最新更新日:2024/05/14 | |
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前振り先日、教職大学院のOB生のH先生が大学にやってきて、 「志水先生の講義で、目からうろこの技があります。」と言います。 それは、「話すときに、前振りを入れることです。」と話されました。 これは、授業のときとても役だっています。 何かを語るときには、いきなり語るのではなくて、 ほんの少し枕詞を入れるのである。 試してみてほしい。 暗から明へ教育の世界でそんなの当たり前だろというきまりがある。 これが暗黙知である。 ところが、暗黙知は明文化されていないために、 学校の中で、知っている人がいなくなれば、継承されない。 これを防ぐためには、徹底した明文化である。 文章に表しておけば、まだイメージはわく。 この文章化がまた難しい。 暗黙知については、持っている本人には必要を感じないからである。 それでも、できる限り明文化していき、世代交代に備えよう。 トクトクには楽しさは「心」を溶かす。 「心」の悩みの問題を解かす。 円のなぞ明日、教職大学院の院生の下石暢彦先生の指導のためです。 今日は、教材さがしに日南海岸の鵜戸神宮にきました。とても立派な神社です。 教材は、ありました。 算数の教材がありました。生活への活用です。 教材は、円です。縄で編んだ大きな円は人が入れるようになっています。入ると、厄を落としてくれるそうです。 また、本殿のご神体は円の鏡でした。 円は、人にとって良いものであり、宇宙の神秘なんだと思います。 鵜戸神宮 http://www.btvm.ne.jp/~udojingu/ 濁点「存在」と「ぞんざい」。 「存在を認めるのにたいして、「ぞんざい」に扱う。 「そ」に濁点がついているだけではあるが、大違いである。 「わかること」と「できること」こんな質問を受けました。 Q 授業中に算数の解き方について、話し合いをして盛り上がりました。 でも、その後の練習問題では、意外と「できない」ことがあります。 これはどういうことでしょうか。 Ans 確かにそういうことはあります。 これは、「わかる」ことと「できる」ことと区別をするとことが必要だということです。 たとえば、体育科で跳び箱の飛び方を時間をかけて話し合っても、実際の運動ではできるとは限りません。 運転免許の自動車学校でもそううですね。 ハンドルのきりかた、アクセル、ブレーキについて学んだとしても、実際に車を運転してみると、習ったようには動かすことはできません。 算数の授業でも解き方の手順を学んでも、実際に試してみないと本当にできるかどうかはわからないものです。 したがって、どうすればよいかというと、 類題をやらせることです。 私は「試しの一問」と言っています。 これでできることが判明すると、練習問題をやらせてもかまいません。 似たような話として、私はこれだけわかりやすく説明したのにできないことがありますと話される教師がいます。 この事例も「できる」ことを試さないとわかりません。 ちょっとお試しの問題をやらせるようにしましょう。 きっかけ良いことでも「やらされている」と思えば、心と体が動かない。 だから、「やりたい」と思って行動したい。 しかし、何も情報がないところでは、「やりたい」も「やられさている」も生じない。 やはり、何らかのきっかけが必要である。 すると、上司、同僚からの情報によって、何かしら少し行動することになる。 そして、おもしろいと思えば、またこれは自分の役に立つと思えば、 必然的に行動は起きる。 だから、上司や同僚はお互いに刺激する情報を紹介することが親切となる。 自慢話他の人は自慢話は聞きたくない。 だけれど、自分の自慢話はしたい。 かくも自己矛盾の世界に生きている。 では、なぜもそうなのか。 それは、自分は他の人よりも偉いと思っているからである。 だから、そんな行動になる。 でも、ここで、自慢話を聞くことができる余裕をもつとどうなるだろうか。 実は、自慢話を聞いてあげるだけで、自慢した人の自己肯定感を増すことができる。 その結果、聞いた人は信頼を得ることができる。 完璧主義完璧主義の人は、人を許せず、自分も許せない。 だから、他の人の助言も聞き入れない。 素直で謙虚であることの反対は、完璧主義かもしれない。 にこやかな顔朝、車で出勤の途中、信号で止まった。 すると、右に二人の農家の70代くらいのお姉さんがたっていた。 にこやかな顔をしている。 なぜ、にこやかなのかはわからない。 でも、そのにこやかな顔から幸せそうだとわかる。 私もほっと一息ついた。 金田小学校の授業より ワークシートの工夫スモールステップで展開されている。 右の配布物に入れたのでごらんください。 