく、「飲んだくれのシミやん」と呼ばれている。

教訓:生き方に困ったとき、相談できる人がいること。これこそ生きた財  産である。



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