最新更新日:2020/03/31
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3月24日(火)1〜5年生臨時登校日(9:10下校)  4月7日(火)にじの丘学園小中学校入学式  4月8日(水)にじの丘学園小中学校始業式                                

こども110番の家を訪問しました

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 3月2日(水)、児童会役員の子どもたちが、こども110番の家を分担して訪問しました。
 深川連区には、子ども110番の家が現在10軒あります。子どもたちが緊急な時に、助けを求めることができる場所であり、子どもたちをいつも見守っていただいています。
 日頃のお礼として、子どもたちが全員で手分けをして色紙に貼るシールに感謝の気持ちを書きました。
 児童会役員の子どもたちが、こども110番の家を分担して訪問して、お礼の言葉を添えて、家の方に色紙を渡しました。家の方に大変喜んでいただき、児童会役員の子どもたちもうれしそうでした。

 子ども110番の家のみなさん、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

4〜6年生が出前授業を行いました(1)

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 12月3日(木)、2・3限目に4〜6年生が、講師に株式会社明治の小野川美紀先生をお招きし、家庭科室で出前授業を行いました。
 2限目は、「みるく教室」を行い、牛乳や骨について詳しく学習しました。骨にとって良いカルシウムが牛乳には多く含まれていることや、骨が最も増える時期が女子では11歳、男子は13歳であること、牛乳を飲むことの必要性などを学ぶことができました。
 最後に、ワークシートに記入したり、感想を発表したりして、「みるく教室」のまとめをしました。

4~6年生が出前授業を行いました(2)

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 2限目の「みるく教室」の後、クリームからバターを作る実習を体験しました。講師の小野川先生から、作り方の説明をわかりやすくしていただきました。
 作り方は、密閉した容器にクリームを入れ、振って「バター」と「バターミルク」(白い水分)を分離させます。
 次に、バターミルクだけを別の容器に移すと、バターの出来上がりです。
 最後にクラッカーにバターをつけて、みんなで味わいました。
 とても美味しかったです。大変楽しい実習となりました。

5・6年生が試走を行いました(1)

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 11月17日(火)、5・6年生が体育の授業で、26日(木)に行われるマラソン大会に向けて、マラソンコースの試走を行いました。
 最初に、佐藤教諭からコースの説明がありました。その後、全員で実際にコースを歩きました。
 そして、いよいよ試走です。6年生から試走を行いました。

5・6年生が試走を行いました(2)

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 6年生の試走が終わった後、5年生がマラソン大会のコースを試走しました。参加した子供たちはコースを完走することができ、本番に向けて目標タイムができたと思います。本番が楽しみですね。

 11月26日(木)に行われるマラソン大会では、5年生が10:25に、6年生が10:40にスタートします。多くの方に応援に来ていただき、子どもたちに声援を送っていただけるとありがたいです。

おやつを買いに出かけました

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 10月16日(金)5時間目に、1・2・3年生は生活科や総合的な学習の一環として、来週の20日(火)の校外学習(東山動物園)に持っていくおやつを買いに、末広商店街のすえひろ舎へ出かけました。色とりどりの駄菓子を前に、目をキラキラさせながら自分の好きなものと値段を考えながら選んでいました。3年生は、末広商店街について勉強してから買い物へ。お気に入りの駄菓子が入った袋を握りしめて帰ってきました。当日リュックサックに入れて持ってきてくださいね。

全体練習を体育館で行いました

 9月10日(木)、台風による雨で運動場が使えず、体育館で運動会の全体練習を行いました。
 今日は、準備運動として行うラジオ体操第1の練習と体操隊形に開く練習と集まる練習も行いました。
 2年生以上の子供たちは、ラジオ体操をやったことがあり上手にできていました。
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アサガオの観察を行いました

 9月7日(月)、1年生が生活科で育てたアサガオの観察を行いました。春に種をまいて大切に育てたアサガオが実をつけていました。佐野教諭から、観察のポイントや絵の描き方などの説明を受けてから、子供たちは、アサガオの様子を絵に描き始めました。
 描き終わった子供たちから、種を採りました。

 大切に育てて、アサガオの実がたくさん採れて良かったですね。
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せとっ子音楽会に向けて

