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笑瀾万丈8 座りすくむヒロシ Web 公開

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第2章  神戸市の教員時代編

笑瀾万丈劇4 座りすくむヒロシ

☆職員室の机の上に指導書
 ヒロシは、大阪教育大学を昭和49年三月に卒業し、四月に出身の神戸市の小学校教員となった。希望に燃え溌剌としたヒロシであった。
 就職した四月の初め頃、ヒロシは、ある瞬間愕然となる。職員室でヒロシは立ちすくんでいた。いや、いすに座りすくんでいた。
 朝の八時三十分、職員朝集があった。教科書配給の担当の人が、
「先生方の机の上に、教科書と指導書を置かせていただきました。これは、3年間使うものですから、大事にお使いください。」
と話した。
 ヒロシは、その声よりも机の上に高く積み上げられた教科書とその指導書、すなわち、小学校だから教科書は国語、社会科、算数、理科、道徳、5冊、指導書は体育も増えて6冊積み上がっていた。高さ20cmはあった。これを見た瞬間、すくんでしまった。これを毎日読んで教えるのか。ぼくにできるかなあ。ヒロシは、不安にかきたてられ、ため息をついた。
 教育実習の時にはこんな感覚はなかった。与えられた時間に与えられた科目を教えるだけだったから、目の前の20cmという光景はヒロシにとっては驚愕以外に何もなかった。この先、小学校の教師として毎日、指導書を読み、展開を考え、教えるのかということを想像すると怖かった。ただ呆然と座っていた。きっと30秒間ほどの時間だっただろう。
しかし、この30秒間は5年くらいの気分であった。気がつけば職員室にひとりぼっちである。皆さんは、教室に向かって行った。ヒロシだけがたたずんでいた。いや、腰が引いていたのであった。この時からぎっくり腰だって、そんなわけないよ。びっくり腰だよ。
 前の方の教頭先生が心配そうにこちらを見ている。
 プロのきびしさを知った瞬間であった。
 それからというもの、毎日、重い指導書を持って帰る毎日であった。


笑瀾万丈7 Web 公開

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☆採用試験
大学は大阪教育大学であったが、就職は神戸市にした。神戸で生まれ育ったから当然である。その頃、高校の同窓生で大阪教育大学に入学した者では、神戸から大阪に就職する友人もいた。たぶん、将来を考えてのことだったと思う。私には、なぜ大阪に就職するのかが分からなかった。世間知らずであった。
私は、神戸に恩返しをするつもりでいたから不安はなかった。ただし、その頃の倍率は2倍を切っていた。大げさに言えば、誰でも合格可能であった。でも、私は採用試験の勉強をかなりした。というのも、父がガンだから、試験で失敗するわけにはいかなかった。だから、周りの人よりも勉強をした。だから、採用試験の問題はけっこう解けたと思う。高得点だったと思う。
面接試験の時に、面接官がにこにこしていた。そして、「夢野台高校出身ですね」と面接官から質問された。「この方はご存知ですか」と。私はわからなかった。その方は女性で、夢野台高校の同窓会長だった。確か、白井さんだったと思う。面接の雰囲気からして、神戸市は来てほしいという感触を得た。


教訓:絶対、勝たねばならないときがある。そのためには、徹底してやることである。


志水廣 1026 動画 中学校数学31 「 4つのパターンを理解し四分位範囲を正しく求めよう」


第39回 3月第3週「注意の仕方で学級の雰囲気が変わる 」

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こんにちは。
「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。

第39回 3月第3週「注意の仕方で学級の雰囲気が変わる 」

    授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子

笑瀾万丈6 Web 公開

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☆笑えない話 父の病気
 大学三年の頃から父はガンで闘病生活をおくり入退院を繰り返していた。祖母は寝たきりの状態であった。母はヤクルトおばさんで頑張っていた。教育実習の頃、父の看病で参っていた。全身に転移して痛いという。さすってあげるがその場かぎりであった。
 大学四年生の12月に父は亡くなった。今でも首が傾いた瞬間は覚えている。はかなさを感じた。49歳であった。相談できる身近な人が亡くなった。だから、その後の人生は、自分で決めざるを得なかった。しかし、叔父や恩師などにめぐまれ相談にのっていただいた。
さて、寝たきりの祖母も、二週間後に父の後を追うように亡くなった。二週間で五人家族が母、私、弟の三人家族となった。祖母は心臓が強く、父が亡くなったときも寝たきりではあったが、気丈であった。きっと、父が祖母を連れていったのだと思う。
四年生の一月は卒論を提出する時期であったが、12月に父が亡くなり、元気を消失していた。それまで、卒論は一番進んでいたのが、一気にトーンダウンした。それを見ていた三輪先生から叱咤激励された。

