最新更新日:2024/05/20
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リスクと責任

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もちろん、当面は厳しく辛い思いをすることでしょう。しかしそれに負けては元の木阿弥です。リスクと責任をもつ生き方で勝ちぐせがつくまで、それは三年かかるか、五年かかるか、わかりませんが、この正しい生き方を自分のものにしない限り、人生は素晴らしいものにならないし、生きてきた甲斐がありません。

解説
生き方の根底にリスクと責任を負うということである。これでこそ人生が開けてくるのである。



人間の本質的な生き方

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動物のように、食べたいときに食べ、寝たいときに寝、動きたいときに動くといった、本能だけで生きているときが幸せなのでしょうか。
 もし、そのような生活を望む人がいたとしても、われわれはすぐにその生活に飽きて、もっと人間的な生き方をしたいという沸々とした思いが生まれてくるものです。人間とは、賢さや充実感やほんとうの生き方というものをどうしても求めるものだからです。これは、例えば心理学者のマズローの言っていることを思い出してみてもわかるでしょう。

解説
 動物的な本能だけでいきることには人間は満足できない。そのことを船井幸雄は脳の構造からのちに述べています。何かお役に立ちたいという心が芽生えてくるのです。生まれてきたときからのスイッチが埋め込まれていると私は考えます。


自分ついて

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正しい人間観のうえに自分らしさを考える
 私たちが「自分らしく生きたい」「自分を成長させていきたい」と考えるとき、とかく自分はどんな人間なんだと、すぐに自分に目を向けて考えてしまいがちです。しかし、この方法ではほんとうの答えを導きだすのは難しいようです。なぜなら、どうしても自分だけに視野がいってしまうために、広がりや奥深さがなく、どうしてもエゴ的な答えになってしまうからです。それは、木の幹を見ずして枝ばかりを気にするようなものです。       「いますぐ人生をひらこう」より PHP

解説
「自分」だけに目が行くと、思考が自分中心となる。自分は、この地球に生まれ、地球という場で生きること、活躍することを与えられている。他の生物との違いを認識すればおのずと人間としての役割が見えてくると言いたいのではなかろうか。

人間の「格」が上がっていく

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人間の「格」が上がっていく
さて、成長することは、本当に楽しいことです。なんといってもこれまでできなかったことができるようになるのですから、これは遺伝子on/offの考えから言っても、よくわかります。眠っていた特性がonになって、のびのびと活動を楽しんでいるのです。
     「いますぐ人生をひらこう」より PHP

解説
「できる」ことと「できない」ことの差は大きい。教育は、子どもに「できない」ことから「できる」ようにさせることである。はじめは[{できない}ことでも少しずつ訓練していくと{できる}ようになる。これが自信となる。逆の積み重ねは劣等感となる。だからこそ、「できる」ようにしていくことだ。  

成長について

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8/26 成長について
では、成長していくとは、どういうことでしょうか。
 成長とは、情報処理能力が高まっていくことです。わかりやすく説明しますと、進化の歴史は成長の歴史です。生物の進化が単細胞から多細胞へ、そして高等動物へと移っていったことを、別の観点から見ますと、単体がもつ情報量が増えていく、つまり情報処理能力が増えていく過程であったわけてす。   「いますぐ人生をひらこう」PHP

解説
時代が変わるごとにたくさんの情報が溢れることになる。この情報を処理して生きていくことが求められる。つまり、人間は一日一日賢く、優しくなっていくということです。だから、学校教育を終えたからといって何も学ばなくてよいというわけではない。ずうっと学びは続くのです。そうすると、学校教育はずうっと続く学びに対して基礎的な能力を身に付けさせることである。まずは学ぶことは楽しいという気持ち、次に学び方である。あたしらしい知識を自分の中に位置づける力を養うことである。


天地自然の理

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「天地自然の理」はこれだ
1 世の中はマクロにみれば、日々、生成発展している。
2 世の中にはサイクルがある。
3 「天地自然の理」に合うことをやると、生成発展し「つき」がつく。その逆の場合は「つきき」が逃げていく。
4 「ついている」ものは、相がよく雰囲気が明るく温かい。「ついていない」ものは、相が悪く冷たい。
5 生命体の本質は意識体であり、生命の本質は意識である。
6 世の中は、見事にバランスがとれている。
7 世の中には、ムダなものはない。
8 部分は、それ自体が独立的な全体である。しかし、全体によって生かされているという意味では部分は全体を反映している。
9 世の中も、世の中の原理も公平である。したがって運命は自分で決められる。
10 組織体は長によって決まる。その長は、組織成員がプラスの方へ進むために、たえず全力投球をするべきである。    「船井幸雄の人間学」完本より

