最新更新日:2024/05/08
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笑瀾万丈19 受験の様子

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笑瀾万丈19  試験当日

☆受験の様子
 兵庫教育大学大学院の受験は、大学のある社町ではなくて、神戸市の甲南女子大学で行われた。
 JR摂津本山駅を降りると駅前の空気が異様であった。組合員(やくざの組合ではない。教職員組合だよ。)が固まっている。また、機動隊も来ている。そんな中に、大学に向かうマイクロバスが到着していた。迷わず乗り込んだ。乗り込んだ瞬間に、ふと外を見ると、組合活動でいっしょに選挙のビラ貼りをした人がヒロシを見た。ヒロシは無視した。機動隊に守られて受験した。こんな体験は他の人には考えられないことである。貴重な体験である。バスに乗り10分ほどで大学に到着した。全く静かである。先ほどの騒ぎが嘘のようであった。まさに茶番劇で笑い話の世界である。
 静寂の中で、試験は開始された。朝の10時から始まり、夕方16時まで、教職教養、専門科目と試験があった。B4の白紙に8枚くらいひたすら解答を書いた。かなりハードな一日だった。だって、一生の問題がかかっているのだから、なんとしても合格せねばならないのである。
 教職の問題、数学教育の問題は解けた。心配なのは数学の問題である。行列式の問題が出て、幸いにも解けた。これで合格できるのかどうかは微妙だった。数学力のみを問われるのであれば、間違いなく落ちていた。ところが、教育の面の配点もあるので、そちらは手応えがあった。

教訓:機動隊に守られての受験風景は、今にして思えば茶番劇だった。
   人生は劇の連続である。そのときは、真剣であるが。


笑瀾万丈18 突然の嵐

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☆夏休み開始早々

 転勤してから四年目のこと。夏休みが始まって、二、三日して、突然、組合の分会会議の招集の連絡がきた。
 8月30日。五位ノ池小学校の会議室に五位ノ池小学校の教職員が集合させられた。
 組合のお偉いさんがやっ来て、「ここにいる志水先生は、兵庫教育大学大学院を受験します。なぜ、受験するのか。ここに問いただしたいと思います。皆さんもご存知のように兵庫教育大学は文部省が推進する大学です。非常に右傾化した大学です。ここを受験すること自体が遺憾なことです。」
 ヒロシは、なぜ受験のことが漏れたのだろうか。校長先生と神戸市の教育委員会しか知らないはずなのにと思い戸惑っていた。誰か漏らした人がいるのは間違いない。でも、目の前にオルグという現実がある。ようするに「つ・る・し・あ・げ」である。揚げ物ならば美味しいが、このつるしてあげは堪らない。集団でのいじめである。
「なぜ、受験したいのか分からない。」
「早く管理職になりたいからか。」
と批判の声が続く。
 27歳の時であるから管理職などということは考えるはずもなく、自分が勉強したいという一念で考え出したことである。世の中には、そういう人たち(若くして管理職願望)がいることを改めて知った。
ヒロシは、立ち上がり、鉄よりも重い重い、重い口を開いた。
「私は、ここ数年間にネタがつきたと思ってきました。もう一度、大学で勉強したいと思いました。もちろん、組合は地区の役員までやっているので組合のことは大事に思っていますが、でも勉強することを誰も止める権利はありません。夏休みなのに、皆さんに集まっていただいたのは申し訳ありません。でも、受験に関しては、謝りません。行きたいから行くのです。」
重い唇ではあったが、軽くはっきりと明言した。
 ヒロシは、普段はこれほどきっぱりと言わない性格である。つまり、ほんわかタイプである。しかし、なぜかメラメラと正義感が沸いてきて、発言した。自分で言うのも何だが、かっこよかった。魂の底からの声が出ていた。
 ♪あの〜、人は言って言ってしまった。あの〜人は言って言ってしまった。もう帰らなーい。いや、戻れなーい。
 長い長い一時間であった。
 この発言をした以上は、後に引くことはできない。こちらは家族を支える必要がある。ヒロシは、「この勝負、決める。」と堅く誓った。受験までの数日、猛勉強に励んだ。そして、合格を勝ち取ったのであった。
 それからも同僚からの嫌がらせは多々あった。それでも付き合っていくしかない。昨日まで、ヒロシの自宅まで来てわいわい騒いでいた同僚が離れていったことにじくじたる思いがあった。
 この分会会議のことは今となっては笑い話である。要するに組合の幹部は、組合のメンツを立てたいからやってきて、話しているだけである。メンツということをもっと知っていれば、違う対応もできたと思う。あれから5年くらいして今度は、組合は兵庫教育大学大学院に賛成の立場をとった。今度は組合推薦でなければ受験できない世界である。これもおかしい。憲法で保証された学問の自由は個人の権利であって、団体の権利ではないのである。


