最新更新日:2024/12/13 | |
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笑乱万丈52 公開研究会筑波大学附属小学校は、年に二回、6月と12月に大きな研究発表会がある。6月は、筑波大学附属小学校独自の研究発表会である。附属小学校の研究テーマに沿った発表会である。二月は先月紹介した初等教育研究会が主催する研究発表会である。どちらも木曜日、金曜日の二日間実施される。6月は2000名、二月には4000名の先生方が全国から集まって参加された。とにかく規模が大きい研究発表会であった。 笑乱万丈51 ☆原稿書き筑波に転任して実務として多くなったことは、原稿書きである。「教育研究」は月刊誌だから12回を35人の教官で割り振ると、年間8本は出さなくてはならない。それも内容は多様で、実践報告、図書紹介、エッセー、研究会報告、主張論文などさまざまな分野で書かなくてはならない。編集部員になると、その上、提起文なども必要である。 その上、明治図書の雑誌「算数教育」に連載、また毎日小学生新聞「算数チャンピオン」に毎週連載した。また、啓林館の「理数」という雑誌にも連載していた。だから、多いときで、月に7本くらいの原稿が押し寄せてきた。まさに、蒙古襲来である。つまり、原稿の役である。次々と押し寄せる原稿をぼうっと見ていても終わるわけでもなく、粛々と書き続けるしかなかった。 毎日担任をして授業しているわけであるから、書くのは夜になる。夜も会があると、朝方になる。朝、4時に目覚めて7時までに400字詰め原稿用紙に20枚書き上げる。当時はまだワープロは出始めで、手書きで仕上げた。手書きの方が速いし、完成度も高い。今は、パソコンに向かい書くので、いつでも修正可能と思っているので雑な文章になる。 一番困るのは、良い実践を年間7本くらい生み出すことである。絶えず考えておかないと、良い教材は生まれない。原稿に嘘は書きたくないので、ともかく良い実践を生み出すほかなかった。 振り返って、考えてみれば、あれが私にとっての修行だったのだ。書くためにはアイデアがいる、良い実践がいる。これらが連鎖して鍛えられた。 教訓;やむを得ず押し寄せる仕事には、黙ってやり続けるしかない。この作業の中で、人は鍛えられる。 笑乱万丈50 ☆「入会の言葉」の文章の波紋私としては、「田舎」という言葉に愛と尊敬を込めて書いた。教頭先生は山形弁でとても面白い。教官会議では不思議な集団だなあというのが正直なところであった。 ところが、田舎という言葉がかんに障った人がいて、思いっきり叱られた。附属小学校始まって依頼の大学院出ということもあって、「何だ、あいつは」ということになった。美文だと思って書いたのが、先輩からの逆鱗に触れた。申し訳ありません。後悔しております。 田舎者に田舎者と言ったのが悪かったようだった。私は神戸っ子なのでシティボーイだと自分では思っていたから、田舎にはあこがれをもっていた。だから、田舎という着眼に我ながら感心したのだが、改めて「入会のことば」の文章を読み返してみると、田舎と言う言葉をかなり使っていて、関西風のくどさがある。吉本ののりかもしれない。当時の東京には吉本新喜劇は放映されておらず、このくどさを理解してもらえなかったのも当然だと思う。 教訓:同じ言葉でも人によって捉える意味が違う。 笑乱万丈49 初等教育研究会筑波大学附属小学校には、校内に社団法人があり、初等教育研究会という。ここでは、毎月定期機関誌「教育研究」を発行している。 明治時代から続いている雑誌である。主に附属小学校の教官が記事を書いている。私が着任したときは、1000号を迎えていた。伝統のある雑誌である。国内でもこの手の雑誌は、広島大学附属小学校と奈良女子大学附属小学校だけである。 さて、筑波に着任したから、当然、入ることになる。そこで、四月の初めに原稿がきた。「入会のことば」を書くようにという依頼である。B5で1ページ書いた。これを紹介しよう。附属小学校に入ったときの初発の感想が述べられている。 大都会の中の田舎 六甲の水で有名な神戸より上京し四月から附属小でお世話になっております。必然的に初等教育研究会に入会しましたが、何かしら漠然とした喜びと不安が同居しております。 