最新更新日:2024/04/27 | |
本日:1
昨日:20 総数:440372 |
ゆとりと充実について今から20年前のことである。 大学院の同窓会に呼ばれて講演したことがある。 その当時は、「ゆとりと充実」を進めるという意味での会であった。 これからいよいよ実施という段階にあった。 そのとき、私は率直に意見を述べた。 今回のゆとりと充実というのは、基本理念の方向性が間違っていると。 というのは、3割の内容を減らして(「厳選」と言った)、そして総合的な学習を進めるという。 どちらも誤りではないが、方向性は全く異なる。 減らすということは、知識を活用する道具が減るということである。 だから、これで総合的学習をするということ次第に無理がある。 例えば、ゴミの問題を総合的学習で扱おうとすると、単位は「t」トンを扱うことになるが、なんと、このときの改訂では削除してしまったのである。 だとすると、単位はkgだけとなってしまう。すると、扱う数は大きな数となる。 それなのに、小学校の計算の数値は難しい計算はしないことという。これで、実際に、ゴミ問題の計算は不可能であった。 道具もないのに、仕事をせよという。 ほとんど、お笑いの世界である。 このとき、知り合いの主催者からきびしいことを言われますなと助言された。 しかし、その結果どうなったか、ゆとりと充実路線は否定されたのである。 実施する前から学力低下問題が言われ火の粉を浴びたのである。 私の言うとおりになった。 厳選と総合的学習ではなくて、規制緩和して基礎と活用、さらに総合的学習だと言えばよかったのである。現在、その方向に向いている。 私の考えは20年早いのかもしれない。 でも、少し考えれば分かることである。 カリキュラムを創る人たちの見識は人間観・社会観をもって取り組みたい。 人間観の大本で言えば、「ゆとり」を与えれば勉強するか? という根源的な問題がある。 これは間違いである。ゆとりを与えれば「遊びたい」、これが真理である。 できない子どもに時間の余裕を与えれば勉強するのか、 「しない!」 これが真理である。 この真理を踏まえていかにして教育カリキュラムを創るかが大切である。 |
|