 9月7日(月)、学習広場で朝会を行いました。岩田教頭と朝の挨拶をした後、佐野教諭がせとっ子音楽会に向けて説明をおこないました。簡単な劇と歌をする予定であること、10人ぐらいの人が台詞があること、この10にんぐらいを募集することなどの説明がありました。
 説明の後、5人の教諭が劇の台詞を実際に見本として児童たちに披露してくれました。さすが先生たちです。即席ですが、とても気持ちがこもった台詞ができました。

 やる気がある児童たちがたくさん応募してくれることを期待しています。
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☆深川小のあゆみ(明治時代の教科書)

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 深川小学校は、平成25年度に創立110年を迎えました。
 伝統ある深川小学校の歴史をしらべたり、校長室などに保管されている写真資料やお宝を少しずつアップしていこうかな・・と考えております。題して「深川小学校のあゆみ」です。
 今回は明治時代の教科書を紹介します。

 1903年(明治36)、愛知県東春日井郡瀬戸第二尋常小学校が創立されました。これが現在の深川小学校のはじまりです。当時の教員は4名、児童数は340名だったそうです。

 写真は文部省(現在の文部科学省)著作「尋常小学読本 四」の表紙です。(写真 上)裏表紙には持ち主である“瀬戸第二尋常小学校 第二学年 丹羽○○”ときれいな文字でかかれています。
 おそらく深川小を卒業された丹羽さんという人が大切に保管されていた昔の教科書を子どもたちの学習資料として寄贈してくださったのだと思います。
 ページを開くと、短編のお話をはじめ、母と子の会話文、全国の名所案内など、いろいろなジャンルの内容が書かれています。
 母と子の会話はとてもていねいな言葉づかいで、家族同士でも敬語がちゃんと使われていて、当時の親子関係のあるべき姿が描かれているようです。
 「第十九 奈良の大仏」では、
 “大仏ハ カネデ、コシラエテアッテ、高サ ガ、五丈三尺アマリ アリマス。ソレデ、奈良ノ大仏 ト イッテ タイソー 名高ウゴザイマス・・・”などと説明されています。(写真 中)
 また、「第五 東京(トーキョー)」では、日本で一番にぎやかな所として東京を紹介しています。流行の先端をいく銀座通りのイラストも入って、道の真ん中に電車が、その横を人力車が通っているようすを説明しています。(写真 下)
 きっと当時の子どもたちは、この解説を読んではるか遠くの大都会・東京にあこがれを抱いたことでしょうね。
 

☆深川小のあゆみ(大正12年度のアルバム −1−)

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校長室には、昭和以前の歴代の卒業アルバムが保管されています。
 アルバムという形式で校長室に残っている一番古いものは、1924年(大正13)3月に発行されたもので、タイトルは、「記念冩真帖」。当時、横書きの文字は、右から左へ読みました。学校名は「瀬戸第二尋常小学校」です。(写真 1)このアルバムは教員として当時勤務していた山田(加藤)貞一様より寄贈されたものであることが裏に記されています。
 ページをめくると最初に出てきたのが「教育勅語」、2ページ目が「戊申詔書」、さらに「木造校舎の写真」へとつづきます。(写真 2・3)
 児童と職員の氏名が記載されているだけですので、当時のようすがはっきりしません。そこでたよりになるのが「学校沿革誌」です。開校した明治36年から現代まで綿々と学校の出来事が墨書で記録された貴重な“お宝資料”であります。
 大正12年には関東地方で大きな震災が起こったことも記載されています。(写真 4・5)

☆深川小のあゆみ(大正12年度のアルバム −2−)

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 卒業生の写真は男子のページと女子のページの二つがあります。わんぱく坊主がいたのでしょうか、教室の窓ガラスの一枚が割れています。
 当時は男子組と女子組と分かれていたのかと思い、「学校沿革誌」(大正12年度の頁)を読んでみると、6年生は1組から3組まで記録されています。どうやら写真は学級に関係なく男女別に撮影されたようです。(写真 上・中)
 職員写真をみると、男性が多い構成であったことがわかります。女性は着物姿ですね。服装、眼鏡(サングラス?)、おひげなどのファッションやポーズなどから当時の雰囲気が伝わってきて、なかなか興味深いものがありますね。

