最新更新日:2024/10/14
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☆教授承認後のご褒美

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☆教授承認後のご褒美
 後から聞いた話だが、ヒロシの教授承認を待っていた人がいた。それは、名古屋市の校長先生らである。この校長先生らが全国算数数学教育研究(愛知)大会の大会委員長に愛知県の数学教育研究会がヒロシを推薦してくれたのであった。突然の知らせであった。助教授ならば全国大会の委員長にはふさわしくないと思っておられたようだ。教授承認を本当に喜んでくださった。へぇー、そうなんだ。ヒロシも知らない所で、推薦の動きがあるんだと思った。
 ここで、教授に昇任してから肩の重しがとれたように、ぱあっと世界が開けたような感覚になった。だから、たかが教授とはいうものの、昇任できたときは本当に嬉しかった。また、同時に、大会委員長というご褒美もついてきたのであった。
 ちなみに、ヒロシは愛知県出身ではない、また愛知教育大学出身でもない、そのような者が愛知大会の委員長にかつぎあげられるというのはまさに奇跡的なことであった。助教授と教授では世間的には受け止め方が異なる。本来のヒロシは肩書きなどこだわらないが、必要な場合もある。肩書きがあってこそ信頼される範囲が広がるからである。
 教授昇進の時期は今から考えると、世間的には遅いが、その後のヒロシの周りの出来事から推察して、ベストな時期だった。一年早くても…一年遅くても…。実にうまいタイミングで人事は動き出す。

教訓:人生に肩書きも必要である。
教訓:ベストなタイミングで事は起きる。

笑乱万丈 やっと

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☆やっと
 ヒロシは、教授になれることは分かっている。なのにチャンスが巡ってこない。この後、人事の面でいろいろなことがあった。
 悶々とするうちに、48歳の10月か11月頃、そのチャンスがやってきた。ようやくである。資格審査委員会の名簿に登載された。このとき、ヒロシを応援してくれたのが、数学の金光教授と当時の田原学長であった。この二人の意志のおかげで教授にしてくれた。感謝している。
 
教訓:押し出す人がいてこそ、前に出ることができる。

笑乱万丈 なかなかだ

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なかなかだ
☆教授昇進への歩み
 ヒロシは悶々としていた。いつになったら教授になるのだろう。
 40歳で助教授として赴任したとき、45歳にはなっているだろうとイメージしていた。途中、ある国立大学の教授から教授昇進は結構なストレスだよと聞かされていた。若いイケイケのヒロシはそんなことはあるはずはない。私に限ってと思っていた。業績も十分である。だから、遅くても45歳と勝手に決めていた。にもかかわらずずるずると引き延ばされていく。なんだこの状況は。
 ヒロシも人並みに肩書きに関心があった。大学人としては教授になって普通だから。 
 ヒロシの順風満帆の人生行路は教授昇進については突如閉ざされた状況であった。他の講座でヒロシより若い人が教授になっていくのをうらやましいと思った自分がいた。

