最新更新日:2024/12/01
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作文の時間

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小学生編
☆作文の時間
 ヒロシはすくすくと育ち、六年生になっていた。
 ある国語の時間だった。
 担任の先生が語り始めた。
「では、作文の書き方について教えます。」
「参考になる作文があるので読みますよ。」
 担任の先生は、静かに淡々と読み始めた。
『ぼくはこの前の日曜日に家族と一緒に、動物園に行きました。』
うむ!?
 なんだか聞いたフレーズだ。
「はじめにチンパンジーの所に行きました。面白かったです。そして、ライオンの所に行きました。怖かったです。そして、しまうまのところに行きました。なんで、白黒になっているのかと思いました。そして、カンガルーの所に行きました。感想はありません。そして、ゾウさんの所に行きました。そして、キリンさんの所に行きました。・・・」
 やばい、ぼくの作文だ。いやな予感がした。
 先生は、良いとも悪いとも言わない。
 どうも変だ。クラスの中にはにんまりしている人もいた。
 そして、おもむろに、「皆さ〜ん、こんな作文を書いてはいけません。」
 またもや、運命の一撃。♪ダダダダーン、ガツーン。
 この一言が胸に突き刺さった。
 ヒロシは、あの作文が、なぜ悪いのか分からなかった。つまり、メタ認知が働いていないのでした。メタメタ悪い例らしい。
その後、理由を述べられた。
 この文章は、「そして、そして、そして、そして・・・ばかりです。」
 確かにそうだった。小さい頃のヒロシは接続詞は「そして」しか知らなかったのだった。
 貴重な語彙「そして」。これにぼくは、文章のつなぎの命をかけていた。
小さい頃ではないよ。六年生だよ、と言われそうだが。
 今から考えたら小さいんだ。
 同じヒロシにも「飛んで、飛んで、飛んで、…、回って回って…」というヒロシもいるが、同じセリフの繰り返しこそ、美文調だとその頃のヒロシは確信していた。
 ところが、先生の一撃によって、神戸生まれのヒロシは、「そして、神戸」のセリフを思い出した。♪こうーべ。泣いてどうなるのか〜
 もちろん、先生は、誰の作文であるとは言わなかったが、明らかにヒロシのものだった。深く傷ついた。部分肯定の精神さえもない。全面否定の世界である。自尊感情が確実に落ちた。だから、○付け法が大事だというのは、あの頃から思っていたのかもしれない。潜在意識にトラウマが刷り込まれてしまった。ただし、担任の先生は普段はとてもよい先生であった。この授業のこの場面だけがマイナスの印象に残ってしまった。愛知教育大学の教官になったときは、神戸で会食して励ましてくださった。
 ヒロシは国語が本当に苦手で、高校時代には現代国語、古典、漢文全て悪い成績だった。両親はどちらも小学校、女学校しか出ていなくて、およそ家には文学的雰囲気などなかった。あるのは口語体の世界。こうご(期)待というところだが、口語体の世界では、文の読解も作文も苦手は明らかだった。小学生のときはほとんど読書せず、少年サンデーが待ち遠しい少年だった。中学生になっても、ほんの少し読んだだけ。そして、高校入学時の課題読書が、亀井勝一郎の「邂逅」である。この文章の難解さに参った。
 そんなヒロシだが、今や本書『夢現大8』は100冊目となっている。100冊もの単行本を出版するなんて奇跡である。人間どこで変わるのかは分からないものだ。大学院時代から筑波大学附属小学校で鍛えられたからである。
 でも中には、きっとゴーストライターがいるのに違いないと思っている方もいるだろう。
 そうなんです。ヒロシの肩に筆下ろしさせている何かがついているのかもしれない。そうであれば、ありがたやありがたや。ひたすら「筆の神様、ライター様。ぼくのそばを離れないでください」と願う、今日この頃のヒロシであった。