というのも、附属へのお誘いがあるまでは、筑波大学附属小については、お名前だけで全く縁がございませんでした。何しろ「教育研究」も購読していなかったぐらいですから附属小及び初等教育研究会については全く無知であり、雲の上のことだったわけです。 突然、附属小の転任の話が決まり、附属そのものが雲の上から地上の私の目の前に降りてきた次第です。 そこで、入会の弁というよりも、着任して一ヶ月間の感想を述べることにします。 標題にもかかげましたように、ここは、まさしく東京の中の田舎です。 奇異に感じられる方が多いでしょうが、本当に田舎なんです。筑波山ではなく、文京区大塚にある田舎なんです。どうして田舎なんでしょう。 まず、環境施設面について述べます。 ここは、広い敷地を有し、しかもまわりがとても静かだということです。広い運動場が二つ、体育館が二つ、広い庭園である占春園の存在、どれをとっても大都会の中にあるべき空間ではありません。やはり田舎なんです。 ついでに述べますが、ボロッちい校舎も田舎的です。良く言えば、伝統の重みが感じられるわけですが、とてもそのようなものではなく、お世辞にもきれいとは言えません。 テレビにしても白黒テレビも残っているようですし、しかも本当に写るのかしらと首をかしげたくなるようなしろものです。現在、校舎改修の計画があるそうなので、その計画に期待したいと考えております。 次に、すばらしい人的財産について述べます。子ども、教師、親という三者は、どれもすばらしく、それも田舎が残っていてすばらしいのです。 子ども達は、のびのびしていてたくましい限りです。附属のお坊ちゃん、お嬢ちゃんというイメージではありません。ここには、公立校のような管理教育は見当たりません。個性を尊重し、自主性を重んじているようです。先生方も、信念を抱いて教育にあたっておられる訳ですが、陰で見守ってくれる親も大きな力です。「おらの学校さ、大切にするだべ。」という気持ちがあってこそできるものなのです。そういう気持ちは、まさに田舎風です。 最後に、地方なまりの残る先生方は、田舎の熱血集団を感じさせられます。 この附属及び研究会は、いつまでも田舎風でいくべきです。設備は、近代的にしていく必要はありますが、東京高師の伝統にふさわしく日本の教育界をリードしていくべき田舎でありつづける、即ちふるさとでありつづけるべきだと考えております。 私も、早く大塚の田舎っぺになりたいと考えております。よろしくお願い致します。 笑瀾万丈48 「入会の言葉」事件☆エールのつもりが… 6月のこと。ヒロシは「教育研究」を読む会のため合宿していた。 教官の有志が集まって「教育研究」に書いた文に対して評価する勉強会であった。 突然、先輩のMさんが「あのなあ、この前の『入会の言葉』はなんや。どういうつもりで書いたんや。」と質問してきた。 「はあ、附属小学校に赴任した正直な気持ちを書いたつもりです。」 根が正直なヒロシは嘘はつけなかった。本当の気持ちを愛を込めて書いたのだった。 ところが、「はあっ!」 と返信が来た。「これはやばい」どうも怒っているらしい。 あの文章のどこに悪いところがあるのか気がつかなかった。 どういうつもりで、「田舎」と書いたのかと。 「ああ、さては、『田舎』という言葉が気に入らなかったらしい。」 うどん粉よりも練りに練った文章であった。『田舎』というたった一つの語彙に引っかかるものがあったらしい。 そばにいたTさんが同様に攻撃してきた。 ヒロシは猛烈な攻撃に黙りを決め込んで、炎上してしまった。 笑瀾万丈47 自由な空気赴任当初、なんて自由な雰囲気のところだと思った。とにかく、校長先生は、1週間に3回来るだけ。普段は顔を合わせることはない。その代わり、副校長先生と副校長補佐がいらして、我々の面倒を見てくださった。 学級経営に文句を言われることもなく、思いっきり個性を出してよいとのことであった。 だから、気楽なところだなあと思った。ところが、だんだんとこの学校のきびしさがわかってきた。じわじわと責任が来るのである。 笑瀾万丈46 16時からここから会議がスタートする。教官会議(職員会議のこと)、部会会議などがある。 教官会議は月に二回、月曜日にあった。これはエンドレスである。早ければ18時30分には終わった。