作文の時間

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小学生編
☆作文の時間
 ヒロシはすくすくと育ち、六年生になっていた。
 ある国語の時間だった。
 担任の先生が語り始めた。
「では、作文の書き方について教えます。」
「参考になる作文があるので読みますよ。」
 担任の先生は、静かに淡々と読み始めた。
『ぼくはこの前の日曜日に家族と一緒に、動物園に行きました。』
うむ!?
 なんだか聞いたフレーズだ。
「はじめにチンパンジーの所に行きました。面白かったです。そして、ライオンの所に行きました。怖かったです。そして、しまうまのところに行きました。なんで、白黒になっているのかと思いました。そして、カンガルーの所に行きました。感想はありません。そして、ゾウさんの所に行きました。そして、キリンさんの所に行きました。・・・」
 やばい、ぼくの作文だ。いやな予感がした。
 先生は、良いとも悪いとも言わない。
 どうも変だ。クラスの中にはにんまりしている人もいた。
 そして、おもむろに、「皆さ〜ん、こんな作文を書いてはいけません。」
 またもや、運命の一撃。♪ダダダダーン、ガツーン。
 この一言が胸に突き刺さった。
 ヒロシは、あの作文が、なぜ悪いのか分からなかった。つまり、メタ認知が働いていないのでした。メタメタ悪い例らしい。
その後、理由を述べられた。
 この文章は、「そして、そして、そして、そして・・・ばかりです。」
 確かにそうだった。小さい頃のヒロシは接続詞は「そして」しか知らなかったのだった。
 貴重な語彙「そして」。これにぼくは、文章のつなぎの命をかけていた。
小さい頃ではないよ。六年生だよ、と言われそうだが。
 今から考えたら小さいんだ。
 同じヒロシにも「飛んで、飛んで、飛んで、…、回って回って…」というヒロシもいるが、同じセリフの繰り返しこそ、美文調だとその頃のヒロシは確信していた。
 ところが、先生の一撃によって、神戸生まれのヒロシは、「そして、神戸」のセリフを思い出した。♪こうーべ。泣いてどうなるのか〜
 もちろん、先生は、誰の作文であるとは言わなかったが、明らかにヒロシのものだった。深く傷ついた。部分肯定の精神さえもない。全面否定の世界である。自尊感情が確実に落ちた。だから、○付け法が大事だというのは、あの頃から思っていたのかもしれない。潜在意識にトラウマが刷り込まれてしまった。ただし、担任の先生は普段はとてもよい先生であった。この授業のこの場面だけがマイナスの印象に残ってしまった。愛知教育大学の教官になったときは、神戸で会食して励ましてくださった。
 ヒロシは国語が本当に苦手で、高校時代には現代国語、古典、漢文全て悪い成績だった。両親はどちらも小学校、女学校しか出ていなくて、およそ家には文学的雰囲気などなかった。あるのは口語体の世界。こうご(期)待というところだが、口語体の世界では、文の読解も作文も苦手は明らかだった。小学生のときはほとんど読書せず、少年サンデーが待ち遠しい少年だった。中学生になっても、ほんの少し読んだだけ。そして、高校入学時の課題読書が、亀井勝一郎の「邂逅」である。この文章の難解さに参った。
 そんなヒロシだが、今や本書『夢現大8』は100冊目となっている。100冊もの単行本を出版するなんて奇跡である。人間どこで変わるのかは分からないものだ。大学院時代から筑波大学附属小学校で鍛えられたからである。
 でも中には、きっとゴーストライターがいるのに違いないと思っている方もいるだろう。
 そうなんです。ヒロシの肩に筆下ろしさせている何かがついているのかもしれない。そうであれば、ありがたやありがたや。ひたすら「筆の神様、ライター様。ぼくのそばを離れないでください」と願う、今日この頃のヒロシであった。


