最新更新日:2024/12/01
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69 仕掛け1 小学校の顧問学校づくり

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☆どこかにないか?

 ヒロシは一つの仕掛けを考えていた。愛知県の現場との接点である。特に、現場の実践が見たいと思うようになっていた。ところが、愛知には知り合いの先生がいない。そこで、ヒロシは考えた。
 そうだ。啓林館のSさんにお願いしよう。
 Sさんは、ヒロシが赴任したときに挨拶に来てくれた。あの人なら大丈夫かもと思った。電話で算数の授業を見せてくれる学校はないかと依頼した。半年してようやく見つかった。豊田市のN小学校だという。ここならば、校長先生は算数なので授業参観できるかもしれませんとSさんは返答した。
 Sさんの車に乗り、N小学校を訪問した。そこで、S校長先生にご挨拶した。その学校の授業を参観した。ところが、N小学校以外の二人の先生がなぜかその場にいた。授業参観後、授業者にアドバイスした。アドバイス後、例の二人の教師がぜひとも私の学校に来てほしいという。このときのお一人が和田裕枝先生(元、豊田市立小清水小学校長)であった。
 どうも、私の指導の様子を偵察にきていたようだ。それで、間違いないと思われて、ヒロシをスカウトした。つまり、ヒロシは和田先生に見込まれたのであった。そして、授業参観後、和田先生の所属の豊田市立高嶺小学校を直行することとなった。
 こんなこともあるのだと和田先生の車の中で思っていた。ヒロシがスカウトしたのではなくて、ヒロシはスカウトされたのであった。
 そこから高嶺小学校との長い長いお付き合いが始まったのであった。その後、鈴木由里子先生、落合康子先生が高嶺小学校に来られて現職教育を充実させていくこととなった。現在でもこの三人とはお付き合いがある。出会いはとても不思議なことだと思う。
 紹介された学校とはご縁がなくて、全く知らない学校と縁がつながることとなった。高嶺小学校とは普段着の授業の中で学力アップになるような研究を続けてきた。本読み計算
も仕掛け1は不思議なご縁のおかげで大成功であった。


笑乱万丈68 新たなる出発

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☆新たなる出発

 皆さんは、筑波大学附属小学校を経てから愛知教育大学の助教授になるのだから、その後は順調に推移したと思われるだろう。それは違う。大学に赴任してから22年間になるが、絶えず仕掛けてきたのである。新しい任地に赴くということは、全くの無名から始まるということである。愛知での地盤、地縁はゼロの世界である。だからこそ、人と人とのつながりを求めて動いてきたのである。
 赴任当初、講演依頼はほとんどなかった。千葉の八千代市に呼ばれたくらいであった。長野県の木曽地方との縁は大学に赴任したときに始まった。後は、青森県との縁で十和田の地区に講演に行った。
だから、一つ一つの仕事を丁寧に努めたのである。そこで、大学の先生としての信頼を得ていったのである。40歳から42歳くらいまでは講演の数は少なかったが愛知県内での講演は、教科書会社の啓林館を通して県内に講演で出掛けるようになった。一つ一つの学校や地域におもむき、愛知での地盤を築くのに、10年はかかったが「日本数学教育学会 全国大会」へと結びつくこととなった。

教訓:地盤は自分でつくるものであり、反面、紹介してくださる縁のつな  がりでもある。


笑乱万丈67 長女の事件

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☆長女の事件

 大学に赴任して半年後、平成5年四月に家族は東京から引っ越してきた。そこから落ち着いて授業ができるようになった。
 奥さんは、車の免許をとって買い物に行くようになった。
 すでに住んでいた愛知教育大学の官舎に入った。長男は中学校3年、長女は中学校一年で入学した。富士松中学校であった。東京からの転入生ということで、ずいぶんと珍しがられたそうだ。これが、東京の学生服かと。そんなもの同じに決まっているのに。
 入学したてのあるとき、長女が私に「今日、数学のテストがあって、難しいなあと思って表紙を見たら、筑波大学附属小学校 志水廣と書いてあったよ。」「こんな難しい問題を私にやらせるなんて…」このような抗議を受けた。どうもNRTのテストだったようだ。当時、私が六年生のNRTの問題作成にかかわっていた。それが娘にヒットしたらしい。自分の子ども達には、ほとんど勉強を教えたことがなかった。NRTのテストは自宅にあったので紹介したらよかったかなと親心で思ったが後の祭りで、娘には、難しい数学のテストで父親にいじめられたという記憶が残った。