☆6年生を持ったときの事件 波瀾万丈17

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☆6年生を持ったときの事件
 2学期の10月だったと思う。休み字間に遊動木という遊具でクラスの子ども達が遊んでいた。そこで事故は起きた。ある女の子が足を骨折したのであつた。すぐに外科に行き入院となった。
 1ケ月近く入院した。当然お見舞いには行く。
 1週間もたたないうちに、教頭先生にお願いした。勤務終了後、勉強を教えに行ってもいいですかと。教頭先生から認めてもらった。週に2回、個人的に病院に通い、1時間近く、国語と算数を教えた。6年生の女子なので恥ずかしそうにしていた。時には、お母さんは、うどんを差し入れしてくれた。出張したときも、わざわざ病院の近くの駅で降りて教えた。帰宅すると、9時は回った。当然、無料である。
 なんだからわからないけれど、そのようにしないと気が済まなかったのだ。
 その子が学校に戻ってきたとき、どうなったか。なんと、学級の雰囲気がよくなったのだった。とてもいい体験をした。



笑瀾万丈16 6年へジャンプ

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☆ 3年、3年、6年の担任
 なぜ、3年かから6年へジャンプしたのか。それは、5年生が学級崩壊したからであった。普通ならば4年生へ上がるところだけれど、6年へ行ってくれとなった。このジャンプはとても勉強になった。というのは、5クラスあって、4クラスは持ち上がりで、私のクラスだけが担任の交代であった。主任は加藤得子先生で、しっかりしたお方だった。
 崩壊したクラスの難しいところは、マイナスから始まるということである。学級のルールや授業のルールづくりから始まる。子ども達はマンガもつてきてもいいですか、と牽制球を投げてくる。「だめ」という。まあ、この頃のわたしの口癖はだめだめであった。ダメダメ教師であった。一番嫌な気持ちになったのは、修学旅行である。他のクラスは5年生から一緒なので楽しくやっているのに、学級としての雰囲気は固かった。


笑瀾万丈15 活動期

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活動期
 その当時、神戸市や兵庫県では教職員組合が強く、若手の教員は組合の役員になることが求められた。下山手小学校では分会長となった。ストライキもあった。ストとなると、神戸市の教職員は市やしくょの南側の講演に集合した。出勤は3時間目くらいからであった。
 五位の池小学校でも組合の役員になった。はじめは分会長、次に地区の役員である。何もわからないヒロシは先輩から誘われ淡路島に組合の研修旅行に参加した。すると、待ち構えていたのは、地区の役員にならないかというお誘いだった。あのとき、旅館でのおいしい料理は組合への前金だった。
 甘い汁をすうと、後で大変なことになる。
 分会長と地区訳のちがいは、選挙などにときにどういうされることである。例えば、ビラ貼りや電話応援などであった。あるとき、学校から離れたところで、ビラ貼りを20時頃していたら、志水さんと声をかけられた。だれかと思うと、勤務校の養護教諭だった。こんな活動をしているとは思えなかったのだろう。びっくりだった。

教訓 甘い話にのると後が大変である。



笑瀾万丈14 五位の池小学校

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☆五位の池小学校時代
 神戸市の初任者は、3年間で転勤するという約束になっていた。転勤した学校は長田区にある五位の池小学校であった。学校の規模は、各学年5クラスあった。赴任しておどろいたのは、運動場の向かい側は団地群であった。だから、運動場の声が団地に響くのである。また、団地からフェンス越しに丸見えであった。
 前任校は、各学年2から3クラスであったから職員室の広さ、職員数の多さにびっくりであった。この学校は、ミドルリーダーになる先生が多く、活気があった。当然学年で行動することが多かった。当初、3年生を受け持ったが、ベテラン教師が2人、私、そして新任教師が2人いた。1つの学年に2人の新任とは驚くべき配置であった。学年主任の寺谷先生は書道家でもあった。この先生から斉藤喜博全集をお借りして読みあさった。
 校長先生は、神戸市の校長会の会長であり、その方のもとに優秀な教員が集まっていた。だから、いろんな教科に精通した人が多く職員研修も活発であった。学べきことがたくさんあった。
 住居は、灘区青谷から垂水区の学びが丘に転居した。ここは公団住宅で5階建ての1階であった。ベテランだごしに見える芝生は我が家の庭のようであった。
 通勤はバスと電車で1時間10分かかった。山陽電車の板宿駅から学校までは徒歩で12分ほどであったが、最後の200mの登坂がきつかった。
 五位の池小学校時代は張りきりボーイであった。