☆深川小のあゆみ(大正14年度のアルバム)

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 今回は大正14年度の卒業アルバムです。表紙のデザインがなんともレトロ調ですね。(写真 1)
 大正14年という年はいろいろなことがありました。5月5日には「普通選挙法」が公布されて、満25歳以上の成年男子に選挙権が与えられました。(残念ながら当時の女性には選挙権はありませんでした)
 8月26日に瀬戸町は赤津村と合併しました。本校の学校名もこれまでの「瀬戸第二尋常小学校」から「深川尋常小学校」と変更になりました。
 10月1日には第2回の「国勢調査」も行われました。

 さてアルバムですが、表紙をめくると最初に出てくるのは、子どもたちと職員の集合写真です。(写真 2)この年の学級数は20、1216名の児童が在籍したと記録されています。
 職員写真は男性が洋服(背広または詰め襟の訓導服)、女性が和服(着物とはかま)です。学級写真は6年3組(担任:藤江先生)、かすりの着物で男子はりりしく学生帽をかぶっていますね。足もとを見ると、下駄(げた)や草履(ぞうり)にまじって靴(くつ)らしきものをはいている子もちらほら見られます。(写真 3〜4)
 この学級には、男子49名・女子26名 合計75名の子どもが一つの教室で勉強していたんです。(現在の深川小の全校児童数より多い!)
 さて、6年生の修学旅行ですが、2月2日より3泊4日で、電車を乗り継いで京都・奈良・三重方面に出かけました。
 初日は京都の名所、清水寺、三十三間堂、平安神宮を、二日目は奈良で、春日大社、若草山、大仏を見学(現在と同じようですね)。さらに三日目から三重県に滞在して、亀山、二見 夫婦岩さらには伊勢神宮まで参拝しました。旅行中の子どものおこづかいは50銭、たくさんのおみやげがかえたそうです。
 

☆深川小のあゆみ(昭和2年度のアルバム)

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 第一次世界大戦、その後の恐慌、銀行の倒産休業、関東大震災と激動と混乱の中、時代は「大正」から「昭和」にかわりました。
 これは昭和2年度の「記念寫眞帖」(卒業アルバム)の表紙です。四隅(すみ)に昆虫と雪印が配置されています。これを見た現代の小学生は何というでしょうか?
「ハエと雪の女王」、「蝉(セミ)と雪の結晶」、「トンボと雪マーク」・・・どれも不正解だと思います。
 おそらく・・・虫は「蛍(ホタル)」で、結晶は「雪」、中国の史書に登場する故事「蛍雪の功」をイメージしているのではないかと思います。
 蛍雪の功とは、中国・晋の時代、役人をめざす貧乏な二人の若者が、夏の夜は蛍(ホタル)を数十匹つかまえて絹の袋にいれて灯りをともして本を読み、冬の夜には窓辺に雪を積み上げて明かりをとって勉強して成功をおさめたお話から由来するもので、いかにも学校の卒業アルバムの表紙にぴったりのデザインではないでしょうか。(写真 1・2)
 さて、表紙をめくると運動場で撮影された写真が出てきます。体育の授業か運動会か説明がないのでちょっと内容は不明です。見物している人は運動着を着用していないですからねぇ・・・(写真 3)
 アルバムの後半に出てくる2枚の写真は、修学旅行の集合写真のようです。三重県二見町の夫婦岩を背景に記念撮影されていますね。それにしても断崖絶壁のようなところでのショットはいささかスリルありますねぇ。
 もう一枚は伊勢神宮で撮影されたものでしょうか?(写真 4)

☆深川小のあゆみ(昭和3〜4年度)

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 校長室には、めずらしい“つり鐘”が保管されています。つり鐘といってもお寺にあるようなビッグなものではありません。大きさがわかるようにCDケースが横に置かれていますが、高さは43cm、直径が30cmほどあります。(写真 上)今回は、このつり鐘の由来を紹介したいと思います。
 
