最新更新日:2024/05/20
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「つき」について

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「つき」は自分でつくるもの
私は「つき」というのは、自分でつくりだすことだと思っている。
それは、先ほども述べたように<

(1)「つき」の持続をはかること、
(2)第三者からの「つき」の材料をとどけてもらうこと、
(3)自分で「つき」の材料をつくること、

の三つである。   『包み込みの発想』より


若々しさのひけつ

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人は新しい経験を積み、新しい知識を知り、それから知恵をつくりだしている段階、いわゆる「新しい皮質」の神経細胞を開発し頭をよくしている段階では、若々しく、きれいでしかも活き活きしているものである。
「生きがい」「やる気」が、人を若々しくきれいにするのは、そのためだしこれらをなくすると、「一挙に老化するのも同様理由によるのである。  包み込みの発想 p82

解説
船井幸雄は頭の構造から人間としてどういるべきかを提唱している。常に、新しいことを学ぶ態度こそが若々しさを保つこつだと考えている。


遺伝子がONになる生き方

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村上和雄さんは、次のように語っています。
「つまり、心で何をどう考えているかが遺伝子の働きに影響を与え、病気になったり健康になったりする。それだけでなく、幸せをつかむ生き方ができるかも、遺伝子のはたらきによると考える学者もいます。
これは、人間の幸せは生まれつき遺伝子で決まっているという意味ではありません。幸せに関係する考えられる遺伝子は、だれの遺伝子にも潜在しているはずです。その遺伝子をONにすればいいのです。
 では幸せをつかむためて、私たちは遺伝子をどうはたらかせればよいのでしょうか?それは日常生活をはつらつと前向きに生きることだと考えています。『イキイキワクワク』する生き方こそが、人生を成功に導いたり、幸せを感じるのに必要な遺伝子をONにしてくれる—というのが私の仮説です。

解説
船井幸雄は村上和雄の話を引用しながら、遺伝子がONになる生き方を推奨しています。



命を運ぶ

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しかし、弱いからくじけてしまうのでは、人生、あまりに辛すぎます。長すぎます。ここは腹を据えてかかるしかありません。それが正しい人間の生き方なのです。
運命とは、命を運ぶことだと言います。命とは、正しい人間観に基づいたほんとうの自分の使命です。その使命も自分で運ばなければなりませんし、幸運はやってきません。
というより、自分で運ぶ責任があるのです。当然、リスクもあります。それを誠心誠意、全力で果たしていくのが人間が生きていく意味です。

解説
運命を拓くのは自分の責任だと船井幸雄は言います。どうせ逃げられないのなら、リスクをとつて立ち向かうしかないのです。すると、成功もするし失敗もします。長い目で見ればその失敗も成功への一過程にすぎません。立ち止まれないのです。一歩一歩歩むしかないです。
どんな状況もWell-Beingでやっていきましょう。


自己を否定しない

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過去や歴史を否定して、それだけを取り上げる自虐史観は、賢い歴史観とは思えません。それは自己否定、自分の裏切りに通じます。しかし何よりも気になるのは、そういった自虐的な見方を子どもたちが身に付けていくことです。それは生きる上で、マイナスの多い人間をつくります。

解説
常に肯定して生きることが大事だと船井はいいます。過去にいろいろあったとしても過去オール善と考えていきることだといいます。そうすることで、前向きな希望が生まれるのです。

人は天命をもって生まれてきた

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人は天命をもって生まれてきた

さて、私が私らしく人生を全うするために、もう一度おさらいをしておきましょう。というのは、くどいようですが、人間は、正しい人間観に基づいて生きなければ、本来発揮すべき「個」という芽を十二分に伸ばせないからです。
つまり、人間は「アタマがよくなり、理性と知性と両親があり、創ることができ、悟ることができる、地球上で究極の生物である。という人間の五つの特性を生かすことが、人間として生きてきた意味であり、そのために「リスクと責任をもって」自分の人生を切り拓き、「良心と自然の声に耳を傾けて」正しい道を歩み、「サムシング・グレイト」に感謝して生きることが必要条件のです。