教訓:家族の人数はあるとき突然減る。


笑瀾万丈 5 数学科ゼミの配属 Web公開

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笑瀾万丈劇3 数学科ゼミの配属

☆密談する三人
 大学三年生の九月のこと。
 数学科の同級生のO君、I君とヒロシがいた。
「どうする?ゼミの希望を。」
「うーむ、どうしようかなあ。」
「分からんなあ。」
と3人は語り合っていた。
「数学をやるつもりはないし…。」
「かと言って、数学教育の先生も…。」
 これまで授業を受けた中で、ぴったり合うような教官は見当たらなかった。生意気なことを言う、世間知らずの三人の学生がいた。その中の一人は、もちろんヒロシであった。
「あっ、そうそう。三輪先生っているよね。」
「どうやら数学教育を専門としているらしいよ。」
「へぇーそうなんだ。」
「三輪先生は、確か一年生の時に代数学の授業をしてくれたね。とても分かりやすかったよ。」
「そうだね。分かりやすかった。」
「でも、引き受けてくれるかなあ。」
「夜間課程の二部の先生だよ。」
「無理かなあ。」
「数学科の主任教官に相談に行こうか。」
「それがいいな。」
と、よもやま話から三人は数学科の主任指導教官のA教授の元に相談に行った。すると、「三輪先生が引き受けてもよいというのならばかまいませんよ。」
という返事をもらった。
 喜びいさんで三人は、三輪先生に会いに行って、「先生に数学科のゼミ指導をお願いしたいのですが…。」
 すぐに快諾かと思いきや、三輪先生は慎重だった。
「ぼくの方針はたくさんの人は取りません。また、研究をやりたい分野が異なると指導はできません。だから、私が指導できるかどうか研究分野次第です。研究したいことをまとめて来なさい。そこから考えましょう。」
 この返事で、難しいと判断すべきだった。でも、ここまで来たら、三輪先生にすがるしかない。三輪先生の得意な分野って何だろう。ということで、三人は大学の図書館に赴き三輪先生の得意分野を雑誌などで調べた。「数学教育」か「数学教室」かは忘れたが、三輪先生の論文が掲載されていた。題目は「関数教育」である。やっと見つかった。入りたいとなれば、何としても見つける。これが人の道。

教訓:希望を持てば、人はどんどん行動する。

これならば、我々にもできそうだということになり、面談に行った。
「先生、研究テーマのことですが、『関数教育』について調べたいのですが」
しばらく考え込んで、「いいよ。それなら指導できる。」
「やったあ!!」
 勝利の心の声。思わず顔がほころぶ。喜んだ。が、
 次の瞬間、ががーん、と人生まさか…。真坂の坂道を転げ落ちる。
「来週からゼミを実施します。」
「ええっ!?」
「そんなはずではないのに。普通のゼミは四年生からですよ。」と心の声が叫んでいたが、自分たちが希望したのだから、「いやです。」とは言えず、「はい。」と、うなずくしかなかった気の弱い三人であった。
 また、三輪先生の次の言葉がトドメを指した。
「これを翻訳します。」
 先生が取り出したのは、アメリカの数学教育団体(NCTM)の年報で「FUNCTIONAL THINKING…」分厚い本であった。昭和の初期に出されたもので、英語も古い文語調のものであった。今から思えば三輪先生は、ゼミを引き受けるとしたら関数を再度学び直しをすることに決めていたと思う。三輪先生の術中にはまったヒロシであった。
これをゼミで毎週、連続で翻訳していく作業となった。三人しかいないのですぐに順番が回ってくる日々であった。でも、このことは関数教育の基礎として何が大事かを身に付けさせていただいたと思う。とてもありがたいことであった。


笑瀾万丈 4 代数学の授業 Web公開

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笑瀾万丈4 代数学の授業 Web公開

☆代数学の授業
 後期には、数学の講義は、もう一つ代数学があった。これは、三輪辰郎先生が教えてくださった。
 三次方程式の解の公式、四次方程式の解の公式などをやった。三輪先生は、天王寺分校から池田分校までわざわざ来られて教えてくださった。
 一年生の秋頃、たまたま阪急電車で池田から大阪梅田駅へ向かう急行電車に乗り合わせた。隣同士だったので話をした。そのとき、代数学のことについて、いろいろと質問してみた。その際、代数学の本を貸してもらうことになった。ファンデルヴェルデンの代数学の本で自学自習した。この本は、はじめは易しかったが後半は難しかったような記憶がある。
 さて、この三輪先生との出会いは、その後の人生を左右するものとなった。
教訓:何気ない出会いが今後の人生を変えることがある。人との付き合いは、一期一会であるが常に大事に付き合うことである。