☆演習を主に

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☆演習を主に
 これまでの教育講演会は、ただ話を聞いて終わりであった。それを実践にしていく場がなかった。そこで、教師塾は、演習を取り入れて欲しいとお願いした。現在の○付け法の演習で一人ずつ実際に机間指導していき、ワークシートに記録していく方法は玉置崇先生と鈴木由里子先生が考え出したものである。○付けをするときの実際の声かけの記録と、その声かけを受けたときの子ども役の気持ちがつづられている。実演者のメタ認知を促すものとして有効な記録であった。
 復唱法は、とにかく丸ごと復唱することができないので、これを練習することとなった。
 ○付け法・復唱法を演習の形にすること自体が画期的なことであった。本当にスタッフはよくぞ形にしてくれたと思う。感謝している。
 数回の会議を経て、実際の研修案内が10月にはできた。顧問学校に配布した。
 私は40人集まればよいと考えていた。準備会を重ねていくうちに授業力アップセミナーでは困るとメンバーが言い出した。ぜひとも志水先生のお名前がほしいという。だから、「志水塾」と名前がついた。初めから私が「志水塾」と付けたのではない。私は会の名前にはこだわっていなかった。
 お正月明けの1月4日、5日に全国から40人の受講者が愛知教育大学に集まった。ここでの二日間は、この後の志水塾の爆発的なエネルギーを生む場となった。
 かなり冷え込んだ大学の教室で志水塾は開催された。合宿形式で行われた志水塾は、その後の地方大会を支える人材を輩出することとなった。
 志水塾は、○付け法・意味づけ復唱法を中心として実技講習と講演が続くこととなった。規模は、全国各地で開催されるようになっていった。茨城(東茨城郡)、長野(岡谷市、諏訪市、伊那市)、東京、静岡県(伊豆)、愛知県(豊橋、岡崎、一宮)、京都府(久御山町、和束町)、兵庫県(伊丹市)、和歌山県、広島県(福山市、世羅郡、三次市、大野町、大竹市)、福岡県(遠賀郡、飯塚市)、宮崎県(宮崎市)、鹿児島県(鹿屋市、垂水町)、そして、愛知県で行う全国大会(本大会)を最大10ヶ所で10年間続いた。
 志水塾の成功の要因は、第1に有志のエネルギーが一転に集中したということ、第2に個に応じた指導という教育の風潮が応援団となったことは間違いない。つまり、時代の波に先駆けしかも波に乗ったためである。
もともとの趣旨は、○付け法・復唱法の普及はもちろんのことであるが、教育界のリーダーを創りたいという思いから始まったものである。集まったメンバーはスタッフも含めて、その後地域で活躍されている。志水塾本大会は10年間続いたが、このリーダー養成という観点から見れば成功したと言えよう。
 志水塾は、教師文化の継承がこれから不可欠になると考え、教育の世界に教師塾という概念がないときに始めた。初めは、「塾」という言葉に学習塾を連想する教養のない方もいたが、今となっては教育の世界では教師塾は当たり前のこととなった。隔世の感がある。