笑瀾万丈13 ☆下山手小学校から五位ノ池小学校へ

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☆下山手小学校から五位ノ池小学校へ

 ヒロシは、新卒四年目には神戸市の長田区にある五位ノ池小学校に転勤した。そして、同僚に恵まれて着実に教師力がついていった。四年を受け持ったときは、放送教育の主任から視聴覚教育の大切さを教わった。翌年は、六年生を突然受け持った。学級崩壊の学級を受け持ち悪戦苦闘した。この時の学年主任からは芯の強さを学んだ。三年目には三年生を受け持ち書道家の学年主任に豊富なアイデアを教えてもらった。算数教育についても神戸市の研究会や教育研究所で勉強させてもらった。組合の分会長や地区の役員もしていた。楽しい日々であった。

笑瀾万丈12 Web公開 体のこと

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☆体のこと
教師の仕事は、立ち仕事で辛かった。体の調子は、 今ひとつすぐれなかった。実は腎臓病であった。尿に蛋白が出ていた。
三年目の夏休みに検査入院し、おおまかなことが判明した。ただし、腎臓の細胞のかけらを摘出する腎生検を受けようとしたが、点滴の薬にアレルギーが出て、結局は受けることができなかった。クレアチンという腎機能は悪くなっていなかった。以来、現在に至るまで腎臓病と付き合っている。ありがたいことになんとか持ちこたえている。生かされていることを自覚している。
確かに言えることは、病院にいると病人の気持ちになってしまうということである。三週間ほど入院していたら、足腰が弱くなっていた。働いていたほうが、気持ちもシャキッとした。
月に一度、神戸市民中央病院で検査をしていた。不思議なことに尿に蛋白は出るのだが、悪化はしていなかった。薬は特別でていなかった。
月一回、午前中に半休をとって病院に行くことは、現在に至るまでずっと精神的な負担になっている。とはいえ、病気が悪化していないのは、私が普段、病気を意識していないからである。思い悩んでいないからである。
心配ばかりしていては、人生は生きられない。
この病気があったから、いつまで小学校教師が勤まるだろうかという不安があった。この不安はこれまで誰にも話したことはない。
だから、20代に大学教員を夢見ていたのだと思う。実際に、大学教員になる難しさなどは全然考えたこともない。無知の世界であった。今、振り返ると、この病気が意識の底で転職へとつながっていたなあということである。

教訓:病気はあってもつかまない。


☆算数の本の執筆  笑瀾万丈11 Web公開

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☆算数の本の執筆

算数教育のことで特筆すべきことは、若くしてすでに本を執筆したことである。啓林館の「算数 低学年の数と計算」という単行本の中で、10ページほど執筆した。割り算の筆算のことを書いた。P3にはしっかりと、志水廣という名前が示されている。
この仕事は、学生時代の友人の岡野久雄氏が私に共同で書かないかと誘ってくれたものである。奈良女子大学附属小学校の大須賀康宏先生の編によるものであった。この編集会議は、大阪の阪神百貨店のレストランで会議と会食があった。集まった先生方は、附属小学校などのベテラン教師であり、すごいレベルの差を肌で感じた。その後、啓林館の教科書の執筆者になるとは、この時点では思いもよらなかった。
なにしろ算数の原稿を初めて書いたのは、25歳の時であった。このときの執筆は本当に苦しんだ、わり算の筆算の実践を書いたのであるが、二年くらいの経験で書くのだから、よくわからず、いろんな本を調べてイメージを作って書いた。できたときは、夢のようであった。職員朝集のとき、同僚に紹介した記憶がある。

教訓:仕事は友人から来る。


笑瀾万丈10 Web公開

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☆結婚のこと
神戸市立下山手小学校に着任した、その年の終わりに結婚した。大学生時代からの付き合いであったので、普通から見れば早い結婚であった。母方の叔母は、結婚の話を聞いて無口な私がパートナーを見つけたこと自体信じられなかったようだ。
本当に、その頃の私は話題も乏しく、およそ女性を喜ばせるということはできなかった。デートをしていても、彼女がずっと話をしていた。その頃の私へのあだ名は「石部堅吉」であった。
仲人は、父方の叔父が引き受けてくれた。叔父は口うるさかったが、面倒見はとてもよかった。困ったときには頼りになった。
結婚は甘い生活だというのは理想であって、実際は異文化の人間同士が同居するのであるから、小さなことでもけんかばかりしていた。けんかしても負けることが多いので、夫婦関係とは、負けることをいかに学ぶことだと思い知った。連戦連敗である。
パートナーは、教員ではなかったので、余計に自宅に仕事を持って帰ることに理解できなかったようだ。