第12回、3月の志水先生のメッセージ

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授業力アップわくわくクラブサロン会員のみなさま

こんにちは。
第12回、3月の志水先生のメッセージ「更新のお願いと受験の思い出」を配信します。
どうぞご覧ください。
更新確認書を添付しますので4月19日までに返信をお願いします。
  授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子

笑瀾万丈3 ルンルンで入学 Web公開

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笑瀾万丈劇2 ルンルンで入学

 昭和45年の四月、受験から解放されたヒロシは、るんるんで大阪教育大学の池田校舎の門をくぐった。
 大学の講義は新鮮であった。一般教養の科目は大部屋での講義で、東洋学、地学、憲法などを受けた。数学の講義は、数学科の学生向けに一般教養の科目として特別に指定されていた。微積分の講義と代数学の講義を受けた。
 いかつい顔をされたK先生は、微積分の講義を始めた。第一回目に高校二年生の数2Bの微積分の講義からされた。
「あれ?」
 これは高校二年生の勉強だなあと思っていたら、どんどん進んでいく。講義と演習がセットで進む。そして、一人ずつ式変形を指名していく。
「ええっ!!やばい」
ヒロシの番が来た。何とか、式変形できた。
あろうことに第二回の講義で高校二年生数2Bの講義は終わった。
「ええっ。どうしよう」
 ヒロシは数3を学んでいないのである。文科系だったので、数3は履修していなかったのだった。
 この先13回も数学の授業がある。このままじゃあ、落第である。合格したことでるんるんのヒロシは、ひやひやどきどきに変心。まる子ちゃんのような顔面蒼白な顔になった。 
 そこで、ヒロシは考えた。
「ようし、数3を勉強しよう。自学で乗り切ろう」と決意したヒロシでした。
 早速、友人のU君にお願いして数3の教科書を借りた。そして、数3の参考書を一冊買って猛烈に勉強した。
「うんうん、なるほどこういうことか。俺って意外にできるかも!」
と思いつつ、一ヶ月で数3を自学自習した。分厚い一冊の参考書をやりこなしたときには、自信に満ちあふれたヒロシがいた。そして、大学の微積分の授業についていく力を修得していた。やるじゃん、ヒロシ。

教訓:逃げれるものならば逃げる。逃げられないとなったら頑張るしかない。


笑瀾万丈 夢現大8 Web公開

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はじめに

2月で63歳になりました。定年退職の年です。この後、再雇用で二年間愛知教育大学に勤めさせていただきます。
ここに至るまで皆様には大変お世話になりました。あらためて感謝の意を表します。ありがとうございました。
22歳で神戸市の小学校教員をスタートして、41年間、筑波大学附属小学校、愛知教育大学数学教育講座、そして、愛知教育大学教職大学院と、ここまでがむしゃらに働いてきました。
 私のこれまでの道は、算数教育一筋だったと言えるでしょう。こんなにも好きな道を歩むことができたのは、とても幸せなことです。この本では、私の人生の歴史を振り返ってみます。これまで誰にも語ったことがありません。
 人生は時には笑い、時には悲しみ、時には喜び、時には苦しみます。人生にも四季があるように思います。今の私に言えるのは、全て「お芝居」であったということです。このお芝居を如何にして演じてきたか、これをこの本で振り返ってみたいと思います。
 そして、結論としては、波瀾万丈というよりも笑瀾万丈(わらんばんじよう)という言葉がふさわしい人生であったと思います。過去形ではなく現在進行形として笑瀾万丈の人生を紹介したいと思います。
 後から振り返ってみると、全くもって、人生とは笑い話です。
 あのとき、ああすれば良かったという思いはありますが、所詮過去のこと。ユーミンの歌にもあるようなあの日に帰りたいとは思いません。
 すべて必要・必然な出来事だったのです。しかも、ベストな出来事だったと思います。これを受け入れてきました。この受け入れる言葉が関西弁で「しゃあないなあ」です。標準語で言えば「仕方がない」です。仕方がないというとあきらめの気持ちのようですが、実は、現実のありのままを受け止め、さらに新しい行動へと向かうという意味が「しゃあないなあ」にあります。過去や現在を肯定し、明るい未来をつくるために「しゃあないなあ」で諦観の境地に立つことができます。
 この本では、ヒロシの過去をお話するとともに、そこから得た教訓を明示します。全くの書き下ろしです。「しゃあないなあ」という笑瀾万丈の人生をお楽しみください。 始まり〜始まり。
                愛知教育大学 志水 廣






