最新更新日:2024/04/29
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笑瀾万丈38 教科書の著者にジャンプ

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教科書会社の著者に

☆離れる挨拶
 ヒロシは、この瞬間を待っていた。
 舞台は教科書会社である。多聞台小学校の二年目のときに、ある方から教科書の啓林館から算数の研究をするので参加してくださいませんかと依頼を受けた。問題解決についての研究会であった。大須賀康宏先生(当時は奈良女大学附属小学校だったと思う。その後愛知教育大学の教授)が研究の指揮をとっておられた。ヒロシの大学院時代に「問題解決」が数学教育の研究で流行っていた。その続きだった。
 二月の末に研究会がありこれで最後だった。
 いよいよ終わりになるとき、発言した。
「皆さん、どうもありがとうございました。私事ですが、四月より筑波大学附属小学校に異動します。東京に行きます。よって、この研究会には出られません。申し訳ありません。驚いた雰囲気だった。当時、研究会に出席していたT課長はびっくりしていた。
 ヒロシとしてはけじめとして発言しただけだった。
 するとどうだろう。一週間して、営業の方からぜひとも会ってほしいという。
 わざわざ多聞台小学校まで夕方、編集部課長のTさんとと営業部課長のKさんがやってきて、ぜひとも啓林館の著者として入ってほしいということだった。とてもありがたいことだと思った。
 筑波大学附属小学校のネームバリューのすごさをあらためて感じた。
 神戸市の一教員のままだったら教科書の著者の話はあったかどうかは不明である。
 だから、奥さんが言うには「名誉はお金で買えませんよ」の力を見せつけられた。
 誠にありがたい話であり、まだ附属教官になっていない段階で決まった話であった。ヒロシとしては地元神戸市は長年啓林館の算数教科書を採用していること、また恩師の三輪辰郎先生は中学校の教科書では啓林館の著者であることから啓林館に入ることは自然な選択であった。
 附属小学校に入ると先輩の手島勝朗先生が啓林館の著者でもあったので導いていただいた。例えば、手島先生は、三輪先生、ヒロシの前任者である窪田先生との会食を計画されて仁義をきった。三輪先生と窪田先生は同じ東京教育大学数学科なので旧知の間柄であった。
 実際、附属小学校に入ってから先輩を通じて別の教科書に誘われたことがある。ありがたい話ではあるが、しかし、私の気持ちは決まっていたのでゆるがなかった。
 世間知らずのヒロシは、こうやって先輩や恩師によって一つずつ人生の生き方を知っていくのであった。
 33歳で啓林館にかかわることになり、教科書の執筆を通して、たくさんの著者や編集部の方々とかかわって、算数教育の奥深さを学ぶことになった。啓林館の編集の特徴は、単に意見を言うだけではなく、実際に原稿に文字とイラストを埋めて、提案原稿とすることであった。教科書を作成するのに普通で、三年間の月日がかかり、算数の系統性の観点、児童の理解の観点、現在及び今後の算数教育の動向、文部科学省の考えを調和させての作業となる。現在63歳であるが、30年間もよくも続けてこられたものだとヒロシは思った。
 また、各地の先生方とも出会い、研究会、講演及び示範授業を通してさらに厚みのあるものとなった。感謝に堪えない。


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