教訓:ひと言で言えば、人生の難事業が結婚である。相手もそう思ってい  ることだろう。


笑瀾万丈9 新任教師 Web 公開

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☆新任教師

 昭和49年、神戸市の下山手小学校に赴任した。四年三組の担任としてスタートした。33名だったと思う。
 新任教師は何もかも初めてのことだらけである。授業するのも初めて、学級経営も初めて、保健の健康検診も初めて、家庭訪問も初めて、部活も初めて・・・。本当に初めてだらけであった。 
 数学科を卒業したので、子ども達をなんとかして算数好きにするぞという思いで教壇に立った。そのための工夫はいろいろした。教室の後ろに面白パズルを毎日貼ったり、計算練習のカードが良いと聞けば、それを手に入れて練習したりした。
 毎日が教材研究の連続であった。前日に教材を頭に入れて次の日に、吐き出すといった自転車操業であった。教材研究ノートを作って、授業の流れと板書をまとめて授業に望んだ。自宅に戻って教材研究するのであるが、あっという間に夜中になった。ところが、十分に教材研究したつもりでも、理科の指導書を完読したつもりでも45分間の授業が、もたないのである。授業の後半をいかに、もたせるかが課題であった。算数の時間は問題量があれば45分間はもった。反対に、時間が足りない教科があった。国語や社会科である。これらは指導書通りにやっていると、とても足りない。しかも、指導書にのっているような素晴らしい考えが出ないのである。国語の理想的な授業とは何かは、なかなか分からなかった。
 そんなこともあり、教育書はかなり買って読んだ。「教育技術」は毎月購読した。また、学級経営事典を購入して何かしら工夫すべきことはないかと、どんどん試していった。
毎週、土曜日の夕方、部活が終わって元町に出て、日東館という書店に行って教育書コーナーに行き二、3冊の本は購入した。体育の本、理科の本はもちろん、算数の本と片っ端から読んだ。最近の若手教師が本を読まないのには全く驚く。教師に知性がないと、子どもにダイレクトに影響する。これを自覚していない若手が多い。
 そのうち、毎日、教材研究するのではなく、日曜日にまとめて教材研究をするようになった。夕方からは時間があるからたっぷりできた。それでも、25時間分の教材研究は並大抵ではできない。水曜日までくらいの計画は立てた。だから、木曜日の授業はかなりきつかった。


笑瀾万丈8 座りすくむヒロシ Web 公開

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第2章  神戸市の教員時代編

笑瀾万丈劇4 座りすくむヒロシ

☆職員室の机の上に指導書
 ヒロシは、大阪教育大学を昭和49年三月に卒業し、四月に出身の神戸市の小学校教員となった。希望に燃え溌剌としたヒロシであった。
 就職した四月の初め頃、ヒロシは、ある瞬間愕然となる。職員室でヒロシは立ちすくんでいた。いや、いすに座りすくんでいた。
 朝の八時三十分、職員朝集があった。教科書配給の担当の人が、
「先生方の机の上に、教科書と指導書を置かせていただきました。これは、3年間使うものですから、大事にお使いください。」
と話した。
 ヒロシは、その声よりも机の上に高く積み上げられた教科書とその指導書、すなわち、小学校だから教科書は国語、社会科、算数、理科、道徳、5冊、指導書は体育も増えて6冊積み上がっていた。高さ20cmはあった。これを見た瞬間、すくんでしまった。これを毎日読んで教えるのか。ぼくにできるかなあ。ヒロシは、不安にかきたてられ、ため息をついた。
 教育実習の時にはこんな感覚はなかった。与えられた時間に与えられた科目を教えるだけだったから、目の前の20cmという光景はヒロシにとっては驚愕以外に何もなかった。この先、小学校の教師として毎日、指導書を読み、展開を考え、教えるのかということを想像すると怖かった。ただ呆然と座っていた。きっと30秒間ほどの時間だっただろう。
しかし、この30秒間は5年くらいの気分であった。気がつけば職員室にひとりぼっちである。皆さんは、教室に向かって行った。ヒロシだけがたたずんでいた。いや、腰が引いていたのであった。この時からぎっくり腰だって、そんなわけないよ。びっくり腰だよ。
 前の方の教頭先生が心配そうにこちらを見ている。
 プロのきびしさを知った瞬間であった。
 それからというもの、毎日、重い指導書を持って帰る毎日であった。