 1903年(明治36)3月に建設された校舎は、児童数の増加に対応するため、およそ3年ごとに増築をくりかえしてきました。
 大正末期には1000人を超える児童数となり、時代は昭和にうつりかわっても児童数はどんどん増加していきました。
 1928年(昭和3)になると、老朽化した校舎が取り壊されて、2階建ての校舎が二棟建設されました。校舎増改築を記念して寄贈されたのが、このつり鐘だったのです。
 つり鐘の側面には、
「瀬戸深川尋常小学校 
 改築記念
 昭和四年三月
 寄贈者 加藤 龍蔵」
 と刻まれています。(写真 中)そして、反対側の側面には「特製品」の文字も見られます。(写真 下)

「創立八〇周年 記念誌」によれば、当時は校長室の北側につり下げられていたと記録されています。ひょっとしたら授業の始まりを告げるチャイムがわりに鳴らされていたのかもしれませんね。
 1929年(昭和4)は、市制が施行されて「瀬戸市」となり、学校名も「瀬戸深川尋常小学校」から「瀬戸市深川尋常小学校」に変更になったり、校舎が増改築されたりした記念すべき年でありますが、残念ながら当時の卒業アルバムは本校には保管されていません。
 
 長い深川小学校の歴史をみつめてきたつり鐘、今後も“学校のお宝”として、大切に保管していこうと思います。

☆深川小のあゆみ(昭和5年度のアルバム −1−)

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 昭和2年度につづき、今回は5年度の「記念寫眞帖(卒業アルバム)」を紹介させていただきます。昭和3年度〜昭和4年度のアルバムは確認できませんでした。
 校長室にはすべての年の卒業アルバムが保管されているわけではなく、ところどころ抜けた(?)年があります。これは初期のアルバムの大半が職員OBなどから寄贈されたものであるのが理由だと思われます。また、太平洋戦争が激化した頃(昭和10年代)から終戦直後の時代のものはほとんど残っておりません。
 瀬戸市深川尋常小学校という校名になった昭和初期の時代は、奉安所が新設されて教育勅語が納められたり、校門が建設されたり、児童が入隊する兵士を見送りにいったりする行事が行われました。
 「学校沿革誌」の昭和5年のページを見ると、6月25日が「母への感謝日」とされ、“図画・書き方(習字)、綴り方(作文)を作成して家へ持ち帰った”と記録されています。
 7月になると、「林間指導」(林間教室のこと?)や運動場で夕方から“ラヂオ体操屋外大会”が行われました。12月には「市内小学生野球大会」へ選手を派遣したことも記されています。
 
 さて、昭和5年度の卒業アルバムです。表紙に昆虫が描かれていますが、おしりの部分が光っているので、やはり「蛍(ほたる)」ですね。ただこの年は雪らしきものは描かれていません。
 ページをめくると「教育勅語」が出てきます。つづいて新築間もない講堂や玄関、そして校旗の写真が出てきます。
 職員写真で興味深いのは、男性は大正時代と同様に背広を着用していますが、女性は着物だけでなく洋服の人も見られます。
 巻末には宮前の「平田寫眞舘 謹寫」の文字があります。電話番号が3ケタなのはいかにも時代を感じますね。 

☆深川小のあゆみ(昭和5年度のアルバム −2−)

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 大正末期から増加してきた児童数、昭和5年度は学級数 25,全校児童数 1521名という記録が残っています。

 卒業アルバムには、児童の集合写真が2枚あります。戦前のドラマに登場する子どもたちの服装、髪型そのままですね。着物ばかりでなく、よく見ると洋服やセーラー服のようなものを着た女の子の姿もありますね。
 卒業生の写真は、一枚は男女混合、もう一枚は女子だけで撮影されています。これが学級ごとに撮影されたものなのでしょうか?この年の卒業生は185名、どんな学級編制であったのか、はっきりした記録が残っていないのが残念です。
 1929年(昭和4)に建設された2階建ての校舎とその前で整列する児童の姿がこのアルバムで紹介されています。

☆深川小のあゆみ(昭和6年度のアルバム)