しかし、21時すぎまで続くこともあった。気楽だったのは、附属小学校には組合組織がなかったことである。だから、分会会議などはいっさいなかった。組合員もいなかった。附属中学校と高校には組合員はいたようだ。 笑瀾万丈45 教科担任制朝のマラソンの後、教室に入り、一時間目が始まる。そこで、自分の学級で授業または、別の学級で授業をすることになる。 筑波大学附属小学校は、半分教科担任制である。(正確に言えば、27年前の話なので過去形であるが) 赴任当時は、四年生の担任で、国語5時間、算数4時間、道徳1時間、総合4時間を受け持った。そして、他の学年のある学級の算数4時間を受け持った。確か二年生だったような気がする。社会科、理科、体育科、音楽は専科であった。だから、合計18時間であった。六年生の担任のときは、国語も専科の先生にまかせたので、算数は自分の学級と他の学級を2学級受け持った。これはこれで、大変で、算数の授業を四年生、一年生、六年生と受け持ち、一週間のうちに、これらの教材研究と教材の準備をこなすのは容易ではなかった。あるときは、六年生の算数を受け持ち、終わったら、次の時間が一年生で言葉使い、態度さえも変身する必要があった。教室移動のときに、人格を変えるのである。 六年生にはびしばし指示していたのが、「さあ、みんなわかるかな」と丁寧な言葉でやさしいお兄さんの演出である。お兄さんは言いすぎで、おじさんを演出した。 授業参観のときも他の学級で授業参観する場合も当然でてくる。見せるのが堂々としていないと親からの評価もきびしい。 一コマの時間は、40分間であった。40分間でやりきらなくてはならない。他の学級に算数を教えに行くと、宿題まで含めてやりきらなくてはならない。確かに附属の子どもの学力は高いのであるが、それでも二年生のかけ算九九を覚えようとしない子どももいるわけで、担任に任せるわけにはいかないので、説得することを覚えた。 4時間の授業が終わり、自分の教室に戻り、給食であった。これが値段のわりに内容がよくない。国立なので、都立のように補助がでていなので、自校給食にもかかわらず、質素であった。赴任当時は神戸市の給食と比較していた。 昼食は、子ども達の楽しいひとときである。あの子達は、一年生から学級編成替えがなしだから、とにかくツウカーの仲である。いろいろなトラブルは当然あるが、そのうち収まった。 この後、昼休みになる。このとき、大抵の場合は、算数部室に行き算数部の教官(文部教官と言った)と交流する。お茶を入れるのは、新任の私の役割である。おやつの買い出しにも行く。 お昼休みが終わり、全校清掃となる。異学年の交流の場である。 13時30分くらいから、5校時が始まり、15時すぎに6校時が終わる。終わりの会をやって子ども達は下校となる。ただし、一週間に一度、居残りがある。それは何かというと、運動の居残りである。サッカーやベースボールなどをやる。子ども達は都内の広範囲から来ているので、下校してしまうと、一緒に遊ぶ場がない。だから、15時すぎから16時まで、目一杯運動している。そのとき、私はその監督をしている。 笑瀾万丈44 出勤時の様子☆事務室から 学校に出勤すると、まずは事務室で出勤の印を押す。事務室の存在は、当時の神戸市の小学校にはなかった。さすが国立は違うなあと思った。 その後、教官室に行く。誰もいない。 不思議な光景である。がらんどうである。ヒロシはまずこの風景に戸惑った。 ♪今は〜、もう朝(秋)。だれもいない教官室(海)。知らん顔はしないが。廊下を教職員が通り過ぎていく。 何だか変なの。校長先生、教頭先生、教職員。誰もいない。どこに失踪したのか。行方不明である。冗談ですよ。学校内には、いるんです。各教科の部屋に。 すると、教官室の黒板に本日の予定が書き込まれている。例えば、避難訓練と板書されている。教官室にはヒロシの机はない。教官室とは名ばかり単なる会議室である。だから、職員全員と顔を合わせることはない。郵便物をチェックした後、本館の三階の算数部の部屋に向かう。ここにヒロシの机があった。算数部の部屋は、教室の2/3の広さがあるが天井が高いので中二階の部分が作られていた。現在は改築の時に消滅した。 上に述べたが、一番驚いたのは職員室がなかったことである。また、職員朝集、終会がなかった。