笑瀾万丈7 Web 公開

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☆採用試験
大学は大阪教育大学であったが、就職は神戸市にした。神戸で生まれ育ったから当然である。その頃、高校の同窓生で大阪教育大学に入学した者では、神戸から大阪に就職する友人もいた。たぶん、将来を考えてのことだったと思う。私には、なぜ大阪に就職するのかが分からなかった。世間知らずであった。
私は、神戸に恩返しをするつもりでいたから不安はなかった。ただし、その頃の倍率は2倍を切っていた。大げさに言えば、誰でも合格可能であった。でも、私は採用試験の勉強をかなりした。というのも、父がガンだから、試験で失敗するわけにはいかなかった。だから、周りの人よりも勉強をした。だから、採用試験の問題はけっこう解けたと思う。高得点だったと思う。
面接試験の時に、面接官がにこにこしていた。そして、「夢野台高校出身ですね」と面接官から質問された。「この方はご存知ですか」と。私はわからなかった。その方は女性で、夢野台高校の同窓会長だった。確か、白井さんだったと思う。面接の雰囲気からして、神戸市は来てほしいという感触を得た。


教訓:絶対、勝たねばならないときがある。そのためには、徹底してやることである。


笑瀾万丈6 Web 公開

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☆笑えない話 父の病気
 大学三年の頃から父はガンで闘病生活をおくり入退院を繰り返していた。祖母は寝たきりの状態であった。母はヤクルトおばさんで頑張っていた。教育実習の頃、父の看病で参っていた。全身に転移して痛いという。さすってあげるがその場かぎりであった。
 大学四年生の12月に父は亡くなった。今でも首が傾いた瞬間は覚えている。はかなさを感じた。49歳であった。相談できる身近な人が亡くなった。だから、その後の人生は、自分で決めざるを得なかった。しかし、叔父や恩師などにめぐまれ相談にのっていただいた。
さて、寝たきりの祖母も、二週間後に父の後を追うように亡くなった。二週間で五人家族が母、私、弟の三人家族となった。祖母は心臓が強く、父が亡くなったときも寝たきりではあったが、気丈であった。きっと、父が祖母を連れていったのだと思う。
四年生の一月は卒論を提出する時期であったが、12月に父が亡くなり、元気を消失していた。それまで、卒論は一番進んでいたのが、一気にトーンダウンした。それを見ていた三輪先生から叱咤激励された。

教訓:家族の人数はあるとき突然減る。


笑瀾万丈 5 数学科ゼミの配属 Web公開

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笑瀾万丈劇3 数学科ゼミの配属

☆密談する三人
 大学三年生の九月のこと。
 数学科の同級生のO君、I君とヒロシがいた。
「どうする?ゼミの希望を。」
「うーむ、どうしようかなあ。」
「分からんなあ。」
と3人は語り合っていた。
「数学をやるつもりはないし…。」
「かと言って、数学教育の先生も…。」
 これまで授業を受けた中で、ぴったり合うような教官は見当たらなかった。生意気なことを言う、世間知らずの三人の学生がいた。その中の一人は、もちろんヒロシであった。
「あっ、そうそう。三輪先生っているよね。」
「どうやら数学教育を専門としているらしいよ。」
「へぇーそうなんだ。」
「三輪先生は、確か一年生の時に代数学の授業をしてくれたね。とても分かりやすかったよ。」
「そうだね。分かりやすかった。」
「でも、引き受けてくれるかなあ。」
「夜間課程の二部の先生だよ。」
「無理かなあ。」
「数学科の主任教官に相談に行こうか。」
「それがいいな。」
と、よもやま話から三人は数学科の主任指導教官のA教授の元に相談に行った。すると、「三輪先生が引き受けてもよいというのならばかまいませんよ。」
という返事をもらった。
 喜びいさんで三人は、三輪先生に会いに行って、「先生に数学科のゼミ指導をお願いしたいのですが…。」
 すぐに快諾かと思いきや、三輪先生は慎重だった。
「ぼくの方針はたくさんの人は取りません。また、研究をやりたい分野が異なると指導はできません。だから、私が指導できるかどうか研究分野次第です。研究したいことをまとめて来なさい。そこから考えましょう。」
 この返事で、難しいと判断すべきだった。でも、ここまで来たら、三輪先生にすがるしかない。三輪先生の得意な分野って何だろう。ということで、三人は大学の図書館に赴き三輪先生の得意分野を雑誌などで調べた。「数学教育」か「数学教室」かは忘れたが、三輪先生の論文が掲載されていた。題目は「関数教育」である。やっと見つかった。入りたいとなれば、何としても見つける。これが人の道。