笑瀾万丈 夢現大8 Web公開

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第一章 大学編


笑瀾万丈劇1 受験番号がない

☆「ない」、「ない」、「ない」、「ないよー」
 「♪ ない ない ない 恋いじゃない」という台詞ではあるまいが、合格発表ボードに私の受験番号がない。これが4回続いた。「ないないないない」である。関西の某市立大学2校、北九州の某公立大学、高知の某国立大学の4回連続連敗である。偏差値に見合った大学を選択したつもりであるが、相手の大学からは、顔でも洗濯して出直して来いということか。
 18歳のヒロシは、ひどく落ち込んでいた。あの三年間の長い長い受験勉強は何だったんだろうか。受験生ブルースのぼくがいた。朝から英単語テストに備えるため豆手帳を徒歩で30分間見ながら登校する。学校に着けば早朝模擬テスト、気が張り詰めた授業、帰宅すれば明日の授業の予習と別の参考書での受験勉強。時には、息抜きに近所の屋台に通い、ワンタン入りラーメンを食べた。そして、また勉強。一日七時間の受験勉強は当たり前の毎日であった。 
 合格の発表を期待している親への報告ほど辛いものはなかった。でも父親も母親もただ黙っているだけだった。担任への報告、これも苦しいものがあった。四連敗はこたえた。担任の永田先生は電話で「しっかり頑張れ」と励ましの言葉をいただいた。
 そして、三月の半ばに国立二期校である大阪教育大学を受けることになった。こちらが本命の受験である。しかし、四連敗の私は足取り重く受験会場の高校に入った。
 当日の朝、寒い時期で雪がちらついていた。
 なんとか答案を書いて出した。この後、不安な日々が続いた。もしも落ちていたらどうなるのだろうか。親の給料からすれば、たぶん浪人はありえない。
 
☆合格発表の日
そして、合格発表の日が来た。運命の日である。♪ダ、ダ、ダ、ダーン。ベートーベン交響曲第5番。
 弱気なヒロシは、同級生の平岡君に一緒に行ってもらうようにお願いしていた。平岡君は、神戸市立商科大学にいち早く合格していた。余裕の彼だった。平岡君はふんわりしていて聡明であった。高校二年生、三年生と友達であったので、神戸からに大阪まで同行してくれたのであった。大阪環状線寺田町の駅を降りて徒歩三分で大阪教育大学の門をくぐった。合格発表を見る勇気がヒロシにはなかった。また、「ないない」が続くかと思うと、恐怖で発表の掲示板を見る気になれなかった。
 「発表を見てきてほしい」と弱気な声で平岡君に伝えた。
 すると、平岡君は、「ええよ」とフランツェンのような響きとはほど遠く、淡々と応えた。
 しばらくして帰ってきた。走ってきた。「おゃっ?」。走ってくるということは…という意味さえ気づかないでいた。
「どうやった」
「あったよ。」
「ほんまか??」
 四連敗のヒロシは、その言葉が信じられず再度尋ねたのであった。
「ほんまやで」
「あったあ!!やったあ!!本命合格や」
「では見に行こう」
 この後、一瞬で青ざめることになる予感もなく、ただただ喜ぶヒロシであった。
「ほんと、どこや、どこの掲示板や」
「ほなら、行こうか」と掲示板に平岡君はヒロシを連れて行った。
 教育心理学科の掲示板を見た。
 ガツーン!!
 教育心理学科の掲示板にはヒロシの受験番号はなかった。またもや、「ないない」の連続で、五連敗か。一瞬、平岡君の言葉が嘘かなあと思った。
 受験番号が掲示板にないので、平岡君に「ないやないか」と抗議した。
 すると、平岡君は平然として「こっちにあるで」と左側の掲示板を指さして言った。 「そうかあ、どれどれ?!」
 左側の方向の掲示板を見ると、数学科の欄にヒロシの受験番号があった。
「あった。あった。」合格したのだ。短い足で喜んで100回ジャンプした。(そんな大げさな〜。 はい、大げさです。冗談ですよ。)
 ええっ!?
 じゃじゃじゃーじゃーん。(トーンを下げて)
 教育心理学科を希望していたのに、数学科に合格。真坂の坂道に転げ落ちた。いやいや、合格したのだから、重力に反して坂道に転げ上がった。ヒロシは第二希望に数学科を選択していたのであった。だから、数学科に合格したのである。
 ああそういうことね、と一瞬でこの状況をヒロシは納得した。数学科に行くしかない。一瞬で転向生となった。数学科の番号を見た瞬間に、ヒロシの人生は文科系から理系に転身となった。宇宙が理系に転向せい!という指令であったのだと今から振り返ると思う。理系へ華麗なるデビューである。