だから、一日いても他の学年の教官と出会わなくても過ごせるのだった。全員が会うのは、二週間に一度の教官会議であった。または、毎週火曜日の講堂での朝会であった。だから、教室には電話があり、これで教官どうしは連絡を取り合っていた。 算数部室で着替えて、ヒロシのクラス一部四年に向かう。子ども達に挨拶して、8時10分には運動場に出て、ドッジボールが始まるのであった。全学年児童960名が二つの運動場に分かれてドッジボールを楽しむのであった。このとき、初めて学年の四人の担任と出会い、連絡事項があれば簡単な打ち合わせをする。運動場での学年会議、これこそ明るい空の下で行うオープン会議であった。なぜ、運動場かというと、教官室には机がないから、学年の教官が集まる場所がなかったからである。 その後、マラソン開始である。一年中、ドッジボールとマラソンである。ヒロシは耐寒マラソンは経験はあるが毎日マラソンは経験はない。だから、四年生の子ども達についていくことができない。占春園という公園をハアハアいって走るヒロシがいた。一時間目の授業では、動悸息切れの解消から始まった。知力よりも体力がいる学校だと思った。 子ども達は、体力がつく。勉強の前にまずは体力優先であった。 はじめの頃は、神戸の頃と全く違う動きなので戸惑ったが、二ヶ月もすればすっかり慣れた。 笑瀾万丈43 通勤の様子☆がらっと変わる生活 ヒロシは、筑波大学附属小学校に通勤し始めた。 朝、六時二十分には起床して、七時すぎには自宅を出て、小学校には七時四十五分くらいについた。神戸の頃は車で八分の所だったから、八時に出ても余裕だったのに、七時に出るのはちょっと辛かった。でも緊張しているヒロシは希望に胸が膨らんでいた。一体何が始まるというのだろう。 初めのうちは車での通勤は慣れない道路だから、また渋滞でどれだけかかるか予想もつかないので、電車通勤を選んだ。 官舎のミニ団地から東武東上線上板橋駅までは徒歩で十分間であった。神戸の頃は団地は緑に囲まれた環境で、通勤途中もとても綺麗な景色であった。つまり、郊外だったということ。ところが、東京の官舎内は緑があるのだが、官舎を一歩出ると都会の下町で、あまり綺麗とは言えない景色であった。特に通勤路は裏側の道だったので、あまりの落差にがっかりした。この景色に慣れるのに少し時間を要した。奥さんもこの光景には少なからずいや大いに不満を感じていた。 東上線で池袋駅に出て、すぐ地下に降りるとそこは丸の内線であった。人、人、人の多さであった。とにかく人が多い。ただし、ヒロシは意外な光景を発見した。それは、整然と並んで待つ人々であった。電車も次から次へと来る。まさにラッシュアワーであった。列は乱れてもよさそうなのに、整然としたいた。この整然さは東京人の行儀のよさである。ヒロシは関西の頃をふと思い浮かべた。電車が来るまでは整然と並んでいるのだが、電車が止まった瞬間、列が乱れ、我先にと入る人が多かった。機動隊の突入ではあるまいに、我先にと電車に飛び込んでいた。まさに、陸上でのダイビングである。だから、列などはあまり意味がなかった。それと比較して、この東京人の整然とした姿はとても美しかった。現代の江戸仕草の再現といってもよいだろう。こんなことを感じるヒロシであった。 丸の内線の混みようは半端ではない。ほんの少しの隙間でも後から後から押し込んで来る。気合いがいった。 気合いと礼儀正しさを共存する東京人にヒロシもなっていった。 笑瀾万丈42 一部四年の担任四月四日に筑波大学附属小学校に出勤し、転勤の挨拶をした。今度来るのは、大学院出だとうわさになっていたらしい。そんなことも知らず新しい職場に慣れるのに必死だった。 四年生の担任になった。四年一組、附属の名称で言えば、一部四年である。この子ども達との出会いはびっくりであった。ともかく活動的である。お坊ちゃま、お嬢様をイメージしていたが、全く違った。元気いっぱいである。 当時、附属小学校は一年生から六年生までクラス替えはなかった。つまり、六年間一緒の学級編成である。担任だけが、四年生から替わることになっていた。前担任は平松主任である。理科の先生である。この平松先生が子ども達をのびのびと育てていたので、自由な雰囲気であった。もっと言えば、野性味に溢れていた。 