教訓:思わぬところで娘と父の対面あり。

笑乱万丈66 ☆大学の授業づくり

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66 ☆大学の授業づくり

愛知教育大学に赴任した。当面の仕事は大学の講義ノートづくりである。算数科教育法と算数科研究の授業があった。この主な違いは、教育法は指導法にかかわるものであり、算数科研究は算数科の内容の教材研究である。しかるに、この指導法というのが心許ない。当時の、大学の教員はあまりよくわかっていなかった。20年前のことだから、今はどうなのかよくわからないが当時の教員は、算数科教育法の授業で教材研究の内容を解説し、算数科研究の方で数学的な知識を教えていた。算数科研究を教える人は数学者なので現場のことがわからない。ただし数学のことはわかるので、それを教えるといった担当教員の都合からくるものであった。
私は、それを打破したいと思い、算数科教育法では教え方について講義した。初期のテキストは、「教科書を活用した算数の授業」(啓林館)であり、その後は、「算数科授業づくりのマニュアル」(明治図書)を採用して指導法の解説をした。
学生にとっては、私のような実践家の授業はとても新鮮であったようだ。授業で起こる教師と子どもとのドラマを指導事例をもとに話していった。毎回、講演をやっているようなもので、半期6ヶ月の講義を15回実施するなかで体系的に述べていくには労力を要した。

教訓:教える対象が変われば、教材研究するのは当然のことである。



笑瀾万丈65 ☆奇跡というしかない

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65 ☆奇跡というしかない

後から話を伺うと人事とは全く不思議なつながりである。私は根本博先生の後任に当たる。根本先生は、北海道教育大学から愛知教育大学に移籍されて、二、三年在籍された。根本先生はその後、文部省の中学校の教科調査官になられて転出した。私は、その後任人事に当たる。人事はいろいろ紆余曲折したあと、実践畑の教官を採ろうとなったと聞く。そこで、私をはじめ数人に声が掛けられたれた。
当時、附属小学校の算数部は、滝、正木、志水、田中、夏坂の五人であった。手島先生は前年くらいに上越教育大学に転出されていた。私に声を掛けられたということは上の人から見れば意外だったと思う。「なぜ、志水に声が掛かったのか?」
それは、愛知教育大学側からの条件がそうだったからである。40歳前後でなおかつ修士をでているという条件であった。だから、その条件に合致したのが私であった。でも、先輩からすれば不満だったと思う。
 後日聞いた話によれば、私は大学院を修了していた。ここが大きい実績であった。しかも、業績に関しては、学会の論文、著書、雑誌の原稿等かなりの分量であった。だから、公募者の中では圧倒的な優位にあった。だから、うまく大学の教員として合格となった。国立大学の場合、業績審査はかなり厳しい。事前の審査、選考委員会の審査、そして教授会の投票をもって決められる。ある人は、教授会の投票のときにもめて駄目になったことがあった。そんなこともあって、私はなんとラッキーなことだと思った。
大学院に行くときの様々な妨害、いじめは筑波大学附属小学校や愛知教育大学の教員になって、報われた。それにしても28歳のとき、なぜかしら大学院に行きたいという魂の声を無視できなかった。普段は大人しい私だが、どうしても行きたいと思ったのである。我を通したのである。人は、この世に生まれた使命をもっている。この使命は長い人生行路の中でわき起こってくるものである。

教訓:魂の声を無視できない。魂の声に従って生きることができれば、艱  難辛苦があっても結果的には魂が喜びとなる。


笑瀾万丈64 ☆附属小学校の8年目

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64 ☆附属小学校の8年目
筑波大学教授の能田伸彦先生から電話がかかってきた。
能田先生は、恩師の三輪辰郎先生の後を受けて、数学教育講座の責任者であった。能田先生とは、算数の教科書の編集で一緒に仕事をさせていただいていたので、知り合いであった。しかし、直接の弟子というわけではなかった。愛知教育大学で助教授を募集しているから応募しないかという電話だった。まさかという感じであった。しばらくの時間考えた。そこからやはり大学に行きたいと思い、朝の7時半に能田先生に電話をして「よろしくお願いします。」と伝えた。能田先生からは、応募するのなら「愛知で頑張るつもりでやりなさいよ」と激励された。
そこから、応募書類をもらって業績の整理をし、大学へ送った。
愛知教育大学とは全くご縁がなかった。愛知教育大学数学教育講座の柴田録治教授とは算数の教科書の会議で面識があった程度である。応募して、審査の上、合格となった。数人の応募があったと聞く。


