最新更新日:2021/06/29 | |
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今日で「夏休み」終わりこのところ晴れたり突然に雨が降り出したりと不安定な天気が続いていますが、生徒のみなさん、体調はどうですか。夏の疲れがたまり、なんとなく調子が出ないという人はいませんか。 明日から9月。1日と2日は土曜日・日曜日なので休みが続き、夏休みのおまけがもらえたような感じがします。二学期は3日の月曜日から始まり、休み明けの学校生活が一週間続くことになります。始まりの一週間を順調に過ごせるように、土曜日・日曜日の二日間で学校生活に合う体調を整えておいてくださいね。 『元気カード』をいただきました。 二学期、みんなで元気よくスタートしましょう! プロの眼で「みる」今、学校の樹木への関心が高まるよう、「樹名札」を付けることを計画しています。そこで、過日、木を扱う仕事をされている元PTA会長のO氏に来ていただいて主な木の名前と特徴を教えてもらいました。 さすがプロ。プロの眼は違います。 みるという漢字は、「見る」「観る」「看る」「視る」「診る」等いろいろとありますが、プロは全ての「みる」で木をみられ、外観から内部の状態や必要な世話についてお話くださいました。愛情をもって「みる」ことの大切さを教わりました。 24日のティーチャーズアカデミーにおいて、教育長より「子どもの姿をよくみること、声を聞くこと」という言葉をうけました。教育現場に携わる者として「見れども、みえず」「聞けども、聞こえず」ということにならないよう心していきたいと思います。 二学期に備える東北地方の県では、二学期が始まった学校もあります。また、愛知県内でも二学期制を取っている市町は、来週後半から後期に入ります。 二学期始業式まで10日ほどありますが、よいスタートができるように生活や学習の準備を進めましょう。 <ポイント> ・生活…起きる時間(学校のある時に合わせていく) ・学習…学期始めのテストに向けた勉強(課題テスト、Sテスト) 祖東中のプレゼント※両先生の心持ちをとても嬉しく思います。ケース内をよく見ると、下段に日本のものらしい花瓶や置物があります。以前の訪問の際に贈ったものなのでしょうか。 本校も、これまでいただいたものを整理し、国際交流や異文化への関心がより高まるようにしたいと思います。 祖東中を見守る像二学期始業式に間に合うように、朝早くから、耐震工事の関係業者の人たちが大変な作業にとりかかってみえます。暑さ、音、粉塵との戦いです。高所での作業が加わり、危険度が増しています。 安全と順調な作業を願うとともに、いろいろな立場の人たちが、明日の祖東中に向けて尽力してくださっていることに感謝したいと思います。 写真は、校舎に向かって設置されている像です。この像も「祖東中応援団」の一人。 瀬戸市小中学校の校章祖東中学のものには、以前にお知らせしたように平和の象徴であるペンの形が示され、よく学び、賢く智恵を働かせて平和な社会を築く大人へと成長する願いが込められています。 ※参考ー校章辞典よりー 『加藤孝一氏と伊藤高義氏の図案によるもので、平和国家としての再出発を象徴するよう、ペンを中央に配し、全体として「中」をあらわしている。(注:横書きで、四文字の校章。これは他に例がない)』 8月15日1945年(昭和20年)、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をして太平洋戦争が終わりました。 多くの尊い命を奪い悲劇をもたらす戦争を繰り返さないように、過去のできごとを知り、平和を守っていかなければなりません。 読み物を紹介します。二年生の国語の教科書に載せられている作品です。 字のないはがき ー向田邦子ー 死んだ父は筆まめな人であった。 私が女学校一年で初めて親元を離れたときも、三日もあけずに手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、 「向田邦子殿」 と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。父が娘あての手紙に「殿」をつかうのは当然なのだが、つい四、五日前まで、 「おい、邦子!」 と呼び捨てされ、「ばかやろう!」と罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の変わりように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。 文面も、折り目正しい時候のあいさつに始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女とよび、 「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」という訓戒も添えられていた。 ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、かんしゃくを起こして母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親がそこにあった。 暴君ではあったが、反面照れ性でもあった父は、他人行儀という形でしか十三歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日ごろ気恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれない。 手紙は一日に二通来ることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへいってしまった。父は六十四歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年付き合ったことになるが、優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。 この手紙もなつかしいが、最も心に残るものをといわれれば、父があて名を書き、妹が「文面」を書いた、あのはがきということになろう。 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に疎開することになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりにも幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。 「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」 と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。 あて名だけ書かされたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。 一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。 下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。 まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、 「帰ってきたよ!」 と叫んだ。 茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。 あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。 夏は『3かん:共汗・共感・共歓』このところきれいな夕焼けが続き、西の空に沈んで行く太陽にしばし見入っています。一緒に夕焼けの美しさを味わうことも『共感』です。夏休み中、生徒たちには周りの人たちといろいろな機会で『3かん』を経験してほしいと思っています。 今日は『立秋』今日は『立秋』。 暦の上では秋ですが、強い陽射しが降り注ぎ、まだまだ厳しい暑さが続くようです。それでも、昨日、ツクツクボウシの声を聞きました。夏休みは三週間ほど残ってはいますが、夏の終わりを意識してしまいます。 休みを利用してリフレッシュすることはとても大事です。しかし、自分自身に「雑草」にあたるものがのび放題にならないように。雑草は見習いたいほど手強いです。 |
瀬戸市立祖東中学校
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