☆演習を主に

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☆演習を主に
 これまでの教育講演会は、ただ話を聞いて終わりであった。それを実践にしていく場がなかった。そこで、教師塾は、演習を取り入れて欲しいとお願いした。現在の○付け法の演習で一人ずつ実際に机間指導していき、ワークシートに記録していく方法は玉置崇先生と鈴木由里子先生が考え出したものである。○付けをするときの実際の声かけの記録と、その声かけを受けたときの子ども役の気持ちがつづられている。実演者のメタ認知を促すものとして有効な記録であった。
 復唱法は、とにかく丸ごと復唱することができないので、これを練習することとなった。
 ○付け法・復唱法を演習の形にすること自体が画期的なことであった。本当にスタッフはよくぞ形にしてくれたと思う。感謝している。
 数回の会議を経て、実際の研修案内が10月にはできた。顧問学校に配布した。
 私は40人集まればよいと考えていた。準備会を重ねていくうちに授業力アップセミナーでは困るとメンバーが言い出した。ぜひとも志水先生のお名前がほしいという。だから、「志水塾」と名前がついた。初めから私が「志水塾」と付けたのではない。私は会の名前にはこだわっていなかった。
 お正月明けの1月4日、5日に全国から40人の受講者が愛知教育大学に集まった。ここでの二日間は、この後の志水塾の爆発的なエネルギーを生む場となった。
 かなり冷え込んだ大学の教室で志水塾は開催された。合宿形式で行われた志水塾は、その後の地方大会を支える人材を輩出することとなった。
 志水塾は、○付け法・意味づけ復唱法を中心として実技講習と講演が続くこととなった。規模は、全国各地で開催されるようになっていった。茨城(東茨城郡)、長野(岡谷市、諏訪市、伊那市)、東京、静岡県(伊豆)、愛知県(豊橋、岡崎、一宮)、京都府(久御山町、和束町)、兵庫県(伊丹市)、和歌山県、広島県(福山市、世羅郡、三次市、大野町、大竹市)、福岡県(遠賀郡、飯塚市)、宮崎県(宮崎市)、鹿児島県(鹿屋市、垂水町)、そして、愛知県で行う全国大会(本大会)を最大10ヶ所で10年間続いた。
 志水塾の成功の要因は、第1に有志のエネルギーが一転に集中したということ、第2に個に応じた指導という教育の風潮が応援団となったことは間違いない。つまり、時代の波に先駆けしかも波に乗ったためである。
もともとの趣旨は、○付け法・復唱法の普及はもちろんのことであるが、教育界のリーダーを創りたいという思いから始まったものである。集まったメンバーはスタッフも含めて、その後地域で活躍されている。志水塾本大会は10年間続いたが、このリーダー養成という観点から見れば成功したと言えよう。
 志水塾は、教師文化の継承がこれから不可欠になると考え、教育の世界に教師塾という概念がないときに始めた。初めは、「塾」という言葉に学習塾を連想する教養のない方もいたが、今となっては教育の世界では教師塾は当たり前のこととなった。隔世の感がある。