教訓:一点にエネルギーを集中させると核爆発が起きる。
教訓:時代の先を読み、時代の波に乗ること。これが成功の要因。



79 準備期間

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☆準備期間
 6月から準備開始である。
 何を教師塾で取り上げるか、どうやって教師塾をすればよいのか。全く白紙のままの出発だった。
 会合を積み重ね、志水の授業の特徴である○付け法と復唱法がよいと決まった。
メンバーを集める必要があった。第一のグループは数学授業研究会のメンバーである。中学校数学教師の集団である。第二のグループは小学校の教師の集団である。幸いにも『算数的活動60選』(東洋館出版社)を一緒に創ったメンバーがいた。鈴木由里子先生、落合康子先生、太田誠先生、鈴木詞雄先生、加藤嘉一先生、山口雅俊先生らがいた。この二つのグループに声をかけて集合した。
☆演習を主に
 これまでの教育講演会は、ただ話を聞いて終わりであった。それを実践にしていく場がなかった。そこで、教師塾は、演習を取り入れて欲しいとお願いした。現在の○付け法の演習で一人ずつ実際に机間指導していき、ワークシートに記録していく方法は玉置崇先生と鈴木由里子先生が考え出したものである。○付けをするときの実際の声かけの記録と、その声かけを受けたときの子ども役の気持ちがつづられている。実演者のメタ認知を促すものとして有効な記録であった。
 復唱法は、とにかく丸ごと復唱することができないので、これを練習することとなった。
 ○付け法・復唱法を演習の形にすること自体が画期的なことであった。本当にスタッフはよくぞ形にしてくれたと思う。感謝している。
 数回の会議を経て、実際の研修案内が10月にはできた。顧問学校に配布した。
 私は40人集まればよいと考えていた。準備会を重ねていくうちに授業力アップセミナーでは困るとメンバーが言い出した。ぜひとも志水先生のお名前がほしいという。だから、「志水塾」と名前がついた。初めから私が「志水塾」と付けたのではない。私は会の名前にはこだわっていなかった。
 お正月明けの1月4日、5日に全国から40人の受講者が愛知教育大学に集まった。ここでの二日間は、この後の志水塾の爆発的なエネルギーを生む場となった。
 かなり冷え込んだ大学の教室で志水塾は開催された。合宿形式で行われた志水塾は、その後の地方大会を支える人材を輩出することとなった。
 志水塾は、○付け法・意味づけ復唱法を中心として実技講習と講演が続くこととなった。規模は、全国各地で開催されるようになっていった。茨城(東茨城郡)、長野(岡谷市、諏訪市、伊那市)、東京、静岡県(伊豆)、愛知県(豊橋、岡崎、一宮)、京都府(久御山町、和束町)、兵庫県(伊丹市)、和歌山県、広島県(福山市、世羅郡、三次市、大野町、大竹市)、福岡県(遠賀郡、飯塚市)、宮崎県(宮崎市)、鹿児島県(鹿屋市、垂水町)、そして、愛知県で行う全国大会(本大会)を最大10ヶ所で10年間続いた。
 志水塾の成功の要因は、第1に有志のエネルギーが一転に集中したということ、第2に個に応じた指導という教育の風潮が応援団となったことは間違いない。つまり、時代の波に先駆けしかも波に乗ったためである。
もともとの趣旨は、○付け法・復唱法の普及はもちろんのことであるが、教育界のリーダーを創りたいという思いから始まったものである。集まったメンバーはスタッフも含めて、その後地域で活躍されている。志水塾本大会は10年間続いたが、このリーダー養成という観点から見れば成功したと言えよう。
 志水塾は、教師文化の継承がこれから不可欠になると考え、教育の世界に教師塾という概念がないときに始めた。初めは、「塾」という言葉に学習塾を連想する教養のない方もいたが、今となっては教育の世界では教師塾は当たり前のこととなった。隔世の感がある。

教訓:一点にエネルギーを集中させると核爆発が起きる。
教訓:時代の先を読み、時代の波に乗ること。これが成功の要因。



78 笑乱万丈 志水塾の立ち上げ

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志水塾の立ち上げ
☆出版記念の懇親会
 出版記念の懇親会を開くことになった。 玉置崇先生(現小牧中学校長)の知り合いのお店だったと思う。
 名古屋駅笹島の名鉄レジャックビルであった。そのときに、その日の夕方には長野県上田市に入る予定があったため、懇親会はお昼であった。2時間ほど話し込んだ後、名古屋駅から特急「しなの」でひとまず長野に向かった。当時、私が面倒をみていたフィリピンからの国費留学生サンチャ先生も同行し、翌日、上田市の神科小学校を訪問指導した。
 月曜日に訪問して名古屋に帰宅した。
 21時頃、鈴木正則先生(現豊田市立井郷中学校長)から電話があった。
「先生、決めました。授業力アップセミナーをします。先生、代表になってください。教師塾をやります。」
という。突然の電話だった。私の意向なんて関係ないところで、事態は動き出した。
 どうも、鈴木正則先生が飲んだ勢いで「志水先生の念願である教師塾をやろう」と提案したらしい。その勢いで周りの先生方も同調したようだ。
ここから、教師塾は始まった。
 まさに一つの本から結集したエネルギーが凝縮してはじける感覚である。

教訓:一つの思いが集まれば爆発する。



77 笑乱万丈

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ただし、いざ本を作るとなると、結構難関であった。それは、各自の実践はとても面白いものであるが、とても個性的で一般の数学教師にはなかなかこなせないような内容であった。また、文章の校正に時間がかかった。というのも、文章にも各自くせがあり、平準化するのに時間がかかった。皆さん初めて本作りに携わるわけでとても時間がかかった。研究のための文章と読み物としての文章は異なるからである。
 それでも苦労しながらできたときはみんなで祝杯をあげた。なんと言っても、研究してきたことが単行本という形になって現れたときこそ、これまでの努力が報いられたと感じる。形にするということは、とても大事なことだと私は考えている。