解説
人間の特性を船井幸雄は「アタマ・・・究極の生物」と述べている。この特性にそって生きることで運がついてくるのである。なぜなら、その生き方をサムシング・グレイトは応援しているからである。

リスクと責任をもつから知恵が生まれる

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リスクと責任をもつから知恵が生まれる
例えば、企業などにおいても、リスクと責任を負おおうとしない社員は、すぐに「できません」と言います。技術開発などでも、「この技術は世界ではまだ開発されていないはずです。ですから当分は無理だと思います」「一見、論理的には正しいこと言いますが、無から有ほどの開発はこれでは行えません。
 なんとか開発するぞ、ということになって、そうなれば必死にその技術に関する情報収集に当たり、勉強をし、そうすることで、一条の光を見つけるものです。

解説
リスクと責任を伴うから、必死になるのです。そのとき、創造主から応援が来ると考えます。
それをセレンディピティといううのだと思います。

リスクと責任

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もちろん、当面は厳しく辛い思いをすることでしょう。しかしそれに負けては元の木阿弥です。リスクと責任をもつ生き方で勝ちぐせがつくまで、それは三年かかるか、五年かかるか、わかりませんが、この正しい生き方を自分のものにしない限り、人生は素晴らしいものにならないし、生きてきた甲斐がありません。

解説
生き方の根底にリスクと責任を負うということである。これでこそ人生が開けてくるのである。



人間の本質的な生き方

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動物のように、食べたいときに食べ、寝たいときに寝、動きたいときに動くといった、本能だけで生きているときが幸せなのでしょうか。
 もし、そのような生活を望む人がいたとしても、われわれはすぐにその生活に飽きて、もっと人間的な生き方をしたいという沸々とした思いが生まれてくるものです。人間とは、賢さや充実感やほんとうの生き方というものをどうしても求めるものだからです。これは、例えば心理学者のマズローの言っていることを思い出してみてもわかるでしょう。

解説
 動物的な本能だけでいきることには人間は満足できない。そのことを船井幸雄は脳の構造からのちに述べています。何かお役に立ちたいという心が芽生えてくるのです。生まれてきたときからのスイッチが埋め込まれていると私は考えます。


自分ついて

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正しい人間観のうえに自分らしさを考える
 私たちが「自分らしく生きたい」「自分を成長させていきたい」と考えるとき、とかく自分はどんな人間なんだと、すぐに自分に目を向けて考えてしまいがちです。しかし、この方法ではほんとうの答えを導きだすのは難しいようです。なぜなら、どうしても自分だけに視野がいってしまうために、広がりや奥深さがなく、どうしてもエゴ的な答えになってしまうからです。それは、木の幹を見ずして枝ばかりを気にするようなものです。       「いますぐ人生をひらこう」より PHP

解説
「自分」だけに目が行くと、思考が自分中心となる。自分は、この地球に生まれ、地球という場で生きること、活躍することを与えられている。他の生物との違いを認識すればおのずと人間としての役割が見えてくると言いたいのではなかろうか。

人間の「格」が上がっていく

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人間の「格」が上がっていく
さて、成長することは、本当に楽しいことです。なんといってもこれまでできなかったことができるようになるのですから、これは遺伝子on/offの考えから言っても、よくわかります。眠っていた特性がonになって、のびのびと活動を楽しんでいるのです。
     「いますぐ人生をひらこう」より PHP

解説
「できる」ことと「できない」ことの差は大きい。教育は、子どもに「できない」ことから「できる」ようにさせることである。はじめは[{できない}ことでも少しずつ訓練していくと{できる}ようになる。これが自信となる。逆の積み重ねは劣等感となる。だからこそ、「できる」ようにしていくことだ。  

成長について

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8/26 成長について
では、成長していくとは、どういうことでしょうか。
 成長とは、情報処理能力が高まっていくことです。わかりやすく説明しますと、進化の歴史は成長の歴史です。生物の進化が単細胞から多細胞へ、そして高等動物へと移っていったことを、別の観点から見ますと、単体がもつ情報量が増えていく、つまり情報処理能力が増えていく過程であったわけてす。   「いますぐ人生をひらこう」PHP