教訓:希望を持てば、人はどんどん行動する。

これならば、我々にもできそうだということになり、面談に行った。
「先生、研究テーマのことですが、『関数教育』について調べたいのですが」
しばらく考え込んで、「いいよ。それなら指導できる。」
「やったあ!!」
 勝利の心の声。思わず顔がほころぶ。喜んだ。が、
 次の瞬間、ががーん、と人生まさか…。真坂の坂道を転げ落ちる。
「来週からゼミを実施します。」
「ええっ!?」
「そんなはずではないのに。普通のゼミは四年生からですよ。」と心の声が叫んでいたが、自分たちが希望したのだから、「いやです。」とは言えず、「はい。」と、うなずくしかなかった気の弱い三人であった。
 また、三輪先生の次の言葉がトドメを指した。
「これを翻訳します。」
 先生が取り出したのは、アメリカの数学教育団体(NCTM)の年報で「FUNCTIONAL THINKING…」分厚い本であった。昭和の初期に出されたもので、英語も古い文語調のものであった。今から思えば三輪先生は、ゼミを引き受けるとしたら関数を再度学び直しをすることに決めていたと思う。三輪先生の術中にはまったヒロシであった。
これをゼミで毎週、連続で翻訳していく作業となった。三人しかいないのですぐに順番が回ってくる日々であった。でも、このことは関数教育の基礎として何が大事かを身に付けさせていただいたと思う。とてもありがたいことであった。


笑瀾万丈 4 代数学の授業 Web公開

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笑瀾万丈4 代数学の授業 Web公開

☆代数学の授業
 後期には、数学の講義は、もう一つ代数学があった。これは、三輪辰郎先生が教えてくださった。
 三次方程式の解の公式、四次方程式の解の公式などをやった。三輪先生は、天王寺分校から池田分校までわざわざ来られて教えてくださった。
 一年生の秋頃、たまたま阪急電車で池田から大阪梅田駅へ向かう急行電車に乗り合わせた。隣同士だったので話をした。そのとき、代数学のことについて、いろいろと質問してみた。その際、代数学の本を貸してもらうことになった。ファンデルヴェルデンの代数学の本で自学自習した。この本は、はじめは易しかったが後半は難しかったような記憶がある。
 さて、この三輪先生との出会いは、その後の人生を左右するものとなった。
教訓:何気ない出会いが今後の人生を変えることがある。人との付き合いは、一期一会であるが常に大事に付き合うことである。



笑瀾万丈3 ルンルンで入学 Web公開

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笑瀾万丈劇2 ルンルンで入学

 昭和45年の四月、受験から解放されたヒロシは、るんるんで大阪教育大学の池田校舎の門をくぐった。
 大学の講義は新鮮であった。一般教養の科目は大部屋での講義で、東洋学、地学、憲法などを受けた。数学の講義は、数学科の学生向けに一般教養の科目として特別に指定されていた。微積分の講義と代数学の講義を受けた。
 いかつい顔をされたK先生は、微積分の講義を始めた。第一回目に高校二年生の数2Bの微積分の講義からされた。
「あれ?」
 これは高校二年生の勉強だなあと思っていたら、どんどん進んでいく。講義と演習がセットで進む。そして、一人ずつ式変形を指名していく。
「ええっ!!やばい」
ヒロシの番が来た。何とか、式変形できた。
あろうことに第二回の講義で高校二年生数2Bの講義は終わった。
「ええっ。どうしよう」
 ヒロシは数3を学んでいないのである。文科系だったので、数3は履修していなかったのだった。
 この先13回も数学の授業がある。このままじゃあ、落第である。合格したことでるんるんのヒロシは、ひやひやどきどきに変心。まる子ちゃんのような顔面蒼白な顔になった。 
 そこで、ヒロシは考えた。
「ようし、数3を勉強しよう。自学で乗り切ろう」と決意したヒロシでした。
 早速、友人のU君にお願いして数3の教科書を借りた。そして、数3の参考書を一冊買って猛烈に勉強した。
「うんうん、なるほどこういうことか。俺って意外にできるかも!」
と思いつつ、一ヶ月で数3を自学自習した。分厚い一冊の参考書をやりこなしたときには、自信に満ちあふれたヒロシがいた。そして、大学の微積分の授業についていく力を修得していた。やるじゃん、ヒロシ。

