最新更新日:2024/04/23 | |
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江南市縁の七人の戦国武将 −4−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 令和時代初めてとなる第4回は生駒利豊です。 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4c/49ce..." border="0"> 生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。 まずは、吉乃の兄、家長です。 家長は、初めは犬山織田氏についていました。 妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。 信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。 信長創世期の家臣だったのです。 その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。 家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。 利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。 関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。 以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。 ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。 宝頂山墓地(写真下)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。 中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。 奥が家長夫妻です。 6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。 生駒家に養子として迎えられました。 尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。 利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。 初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。 碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。 『くさの井史』には、 P.111「小折に在した生駒氏のこと−犬山の織田氏に従い、後信長に属する」 P.153「生駒利豊の兄と姉」 他、P.157,P.159,p.162,p.163 に登場します。 次回も利勝について紹介します。 令和元年の始まりさぁ、草の井っ子のみなさん! これからの時代を生きる力を 草井小で育み、鍛え、磨きましょう!! 6年生 4月の振り返り江南市縁の七人の戦国武将 −3−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 今日は平成最後の日。 第3回は前野将右衛門長康です。 前野長康も時代に翻弄された武将です。 1528年に、木曽川の川並衆、前野家に生まれました。 1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。後の秀吉の最古参の家来なのです。 1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。 その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。 この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。 これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。 聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。 その後、関白豊臣秀次付きとなります。 まさに、最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。 そして事件が起きます。 1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。 秀次は、秀吉の姉・智子の子です。 実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。 しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。 これが秀次事件です。高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。 このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。 秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。 これに伴い、淀君、石田三成が何らかの動きをしたのかもしれません。 もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。 180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。 本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。 いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦いの一因となったのです。 『武功夜話』は、前野家文書の一つです。 長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。 『くさの井史』P.157には、「秀次の家臣であった生駒利豊・前野勝右衛門は、秀次の失脚に伴って不幸を見る」として説明されています。 4年生 4月を振り返る2
振り返りその2
4年生 4月を振り返る
今年度が始まり、1ヶ月がたちましたね。
4年生とはいえ、新しいクラスになり、緊張感もあったでしょう。 そんな中、遠足やや授業参観など、色々な場面で君たちの頑張っている姿をたくさん見ることができました。 GWはしっかりと心と体を休ませ、リフレッシュしてきて下さいね。 江南市縁の七人の戦国武将 −2−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第2回は蜂須賀家政です。 江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連が出ます。 鳴子踊りに比べて動きは単純。 しかし、本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。 でも、なぜ江南で阿波踊り? ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。 蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。 1558年に、小六の母の在所である安井氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。 小六は、6歳のときに、蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)から、母 安井氏の実家である宮後村(現 江南市宮後町)へと移り住んだのです。 安井氏は甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしいという話が残っています。 家政は幼児期を宮後で過ごし、曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。 当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。 1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。 その舞台が小折の生駒屋敷で、吉乃の仲立ちだと言われています。(諸説あり) ここが歴史のロマンですね。 蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣なのです。 これが、後々に影響します。 家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。 1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。 その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。 そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。 この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりだったと言われています。 その原型が尾張の農民の踊りでした。 阿波踊りの原型は尾張の農民の踊りかもしれないのです。 さて、1586年には、父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。 朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。 しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。 この事件も、歴史のカギになります。 そして問題の関ヶ原の戦い。44歳の時です。 豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い。 どちらが勝っても、家は守りたい。 そこで、家臣を大坂に派遣し西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。 子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。 これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。 結果はご存じ、東軍の勝利。 蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も阿波国を治めることが出来ました。 1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。 大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。 夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。 豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。 子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。 再度、家政が阿波を守ります。 波瀾万丈の人生です。 秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。 戦国の世で生き残るすべなのでしょう。 家政は、郷土にも大きな恩を感じています。 母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。 さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺正堂を再建しています。 『くさの井史』P.182には、「曼陀羅寺を再建した蜂須賀家政のこと」として詳しく説明されています。 江南市縁の七人の戦国武将 −1−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介します。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第1回は浅野長政です。 筆頭五奉行・浅野長政は、宮後城・安井家で生まれました。 安井家は、蜂須賀小六の母の実家です。 この後、織田信長の家臣で、叔父の浅野長勝の娘と結婚し、婿養子となります。 この浅野長勝は、秀吉の妻・ねねの養父。 すなわち、ねねと長政は義理の姉・弟(妹・兄説も)なのです。 当然のように、秀吉にかわいがられます。 1573年、27歳の時には<strong>浅井・朝倉攻め</strong>に従軍しています。 その10年後には、賤ヶ岳の戦に従軍し、近江・坂本城主として2万石を与えられました。 この「坂本」は、坂本龍馬の祖先の出身地といわれています。 4年後には、若狭国一国(8万石)城主となります。 1590年、秀吉が全国統一した小田原城攻め、奥州仕置でも陸奥国岩代へ出陣します。 さらに、朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)でも軍監として従軍します。 1598年には、五奉行の筆頭になります。 五奉行とは、豊臣秀吉が晩年設置した職制で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の5人。いわゆる文治派で、関ヶ原の戦いの遠因になります。 豊臣秀吉死没後は、かねてより友好関係にあった徳川家康に接近。 1599年、関ヶ原の戦の直前には、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて甲斐国に謹慎を命じられました。 これは、増田長盛が政敵である長政の失脚を狙ってのものですが、実力者である長政を石田三成ら奉行衆から引き離すための家康の謀略だったという説もあります。 家康なら、十分あり得ることでしょう。 隠居し、家督を子の浅野幸長に譲ります。 関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は子の浅野幸長が紀伊国和歌山37万石を拝領し、和歌山城主になります。 長政は、隠居料として<strong>常陸真壁に5万石</strongを支給されましたが、1611年、64歳で江戸で亡くなりました。 死没後、常陸真壁の5万石は三男の浅野長重が継承しました。 赤穂浪士の主君浅野内匠頭はその子孫です。 一宮の浅野公園は、尾張浅野氏発祥の地です。 浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられており、庭園式公園として整備されました。 広さは約9200平方メートル、公園の周りは堀で囲まれ、木々がたくさん植えられています。 【2年生】 お兄さん・お姉さんになった4月2年生として少しずつお兄さん、お姉さんらしく成長しています。 放課には、ぐらぐら橋に挑戦する子がたくさんいます。 遠足では、1年生をつれてフラワーパークへ。 一緒に楽しめる遊びは何がいいか一生懸命考えました。 帰りは安全に気をつけながら1年生と一緒に歩きました。 1年生を迎える会では、去年育てたあさがおの種をプレゼント。 大切に育ててくれるといいね! 再来週の主な予定5月 5日(日) PTA役員会・委員会 8日(水) 月曜時間割 委員会 第1回学校運営協議会 9日(木) ホタル教室(4年) 10日(金) あゆの放流(3年) 10連休中は不定期で各学年の平成振り返りシリーズをアップします。 お楽しみに! 授業の様子(4月26日)
今日の授業の様子です。算数の少人数や国語の発表の学習などを落ち着いた雰囲気の中でしていました。
運動会に向けて(4月26日)
運動会の練習を1、2年生は運動場で6年生は体育館でしていました。運動場ではかけっこ、体育館では組み立て体操の練習です。まだ、はじまったばかりですがみんな一生懸命頑張っていました。
【1年生】今日の1年生
みんなで話し合いをしたり、歌ったり、粘土を練ったりいろいろなことをしました!楽しく勉強をしています。またお家でも話を聞いてあげてください。
なかよし集会(4月25日)
新1年生を迎えてはじめての「なかよし集会」です。あいにくの天気で運動場が使えなかったので、各教室等でトランプや室内ゲームをして交流を深めました。どの班も、高学年が低学年にわかりやすく仲良く接していました。
【1年生】在校生のお兄さんお姉さんが歓迎をしてくれました1年生を迎える会御囲い堤 -3-柳津のカラフルタウンの西に境川が流れていますが、それがかつての尾張と美濃の境だったのです。 尾張と三河の間にも境川があります。その他、全国各地に境川という川や、境川という地名が残っています。 水問題研究所「木曽川物語」http://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/ki...には、次のように書かれています。 貞観年間(860年代)繰り返し起こった洪水により河道が変わり笠松を通過する線まで南下して長良川へ流れるようになりました。このため、尾張の国の葉栗郡60ヶ村、中島郡29ヶ村が美濃側にいきました。 上の図をご覧ください。 貞観年間の洪水で、川島を挟む現在の木曽川の流域が現れました。(灰色部分) まさに、現在、江南市の北に流れている木曽川です。 この後が面白い! 尾張側は暴れ者の木曽川が尾張の国に居座られては困ったものだと、貞観7年(865年)河道を元に戻すよう工事を京に陳情しましたが、なんともなりませんでした。そして、翌年河道を元に戻そうとする尾張側とそうはさせまいとする美濃側との間で、「広野川の争い」と呼ばれる武力衝突が勃発しました。 何と、洪水の恐れがある本流を互いに押し付け合い、武力闘争にまで発展したのです。 それほど、生きるか死ぬかの話だったのです。 この広野川の争いについては、『くさの井史』P.41に詳しく書かれています。尾張側に、多くの犠牲者が出ています。 天正14年(1586年)の洪水では、笠松から南に流れる川ができて、ほぼ現在の木曽川の川筋になりました。 3年後に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を葉栗郡から羽栗郡へと改めました。 ここまで見てきたように、濃尾平野でくらす人は、川の氾濫のためにたいへんな目にあってきました。 「丈夫な堤防をつくってほしい!」というのは、この地域の人の永年の悲願であったのです。 それが、秀吉による文禄の治水、そして家康による御囲い堤となるのです。 続きます。 4年生 ソーラン練習
運動会に向けてソーラン節の練習が始まりました。今日は、腰を落として低い姿勢を保つ「股割り」を練習しました。最初は、難しそうでしたが、何度も練習をし、だいぶ上手になりました。
4年生 ペア名刺交換
今日は、朝の時間にペア名刺交換がありました。2年生のペアの子に名刺を渡し、色々お話をしていました。お兄さんお姉さんとして、2年生に優しく接している姿が見られました。
運動会準備今日は、みんなで力を合わせてそのための準備をしました。 サッカーゴールを移動し、並ぶ場所やリレーゾーン、スタート位置などが分かるように目印をつけました。 これからの練習で使用していきます。 |
江南市立草井小学校
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