一瞬で旅先でカードを使おうと思ったら財布になかった。 帰宅してから別の財布を捜した。 なかった。 くらーい表情でくらーい気持ちになった。 いよいよカードを停止しようかと思っていた 矢先、財布から別の証明書を取り出した。 すると、奥に薄い板が見えた。 もしやして。 奥にカードがしまい込まれていた。 つまり、1カ所に2枚のカードが入れてあったのである。 出てきた。 やったあ。 一瞬で心が明るくなった。 なんとついているのだろうか。 みなさんも、ちょっとしたひっかかりを心の奥に潜めているのかもしれない。 ひっかかりの答えが見えてくると、心がぱあっと明るくなる。 明るくいこう。 金田小学校の授業の基本形式お願いしてデータを入手しました。 配布物に掲示しましたので、ご利用ください。 国語科・算数科の授業 福岡県金田小学校で算数と国語の授業スタイルについて、基本形式を決めてラミネートに包んで見える化していました。 お願いしてデータを入手しました。 配布物に掲示しましたので、ご利用ください。 国語科・算数科の授業 http://www.schoolweb.ne.jp/weblog/files/2370003... テンポテンポがいいとは、 教師と子どもの息が合っていること。 答えやすい質問で子どもに問うと、子どもが 一斉に答える。 すると、場が盛り上がってくる。 それがテンポのよさを生む。 同じ時間なのに与えられた時間は同じなのに、仕事量に差が生まれる。 授業づくり、学級づくり、学校づくりに差が生まれる。 その差は、知恵の差である。 授業、学級、学校はいずれも人と人との協働性にもとづく。 つまり、人と人とをどのように意図的に交わらせて、育てるかによって決まってくる。 このビジョンと具体的な戦術の明確化、そして具体的な行動をすることで差が生まれる。 経験経験が自信を生み、信念を形成する。 ところが、この信念が固まり過ぎると、新しい見方が入らなくなる。 常に、新鮮で素直な気持ちでいたい。 出愛の創造一期一会とは、デジタル大辞泉によれば、 「茶の湯で、茶会は毎回、一生に一度だという思いをこめて、主客とも誠心誠意、真剣に行うべきことを説いた語。転じて、一生に一度しかない出会い。一生に一度かぎりであること。」とある。 この先、また出会うかどうかもわからない。 それでも、出会ったときを大切にしようということである。 もっと言えば、出会いの場で「出愛」を創造するのである。 問題は、この一瞬の出会いを最高の出愛にできるかどうかである。 私は、大学院での授業、現場での指導、講演会、ちょっとしたお茶会でもできる限り、相手を喜ばせようと話している。 (もちろん体調のよくないときはできないときもあるが…) 現場の校長先生、教師、職員にその「出会い」を大切にしているかどうかは、すぐにわかる。 この積み重ねがさまざまなところで宇宙貯金として返ってくる。 4月に、豊田市のある小学校ほ訪問したとき、職員の方と話した。娘さんの楽しいお話がきけて心地よかった。これって一瞬だよね。 昨日は、宮崎から現場に戻ったSさんが研究室にきたので、指導し、また夕食を共にした。しっかり聴いてアドバイスした。 出愛の創造を演出してほしい。 ギャップギャップが大きいと、普通は悪いことのように思う。 ところが、この大きさが反対に転じると、良いことにもなる。 たとえば、普段きびしい人が、ほんの少しの優しさを見せるだけで、ころっとまいってしまう。 普段、頼りない人がぴっしと仕事を決めると、大きく評価される。 だから、自分のキャラを分析して、大きなギャップを作ってみてはいかがだろう。 いつまで技能の習熟は、いつまでやれば、いいのか? それは身に付くまでである。 本人がもう絶対大丈夫というまでである。 何回テストしても百点になるまでである。 指導者は身に付くまで確認と見届けをやるしかない。 22年ぶりのクラス会
連休に、東京で筑波大学附属小学校で33歳のとき初めて受け持った子どもたちのクラス会がありました。
1部4年から1部6年まで3年間担任した子どもたちです。 現在、38歳になります。 たくましく、輝いていました。 この子どもたちは、6年間クラス替えなしという制度の最後の子どもたちでした。 下学年は平松不二夫先生が受け持ち、そのあと上学年を受け持ちました。 本当に個性的な子どもたちでした。エピソード記憶がいっぱいです。 また、文武両道という感覚でした。 まさに生きる力あふれる集団でした。 可能性をのばすことに全力を注ぎました。 そういう子どもたちに育てられたというのが実感です。 教育とは20年後を見据えた大事業だということを感じました。 |
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