教訓:逃げれるものならば逃げる。逃げられないとなったら頑張るしかない。


笑瀾万丈 夢現大8 Web公開

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はじめに

2月で63歳になりました。定年退職の年です。この後、再雇用で二年間愛知教育大学に勤めさせていただきます。
ここに至るまで皆様には大変お世話になりました。あらためて感謝の意を表します。ありがとうございました。
22歳で神戸市の小学校教員をスタートして、41年間、筑波大学附属小学校、愛知教育大学数学教育講座、そして、愛知教育大学教職大学院と、ここまでがむしゃらに働いてきました。
 私のこれまでの道は、算数教育一筋だったと言えるでしょう。こんなにも好きな道を歩むことができたのは、とても幸せなことです。この本では、私の人生の歴史を振り返ってみます。これまで誰にも語ったことがありません。
 人生は時には笑い、時には悲しみ、時には喜び、時には苦しみます。人生にも四季があるように思います。今の私に言えるのは、全て「お芝居」であったということです。このお芝居を如何にして演じてきたか、これをこの本で振り返ってみたいと思います。
 そして、結論としては、波瀾万丈というよりも笑瀾万丈(わらんばんじよう)という言葉がふさわしい人生であったと思います。過去形ではなく現在進行形として笑瀾万丈の人生を紹介したいと思います。
 後から振り返ってみると、全くもって、人生とは笑い話です。
 あのとき、ああすれば良かったという思いはありますが、所詮過去のこと。ユーミンの歌にもあるようなあの日に帰りたいとは思いません。
 すべて必要・必然な出来事だったのです。しかも、ベストな出来事だったと思います。これを受け入れてきました。この受け入れる言葉が関西弁で「しゃあないなあ」です。標準語で言えば「仕方がない」です。仕方がないというとあきらめの気持ちのようですが、実は、現実のありのままを受け止め、さらに新しい行動へと向かうという意味が「しゃあないなあ」にあります。過去や現在を肯定し、明るい未来をつくるために「しゃあないなあ」で諦観の境地に立つことができます。
 この本では、ヒロシの過去をお話するとともに、そこから得た教訓を明示します。全くの書き下ろしです。「しゃあないなあ」という笑瀾万丈の人生をお楽しみください。 始まり〜始まり。
                愛知教育大学 志水 廣






笑瀾万丈 夢現大8 Web公開

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第一章 大学編


笑瀾万丈劇1 受験番号がない

☆「ない」、「ない」、「ない」、「ないよー」
 「♪ ない ない ない 恋いじゃない」という台詞ではあるまいが、合格発表ボードに私の受験番号がない。これが4回続いた。「ないないないない」である。関西の某市立大学2校、北九州の某公立大学、高知の某国立大学の4回連続連敗である。偏差値に見合った大学を選択したつもりであるが、相手の大学からは、顔でも洗濯して出直して来いということか。
 18歳のヒロシは、ひどく落ち込んでいた。あの三年間の長い長い受験勉強は何だったんだろうか。受験生ブルースのぼくがいた。朝から英単語テストに備えるため豆手帳を徒歩で30分間見ながら登校する。学校に着けば早朝模擬テスト、気が張り詰めた授業、帰宅すれば明日の授業の予習と別の参考書での受験勉強。時には、息抜きに近所の屋台に通い、ワンタン入りラーメンを食べた。そして、また勉強。一日七時間の受験勉強は当たり前の毎日であった。 
 合格の発表を期待している親への報告ほど辛いものはなかった。でも父親も母親もただ黙っているだけだった。担任への報告、これも苦しいものがあった。四連敗はこたえた。担任の永田先生は電話で「しっかり頑張れ」と励ましの言葉をいただいた。
 そして、三月の半ばに国立二期校である大阪教育大学を受けることになった。こちらが本命の受験である。しかし、四連敗の私は足取り重く受験会場の高校に入った。
 当日の朝、寒い時期で雪がちらついていた。
 なんとか答案を書いて出した。この後、不安な日々が続いた。もしも落ちていたらどうなるのだろうか。親の給料からすれば、たぶん浪人はありえない。
 
