最新更新日:2024/09/22 | |
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上野小学校の訪問とても嬉しいことであった。 訪問時に渡辺伴子校長先生にインタビューした。上野小学校では「どの子もできる10分間プリント」の児童用を使用されている。その取り組みについてうかがった。 これはのちほどわくわくクラブの方で報告したい。 第14回志水塾 広島大会35名の参加でした。愛知からは志水と落合康子先生が駆けつけました。 広島のスタッフの息の長い取り組みに感謝いたします。 若い教師が多いため教材研究の仕方を教えました。 午後は○付け法の演習です。また、適用問題定着法を平田先生が行いました。 最後に、模擬授業をしました。 本日、田川郡上野小学校で示範授業をするための予行練習のためです。 はじめてする教材なので、とてもわくわくしました。 子ども役のみなさんのアイデアのおかげで筋は見えました。 1日があっという間に過ぎました。 自我を超える一般向けの講演として「自我を超える」ことについて話している。 最近、1ヶ月の間に続けて3回話した。 この話題はとても深い。 また、発展性がある。 参加者の反響がすごい。 皆様の心を揺さぶっている。 こういう話題を見つけたことが楽しい。 若手教員の伸び若手教員の授業を参観した。 必ずしも分かりやすい発問ではないのにもかかわらず、 子どもたちが頑張って答えている。 子どもに救われるというか、子どもに育ててもらっている。 もちろん、その前にその教師が子どもから信頼されているから、頑張って答えている。 やはり、第一歩は、信頼関係だなあ。 たかが、板書に問題を書くこと、されど…5月の半ばに研究授業。 普通より少し早い時期に研究授業を設定してもらった。 3年生の酒井郁代先生が授業された。 3こで60円という問題である。 この授業で一番驚いたのは、自力解決で計算のしかたを考えたのだが、多くの子どもがノートに記述できていた。このかきっぷりは1週間ぐらい鍛えてできるものではない。 素晴らしかった。 さて、そのきっかけとして、ノート指導がだった。ノートの左端に赤線を引くこと。そして、日付を書くこと。この場面を見ただけでも鍛えられていると感じた。 次に、算数教科書の問題の視写は見事だった。 教師が1行ずつ板書しながら、子どもも1行ずつ書いていた。 それは、教師が問題文を1行読みながら、子どもは先生の声を聞きながら書いている聴写であった。 昔、筑波大学附属小学校の手島勝朗先生が用いていた方法である。 この行為の良さは何か。それを研究会に参加された小林美記代先生が解説されていた。 「教師が1行も文を読むと、子どもはその声を聞きながら次の言葉を予想しながら書いている」という。つまり、常に、次に来る文のことを予想しながら書けるので、授業の展開を予想できる子どもが育つ。」 酒井学級はそこが自然にできていた。 音声計算が5分。その後、の問題文の視写で合計7分間で、問題把握の所を終わっていた。驚異的なスピードであった。 しかも、ユニバーサルデザインの視点で言えば、視写の遅い子どももいるのであるが、頑張って書いていた。これだけでも自信がつく。 双方に学びあり知らないことを知るだけで、世界観が変わる。 そうか、こんな世界があったのか。 だから、子どもは授業で学ぶによって世界が広がる。 教師から学ぶ、友だちから学ぶ。 では、教師はどうか。 実は、教師も子どもから学ぶのである。 この学びがあると、常に新鮮で生き生きとする。 授業がうまい教師は常に新鮮である。 菊池省三先生100名近くの学生、現職教員が参加していました。 会場に入ると菊池先生がおられたので、挨拶しました。 数年前に、北九州市門司中央小学校で私の示範授業を参観しましたと聞いて、とても嬉しかったです。 映像を通しての子どもが変容ぶりは驚きました。すごい鍛えてあると思いました。はじめは鍛えて、そして、子ども達が学び合っていくことの素晴らしさを感じました。 ほめて伸ばすという方針は、○付け法の精神と同じことです。 とてもユーモアあふれる話で、コミュニケーション力について学ぶことができました。ありがとうございました。 事務局の近藤さんが偶然に講演を見つけて申込みました。 ありがたい偶然でした。 当たり前を1+1=2 これは当たり前。 でも、粘土玉1こと1こを合わせると、1こだ。 