例えば、四月の終わりに秩父の山奥に遠足に行った。登山して、駅まで降りてきた。すると、特急電車出発まで一時間近く待つ必要があった。駅の近くに秩父の川が流れていた。そして、子ども達はその川で泳いでもいいかと聞いてきた。きれいな水だったので、泳ぎ始めた。四年生男子ならまだ分かるが、女子までが服を脱いで泳ぎ始めた。山奥の水だから、かなり冷たい。にもかかわらず平気である。しばらくすると、東京の公立小学校も川にやってきた。呆然とその子ども達は、附属小学校の子ども達の泳ぎを見るばかりである。 平松主任によると、おぼれなければいいから注意しなさいという。全くもってびっくりを通り越してたまげた世界であった。 教訓:人は、イメージのギャップに驚く。その落差を埋めようと動く。 笑瀾万丈41 いざ 東京へ☆新神戸駅にて 四月の初めの朝、午前10時35分、新幹線の新神戸駅にのぞみ号が入ってきた。 奥さん、長男、長女と四人でのぞみ号に乗り込んだ。二人掛けのシートを回転させて四人が向き合った。見送りに母親と弟がいた。 四人は、これから始まる未知のドラマに期待と不安を抱きながら、見送られていた。 静かにのぞみ号は発車した。 故郷を離れるということは、…。感慨深いものがあった。 五歳と七歳の子ども達は静かに本を読んでいた。景色も楽しんでいた。 ところが。ヒロシは、何と仕事をしていたのであった。 何かの算数の原稿を頼まれていて作っていたのであった。 今振り返ると、あの時から移動の中でも仕事づけになることが始まっていたのであった。 笑瀾万丈40 突然の事故話は前後するが、多聞台小の二年目の11月のことだったと思う。つまり、附属小学校への転勤の話が決まった後のことである。 通勤の帰路で、交通事故にあった。小学校から自宅へ帰る道で交通事故にあった。道路は右にカーブしていた。だから、自然に車もカーブしたら、向こうから軽のワゴン車が突っ込んできた。そこで、私の軽自動車と正面衝突した。私はむち打ちになった。数ヶ月の治療を要したが、相手は入院した。これには参った。対人事故なので、心は痛んだ。本来は、カーブの道は一端停止線が引かれているべきであった。それがなかったのである。だから、直進優先だと言われたが、こちらの方が広い幅で、センターラインがカーブしていたのでそのまま走っただけなのに、ぶつかった。納得がいかないが、でも私の方の不注意だと言われた。しばらくしたら、一端停止のラインが引かれた。とはいえ、反省した。転勤が決まり気持ちが浮ついていたのだと思う。 幸いにも、相手側のけがも入院治療を無事に終わった。お見舞いにも行った。大きなことにならずに済んだ。 教訓:良いことがあると、ウキウキするのは当然だか、舞い上がりすぎると、宇宙からの警告がくる。慎重に行動したい。 笑瀾万丈39 附属小学校への異動決定附属小学校への異動が決まった。未来への希望が出てきた。大学院から神戸市の小学校に戻ったとき、未来は全く見えなかった。 くさらずにこつこつと仕事や研究をしていたら、突然人事の話がわき起こり、そこからトントン拍子に進んだ。 教訓:未来への希望が見えたとき、一段とやる気になる。 教訓: 一つステップアップすると、それに付随して新しい仕事、役割が 舞い込んでくる。ステップアップが信用につながる。 笑瀾万丈37 ☆当時の附属小学校の人事の基本ここで、筑波大学附属小学校の人事について述べておく。附属小学校の人事は退職される人の郷里から選出するというのがルールである。愛知教育大学のように、附属学校の教員は、愛知県・名古屋市との交流人事ではない。赴任すれば、以前の地域は退職となる。だから、まさに、行き場がない世界である。33歳で赴任して、60歳まで勤めあげるというのが基本である。だからこそ、打ち込んで学ぶことができる。自分なりの指導理論を組み立てるには、少なくとも五年くらい腰を落ち着けてやる必要がある。 ところで、筑波大学附属小学校の教官には、神戸市出身の人はいなかった。だから、普通は、この人事はありえないことである。実は、私の前任者のK先生が途中退職されたのである。Kさんは、東京教育大学出身であった。つまり、後の筑波大学である。だから、Kさんの後任は、筑波大学にお願いしようということになった。そのため、恩師の三輪先生のところに依頼がきたというわけである。