愛知教育大学時代編 63笑瀾万丈劇   ☆ドライブしているヒロシ

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愛知教育大学時代編

63笑瀾万丈劇  ツウキンのドライブ

☆ドライブしているヒロシ
 目の前にぱっと見えてきたのは、朝日に映える雪景色の富士山。火曜日の朝、時刻は午前6時30分。ヒロシは東名高速道路を走っていた。さすが冬の富士山である。圧巻である。つい二ヶ月前には想像もつかない行動であり光景である。東京板橋区から愛知教育大学に向かう通勤途中である。車はダイハツの珍しい1600ccのアプローズである。色はグレーメタリック。日産シーマと同じ色だと言えば、年配の人はおぼろげながら思いだすだろうか。非常にシックな色。というか、地味そのもの。現在のヒロシの車(V40)とは対極の位置にある車である。アプローズの前が軽自動車だったため、550ccから1600ccへの変化はとても革命的であった。とても安心感のある車であった。
 なぜ、ヒロシは遠距離通勤をしたのであったか。愛知教育大学に赴任したのが1992年10月である。そこから6ヶ月間、単身赴任した。娘が小学校六年生のため、卒業まで一家そろって転居できないためであった。月曜日または火曜日に愛知に行き、金曜日の夜中に東京に帰るサイクルであった。東名を使うのが3に対して、新幹線が1の割合であった。
4時に起床し、5時に東京板橋区にある文部省の官舎を出発。板橋インターから首都高速を駆け抜けた。さすが、この時間はスイスイと走る。東名の入り口、用賀インターを40分ほどで通過できる。
 ヒロシは片道4時間弱の行程を眠らずに走り続けた。途中、一ヶ所ないし二ヶ所で休憩をとる。眠ってはいけないのでミュージックテープを聴きづけている。ユーミン、高橋真梨子、門あさ美などニューミュージック系のテープが多かった。なぜか、東名なのに、中央フリーウェイーである。ユーミンの曲はドライブをかなり意識して構成されており、ウキウキ走ることができる。
 ところが、静岡県の牧ノ原台地を過ぎた頃、どうしても我慢できなくなってくる。眠いし、音楽も飽きてくる。眠いときは、片手で顔をはたきたおし(倒れたらいけないのでもう片手で支え)、足をつまみ、痛いと言うのはいやだから優しくつまみ、起こすのであった。ヒロシは、ガムをかみつつ、曲に合わせて大声を発したりして睡魔と戦っていた。
 それでも我慢できないときは、サービスエリアに突入するのであった。何を我慢できないのか、音入れである。明け方なのでお腹がゴロゴロ言うのである。このお腹の中の雷と格闘しながら運転することほど、切羽詰まったものはなかった。冷や汗はでるは、眼が汗ばむは、足は震えるなど雷さんの過酷なしうちに耐えるヒロシがいた。しっかりと音を入れた後は、スキッと一発。さっきまでの地獄が嘘のように、さわやかな気分で車に乗り込むヒロシであった。
 浜名湖を過ぎるともうすぐ愛知県である。豊田インターまで一時間である。この豊田インターが曲者で、インターチェンジでぐるぐる回っていくうちに、ヒロシのGPSは壊れ、どちら方面に行くべきかが分からなくなってしまった。道路標識を見失うと、大学まで20分のはずが40分かかることもあった。
 刈谷の北部に位置する(別名刈谷市のチベットと言われていたそうだ)愛知教育大学に到着が8時30分である。
 9時10分の大学の1時間目の授業をするさわやかにヒロシがいた。


笑瀾万丈62 銀島文先生

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☆銀島文先生
 清里合宿のご縁で言えば、銀島文先生(現在、国立教育政策研究所)のことも付け加えておきたい。銀島先生は筑波大学に在籍中に筑波大学附属小学校に観察実習に来られた。たまたま私の学級に配属された。そのご縁で清里合宿にも同行することになりとても助かった。
 まさか、数学教育の分野でその後、仕事をご一緒することになるとは思わなかった。一番長く仕事をしたのは、文部科学省の第一回の全国学力・学習状況調査問題を作成したときである。私は主査(つまり委員長)を務めさせていただいた。依頼されてきたのは、吉川成夫調査官からの依頼であった。国立教育研究所に行ってみると、銀島先生がいたのでびっくりした。とにかく第一回であったので試行錯誤の中、協力委員と一緒に作ることができたのは懐かしいことであった。文科省に50回は通った。銀島先生の聡明な働きは今でも印象に残っている。