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 昭和6年度の「卒業記念寫眞帖(卒業アルバム)」です。(写真 上)表紙はこれまでのカラー印刷ではなく、単色の厚紙になりました。イラストがないわけではなく、よく見ると、表紙右側にエンボス加工が施され、燭台(しょくだい:ろうそくをたてる台)に灯りがともされているようすが描かれています。現代のような電気スタンドではなく、“夜はろうそくの灯りで勉学に努めなさい”というメッセージでしょうか・・・(写真 中)
 ページをめくると、校旗と正面玄関の写真が見られます。校旗にはまだ旧名称の「第二尋常小学校」を意味する“二小”とデザインされた校章を見ることができます。
 そして正面玄関の校門はとてもりっぱですねぇ。門扉があることから朝夕に開閉されていたのでしょうね。画像ではわかりづらいですが、むかって右の門柱には「瀬戸市深川小学校」、左には「瀬戸商業実修学校」(大正14年5月に本校に併設されました)と立体的に表示されています。

「学校沿革誌」によると、5月29日、野球優勝戦が瀬戸球場で行われ、深川小学校と幡山小学校が対戦しました。
 6月4日の欄(らん)には、カタカナで“ムシバデー”の文字が見られます。そこには“市歯科医 来校、口腔衛生ニ関スル講話アリ”と説明されています。
 11月10日、謄写印刷の講習会が開かれました。当時の先生たちが“ガリ版印刷”の方法を勉強していたことがわかります。
 12月14日、“交通事故防止書方挙行”の文字も見られます。交通安全を呼びかける習字を子どもたちが書いたのでしょうか?

 歯の健康や交通事故の防止など、子どもたちの課題は昔も今も同じなんですね。

 色のついた表紙のアルバムはこの年までで、翌年からはシンプルな無地の表紙になっていきます。

☆深川小のあゆみ(昭和7年度のアルバム)

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 昭和6年度から9年度までの「卒業記念寫眞帖」4冊です。
 昭和7年度より表紙が無地で紙質もやや柔らかめのものに変わります。
 裏表紙を見ると年ごとにアルバム制作の業者さんが異なり、「瀬戸市北榮町 伊里寫眞舘」や「瀬戸市朝日町 原田寫眞舘」の名前が見られます。
 画像ではわかりづらいのですが、右半分にエンボス加工が施されたデザインは継承されています。ろうそくの灯りの横には新たに蛍(ホタル)の光も加えて描かれています。
 さて昭和7年度のアルバムを開くと、校庭の写真が出てきます。よく見るとバスケットボールのゴールらしき器具が見られます。もうこの頃に子どもたちはバスケットボールを楽しんでいたようですね。
 学級写真は6年3組です。男子はみな学生帽をかぶっているのはこれまでと同じですが、着物より圧倒的に学生服を着用する児童が多いです。女子は、着物、セーラー服、洋服などが混在していますが、帽子をかぶったりしておしゃれをする子も出てきたようです。
  「学校沿革誌」を見ると、7月12日に“海人草(駆虫薬)服用”の記述が見られます。
 昭和初期から戦後にかけての時代は、人糞などを畑作物の肥料にしていた背景もあって、人の小腸などに寄生するミミズに似た形状の回虫が見つかるケースが多くあり、回虫やノミ、シラミと人が共存する時代でありました。
 学校でもその対策をとることが課題であり、海人草(かいにんそう)は回虫を駆除するための薬でした。
 戦前に小学生だった人たちには、「アタマジラミ退治にDDT噴霧と回虫駆除の海人草服用」がセットで懐かしくもあり、いまわしい(?)記憶になっているそうです。

☆深川小のあゆみ(昭和8年度のアルバム −1−)

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 昭和8年度の卒業アルバムです。タイトルは「卒業記念」とだけ表記され、無地(白)の紙にエンボス加工が施されているだけのシンプルなデザインです。(写真 1)
 表紙をめくると、はじめに「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)、それにつづいて「戊申詔書」、「国民精神作興ニ関スル詔書」とつづきます。
 学校の正門の写真につづいて出てくるのが、校庭に並ぶ子どもたちの姿です。これは朝礼の風景でしょうか?(写真 2)
 この年の児童数はとうとう1800人を超えてしまいました。(1832人 29学級)どんなふうに授業が行われていたのか興味津々です。
 写真は6年1組の学級写真です。(写真 3)
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瀬戸市立深川小学校
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