解説
時代が変わるごとにたくさんの情報が溢れることになる。この情報を処理して生きていくことが求められる。つまり、人間は一日一日賢く、優しくなっていくということです。だから、学校教育を終えたからといって何も学ばなくてよいというわけではない。ずうっと学びは続くのです。そうすると、学校教育はずうっと続く学びに対して基礎的な能力を身に付けさせることである。まずは学ぶことは楽しいという気持ち、次に学び方である。あたしらしい知識を自分の中に位置づける力を養うことである。


天地自然の理

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「天地自然の理」はこれだ
1 世の中はマクロにみれば、日々、生成発展している。
2 世の中にはサイクルがある。
3 「天地自然の理」に合うことをやると、生成発展し「つき」がつく。その逆の場合は「つきき」が逃げていく。
4 「ついている」ものは、相がよく雰囲気が明るく温かい。「ついていない」ものは、相が悪く冷たい。
5 生命体の本質は意識体であり、生命の本質は意識である。
6 世の中は、見事にバランスがとれている。
7 世の中には、ムダなものはない。
8 部分は、それ自体が独立的な全体である。しかし、全体によって生かされているという意味では部分は全体を反映している。
9 世の中も、世の中の原理も公平である。したがって運命は自分で決められる。
10 組織体は長によって決まる。その長は、組織成員がプラスの方へ進むために、たえず全力投球をするべきである。    「船井幸雄の人間学」完本より

解説
これらの天地自然の理というのは、見事な体系だと言ってよい。
船井幸雄はこれらの原理を知るのに20年の月日をかけてきたという。
企業のコンサルティングを通して実践的に理論としてまとめたものである。

4の「つき」に関して言えば、次のように説明している。
<ついている」というのは、天地自然の理にしたがって進化中=生成発展中と考えればよいし、「ついていない」時は、天地自然の理に反して、逆の方向に進んでいると考えられる。それを本人だけでなく第三者にも知らせるために、創造主は、相と雰囲気でシグナルを送ってくれている。病気、事故などは「ついていない」証明でもある。>

このこと自体を自覚するだけでも生き方は変わってくる。





くせづけ

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8/24 
教育とは、(能力)を引きき出すことであり、訓練とは、なれさせ。くせづけをすることである。

a 学びぐせ、特に読書ぐせ
b 働きぐせ
c すなおぐせ
d 効率ぐせ、特に計画ぐせと始末ぐせ
e 人にきらわれないぐせ
f プラス発想ぐせ

解説
aからfまでのくせは、当然のことである。
だけれども一つ一つを吟味していくと、なぜそのくせが大切なのか、どうやればくせが身に付くのかを考ええてみると、深い。
働きぐせは、単にお金を得るための手段ではない。
働くとき、人間関係にぶつかる。しかも、より効率的に働くには豊かな知恵と心が必要である。
働くことによってそれらのものが手に入る。ありがたい経験だと言えよう。






8/23 学びぐせ、特に読書ぐせ

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8/23 学びぐせ、特に読書ぐせ

(四十歳をすぎると、普通人の場合、いかに勉強好きな人でも耳学問だけに頼っているようでは、なかなか知識や知恵がふえず、頭をよくするという面での人間としての伸びがとまってしまいがちになる。しかし、若い時に読書ぐせをつけておくと、それはしょうがいつづけることができる。どうしても読書ぐせは必要だといってよいだろう)
       「船井幸雄の人間学」完本p266より

解説
四十を過ぎるとということは、仕事の内容がほぼ理解しており新たに学びたいといいう意欲が減少するということである。
知的好奇心が減少する時期でもある。
しかし、脳は常に新鮮な情報を求めている。だとすると、勉強が減ると、脳への食糧がたりなく栄養不足になるということである。
やはり、常に面白いことは何かと追い求めることで勉強するようになる。
それが脳内ホルモンを増やして楽しいと思うのである。