笑瀾万丈61 ☆関川さんとのご縁

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☆関川さんとのご縁

スナックラブで京野さんから関川さんを紹介された。関川さんとは12歳違う。一回り違う。材木屋さんの社長で可愛がってもらった。一昨年(平成23年)の八月に亡くなるまでお付き合いをさせていただいた。1六年間のお付き合いであった。
関川さんのすごいところは、毎回必ず飲み代をおごってくれた。私が支払うと言っても受け取らなかった。それを16年間、やり続けることのできる人のすごさに魅了させられた。若者の面倒もよくみた。例えば、30歳そこそこの人が串カツ屋を開業した。その意気込みを買って、そのお店に通って支援していた。
関川さんは、飲む時はほとんど何も食べない。夕食をとらない主義だった。お店の人がいつも心配していた。でも、本人は平気だった。
ビールのオンザロックを飲むのが好きだった。カラオケはうまかった。ラブではカラオケはできなかったので、他の店に行き、カラオケを楽しんだ。
関川さんと行く店は、若い女の子はいなかった。そんな遊びは終わっているという感じだった。どちらかと言えば、おばちゃまの世界であった。しかし、それらの店のママは情が厚い。
また、関川さんにいろんな質問をすると、そんな場合はこうすればいいよと教えてくれた。豪快でかっこいい生き方をしていた。職種が違っていても人生の生き方については大先輩である。だから、質問には即時に回答してくれる。
生き方でこんなことを教えてくれた。
バブルの頃、羽振りのよい材木屋があった。どんどん一人勝ちしていた。銀行との付き合いも良かった。ところが、バブルがはじけた後は、その会社は一気に吹っ飛んだ。生き残ったのは、みんなで助け合った会社だった。だから、自分の所だけいいという発想では、この社会は生き残れないのだと教えてくれた。
親父を22歳のときに亡くしたから、関川さんの存在は生きる指針として本当に役立った。亡くなる前に娘さんからメールがあり、急遽、上京し病院に駆けつけた。一時間ほど面談できた。それから二日後亡くなった。とにかくかっこいい生き方であった。
何のご縁かわからないが、関川さんの娘さんは愛知教育大学の近く、豊明市に住んでいる。娘さんによれば、お父さんとヒロシが飲んでばかりいた印象らしく、「飲んだくれのシミやん」と呼ばれている。

教訓:生き方に困ったとき、相談できる人がいること。これこそ生きた財  産である。



笑波瀾万丈60「清里合宿」がご縁で

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☆「清里合宿」がご縁で

 筑波時代は、お勉強ばかりではなくて、楽しいこともあった。筑波大学附属小学校に赴任してから3年目の年であった。五月の清里合宿に副担任として同行したのが図工専科の京野一(はじめ)先生であった。
京野先生は、まじめな性格であるがかなりの変わり者であった。年齢は55歳くらいだった。東京教育大学の美術を専攻して附属小に赴任したらしい。芸術家で日展にも洋画部門で入賞をしたこともあった。絵は本当に上手だった。昼の掃除の時間は黙々と草取りをしていた。私の学級は図工の授業でお世話になっていた。彼の授業はほとんど見たことがなかった。子どもからは可もなく不可もないという先生であった。京野先生とは同じ官舎で同じ棟に住んでいた。彼は一階、私は五階であった。同僚からはかなり敬遠されていた。彼は怒るととんでもないことをするからである。例えば、職員の懇親会のチケットがあったが、気に入らないと懇親会の係の目の前で破り捨てたと言うことを聞いたことがある。私の前ではそのようなことはなかった。
なぜ京野先生と親しくなったかというと、清里合宿中にいろいろと打ち合わせをしたからである。なぜだか分からないが、京野先生に気に入られた。合宿が終わったその日に反省会をすることとなった。京野先生のスタイルは毎日作業服であった。駅のホームで寝ても平気という強者であった。毎週土曜日になると、銀座の画廊を回るのが楽しみであった。とにかく飲み助で、お酒のぬるかんをよく飲んでいた。マイペースで飲んでいた。