☆合格発表の日
そして、合格発表の日が来た。運命の日である。♪ダ、ダ、ダ、ダーン。ベートーベン交響曲第5番。
 弱気なヒロシは、同級生の平岡君に一緒に行ってもらうようにお願いしていた。平岡君は、神戸市立商科大学にいち早く合格していた。余裕の彼だった。平岡君はふんわりしていて聡明であった。高校二年生、三年生と友達であったので、神戸からに大阪まで同行してくれたのであった。大阪環状線寺田町の駅を降りて徒歩三分で大阪教育大学の門をくぐった。合格発表を見る勇気がヒロシにはなかった。また、「ないない」が続くかと思うと、恐怖で発表の掲示板を見る気になれなかった。
 「発表を見てきてほしい」と弱気な声で平岡君に伝えた。
 すると、平岡君は、「ええよ」とフランツェンのような響きとはほど遠く、淡々と応えた。
 しばらくして帰ってきた。走ってきた。「おゃっ?」。走ってくるということは…という意味さえ気づかないでいた。
「どうやった」
「あったよ。」
「ほんまか??」
 四連敗のヒロシは、その言葉が信じられず再度尋ねたのであった。
「ほんまやで」
「あったあ!!やったあ!!本命合格や」
「では見に行こう」
 この後、一瞬で青ざめることになる予感もなく、ただただ喜ぶヒロシであった。
「ほんと、どこや、どこの掲示板や」
「ほなら、行こうか」と掲示板に平岡君はヒロシを連れて行った。
 教育心理学科の掲示板を見た。
 ガツーン!!
 教育心理学科の掲示板にはヒロシの受験番号はなかった。またもや、「ないない」の連続で、五連敗か。一瞬、平岡君の言葉が嘘かなあと思った。
 受験番号が掲示板にないので、平岡君に「ないやないか」と抗議した。
 すると、平岡君は平然として「こっちにあるで」と左側の掲示板を指さして言った。 「そうかあ、どれどれ?!」
 左側の方向の掲示板を見ると、数学科の欄にヒロシの受験番号があった。
「あった。あった。」合格したのだ。短い足で喜んで100回ジャンプした。(そんな大げさな〜。 はい、大げさです。冗談ですよ。)
 ええっ!?
 じゃじゃじゃーじゃーん。(トーンを下げて)
 教育心理学科を希望していたのに、数学科に合格。真坂の坂道に転げ落ちた。いやいや、合格したのだから、重力に反して坂道に転げ上がった。ヒロシは第二希望に数学科を選択していたのであった。だから、数学科に合格したのである。
 ああそういうことね、と一瞬でこの状況をヒロシは納得した。数学科に行くしかない。一瞬で転向生となった。数学科の番号を見た瞬間に、ヒロシの人生は文科系から理系に転身となった。宇宙が理系に転向せい!という指令であったのだと今から振り返ると思う。理系へ華麗なるデビューである。

☆貴重な一勝
 ヒロシは、高校時代、二年生から三年生と文系コースにいた。なのに、入試が終わると理系だった。何なんだろう??と普通ならば思うが、そこは気変わりの早いヒロシ、すぐに家と高校に電話をした。母はもちろん担任の永田先生も喜んでくださった。よほど嬉しかったのか、大阪からの帰り、あわてて帰る必要はないと思ったヒロシ。「そうだ、京都へ行こう」というキャッチフレーズのように、「子園球場へ行こう。高校野球だ。ヒロシと平岡君は、午前の重い思い雰囲気から脱出して、青春している高校野球に思いっきりひたったのであった。その後の数学の苦しみもわからずに…。

教訓:合格すれば全てを忘れることができる。

 連戦連敗のヒロシにはこの一勝が貴重だった。贅沢は言っていられない。両親の経済的な負担を考えると、国立が本命であり、この道しか残されていなかった。選択肢は一つだけだった。この一勝が数学道への第一章であった。それが、一生の道になるとは・・・。(笑)
 こうやって、人生には不可思議なことが起きる。ある日突然、生き方が変わる事件が起きる。今から振り返ってみると、神様が 「志水よ。あなたの本来のコースは数学科ですよ。」と目覚めさせてくれたのだろう。
文系にいたために苦手の物理も学習せずに、数学科に入ることができ、なんてラッキーな人生。

教訓:ある日突然、人生が変わる出来事がある。
教訓:4連敗をプラスの面でみると、入学金を1校にも納入していない。なんと親孝行のことだろうか。

☆選択肢は一つだけ
 さて、ある日突然、人生が変わったら、みなさんはどう思うか?びっくりするよね。でも、選択肢は一つしかないこともある。有無を言わさずにそこしかないのである。このことを憂いしても仕方がない。
 

愛の現れ

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どの子も「わかる」「できる」「身に付く」教育をするために志水メソッドは開発されてきました。


その根底が上のフリップの「愛の現れ」です。
子どもをしっかり見ましょう、また、声をしっかり聞きましょう。
すると、子どもの「知」と「こころ」の叫びが見えてくるし、聞こえてきます。

そこから、教育は始まり、そして、そこに帰着するのです。
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