最新更新日:2024/04/28 | |
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体内の循環足の血流がよくなった。 すると、臀部の筋肉が柔らかくなった。 臀部の固さが腰痛を起こしていた。 めぐりめぐることが大切なんだと気が付かされた。 血液が体をめぐるのと同様に、水や空気の循環が自然を浄化するのだろう。 福岡出張諸般の事情で出張がなくなりましたが、福岡の友人である鷲尾さんに会うことも予定したのでお会いしました。 元気な方で、話がはずみました。 話をうかがっていて、座禅や笑いヨガの効力を感じました。 また、人のご縁の玉突き現象を知り、この世のご縁の連鎖の不思議さを思いました。 人を大事にすると、その人からエネルギーがもらえます。ありがたいことです。 エネルギー補給現在の状況では、どうしてもエネルギーが不足がちになる。 ではどうすればよいのか。 エネルギーのあるもの、人、こと、場所につきあうことである。 ものは、食べ物が1番である。食べ物は単に栄養素だけでなくて、食べ物がもつエネルギーを取り入れるのである。エネルギーというのは振動数が高いものである。この振動がミトコンドリアに働きかけて、細胞の1つ1つが活性化していくのである。 こと、人、場所も同じである。 「主体的」に…「主体的に」考える、生きると言われ続けている。 これがなかなか実現しないでいる。 とすると、もしかしたら、「主体的に」という言葉は、無理な仮説ではないだろうか。 人間はそもそも楽をしたい動物である。「主体的」ということは、「楽」とは正反対の世界である。 できもしないことを目標に掲げるのは・・・。 もっと気楽に生きていこう。なんとかなるさ。なんとかなるよ。 束縛からの解放心も体も束縛されると窮屈である。 しかし、束縛がやむをえないときもある。 その期間が終わると、ほっとする。 束縛されないで解放されることはありがたいことである。 情報の入手の方向性情報の入手には、向こうから入ってくるのとこちらから探すのと2つの方向性がある。 向こうから入ってくるのは、向こうにメリットがあるから流してくる。 こちらから探すのはこちらにメリットがあることが多い。 よって、情報はこちらが求めて入れるものである。 自己決定あいまいでよかった社会から決めることが求められる社会となってしまった。 自己決定は自己の判断で行う。 そのとき、最後に大事なものは何かと常に考えておくことだ。 そうすれば決めることができる。 変化は繰り返す上がるときもあれば、下がるときもある。 不思議なもので上がるときは自己を過大に評価し、下がるときは自己を過少に評価する。 つまり、過ぎてしまう。 本当は、その中間あたりか。 だから、心をぶれすぎないことである。なんとかなるよ。 1つのアドバイス8月のはじめに、ある方から1つのアドバイスをいただいた。 早速実行したら、あれよあれよという間に流れができて進んでしまった。 おかげで良くなった。 ありがたいことだ。 中標津訪問北海道中標津町に行ってきました。 7年ぶりです。西尾さんとその父の小野寺さんに会うためです。 中標津には3度目の訪問となります。 お互いに7年の間にはいろいろなことがありました。7年の月日を感じさせない再会でした。 心地よくお会いできました。 小野寺さんとはドライブに連れて行ってもらい、語り合いました。 エネルギーのあふれ方は変わりはありませんでした。 きっかけお昼にSさんから電話がありました。何だろうと思っていると、中学校の国語の教材研究のことでした。批判的な読み方についての追伸でした。 この電話で新たな気づきがありました。 この電話のやりとりを秘書の近藤が聞いていました。 「先生、いい話ではありませんか」という。 そこで、今夜のわくわくクラブの談話会のテーマをこれに決めました。 当初は別のテーマを用意していましたが、急遽変更です。 今夜の談話会では、資料も準備してうまく話すことができました。 電話がきっかけとなりました。ありがたいことです。 マストを降ろせ信念が固まると「何々しなければならない」「何々すべきである」となる。 魂は真の自由を求めている。 自由な世界に「何々しなければならない」はそぐわない。 つまり、MUST を降ろして生きてみよう。すると、のびのびとした世界が登場するよ。 思惑のベクトル何かの出来事がある。 その未来は関数だと考えると、予測がつく。 たいがいは直線をイメージする。 一次関数である。 駅まで何分かかるのかと思うと歩く速度が一定だから直線で予測ができる。 ところが、多くの出来事は直線的ではない。 いくつかの要素が絡み合う。 それは、構成する人々の思惑が絡み合うからである。 絡み合う度合いが高くなると、静止してしまう。 だから何も動かない、何も変わらないのである。 動物の背の高さ小学校2年生の教材に1mを超える長さがありますが、ここに使えます。 教えてよいこと指導する場合、教えてよいことと考えてよいことの区別が必要である。 考えるということは、既知からの類推であるから、子どもに既知があるときは考えさせて良い。 ところが、既知がなく、未知のことだったら教えるほかない。 算数の教科書づくりではそのあたりを厳密に議論していて、教えてよいことは文章として書かれている。 つまり、教科書の紙面で文章記述があるところは教えてよいと判断できる。 業界用語では、地の文という。定義は地の文である。この他、定義ではないけれど、地の文があるのでよく見てほしい。 例えば、上の紙面では、地の文が満載である。 課題演技と自由演技教科書の教材は課題演技に当たります。 これでまず子どもとともに作る算数の授業をすることです。 課題演技の種目には大切な意味がこめられているからです。 課題演技がうまくこなせるようになってから、自由演技の教材へと挑戦するのが望ましいのです。 回転寿司の算数回転寿司にいくつかの算数があります。 上の写真は、かけ算の場面です。 2の段、4の段、1の段があります。 1皿にアジが2こずつのっています。4皿だとぜんぶでいくつありますか。 生活の中で、1の段の九九はなかなか見つかりませんが、これならばわかります。 光を当てる授業とは、光を生み出し、光を当てることである。 教材の光、子どもの光、そして、教師の光の3つの光が織りなす3原色の世界である。 だから、どんな色も生み出せる。 さあ、明日の授業はどんな光を当てて、どんな色を生み出しますか。 最適解?いろんな事象に対して解を求めようとする。 ところが、よくわからない。 決断したとする。 最適解だった。 ああ、良かった。 ところが、間違っていたとする。そのときは、仕方がない。 そこで、最適解を探す。 その繰り返しかなあ。人生は。 にんまり未来の予測をするときは、明るい方がよい。 暗い予想はスパイラルに落ち込む。 そんな予測ならしない方がましで、目の前に起きている現実だけでいい。 予測するのならば、明るく楽しく笑えるような予測にするとよい。 ありえないような素晴らしい出来事に囲まれる予想はどうか。 思わずにんまりするよね。 さあ、今日のにんまりは何にしようかな。 |
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