解説
これらの天地自然の理というのは、見事な体系だと言ってよい。
船井幸雄はこれらの原理を知るのに20年の月日をかけてきたという。
企業のコンサルティングを通して実践的に理論としてまとめたものである。

4の「つき」に関して言えば、次のように説明している。
<ついている」というのは、天地自然の理にしたがって進化中=生成発展中と考えればよいし、「ついていない」時は、天地自然の理に反して、逆の方向に進んでいると考えられる。それを本人だけでなく第三者にも知らせるために、創造主は、相と雰囲気でシグナルを送ってくれている。病気、事故などは「ついていない」証明でもある。>

このこと自体を自覚するだけでも生き方は変わってくる。





くせづけ

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教育とは、(能力)を引きき出すことであり、訓練とは、なれさせ。くせづけをすることである。

a 学びぐせ、特に読書ぐせ
b 働きぐせ
c すなおぐせ
d 効率ぐせ、特に計画ぐせと始末ぐせ
e 人にきらわれないぐせ
f プラス発想ぐせ

解説
aからfまでのくせは、当然のことである。
だけれども一つ一つを吟味していくと、なぜそのくせが大切なのか、どうやればくせが身に付くのかを考ええてみると、深い。
働きぐせは、単にお金を得るための手段ではない。
働くとき、人間関係にぶつかる。しかも、より効率的に働くには豊かな知恵と心が必要である。
働くことによってそれらのものが手に入る。ありがたい経験だと言えよう。






8/23 学びぐせ、特に読書ぐせ

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8/23 学びぐせ、特に読書ぐせ

(四十歳をすぎると、普通人の場合、いかに勉強好きな人でも耳学問だけに頼っているようでは、なかなか知識や知恵がふえず、頭をよくするという面での人間としての伸びがとまってしまいがちになる。しかし、若い時に読書ぐせをつけておくと、それはしょうがいつづけることができる。どうしても読書ぐせは必要だといってよいだろう)
       「船井幸雄の人間学」完本p266より

解説
四十を過ぎるとということは、仕事の内容がほぼ理解しており新たに学びたいといいう意欲が減少するということである。
知的好奇心が減少する時期でもある。
しかし、脳は常に新鮮な情報を求めている。だとすると、勉強が減ると、脳への食糧がたりなく栄養不足になるということである。
やはり、常に面白いことは何かと追い求めることで勉強するようになる。
それが脳内ホルモンを増やして楽しいと思うのである。


最後に

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4・最後に
 いろいろと船井幸雄氏の主張を述べ、それの教育への適用を私なりに述べてきた。氏の本は前にも述べたようにかなりの数があり到底全部は紹介できなかった。本当に一部である。でも、 5つのキーワードは、教育にとって示唆の富んだものと言えよう。例えば、私がプラス発想を教えただけで研究会が成功した例だってある。ある小学校の研究主任からこのプラス発想についてその効き目を伺い、またお礼も言われた。でも、もとは船井幸雄氏の言葉である。それだけマイナス発想または0発想の人が多いということでもある。だから、 5つのキーワードを大切にして教育にとりくんでいただきたいと思う。
  氏は競争の名人であるが、氏は最近、競争は悪で共生が善であるという。教育界の競争は、受験テストである。偏差値テストの追放事件は競争から共生への移り変わる前触れ現象かもしれない。
 小倉金之助氏が昭和の初めになげいた現象は今日にいたっても変わっていない。だから、世間一般大衆が、数学は必要かもしれないが、数学に対して懐疑的であるのである。多くの人が不快感を持っているのだろう。学校教育で一生懸命算数や数学を教えた結果が数学嫌いを生み出しているとしたら算数・数学の教師は救われないではないか。これを救いのあるものとするためには、テストのみに心を奪われるのではなく、第一に算数・数学の問題解決の力をつけることであり、第二に算数・数学の真善美に触れることであると思う。そのほうが、結果として、テストの点も上がると思う。
 