教訓:強者(つわもの)と付き合うと心の幅が広がる。

笑瀾万丈59 スナックに通う不良中年

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スナックに通う不良中年

☆スナック「ラブ」
 ヒロシは、深夜12時すぎ、スナックで一人飲んでいた。
 今日の充実した日々を楽しむかのように、ご褒美にビールを2本ほど飲んでいた。
 お客さんは、経営者が多い。だから、教育の話題をすることもない。
お馴染みさん達なので気楽に飲める。
 スナックの名前は「ラブ」という。ママは里見さんであった。一人で飲み物や簡単な料理を手際よくこなしていた。とても気さくな人でどのお客さんからも可愛がられていた。
 ヒロシは、夜の算数研究会の後、上板橋駅を降りて自宅に帰る途中にスナックがあったので立ち寄った。
 人見知りのヒロシは、新規開拓の店探しはしない。ではなぜ、このお店を知ったのだろうか。
 清里合宿の打ち上げで図工専科の京野先生に連れて行ってもらったからである。
 36歳のときだった。
 京野先生と共に重い扉を開けた。薄暗い照明の中に一人の女性がいた。「いらっしゃいませ。」という声。
「どんな人だろう?」
 ヒロシは思いつつスタンドに腰掛けた。京野先生が「清里合宿の反省会をするので連れてきたよ。」という。
「はい、どうも〜。」という高い声。
 入ったときは夕方だったので一番のりであった。
 そのうち、あれよあれよという間にお客さんでいっぱいになった。と言っても10人くらいしか入れない広さであった。基本的にママはあまり干渉しない。ある時は将棋をさしても自由にさせてくれた。飲み物などを出すだけで精一杯なこともあるが、その人の雰囲気に合わせて接客してくれる。
 これにヒロシは、はまった。週に2回ほどではあるが、別の意味で忙しい日頃の癒しの空間となった。
 

笑瀾万丈58 最大の成果は

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☆最大の成果は
 第一冊目の単行本の発刊は、私にとってとても大きな出来事であった。
 第一に、単著を出すことでとても自信がついた。これで附属小学校でやっていくことができると思った。手島先生からもなかなかやるなと言われた。
第二に、発刊そのものが、信用を付けた。よって、明治図書からも出版できる基盤となった。その意味でも啓林館には大いに感謝している。
『理数』誌の連載が実を結んだ。3年間の連載は志水の原稿という貯金が貯まり、そして、啓林館編集部からの信用をもたらした。つまり、何事も地道に信用を付けていくしかない。それが実を結んでいくことになる。

教訓:いきなり単著の本は作れない。数年間の貯金があってこそできるこ  とになる。何事も積み重ねである。

笑瀾万丈57  突然の電話

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☆突然の電話
 夜、自宅にいたヒロシに電話がかかってきた。
「あの話(出版のこと)はどうなりましたか。」という。
啓林館「理数」誌担当の長野さんからだった。思いもかけない一言だった。
「実はね、M図書には断られました。現在、図書文化社にお願いして見当してもらっているところです。うまくいくかどうかは不明です。」と自信なく話した。
 すると、「では、私どもの方で出します。」
耳を疑った。私の聴力は確かなのか?確かだ。ほんとに言いましたよね。言いましたよ。長野さん、後戻りできませんよ。と心の中で叫んでいたヒロシであった。
またもや、♪ダダダ、ダーン。運命の一言。
 ♪あなたは稲妻のように、私の頭と心に響いた。
 神様、仏様、長野様。ありがたやありがたや。
 どうも、長野さんが上司の部長と相談して動いてくれていたようだった。
そこで、出版が決まった。
 本当に、人生は不可解なことが起きる。自分から頼んでもいないのに、配慮してくれていたのであった。今から思えば、宇宙貯金を3年間貯めていたおかげだったのであろう。
 この一冊で作家として華麗なるデビューを果たすのであった。
 半年がかりで全ての原稿を出し切り、二回の校正を経て、赴任四年目、37歳にして初めての一人で書いた本ができあがった。『教科書を活用した算数の授業』である。単著である。とても感慨深いものとなった。恩師の三輪辰郎(筑波大学)教授も推薦の言葉を添えてくださった。ありがたいことである。