教訓:実際に見える形にしてこそ、本当にやりがいが生まれる。


76 笑乱万丈 単行本『数学大好き』

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☆単行本『数学大好き』
 さらに、毎月研究物がたまり、たくさんの数学の授業アイデアができあがってきたので、単行本を作ろうということになった。それが『数学大好き−わかる楽しい授業のアイデア70集』(明治図書)である。明治図書の樋口雅子部長にお願いして刊行することとなった。

教訓:小さい宝石も貯まれば大きな宝物となる。

 『数学大好き』の書名は樋口部長がつけたものである。
 端的に意図を表現していて感心した。
 さて、単行本のための方針は次のように立てた。
・中学校の一年から3年まで全てをカバーすること。
・一つの題材は見開き2ページにまとめること。
・領域にも配慮すること。
 なぜ、このような方針を立てたかというと、中学校の数学教師の特性によるものである。短時間に面白いアイデアが読むことができるようにしたかったからである。しかも、学習指導要領にある内容を全てカバーすることによって、ハンドブックの形として使えるようにしたかった。
 このあたりのノウハウは、『算数科教科書の活用法』に学ぶところが大きかった。

教訓:一人ではできない仕事もリーダーがいれば力を結集して、大きな仕事をやり遂げることができる。

75 笑乱万丈 研究会の経過

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☆研究会の経過
 はじめは三人がレポートを持ち寄って討議していた。
 やがて、仲間が増えてきた。毎月定例の研究会をしていた。不思議なことに私の研究会はどこからも横やりが入らなかった。愛知には既存の組織もあり、新しいことをすると白い目で見られることが多い。
 愛知県内で講演活動をしていた関係もあり、信用を得ていたからだと思われる。
 そうこうするうちに、せっかく研究したことだから研究発表をしようということになり、夏の全国算数数学教育研究大会において研究発表した。群馬で研究発表したと記憶にある。また、その研究成果を愛知教育大学数学教育学会誌に研究発表した。
「数学探しの創造」というテーマであった。

波乱万丈74 中学校へ進出

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仕掛け2 プレ志水塾
☆中学校へ進出
 知立市のお好み焼き屋に3人の現場教師とヒロシが楽しく語っていた。 ヒロシは、率直に中学校の数学教師たちと勉強がしたいと話した。若い教師の3人は大いなる未来を語り合っていた。この会が将来の志水塾になろうとは想像もつかなかった。 
 ヒロシが愛知に来て3年目のことである。次の仕掛けを考えていた。小学校算数のことは分かってきたから、数学教育をやるためには中学校の数学を学ばなくてはならない。ついては、勉強会を開きたい。
 志水塾は49歳のときに発足した。その元となったのが、中学校の数学教師の研究会である。
 ヒロシはそれまでに知り合った中学校の数学教師を思い浮かべていた。
愛知教育大学数学科の大学院の修了生として鈴木正則先生、豊川の井上正英先生(岡崎の附属中)、名古屋の鈴木良隆先生(名古屋の附属中)の三人に呼びかけて研究会を作った。今でも思い出すのは、知立のお好み屋で打ち上げの相談をした。毎月、定例の勉強会を大学で行った。土曜日か日曜日の半日を研究会に当てていた。
 なぜ、中学校の研究会かというと、私は小学校のことしか知らないので、中学校の数学のことも勉強したかったからである。しかも、愛知県では数学の免許をもっている小学校の教師が少なく、中学校の方に多く配置されていたからである。