当たり前ではなくなる。 「当たり前のことだ」という感覚をはずすと、教材の面白さが見えてくる。 頼まれる頼まれる人材になること。 返事は、「はい」か「YES」。 これを繰り返していくことで力がついてくる。 そうして他の人から信頼を得る。 さらに、レベルアップすると、頼む立場になる。 教師は「しゃべるな」私の示範授業を見せた後、 大学から直進してきた学生の質問がありました。 『「教師はしゃべるな」と言われました。どうなんですか。』 たぶん、私の示範授業では教師がしゃべっていると思ったのでしょう。 説明で必要な所は話しています。また、誘導の部分は話しています。 ただし、子どもに考えさせており、見つけた性質や答えは、子どもに言わせております。 つまり、教師の行動してどこで説明すべきか、どこで子どもに考えさせるべきかについての区別がついていないから、このような質問がでてくるのだと思います。 「教師はしゃべるな」ということの背景には、教師がしゃへりすぎて、子どもに考えさせていないということがあります。確かにこういう授業を見ることがあります。 この「しゃべりすぎ」ということについて、否定されると、「教師はしゃべらない方がよい」という風に解釈されていきます。 すると、教師の発言量の多さ少なさで授業の良い悪いが評価されてしまいます。 問題は、発言の質なのです。教師の発言の質、子どもの発言の質なのです。 教師がしゃべらなくても子どもが考えてよい発言をする授業があります。 でも、教師がしゃべらなくて、子どもの発言がだめな場合もあります。 教師がしゃべりすぎで子どもの発言の質が悪い場合があります。 でも、教師はかなり発言しているけれど、それに負けないくらい子どもが発言し、しかも質が高い場合もあります。 そいう授業は、教師と子どもとのコミュニケーションがうまくいきながら、普通の授業の1.5倍くらいのスピードで情報がうまく処理されています。 ですから、単に「教師はしゃべるなと」という言い方では、授業の良い悪いは判断できないのです。 特に、算数数学の場合は、概念の定義があって性質を見つけていきます。このとき、定義の部分を教師がしゃべらないではスタートを切ることはできません。 前提条件をもとに議論したいものです。 子どもの気持ちは授業中に子どもは課題を把握して、考えて解決する。 子どもが把握している課題と教師が求める課題がずれていることがある。 例えば、問題を解決して答えを求めるならばできている。 でも、教師は、その解き方を説明する、または記述することに重点があるとなると、 説明はできていない子どもがいる。 すると、不満足な状態になる。 この不満足な状態の子どもがいることを知ってほしい。 これを見つけるには、子どもの表情と動作をしっかり見ることである。 明らかにしょぼんとしている。 また、もがいている。 ぼくはどうすればいいんだ。わたしはどうすればいいの。 みんなができている正解にたどり着くにはどうすればいいの。と、 もがいている。 そして、見つけたら、「どうしたの」と声をかけてみよう。 困っているからこそ、この声かけが効果的である。 この声かけも○付け法のうちなのですよ。 中身が問題だグループ学習で、子どもが教え合っている。 だから、素晴らしい授業だと即断するのは、もってのほか。 教え合っている中身が問題である。 本時のねらいの筋にぴったり合っているのかどうか。 それは、誰がどのようにして把握しているのか。 当然、教師が、子どもの教え合いの中身の確認が必要である。 筋違いの話がどんどん進行していくとすれば、スタートの時点で止めなければならない。 子どもが活動しているだけで喜ぶ姿の教師がいる。 さらに、学び合うとなればレベルが一段とアップする。 学び合う場合は、お互いの意見を共有し、なおかつ他の意見を取り入れつつ、さらに「あっそうか」と新しいジャンプがあることが前提である。 ジャンプのない世界は、単に伝え合うだけであったのだ。 よって、学び合うという姿は立派だけれど、その瞬間はあったのかいと問いたい。 グループ学習グループ学習が大流行である。 伝え合う、教え合う、学び合う・・・という美辞麗句が並ぶ。 どういうときに、それらが効果のあるものなのか。 普段は、友だちと話し合おうと言いながら、テストのとき教師は教え合おうとは言わない。 だとすれば、結局、自分で解決できる力を養うことが最も留意すべきことなのではないか。 