プラス発想を教育に適用してみよう

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〔教育への適用〕
 まず、子どもに未来を信じさせ、プラス発想を持たせることである。
 このプラス発想は、過去や現在を肯定することから始まる。そうすると、子どもの現在の力を肯定して指導にあたるべきだということである。
 例えば、三年生の子どもを受け持ったとき、何人かの子どもがかけ算九九をまだ覚えていなかったとしよう。そのとき、なぜ、覚えてこなかったのかと子どもに詰問したり、前担任のことを責めてもしかたがないのである。「そうか覚えてこなかったのか。でも、九九は算数では大事な内容だから、先生と一緒に覚えようではないか。」と子どもに問いかけてやりたい。これがプラス発想である。そうして、子どもに達成感を持たすことができれば、子どもから感謝されるのである。
 昨年、広島県のある小学校の校長先生にあった。その校長先生が赴任したときは、先生どうし、また先生と校長とのあいだで亀裂があったそうだ。これは、子どもにも影響して荒れていたそうだ。この荒れた事実については、地元の父母から私は直接きいたから間違いない。普通なら校長先生はなんと運の悪いことだと思うだろう。 ところが、違ったのだ。「私は、運がよかった。先生方はこの学校が悪いということを自覚されていたので、これからなんとかしようと声をかけたから、みんなそうだそうだと意見がまとまったという。だから運がよかったという。」これぞ見事なプラス発想であった。もちろんこの学校の研究公開は成功したのであった。私もこれ校長先生の姿勢を見習いたいと思った。
 どうも人生というのは困難な問題の連続であると言える。よくもまあ、つぎからつぎへと問題がやってくるものだと思う。だからこそ、この対処法としてプラス発想をしていかねばならないのだろう。ともかく、教師は子どもに対してプラス発想で見ていかねばならない。

(5) キーワード5:プラス発想

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(5) キーワード5:プラス発想

 「世の中のことには偶然はない」と船井幸雄氏は言う。どんなことも必要・必然であるから物事が起こったものだという。だから、嬉しいことも、悲しいことも必要・必然と考えて、感謝してプラス発想して受け取って対処していくことだという。
 私は、ここ数年ほど運命論に関する本を40冊近く読んだが、そのどれもがプラス発想で生きることを強調していた。プラス思考、志向、積極思考、積極観念など言葉は違うが意味することはみな同じであった。数学の言葉で言えばプラス変換という言葉がぴったりだと思うが、一般の人でも分かる言葉でプラス発想を使う。
 ここで大切なことは、人間悲しい時、嫌なときにすぐにプラス発想ができるかということである。これは本当に難しい。でもしていくほうが事態の改善には一番早いといえそうである。だから心の訓練をするほかなさそうだ。

算数のよさ

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 教材開発でも上の本物の条件は大切である。本物の教具は、単純な仕組みで誰でも使えるということ、準備が簡単ということ、いつでも使えること、どこでも使えることである。教具でいうとおはじきやブロックというのは汎用性の高い教具で本物と言えよう。
 だから、品物でもまた組織でも複雑化していくものには?がつくと船井氏はいう。逆に単純化していくものには価値が高いと言えるだろう。数学でいうと単純化していこうと思えば、それは原理的なものになる。集合の考えもその一つだろう。いろいろな事象を数理化していく中でより原理的なものを見つけていこうとする態度は、数学のよさにほかならないわけである。このあたりに数学教育の目標論をおくこともできるだろう。
 以前、学習指導要領で「算数のよさ」という言葉が登場したが、非常にシンプルであり的確である。しかも算数の専門の教師でなくともなんとなく分かることばである。そういう意味では「よさ」という言葉は本物といえそうだ。だから、私は、算数のよさというキーワードを支持するものである。
 なお、算数科の授業ではよさの前に問題が解けるという状態が一番大事である。子どもが問題を解けなくて、先に進もうとする授業を見ることがある。こういう教師の態度を周りの参観者ばかり見て、子どもを見ていないと言うのだ。上っ面の教育理論ばかりみて、子どもの実態を見ていないのだ。だからこういう教師をみるとなさけなくなる。算数科の本質、授業の本質が分かっていないと思う。子どもの理解は一歩一歩である。できない子どもをできるようにさせること、これが根本である。その次に算数科のよさを感得させるようにするべきだろう。
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長く続かない