教訓 お互いの長所に学ぶと、共生・共創できる。


73 笑乱万丈 リボン事件

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番外編  リボン事件    
 ヒロシは校長室で校長先生と対談していた。
 突然、「どけっ!!」という大声が校長室に響き渡った。偉そうなかっこうをした人だ。
 ヒロシには、この人物が誰だか分からない。
「何を言うか」と思ったが、ぐっとこらえた。
 この瞬間、知り合いの指導主事に目配せしたが、無反応であった。
 そこで、別テーブルにヒロシは移動した。
 それならば、黙っておこうとしていた。
 時間が過ぎていく。
 どうもさっきのお方は教育長らしい。
 ヒロシは、怒りを抑えて黙りを決め込んだ。
 県の算数教育研究大会がこの学校であった。
 ヒロシは講演講師として呼ばれたのであった。
 その間、私のことを講師だと認知している指導主事は一つも動かなかった。
 ヒロシは頭に来ていた。
 いつ帰ってやろうかと。
 リボンが配布された。小さい白いリボンが私の目の前に置かれた。それで、白いリボンを胸につけた。
 15分ほどして、例のお方が口を開いた。
「そういえば、今日の講演の講師はまだ来ていないなあ」
 校長室の人が「そうですね」と相づちをうった。
 そこで、おもむろに小さな声で「私が講師なんですけれど…」と言った。
 そしたら、突然慌てだした。
 例のお偉いさんは、どうぞどうぞと言ってさきほどのソファーに案内してくれた。
 そして、「先生、どうぞどうぞ、この大きな赤いリボンに替えてください。」と。
 明らかに顔は怒っていた。
 睨みつけてやった。これもまた、笑劇的な事件であった。
 うっぷんをはらすかのように講演では、ヒロシパワーが爆発した。とてもうけた。
 


72笑乱万丈 学校訪問

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☆学校訪問
 愛知教育大学に来て3年目くらいから現職教育の依頼が来るようになった。5年もすると、年間10校は面倒をみることになった。この他、いろいろな県の地区の算数数学研究会の講師として出張することが多くなった。現在までに、北は北海道から南は沖縄ので47都道府県のうち、訪問指導していない県は秋田県、山梨県、大分県の3県である。本当にたくさんの学校や研究会とかかわって指導してきた。
 40代当初は問題解決型学習、40代後半から○付け法、意味付け復唱法などの志水メソッド。50代半ばから「愛で育てる授業」。50代後半からは学力アップ、最近はユニバーサルデザインである。
 そんな中、笑瀾万丈にふさわしい事件を紹介してみよう。 



72 波乱万丈 〇つけとの出会い

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☆○つけとの出会い
 翌年のことであった。都築先生が三年生を担任し、授業診断することとなった。
 授業の冒頭が衝撃的であった。13÷3のあまりのあるわり算を扱う授業であった。まず、黒板に12÷3を書いて復習した。これを都築先生は机間指導で子ども全員に○をつけられた。確かに本時の復習には12÷3は必要である。
 ○つけ?
 何をするのか?
 なぜ、○をするのか。
 37人も子どもがいるのだから時間がかかるぞ。
 飽きてしまうぞ。授業がだれてくるぞ。
 こんな否定的な言葉が頭の中に次々と出てきた。
 そんな私の心の声もおかまいなしに、都築先生は淡々と○つけをしている。しばらくして、ふっと子どもの表情が見えてきた。にこにこしている。どの子もにこにこしている。
 もしかしたら、この方法はいいのかも・・・。
都築先生は、37人をわずか2分間もかからないで○つけをされた。私の指導観がぐらついた。都築先生に授業診断で質問した。
 「どうして冒頭に○つけをされたのですか。」
 「私は、どの子もわかる・できてほしいのです。みんなの学びをそろえたいので復習して確かめたいのです。だから、○つけします。」
なるほどと思った。