しかし、現実の授業ではきびしい。自力解決ができないのである。 だから、ヒント包含法や○付け法を考案したのである。 ともかくもこの負の連鎖に陥ると、脱却できない。 物事の順番は、(1)一斉指導が一番、次に(2)個別指導、そして、(3)グループ指導である。 初めの(1),(2)ができなくて、(3)グループ指導だけに頼ろうとするのは…。 心閉ざさないでコミュニケーションの取りにくい人がいる。 多くの場面で心を閉ざしている。 そんな人でもほんの少し目立ったよさがある。 この良さを見つけた人は、その心閉ざした人を許せるようになる。 そして、声かけをしてみる。 すると、心閉ざした門を少し開く。 そうやって、天岩戸を開いていく。 ほんの少し目立った良さを見つける観察力をもつようにしたい。 みるみるタケノコは、少し目が出たかと思うと、 みるみるうちに大きくなる。 子どもが何かに興味することに出会うと、どんどん学んでいく。 これがアクティブラーニングである。 この出会いの場の創設こそ、大人(教師)の役割である。 算数で言えば、1の次は2,2の次は3,3の次は4,…と考えていく。 そして、9の次は何かな。あるx(エックス)になる。まさか1と0で表すなんで思いもしない。そして、10となることを知ったとき、この約束の不思議さに気づく。 新鮮さ日常生活は、日と常をたしたもの。 つまり、毎日が同じようなことの繰り返しである。 これが連続的に行われる。 この繰り返しの中に埋没すると、生命の新鮮さが失われる。 細胞も何年かすると、入れ替わるように、 自分自身の体・心・頭についての成長も入れ替わることが大切である。 だから、ある時少し負荷(ストレス)をかけてみる。 この少しの負荷の集積で、何か大きなことがなされる。 「2つのしかけでうまくいく算数授業のアクティブラーニング」(明治図書)も少しの負荷の集積である。緑丘小学校の実践の集積がこの本である。 先日、福岡県での研修会で会が始まる前に完売した。 びっくり現象であった。 この本の新鮮さがよくわかった。 アクティブラーニングの本 http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-236813-4 達成感1つの重い仕事が終わると、 やったあ! という達成感の思いとともに、 ほっとする。 ほんの一瞬のきもちで、自分をほめる。 また、次が始まる。 好きなことができる幸せ福岡・鳥取のO先生からのメールが届きました。この内容が素晴らしいので紹介させていただきます。 「私の方は、物好きが高じてこんなところまで来てしまいました。今、好きなことを好きなようにできることに、最高の幸せを感じています。 その生き方のコツは、志水先生に教えていただきました。来た仕事は断らない。仕事は言われたことに何か1つでもプラスする。何があってもありがとう。」 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− Oさんの人生の展開を見ているととても面白い。 物好きは、自分の本来の道。 それを進んでいくと、新しい世界が飛び込んでくる。 まるでジェットコースターのように、一気に下がり、そして、突っ走る。 ジェットコースターに乗っているときは、落ちそうな気分になるが実際は落ちない。 でも、わくわくする。このとき大切なことは、感謝の気持ちを持ち続けること。 このわくわくに乗っていくとステージが上がりますよ。 整数・分数とシェア2人の子どもがいる。 おやつが2つあれば、1つずつ分ける。 では、1つしかなかったとするとどうだろう。 半分にすれば分けられる。 つまり、1/2である。 1つずつ分けるのは、整数の世界。 1/2に分けるのは分数の世界。 どちらもシェアしているのであるが、同じように仲良く分けている実感があるのは、1/2である。 あえて、1つを1/2ずつに分けることを経験させてはどうであろうか。 きっと、シェアする喜びが分かる子どもが育つと思う。 平静不安を思えば、不安が増殖する。 どうも人の頭は、安心と不安のどちらかに傾く。 いつも平静とはいかないようだ。 あなたの頭に「安心だよ。大丈夫だよ」と言い聞かせることが、平静でいられるこつ。 |
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