最後に

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4・最後に
 いろいろと船井幸雄氏の主張を述べ、それの教育への適用を私なりに述べてきた。氏の本は前にも述べたようにかなりの数があり到底全部は紹介できなかった。本当に一部である。でも、 5つのキーワードは、教育にとって示唆の富んだものと言えよう。例えば、私がプラス発想を教えただけで研究会が成功した例だってある。ある小学校の研究主任からこのプラス発想についてその効き目を伺い、またお礼も言われた。でも、もとは船井幸雄氏の言葉である。それだけマイナス発想または0発想の人が多いということでもある。だから、 5つのキーワードを大切にして教育にとりくんでいただきたいと思う。
  氏は競争の名人であるが、氏は最近、競争は悪で共生が善であるという。教育界の競争は、受験テストである。偏差値テストの追放事件は競争から共生への移り変わる前触れ現象かもしれない。
 小倉金之助氏が昭和の初めになげいた現象は今日にいたっても変わっていない。だから、世間一般大衆が、数学は必要かもしれないが、数学に対して懐疑的であるのである。多くの人が不快感を持っているのだろう。学校教育で一生懸命算数や数学を教えた結果が数学嫌いを生み出しているとしたら算数・数学の教師は救われないではないか。これを救いのあるものとするためには、テストのみに心を奪われるのではなく、第一に算数・数学の問題解決の力をつけることであり、第二に算数・数学の真善美に触れることであると思う。そのほうが、結果として、テストの点も上がると思う。
 

プラス発想を教育に適用してみよう

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〔教育への適用〕
 まず、子どもに未来を信じさせ、プラス発想を持たせることである。
 このプラス発想は、過去や現在を肯定することから始まる。そうすると、子どもの現在の力を肯定して指導にあたるべきだということである。
 例えば、三年生の子どもを受け持ったとき、何人かの子どもがかけ算九九をまだ覚えていなかったとしよう。そのとき、なぜ、覚えてこなかったのかと子どもに詰問したり、前担任のことを責めてもしかたがないのである。「そうか覚えてこなかったのか。でも、九九は算数では大事な内容だから、先生と一緒に覚えようではないか。」と子どもに問いかけてやりたい。これがプラス発想である。そうして、子どもに達成感を持たすことができれば、子どもから感謝されるのである。
 昨年、広島県のある小学校の校長先生にあった。その校長先生が赴任したときは、先生どうし、また先生と校長とのあいだで亀裂があったそうだ。これは、子どもにも影響して荒れていたそうだ。この荒れた事実については、地元の父母から私は直接きいたから間違いない。普通なら校長先生はなんと運の悪いことだと思うだろう。 ところが、違ったのだ。「私は、運がよかった。先生方はこの学校が悪いということを自覚されていたので、これからなんとかしようと声をかけたから、みんなそうだそうだと意見がまとまったという。だから運がよかったという。」これぞ見事なプラス発想であった。もちろんこの学校の研究公開は成功したのであった。私もこれ校長先生の姿勢を見習いたいと思った。
 どうも人生というのは困難な問題の連続であると言える。よくもまあ、つぎからつぎへと問題がやってくるものだと思う。だからこそ、この対処法としてプラス発想をしていかねばならないのだろう。ともかく、教師は子どもに対してプラス発想で見ていかねばならない。

(5) キーワード5:プラス発想

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(5) キーワード5:プラス発想

 「世の中のことには偶然はない」と船井幸雄氏は言う。どんなことも必要・必然であるから物事が起こったものだという。だから、嬉しいことも、悲しいことも必要・必然と考えて、感謝してプラス発想して受け取って対処していくことだという。
 私は、ここ数年ほど運命論に関する本を40冊近く読んだが、そのどれもがプラス発想で生きることを強調していた。プラス思考、志向、積極思考、積極観念など言葉は違うが意味することはみな同じであった。数学の言葉で言えばプラス変換という言葉がぴったりだと思うが、一般の人でも分かる言葉でプラス発想を使う。
 ここで大切なことは、人間悲しい時、嫌なときにすぐにプラス発想ができるかということである。これは本当に難しい。でもしていくほうが事態の改善には一番早いといえそうである。だから心の訓練をするほかなさそうだ。