三輪先生は、大阪教育大学のときの恩師である。それが、私が大学院に通う頃には、筑波大学の教授として栄転されていた。三輪先生としても、誰を推薦しようかと迷ったはずである。まさに私はついている。 大阪教育大学の頃、卒論の指導教官として三輪先生にお願いし、兵庫教育大学大学院の頃には、佐々木先生にお願いした。その当時、筑波大学附属小学校の存在もまた赴任の話も全くおこっていなかった。だから、偶然×偶然くらいの確率である。 私がついていた原因を振り返ってみよう。 何がよかったのかというと、教えてもらう指導教員は自分が選択したこと、それゆえにたくさん学ばせていただいた。それが結果的によかった。勉強は大好きであった。一生懸命やったのである。ゼミ仲間の中でもがんばった。もう一歩先を踏み込んでいた。つまり、どういう場面でも一生懸命やっていた。それが評価されたのだと思う。決して出し惜しみはしなかった。 教訓:どういう場面でも一生懸命やることである。それを誰かが見ている。 教訓:マイナスだと思っていたのが、後から、プラスの配慮だったという ことがある。宇宙の配慮であろう。 笑瀾万丈36 その日の夜のこと電話がかかってきた。 「ああ、Kだけど。」 一瞬誰のことか分からなかった。だって、それほど親しく親戚づきあいはしていないのだから。奥さんのことは知っているが、旦那さんとは、一度会ったきりだったから。 やっと思い出した。 「はい、Kさんですね。」と返事をした。 すると、突然、「東京へ行きたいのか」と質問された。 ええっ??なんで知っているのか。校長先生だけに話したはずなのに。 と思ったが、「はい、行きたいです。」と答えた。 すると、「分かった。」 と言って電話は切られた。 きつねにつままれたようだった。 ヒロシの頭に、Kさん?東京? こういう疑問にさいなまれながら、ぐっすり寝た。 翌日、校長先生に挨拶に行った。「あのう、Kさんから電話があったんですが…」 「ああそうか。なんで、Kさんから…」というと。 「ああ、Kさんは神戸市教育委員会教職員課の人事の主幹だよという」 「はあ〜。そうだったんですか。」 またもやびっくりであった。 ヒロシの親戚に教育委員会の人事担当の親戚がいるなんて、全くもって知らなかった。おおぼけもいいところである。後日、偶然お会いしたとき尋ねてみた。「私が兵庫教育大学大学院に行ったことも知っていたのですか」 「ああ、知っていたよ」 この一言に、ヒロシは救われた。大学院に行くときの境遇、そして、大学院修了後の動きをじっと見守ってくれている親戚がいたということに感謝した。 この後、どういう動きがあったのかは知らない。 筑波大学附属小学校と神戸市教育委員会、兵庫県教育委員会との間でスムーズに人事の話はまとまっていった。 うまく行くときは行くものだとヒロシは不思議な感覚を覚えていた。 なぜ、三輪先生からのお誘いが。なぜ、Kさんからの電話が。…などと考えていくと、人生は連鎖の固まりである。 未知の世界へ飛び込むことになるが、この先神戸でどうなるかが見えない世界だから、ここで決断するのも良いと考えた。神戸では、またもやいじめられもかもしれないし、悶々とするかもしれない。 笑瀾万丈35 一通の手紙☆筑波大学附属小学校へのお誘い 9月4日のことだった。 ヒロシが帰宅したら手紙が届いていた。見れば三輪辰郎とある。恩師からである。 どうしたんだろうか。ヒロシは手紙を読んだ。 今度、筑波大学附属小学校で教官の公募があるので、来ないかというお誘いであった。 またまた、驚愕の場面がやってきた。 神戸市と筑波大学附属小学校とは何の縁もない。なのに、こういうお誘いが来るなんて、びっくり仰天であった。 早速、奥さんに相談して行きたいと話したら、不安そうな顔であった。 ともかく詳しく知りたいと思い、三輪先生の家に電話をした。すると、現在、附属小学校の算数科の教員のポストが一人空いている。それを補充したいという。前任者が東京教育大学の出身者だったので、附属小学校は大学に人事をお願いしたそうだ。 あわてんぼうのヒロシは、即座に 「行きたい。」と返答した。 すると、恩師からは、「そんなにすぐに決めなくてもよい。慎重に考えてほしい。」と諭された。 へぇー、こんな道もあるのかと、半信半疑であった。 