笑瀾万丈56 処女作『教科書を活用した算数の授業』

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処女作『教科書を活用した算数の授業』

☆初めての単行本
 附属小学校に赴任して3年目。ヒロシは附属小学校にきた証しが欲しかった。なんとしても一冊の本くらいは出版したい。筑波大学附属小学校のネームバリユーの価値を確かめたかった。とはいえ、先輩の先生方に比較したら♪カモメはカモメ、いやヒヨコもヒヨコである。
 だから、筑波の志水廣の知名度はかなり低いと自覚していた。研究発表会をしても先輩の先生方の授業室には大勢の人が全国から駆けつけていた。それに比べて…。だからこそ一冊出したかった。
 3年目になると、啓林館発行の「理数」誌の連載原稿が3年間分たまっていた。算数の指導のポイントを連載したものである。ヒロシは、これらを何とかまとめたいという思いがつのった。
 そこで、出版社を探すことにした。初めから啓林館という頭はなかった。啓林館は教科書を作る会社であって、当時は教育書を出すことはまれであったからだ。ただし、記事をまとめ直すので、「理数」誌の担当の長野さんにはこの話はしておいた。他の出版社に頼んでみるからと。
 コンセプトは「教科書を活用した授業」である。出版社として数少ない知り合いの明治図書のSさんにお願いしてみた。Sさんは、「算数教育」という雑誌を編集されていた。ヒロシを応援してくれていた。ところが、Sさんには直接刊行する力はなく、上司の企画会議に出すことにした。この企画は没となった。当時は、教育技術の法則化運動と教材開発がブームであった。よって、教科書の活用というテーマ自体に魅力を感じなかったようだ。もちろん、ヒロシの知名度のなさも理由の一つだった。
 がっかりした時に、ちょうど思い出したのは、図書文化社のKさんである。(のちに社長になられている。)Kさんは親身になってヒロシの思いを受け止めてくださった。「分かりました。企画会議にかけてみます」ということだった。一ヶ月後に回答するということだった。企画会議がありその報告がくるときだった。

笑瀾万丈55 ☆研究授業に「命」

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☆研究授業に「命」
 皆さんは、研究授業が成功することにどれだけ命をかけているだろうか。考えに考え抜いているだろうか。
 たった、一回の失敗で、次の年の参加者が減るのだから毎年厳しい戦いであった。
 女性の先生方は、とてもストレートで「あの先生の授業は良かった」ということになれば、一人で20人くらいの広報マシンとなる。プラスの広報かマイナスの広報かでは大きな違いがでる。負けておられるかという感覚である。そのためには子どもを鍛え、教材も開発していかねばならないのである。
 6月の研究公開が終わった瞬間、学年主任から告げられた。「さあ、今から二月を考えるんだよ。」つまり、二月の研究公開の授業を今から考えておけということである。いやはや筑波の教官は強者揃いだとおそれいった。もちろん、6月の後は二月の準備、二月の後は6月の準備をする研究リズムとなった。
お陰様で、附属小最後の年、40歳のときの参加者は100名を超えていた。




笑瀾万丈54  圧倒的な差

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☆圧倒的な差
 もっと厳しいことを言おう。
 社会科の有田和正先生は50歳くらいのとき、300名の人を集めて授業された。附属小学校では入りきらないので、わざわざ近くの全林野会館のホールで授業された。ところが、ほぼ同じ年齢の社会科のZ先生は研究公開には40名ほどであった。これが附属小学校の自由競争の世界であった。私から見たら、Z先生も結構勉強されていて子どもにも人気はあった。それでも、300対40は圧倒的な差であった。
 こういう世界で退職まで生きていかねばならない。うかうかしていられない世界であった。最初の年に40名の参加であったから、次の年には50名、その次は60名を目指そうと思った。全国から来ている参加者は授業の上手い教師なら評価してくださる。だから頑張ろうと思った。


笑乱万丈53 学習指導案検討

☆学習指導案検討
 赴任当初6月の公開研究会の授業はとにかく初めてであるから、私は先輩の先生に指導案を見せに行った。
 まず、算数部のトップの中川三郎副校長先生に見せに行った。
 中川先生は、副校長室で、「志水君、まあ座れ。」と言って、私の指導案を机の脇に置き、
「変わり方というのはな、どういうことか分かっているか」、「関数だな」…と、30分近く講義を受けることになった。そして、指導案は全く見てもらえなかった。それで、やり直しであった。
 次に、手島勝朗先生に見てもらった。すると、教材観のところで、「筆者は、…と思う。」と書いたので、指導案に筆者とは何事かと注意された。筆者という表現は他人事のように思えるからである。この当時、指導案の書き方はとても下手で、大学院を出たとき、論文は「筆者」と書くべきだと思っていたので、この癖が残っていた。内容面のアドバイスももらったが覚えていない。修正して手島先生に持っていくと、「もういい、自分でやれ」という。(心の声:勝手だねぇー)。先輩も忙しかったのだろう。その後、学習指導案を事前に見せることはなくなった。
 授業当日、恩師の三輪辰郎教授も茨城県のつくば市から東京の文京区まで参観に来てくださった。これが最初で最後だった。励ましの言葉をいただいた。
 




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