教訓:一点にエネルギーを集中させると核爆発が起きる。
教訓:時代の先を読み、時代の波に乗ること。これが成功の要因。



79 準備期間

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☆準備期間
 6月から準備開始である。
 何を教師塾で取り上げるか、どうやって教師塾をすればよいのか。全く白紙のままの出発だった。
 会合を積み重ね、志水の授業の特徴である○付け法と復唱法がよいと決まった。
メンバーを集める必要があった。第一のグループは数学授業研究会のメンバーである。中学校数学教師の集団である。第二のグループは小学校の教師の集団である。幸いにも『算数的活動60選』(東洋館出版社)を一緒に創ったメンバーがいた。鈴木由里子先生、落合康子先生、太田誠先生、鈴木詞雄先生、加藤嘉一先生、山口雅俊先生らがいた。この二つのグループに声をかけて集合した。
☆演習を主に
 これまでの教育講演会は、ただ話を聞いて終わりであった。それを実践にしていく場がなかった。そこで、教師塾は、演習を取り入れて欲しいとお願いした。現在の○付け法の演習で一人ずつ実際に机間指導していき、ワークシートに記録していく方法は玉置崇先生と鈴木由里子先生が考え出したものである。○付けをするときの実際の声かけの記録と、その声かけを受けたときの子ども役の気持ちがつづられている。実演者のメタ認知を促すものとして有効な記録であった。
 復唱法は、とにかく丸ごと復唱することができないので、これを練習することとなった。
 ○付け法・復唱法を演習の形にすること自体が画期的なことであった。本当にスタッフはよくぞ形にしてくれたと思う。感謝している。
 数回の会議を経て、実際の研修案内が10月にはできた。顧問学校に配布した。
 私は40人集まればよいと考えていた。準備会を重ねていくうちに授業力アップセミナーでは困るとメンバーが言い出した。ぜひとも志水先生のお名前がほしいという。だから、「志水塾」と名前がついた。初めから私が「志水塾」と付けたのではない。私は会の名前にはこだわっていなかった。
 お正月明けの1月4日、5日に全国から40人の受講者が愛知教育大学に集まった。ここでの二日間は、この後の志水塾の爆発的なエネルギーを生む場となった。
 かなり冷え込んだ大学の教室で志水塾は開催された。合宿形式で行われた志水塾は、その後の地方大会を支える人材を輩出することとなった。
 志水塾は、○付け法・意味づけ復唱法を中心として実技講習と講演が続くこととなった。規模は、全国各地で開催されるようになっていった。茨城(東茨城郡)、長野(岡谷市、諏訪市、伊那市)、東京、静岡県(伊豆)、愛知県(豊橋、岡崎、一宮)、京都府(久御山町、和束町)、兵庫県(伊丹市)、和歌山県、広島県(福山市、世羅郡、三次市、大野町、大竹市)、福岡県(遠賀郡、飯塚市)、宮崎県(宮崎市)、鹿児島県(鹿屋市、垂水町)、そして、愛知県で行う全国大会(本大会)を最大10ヶ所で10年間続いた。
 志水塾の成功の要因は、第1に有志のエネルギーが一転に集中したということ、第2に個に応じた指導という教育の風潮が応援団となったことは間違いない。つまり、時代の波に先駆けしかも波に乗ったためである。
もともとの趣旨は、○付け法・復唱法の普及はもちろんのことであるが、教育界のリーダーを創りたいという思いから始まったものである。集まったメンバーはスタッフも含めて、その後地域で活躍されている。志水塾本大会は10年間続いたが、このリーダー養成という観点から見れば成功したと言えよう。
 志水塾は、教師文化の継承がこれから不可欠になると考え、教育の世界に教師塾という概念がないときに始めた。初めは、「塾」という言葉に学習塾を連想する教養のない方もいたが、今となっては教育の世界では教師塾は当たり前のこととなった。隔世の感がある。

教訓:一点にエネルギーを集中させると核爆発が起きる。
教訓:時代の先を読み、時代の波に乗ること。これが成功の要因。



78 笑乱万丈 志水塾の立ち上げ

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志水塾の立ち上げ
☆出版記念の懇親会
 出版記念の懇親会を開くことになった。 玉置崇先生(現小牧中学校長)の知り合いのお店だったと思う。
 名古屋駅笹島の名鉄レジャックビルであった。そのときに、その日の夕方には長野県上田市に入る予定があったため、懇親会はお昼であった。2時間ほど話し込んだ後、名古屋駅から特急「しなの」でひとまず長野に向かった。当時、私が面倒をみていたフィリピンからの国費留学生サンチャ先生も同行し、翌日、上田市の神科小学校を訪問指導した。
 月曜日に訪問して名古屋に帰宅した。
 21時頃、鈴木正則先生(現豊田市立井郷中学校長)から電話があった。
「先生、決めました。授業力アップセミナーをします。先生、代表になってください。教師塾をやります。」
という。突然の電話だった。私の意向なんて関係ないところで、事態は動き出した。
 どうも、鈴木正則先生が飲んだ勢いで「志水先生の念願である教師塾をやろう」と提案したらしい。その勢いで周りの先生方も同調したようだ。
ここから、教師塾は始まった。
 まさに一つの本から結集したエネルギーが凝縮してはじける感覚である。

教訓:一つの思いが集まれば爆発する。



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