☆貴重な一勝
 ヒロシは、高校時代、二年生から三年生と文系コースにいた。なのに、入試が終わると理系だった。何なんだろう??と普通ならば思うが、そこは気変わりの早いヒロシ、すぐに家と高校に電話をした。母はもちろん担任の永田先生も喜んでくださった。よほど嬉しかったのか、大阪からの帰り、あわてて帰る必要はないと思ったヒロシ。「そうだ、京都へ行こう」というキャッチフレーズのように、「子園球場へ行こう。高校野球だ。ヒロシと平岡君は、午前の重い思い雰囲気から脱出して、青春している高校野球に思いっきりひたったのであった。その後の数学の苦しみもわからずに…。

教訓:合格すれば全てを忘れることができる。

 連戦連敗のヒロシにはこの一勝が貴重だった。贅沢は言っていられない。両親の経済的な負担を考えると、国立が本命であり、この道しか残されていなかった。選択肢は一つだけだった。この一勝が数学道への第一章であった。それが、一生の道になるとは・・・。(笑)
 こうやって、人生には不可思議なことが起きる。ある日突然、生き方が変わる事件が起きる。今から振り返ってみると、神様が 「志水よ。あなたの本来のコースは数学科ですよ。」と目覚めさせてくれたのだろう。
文系にいたために苦手の物理も学習せずに、数学科に入ることができ、なんてラッキーな人生。

教訓:ある日突然、人生が変わる出来事がある。
教訓:4連敗をプラスの面でみると、入学金を1校にも納入していない。なんと親孝行のことだろうか。

☆選択肢は一つだけ
 さて、ある日突然、人生が変わったら、みなさんはどう思うか?びっくりするよね。でも、選択肢は一つしかないこともある。有無を言わさずにそこしかないのである。このことを憂いしても仕方がない。
 

第12回 横田式 中学校学級経営のコツ :限定配信

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第12回 横田式 中学校学級経営のコツ
「生徒手帳を活用しよう」動画を配信します。
わくわくクラブ限定動画です。どうぞご覧ください。


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志水廣 1024 音声You Tube 動画 夢現大94 「一枚のプリント」

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プロの笑顔

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3/3 今日のひとこと

旅行先で2つのホテルに泊まった。

そこで夕食の光景としてスタッフの笑顔にでくわした。

一方は普通、もう一方は満面の笑みである。

満面の笑みは癒される。幸せな気分となった。

第38回 3月第2週「上手な叱り方 」限定配信

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授業力アップわくわくクラブサロン会員のみなさま

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「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。

第38回 3月第2週「上手な叱り方 」

どうぞご覧ください。

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濁点

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3/1 今日のひとこと

存在を大事にします。

この熟語に濁点をつけてみよう。

存在の「そ」を「ぞ」とすると、ぞんざいとなる。

ぞんざいとは大事にしているとはいいがたい。

濁らない方がいいんだね。

志水廣主宰 春道場

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志水廣主宰
 
授業力アップわくわくクラブオンライン 春道場

案内
https://www.schoolweb.ne.jp/weblog/files/237000...

志水廣 1022 動画 夢現大93 授業づくり 「子どもの言葉を引き出す算数の授業」


3月の教材研究 第2学年「わくわく算数ひろば」

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授業力アップわくわくクラブサロン会員のみなさま

こんにちは。
今年度に限り2021年、2022年度に配信した動画もいっしょにつけさせていただきます。
併せてどうぞご覧ください。
3月の教材研究 第2学年「わくわく算数ひろば」


2021年「分数」

2022年「わくわく算数ひろば」


  授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子


3月の教材研究 第3学年「わくわく算数ひろば」限定配信

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授業力アップわくわくクラブサロン会員のみなさま

こんにちは。
今年度に限り2021年、2022年度に配信した動画もいっしょにつけさせていただきます。
併せてどうぞご覧ください。
3月の教材研究 第3学年「わくわく算数ひろば」


2021年「□を使った式」

2022年「□を使った式


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