笑乱万丈71☆羽根小学校の現職教育

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☆羽根小学校の現職教育
 羽根小学校から依頼があり、学校の授業相談にのることになった。はじめはA校長先生だった。次の校長が杉浦正明校長先生だった。学校規模は学年4クラスほどであった。まだ三河の地理に慣れていなく、名鉄の東岡崎の駅へ迎えに来てくれた。年に二回の訪問であった。
 さて、二年目のことだと思うが、5年生のT先生の授業を参観した。授業診断のときは、校長室でT先生と直接対面した。その冒頭に、T先生は、「どうせ下手ですもの。」であった。この一撃には参った。当時の私はまだ40代、眼光が鋭かった。だから、このようなひと言がT先生から出てきたのだと思う。そこで、「そうだね。あなたは下手ですね」と言うわけにはいかない。ボールペンの黒と赤で書かれたノートをぱたりと閉じて、「そんなことはないよ。こういう工夫をされていましたよ」と10個ぐらい事例をあげて述べていった。その事例でT先生は心を開かれた。そのとき、どんなアドバイスをしたかは覚えていない。教師の自尊感情は、いつも不満足なのかもしれない。

教訓:「どうせ…」のひと言に対するには、全面肯定しかない。

なぜ、このようなドラマを書くのかというと、このT先生が○付け法の発端であったからである。T先生とは、都築民子先生である。ベテランの先生である。


70波乱万丈 岡崎市立羽根小学校

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笑瀾万丈劇70  ○付け法との出会い

☆赴任当時の学校訪問
 豊田市立高嶺小学校の次に、岡崎市立羽根小学校と出会う。
 岡崎市算数数学部との出会いは、41歳のときである。当時、土曜日に授業があった関係で土曜日の午後に研究会があり、そこでは、大学の先生に示範授業をしてもらう企画であった。そこから岡崎市とはご縁ができた。体育館で示範授業をした記憶がある。そのときのエピソード記憶に、研究会のお世話をしていた太田恭子先生(現、岡崎市立連尺小学校長)がいる。

69 仕掛け1 小学校の顧問学校づくり

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☆どこかにないか?

 ヒロシは一つの仕掛けを考えていた。愛知県の現場との接点である。特に、現場の実践が見たいと思うようになっていた。ところが、愛知には知り合いの先生がいない。そこで、ヒロシは考えた。
 そうだ。啓林館のSさんにお願いしよう。
 Sさんは、ヒロシが赴任したときに挨拶に来てくれた。あの人なら大丈夫かもと思った。電話で算数の授業を見せてくれる学校はないかと依頼した。半年してようやく見つかった。豊田市のN小学校だという。ここならば、校長先生は算数なので授業参観できるかもしれませんとSさんは返答した。
 Sさんの車に乗り、N小学校を訪問した。そこで、S校長先生にご挨拶した。その学校の授業を参観した。ところが、N小学校以外の二人の先生がなぜかその場にいた。授業参観後、授業者にアドバイスした。アドバイス後、例の二人の教師がぜひとも私の学校に来てほしいという。このときのお一人が和田裕枝先生(元、豊田市立小清水小学校長)であった。
 どうも、私の指導の様子を偵察にきていたようだ。それで、間違いないと思われて、ヒロシをスカウトした。つまり、ヒロシは和田先生に見込まれたのであった。そして、授業参観後、和田先生の所属の豊田市立高嶺小学校を直行することとなった。
 こんなこともあるのだと和田先生の車の中で思っていた。ヒロシがスカウトしたのではなくて、ヒロシはスカウトされたのであった。
 そこから高嶺小学校との長い長いお付き合いが始まったのであった。その後、鈴木由里子先生、落合康子先生が高嶺小学校に来られて現職教育を充実させていくこととなった。現在でもこの三人とはお付き合いがある。出会いはとても不思議なことだと思う。
 紹介された学校とはご縁がなくて、全く知らない学校と縁がつながることとなった。高嶺小学校とは普段着の授業の中で学力アップになるような研究を続けてきた。本読み計算
も仕掛け1は不思議なご縁のおかげで大成功であった。


