最新更新日:2024/05/24 | |
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南風あったかげん記−602−前回紹介した「鎌倉時代の勉強をしよう」は本当におもしろいサイトです。 なかでも「質問がいっぱい みんなの広場」では、質問に専門家が答えてくれます。 たとえば、上の2枚の写真は「蒙古襲来絵詞」の一部で、教科書にも載っている有名なものです。「蒙古襲来絵詞」は鎌倉時代の肥後国御家人竹崎季長(すえなが)が作成したもので、元寇の様子が絵と詞書に克明に記録されている歴史上超一級の資料です。その九大本とよばれる模本をネット上で見ることができます。画像も鮮明です。ぜひご覧ください。 http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshur... 季長の人間くささがたまらないですね。 季長は「先懸」(さきがけ)として突っ込んで(写真左)、すぐに負傷して手柄を立てられずに終わってしまいました。ただ、本人は手柄のつもりです。手柄として認められなかったので、鎌倉へ数ヶ月かけて直訴に出かけます。自分の馬の鞍を売り旅費にしました。鎌倉では、初めは相手にされませんでしたが、とうとう安達泰盛に面会を許され、直訴する場面が右の写真です。 「質問がいっぱい みんなの広場」では、「竹崎季長と安達泰盛の会話の内容を教えて下さい」という質問が載っています。 その答えは次の内容でした。引用します。 −−−−−−−−−−−引 用−−−−−−−−−−−−− 季長は自分が一番乗りの「先がけ」だったこと。惜しくも敵にやられて負傷したこと。司令官がちゃんと幕府に報告しなかったこと。なんとかお金を工面して鎌倉まではるばるやってきたこと。安達泰盛に会えて良かったこと。 一方,泰盛は次のようなことをきいたはずです。 戦の様子はどうであったか?一番乗りを証明できるか?親戚の者はなぜお金を貸さなかったのか?ここまで来るのは大変だったろう? 季長は鎌倉武士らしく堂々と答えました。働きそのものはそれほどではありませんでしたが、泰盛は有力な御家人として、また同じく勇敢な武士として季長のことを好意的に見ていました。ですから、将軍から与えられた領地の他に自分も馬と鞍を季長にあげたのだと思います。 −−−−−−−−−−−−引用終−−−−−−−−−−−− いかに恩賞としての土地が重要であるかを物語るエピソードです。その後、安達泰盛への感謝の気持ちを込めてこの絵を描かせました。 歴史は、人間のドラマなのです。 |
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