算数のよさ

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 教材開発でも上の本物の条件は大切である。本物の教具は、単純な仕組みで誰でも使えるということ、準備が簡単ということ、いつでも使えること、どこでも使えることである。教具でいうとおはじきやブロックというのは汎用性の高い教具で本物と言えよう。
 だから、品物でもまた組織でも複雑化していくものには?がつくと船井氏はいう。逆に単純化していくものには価値が高いと言えるだろう。数学でいうと単純化していこうと思えば、それは原理的なものになる。集合の考えもその一つだろう。いろいろな事象を数理化していく中でより原理的なものを見つけていこうとする態度は、数学のよさにほかならないわけである。このあたりに数学教育の目標論をおくこともできるだろう。
 以前、学習指導要領で「算数のよさ」という言葉が登場したが、非常にシンプルであり的確である。しかも算数の専門の教師でなくともなんとなく分かることばである。そういう意味では「よさ」という言葉は本物といえそうだ。だから、私は、算数のよさというキーワードを支持するものである。
 なお、算数科の授業ではよさの前に問題が解けるという状態が一番大事である。子どもが問題を解けなくて、先に進もうとする授業を見ることがある。こういう教師の態度を周りの参観者ばかり見て、子どもを見ていないと言うのだ。上っ面の教育理論ばかりみて、子どもの実態を見ていないのだ。だからこういう教師をみるとなさけなくなる。算数科の本質、授業の本質が分かっていないと思う。子どもの理解は一歩一歩である。できない子どもをできるようにさせること、これが根本である。その次に算数科のよさを感得させるようにするべきだろう。
(5)

長く続かない

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 単純の反対は複雑である。教育の授業論で複雑化していくものはにせものである。例えばヒントカードがその典型である。子どもが分かるためには支援しなければならない。子どもの思考は多様である。だから個に応じるためにはヒントは個別にカードとしてあげなければならない。となると、複雑化の典型となるのだ。以前、このヒントカードの授業を見たが、教師は自力解決の間にヒントカードをあげるのに四苦八苦しておりしかもそれぞれに対処できていなかった。私は、ヒントカードをあげるひまがあったらなぜその子どもに語りかけないかと思う。「なぜ、こんな式になったの。」と聞けばいいのである。そうすると子どもは自分の考えを表現する。教師はそれに対して処方箋が浮かぶのだ。上の場合ヒントカードと発問とどちらが単純で万能でローコストかお分かりだろう。第一、ヒントカードを毎日持って算数の授業ができるかという根源的な疑問が私にはある。教育は積み重ねであるから、毎日教師が続けられないとしたら、これは子どもにとって不義理となる。また、結局根づかないものとなる。ヒントカードが必要な子どもというのは遅れている子どもであるが、その子どもには紙よりもむしろ教師の助言の方が効き目があるからである。人間が人間を変える影響力を持っているのである。ヒントの紙は人間よりも影響力が小さいのである。このことを、ある県の研究会で述べたあと、ある先生から「私の学校では、
 ヒントカードでやっていましたが、やめました。」と言われた。私の主張の通りだと言われた。複雑で長続きしない方法は結局だめになるということである。
 ただし、ヒントカードの役割を全面否定はしない。指導前に子どものつまずきの予想するためにヒントを予想することは大切であるし、また、問題を解くかぎとなる図をヒントカードとして用意することは必要なこともある。だから、要は程度の問題である。簡単な発問で済むのにもかかわらずヒントカードが絶対有効であるという主張は変だなと思うわけである。○付け法、復唱法、音読計算などはとても簡単で効果がある方法である。そして、それらは、持続可能であり、ローコストであるので本物の技法である。
 現場の先生がたよりにするのは何かというと「教科書」である。教科書は上の本物の条件に見事にあてはまっているのだ。恐ろしいぐらいである。手軽で、ローコスト、ハイクオリティである。だから教科書をもとにして援業をするのはあながち思いとは言えない。もし、教科書を離れて授業をするには、上の本物の条件を満たすことを考えながら工夫すべきなのだ。
 
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