笑乱万丈68 新たなる出発

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☆新たなる出発

 皆さんは、筑波大学附属小学校を経てから愛知教育大学の助教授になるのだから、その後は順調に推移したと思われるだろう。それは違う。大学に赴任してから22年間になるが、絶えず仕掛けてきたのである。新しい任地に赴くということは、全くの無名から始まるということである。愛知での地盤、地縁はゼロの世界である。だからこそ、人と人とのつながりを求めて動いてきたのである。
 赴任当初、講演依頼はほとんどなかった。千葉の八千代市に呼ばれたくらいであった。長野県の木曽地方との縁は大学に赴任したときに始まった。後は、青森県との縁で十和田の地区に講演に行った。
だから、一つ一つの仕事を丁寧に努めたのである。そこで、大学の先生としての信頼を得ていったのである。40歳から42歳くらいまでは講演の数は少なかったが愛知県内での講演は、教科書会社の啓林館を通して県内に講演で出掛けるようになった。一つ一つの学校や地域におもむき、愛知での地盤を築くのに、10年はかかったが「日本数学教育学会 全国大会」へと結びつくこととなった。

教訓:地盤は自分でつくるものであり、反面、紹介してくださる縁のつな  がりでもある。


笑乱万丈67 長女の事件

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☆長女の事件

 大学に赴任して半年後、平成5年四月に家族は東京から引っ越してきた。そこから落ち着いて授業ができるようになった。
 奥さんは、車の免許をとって買い物に行くようになった。
 すでに住んでいた愛知教育大学の官舎に入った。長男は中学校3年、長女は中学校一年で入学した。富士松中学校であった。東京からの転入生ということで、ずいぶんと珍しがられたそうだ。これが、東京の学生服かと。そんなもの同じに決まっているのに。
 入学したてのあるとき、長女が私に「今日、数学のテストがあって、難しいなあと思って表紙を見たら、筑波大学附属小学校 志水廣と書いてあったよ。」「こんな難しい問題を私にやらせるなんて…」このような抗議を受けた。どうもNRTのテストだったようだ。当時、私が六年生のNRTの問題作成にかかわっていた。それが娘にヒットしたらしい。自分の子ども達には、ほとんど勉強を教えたことがなかった。NRTのテストは自宅にあったので紹介したらよかったかなと親心で思ったが後の祭りで、娘には、難しい数学のテストで父親にいじめられたという記憶が残った。

教訓:思わぬところで娘と父の対面あり。

笑乱万丈66 ☆大学の授業づくり

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66 ☆大学の授業づくり

愛知教育大学に赴任した。当面の仕事は大学の講義ノートづくりである。算数科教育法と算数科研究の授業があった。この主な違いは、教育法は指導法にかかわるものであり、算数科研究は算数科の内容の教材研究である。しかるに、この指導法というのが心許ない。当時の、大学の教員はあまりよくわかっていなかった。20年前のことだから、今はどうなのかよくわからないが当時の教員は、算数科教育法の授業で教材研究の内容を解説し、算数科研究の方で数学的な知識を教えていた。算数科研究を教える人は数学者なので現場のことがわからない。ただし数学のことはわかるので、それを教えるといった担当教員の都合からくるものであった。
私は、それを打破したいと思い、算数科教育法では教え方について講義した。初期のテキストは、「教科書を活用した算数の授業」(啓林館)であり、その後は、「算数科授業づくりのマニュアル」(明治図書)を採用して指導法の解説をした。
学生にとっては、私のような実践家の授業はとても新鮮であったようだ。授業で起こる教師と子どもとのドラマを指導事例をもとに話していった。毎回、講演をやっているようなもので、半期6ヶ月の講義を15回実施するなかで体系的に述べていくには労力を要した。

教訓:教える対象が変われば、教材研究するのは当然のことである。



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