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 単純の反対は複雑である。教育の授業論で複雑化していくものはにせものである。例えばヒントカードがその典型である。子どもが分かるためには支援しなければならない。子どもの思考は多様である。だから個に応じるためにはヒントは個別にカードとしてあげなければならない。となると、複雑化の典型となるのだ。以前、このヒントカードの授業を見たが、教師は自力解決の間にヒントカードをあげるのに四苦八苦しておりしかもそれぞれに対処できていなかった。私は、ヒントカードをあげるひまがあったらなぜその子どもに語りかけないかと思う。「なぜ、こんな式になったの。」と聞けばいいのである。そうすると子どもは自分の考えを表現する。教師はそれに対して処方箋が浮かぶのだ。上の場合ヒントカードと発問とどちらが単純で万能でローコストかお分かりだろう。第一、ヒントカードを毎日持って算数の授業ができるかという根源的な疑問が私にはある。教育は積み重ねであるから、毎日教師が続けられないとしたら、これは子どもにとって不義理となる。また、結局根づかないものとなる。ヒントカードが必要な子どもというのは遅れている子どもであるが、その子どもには紙よりもむしろ教師の助言の方が効き目があるからである。人間が人間を変える影響力を持っているのである。ヒントの紙は人間よりも影響力が小さいのである。このことを、ある県の研究会で述べたあと、ある先生から「私の学校では、
 ヒントカードでやっていましたが、やめました。」と言われた。私の主張の通りだと言われた。複雑で長続きしない方法は結局だめになるということである。
 ただし、ヒントカードの役割を全面否定はしない。指導前に子どものつまずきの予想するためにヒントを予想することは大切であるし、また、問題を解くかぎとなる図をヒントカードとして用意することは必要なこともある。だから、要は程度の問題である。簡単な発問で済むのにもかかわらずヒントカードが絶対有効であるという主張は変だなと思うわけである。○付け法、復唱法、音読計算などはとても簡単で効果がある方法である。そして、それらは、持続可能であり、ローコストであるので本物の技法である。
 現場の先生がたよりにするのは何かというと「教科書」である。教科書は上の本物の条件に見事にあてはまっているのだ。恐ろしいぐらいである。手軽で、ローコスト、ハイクオリティである。だから教科書をもとにして援業をするのはあながち思いとは言えない。もし、教科書を離れて授業をするには、上の本物の条件を満たすことを考えながら工夫すべきなのだ。
 

授業の中で本物

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もう少し授業の中で、本物について考えよう。例えば、関心・意欲・態度の評価をどうするかということである。これは簡単だ。授業中、授業後の表情で判断できる。生き生きしていれば、評価にAをあげたらいいと思う。何も、詳しい評価基準を作ってそのとおりに細かいステップで評価しようとするのは、上の原理からはずれるから、本物ではない。つまり、にせものということになる。
もっとも、指導があっての評価であるから、授業で子どもが関心・意欲がないという評価をつけるということは、その人が指導できなかったことを意味する。変容させることができなかったので、本来は教師にとって恥ずかしいことである。医者が患者を治療できなかったことと同じことであるのだ。
 

本物

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また、授業中の子どもの発言や表情も子どもの反応を見るのに本物のこつと言える。なぜなら、子どもが分かった瞬間、伸びた瞬間は感動であるわけだから、子どもの表情に現れる。この表情をみればすぐに分かるのである。
昨年、四年生の授業で角の大きさを工夫して求める授業を参観した。ある子どもがその工夫が分かった瞬間、思わず担任の教師に表情で訴えたのだ。「先生、わかったわよ」 という表情であった。本当にいい顔だった。周りの参観者はその子どもに気がついた。
ところが、残念ながら、担任の教師は他の子どもの個人指導をしていたため気がつかなかった。惜しい場面だった。せっかく共感できる瞬間だったのだ。授業における波動エネルギーの共鳴現象が起きるチャンスだったのだ。たまたま、私はその子どものそばにいたので「いい考えだ。」とほめてあげた。 ただし、その担任の教師の授業技術には学ぶべき点があったことを付け加えておく。