「それで、附属小学校に行ったらどうなるんですか。」と質問した。 「それは、算数の研究を一生するということだ。」 「その後、どうなるのですか。」と、たたみかけた。 すると、三輪先生はゆっくりと、 「志水君は地元でそれなりに活躍すると思う。もしも来るとしたら、附属小学校で一生終わる人が多い。そのほかは、大学に出る人、教育評論家などさまざまである。とにかく、一生勤める気持ちで来てほしい。でも、よく考えてほしい。」 とても配慮した声かけであった。 再度、奥さんにこのことを話して、東京に行くことについて話した。 「私は福岡(小倉)から神戸に嫁いできたのでやっと慣れてきたのに…。と言いつつも、最終的に、あなたの好きなようにしたらいいよ。」と言ってくれた。 神戸の実家の母にも相談してお願いした。とにかくヒロシは長男なので 母親のことが気にかかるのである。 翌日、朝、校長室に行って、附属小学校への転任の話をしに行った。 記憶が怪しいのだが、校庭の隣の敷地に多聞台幼稚園があって、園長はかつての上司だったので相談したかもしれない。 内田校長は、「分かった。教育委員会に連絡しておく」と話された。 「正式に、まだ決まったというのではありませんが」と話したのであるが、「そこまでの話ならば人事は進むと思う」と話された。 笑瀾万丈34 ダウン症との出会いはじめて一年生をもった子どもの中にダウン症のTさんがいた。心根は優しかった。ただし、知的には遅れていた。周りの子ども達も優しく接していた。 一斉指導の中で個別指導することの難しさを感じた。数の観念がまだ遅れているので、ダウン症への指導という本を購入し、夏休みに特訓した。一対一対応から始め、たし算までいくことができた。 一度だけ運動場から戻ってこない時があった。砂遊びに夢中になっていた。手をつないで教室に戻らせた。二学期からは、両親の合意も得られたので特別支援学級にも通級するようになった。 笑瀾万丈33 神戸市の研究会五月になり、神戸市の算数研究部から声がかかり、市内の公開授業でやってみないかと言われた。飛び込み授業である。上田指導主事らの推薦ではないかと思っている。 七月に一年生の授業で紙芝居で授業をした。たし算の作問の場面で、これは自分の学級でもやると、とてもうまくいき、長田区の学校まで行き、飛び込み授業をした。六学年全部の飛び込み授業で、そのうちの一年生担当でやった。算数部の幹部からは期待されていると感じた。この実践は、筑波大学附属小学校でも実践し、教材開発の本に実践を紹介している。 笑瀾万丈32 一年生の担任としてまず心掛けたのは、字を丁寧に書くことである。ひらがなから運筆を練習した。また、言葉使いも丁寧になった。一年生の特性を少しずつつかんでいった。私の上の子どもは幼稚園に行っていた。近い歳の子どもがいるので、幼さは分かっていた。学年で91人だったので、一学級は31人であった。 一年生は、集団への指示がわからないようだ。個別の指示なら聞く。だから、「休み時間なので、トイレに行きましょう。」と指示しても、「先生、トイレに行っていいですか。」と、どの子どもも質問してくる。あれは、自分に先生が問いかけてくれていると思っていないからである。集団への指示に慣れるまで一ヶ月ほどかかった。それに、すぐにトイレに行きたがる。また、少しの時間でトイレから帰ってくる。緊張したら行きたくなるのである。 一年生の子ども達は小学校が初めてのことだらけである。広い運動場があっても端のほうで遊んでいる。机をもつことも初めてである。幼稚園・保育所では、イスの生活である。だから、机に触りたくて仕方がない。 本当に可愛い子ども達である。教師の一言は絶対である。だから、お手本としての一年生には一言話すのも気をつけて話した。 集中力・持続力がない。つまり、すぐに飽きるのである。だから、体育の授業では、すぐに砂いじりを始める。長々と説明してはだめである。休み時間に一緒に遊んであげると大喜びであった。ある意味一年生を受けもったことは、初めての経験ではあったが、あの純粋さに触れたことは教師生活では大きなことだった。 教訓:小学校教師ならば一年生は持つべし。 |
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