最新更新日:2024/03/22 | |
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江南市縁の七人の戦国武将 −4−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 令和時代初めてとなる第4回は生駒利豊です。 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4c/49ce..." border="0"> 生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。 まずは、吉乃の兄、家長です。 家長は、初めは犬山織田氏についていました。 妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。 信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。 信長創世期の家臣だったのです。 その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。 家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。 利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。 関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。 以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。 ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。 宝頂山墓地(写真下)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。 中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。 奥が家長夫妻です。 6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。 生駒家に養子として迎えられました。 尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。 利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。 初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。 碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。 『くさの井史』には、 P.111「小折に在した生駒氏のこと−犬山の織田氏に従い、後信長に属する」 P.153「生駒利豊の兄と姉」 他、P.157,P.159,p.162,p.163 に登場します。 次回も利勝について紹介します。 |
江南市立草井小学校
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