本物とにせもの

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〔教育への適用〕
 本物というキーワードは、商品以外でも教育の面で応用できる。
 例えば、教育では子どもをほめるということである。ほめれば子どもは喜ぶ。そして、自信をつける。すぐに効くし、無料というのがいい。ただし、ほめるときには真剣に伸びたところをほめることが大切なことであるが。
 では、その「伸び」はどこでみるかということになると、子どもの考えの表現だからノートに書いた考えである。ノートというのは単純、ローコスト、即効であると言える。だから、ノートに書かせること、またノートを見ることは本物の指導と言える。逆に、授業中にノート指導がない授業はにせものといえる。

(4) キーワード4:本物について

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(4) キーワード4:本物について
 船井幸雄氏は、最近の本の中で「本物」というキーワードを使っている。
 本物の商品は、次の特徴を持つという。
「A 1.単純、2.万能、3.即効、4.よいことばかりで副作用なし、5.制約がない
 B 1.安全、2.快適、3.ローコスト、4.ハイクオリティ
 C 1.自然がお手本 2.蘇生化していくもの」
 船井氏は経営コンサルタントだから、彼の会社にはたくさんの発明品がやってくるようだ。その中で上の条件にあてはまっているものがいい商品だと言っている。

教育の目的

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 さて、人間を変容させるには、人間しかできない。今のところコンピュータにはできないと言えそうだ。それは授業論とからむ。人間が人間に伝えるためには、また変容させるためには、言葉という媒体をつかいながら、子どもの脳に刺激を与え、私の言葉でいうなら「精神波動エネルギー」だが、この波動によって子どもの受信機との波長が合ったとき、共鳴したときに理解した、分かった、変容したといえると思う。コンピュータがこの精神波動エネルギーを出せるかどうかが決めてとなる。現状では、なかなか難しいのではないかと思う。
 横道にそれたが、とにかく教育の目的は子どもに夢をもたせ、その夢の実現のために文化遺産、学び方、学ぶ意欲を身につけさせることであると考える。算数・数学教育ではその3つに対して場面を保証できると思う。だからこそ、算教科・数学科の存在意義があると思う。

学ぶ意欲

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人間本来学ぶ意欲は持っていると私は考えている。知らないことを知ろうとする、分からないことを分かろうとする気持ちは人間が生まれもったものである。そして、分かったという達成感は人間にとって快感なのである。
最近の脳の研究でも快のホルモンが出るという文を見たことがある。脳生理学者の大木幸介氏によると、「人間や、人間精神にとって最重要な神経はA10神経だ。A10神経は覚醒作用もあるが、主として「快感」を生じ、後で述べるように「創造性」も生じ、人間精神にとって最重要な神経であるのだ。…やる気が快感につながる。…快感が人間精神の原動力になる。…やる気は、脳幹の橋と中脳にあるA6神経とA10神経によって主として駆動され、醸成される。」という。(講談社)
 このことから、次の私の仮説はどうだろう。「世の中の生成発展のために人間は学ぶ必要があるわけだから、学ぶ以上は、創造主は人間にご褒美をやろうということになった。」それが分かる喜びであり、創造したときの快感であろう。
 学ぶことは本来快感だという立場に立てば、競争という概念で教育する必要はなくなると思う。受験競争の結果、大学では無気力な学生が入ってくるということは何という矛盾だろうか。競争が善だとしたのなら、大学生が意欲的であっていいわけだ。ところが現実は逆だ。大学生は、自ら学んでいく姿を示すべきだと思う。

教育への適用

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〔教育への適用〕
 ここで教育の目的が生まれる。
 教育の目的は、人間として一人前になることである。それは、創造の理を自覚して社会の生成発展に寄与することだと私は考える。子どもなりの表現で言えば「夢を持ち、夢を実現させていくために」学ぶことである。
 学ぶためにはできるだけ効率よく学ばなければならないから、学校が存在して、教室で教師と相対して学ぶように制度と組織が作られた。その学ぶべきことというのが教育内容である。
 それには、三つある。第一に、人類の文化遺産である。知識や智恵のかたまりといっていいだろう。第二に、その知識や智恵が生み出されてきた方法である。学び方を学ぶということである。自ら学ぶためにはこの二つが必要である。第三に、学ぼうという意欲である。

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