医療関係者の皆さん、ありがとうございます!  がんばろう日本! がんばろう南中!

南風あったかげん記−626−

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☆★☆ 横田喜三郎 ☆★☆
 過ぎてしまった話で恐縮ですが、9月13日は「世界の法の日」でした。どのようないきさつでこの日が決まったのでしょうか?
実は、昭和36年9月東京で開催された「法による世界平和に関するアジア会議」で、時の最高裁長官横田喜三郎が、その制定を提唱したのです。その結果、昭和40年9月13日から20日までワシントンで開催された「法による世界平和第2回世界会議」で、国際間に法の支配を徹底させることで世界平和を確立させようと宣言されたことを記念して、9月13日を「世界法の日」とすることが決まったのです。
 じつは、この横田(旧姓 岩田)喜三郎は、江南市赤童子の出身です。
 横田喜三郎は、最高裁判所第3代長官で、平成5年に他界するまで、多くの著書・論文を発表した、国際法の世界的な権威です。
 次のようなエピソードがあります。
○ 昭和6年、日本の関東軍が満州事変を引き起こすと、日本政府のとった行動は自衛権の範囲を超えるものとして、軍部に対し鋭く批判をしました。時代が時代ですから、右翼団体や政治家などから激しい非難を浴びました。しかし、彼はその後も国際連盟によって満州事変が平和的に解決されることを望むとした評論や、国際連盟脱退はかえって大きな不利益を生じると指摘した評論を発表しました。
○ 戦後、日本の憲法が定められたとき、彼の提案によって、それまでの片仮名文語から、平仮名口語で表記されることになりました。これにより、憲法がより民衆に分かりやすく親しみやすいものになり、民主化に大きく寄与しました。
○ 憲法第9条の平和主義を論じ、日本が徹底した民主主義に進むべきことを主張して広く社会に影響を与えました。
 横田喜三郎は、常に民衆の立場から考え、法律の権威として、法は弱者のためにあるという信念を貫いた人でした。ただ、『戦争犯罪論』などの著書には今でも賛否が分かれているようです。
 猪口邦子代議士は横田喜三郎の孫だそうです。

南風あったかげん記−625−

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☆★☆ 愛知用水 ☆★☆
 まだ9月というのに、冷えを感じるほどの気候です。私は体調を崩してしまいました。みなさんもお気をつけください。
今日9月30日は、愛知用水の通水式が行われた日です。1961年のことです。
 尾張丘陵部は、昔から水不足が問題になっていた地域です。そのために、江戸時代には、江崎善左衛門ら六人衆が入鹿池をつくり、さらに木津用水や新木津用水を開削し、新田開発が進みました。
 その昭和版が愛知用水です。尾張丘陵部から知多半島にかけての一帯に農業用、工業用、上水道用の水を供給している用水です。
 岐阜県八百津町から知多半島南端の南知多町に至る112キロメートルの幹線水路と、幹線水路から分岐して農業用の水を導く支線水路1,012キロメートルからなります。
Wikipediaによれば、第二次世界大戦後、浜島辰雄元陸軍幼年学校教官の発案に吉田茂が協力し世界銀行の融資を受け、アメリカ合衆国の進んだ土木技術、建設機械を用いて、わずか5年間で6,800立方メートルを蓄えるダム(牧尾ダム;写真左)、幹線水路、支線水路を建設しました。
 日本も、戦後はODAの恩恵を受けていたのです。ちなみに、東海道新幹線や黒部第四ダム、東名高速道路もODAのお金で建設しました。その借金を返済し終えたのは平成2年です。
 この愛知用水は、ため池に頼っていた尾張丘陵部、知多半島の農業・井戸に頼っていた住民の日常生活を著しく向上させました。なかでも、知多半島南部や日間賀島・篠島・佐久島の住民からは特に感謝されたようです。また、この用水によって、今の新日本製鐵名古屋製鉄所もつくられることになりました。
 愛知用水がなければ、今の愛知県の繁栄はありません。発案者や決断者、建設時に不幸にも殉職された50名の方々に感謝せずにはいられません。

南風あったかげん記−624−

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☆★☆ 続社会科こぼれ話−9− ☆★☆
いよいよ干支を使って計算してみましょう。まず、法則性を考えてみます。
 最初の干支「甲子」の10年前は「甲寅」、20年前は「甲辰」、30年前は「甲午」、40年前は「甲申」、50年前は「甲戌」、そして60年前が「甲子」に戻るのです。
 すなわち、十干の部分「甲」は同じで、十二支の部分が「子→寅→辰→午→申→戌」と、一つおきに下がっていくのです。この性質を利用して考えるのです。
 寛永5年(戊辰)に生まれて、元禄13年(庚辰)になくなった徳川光圀は何年間生きたのでしょう?
 まず、十干の部分を揃えましょう。「庚」の2年前が「戊」なので、「辰」も2年遡ると「寅」、したがって元禄11年が「戊寅」です。
 「寅」から「辰」まで一つおきに数えると、「寅→辰」、そう10年です。「戊辰」と「戊寅」の間は10年。したがって、「戊辰」と「戊寅」の2年後、「庚辰」の間は12年という事になります。しかし、12年前では元禄元年となり、ありえません。もう一周り(60年)前ということになります。
 そう、徳川光圀は12年に60年を加えた72年間生きたことになるのです。
昔の人は、このあたりを簡単に計算出来たようだという記事を見たことがあります。干支が身近だった時代ですから、あり得る話ですね。

南風あったかげん記−623−

☆★☆ 続社会科こぼれ話−8− ☆★☆ 
ずいぶん間が空いてしまいました。613号の続きです。
 テーマは、江戸時代に人は「何年前」というのをどうやって計算したのでしょうか?というものです。
結論から言うと、干支(えと)を使っていたのだと思います。
 干支は、十干と十二支を組み合わせたものです。十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥で、年賀状でおなじみです。
 それに対して、十干は私たちにはなじみが薄いですね。それぞれ、音読み−訓読み−意味を紹介します。
甲;こう − きのえ − 木の兄
乙;おつ − きのと − 木の弟
丙;へい − ひのえ − 火の兄
丁;てい − ひのと − 火の弟
戊;ぼ  − つちのえ − 土の兄
己;き  − つちのと − 土の弟
庚;こう − かのえ − 金の兄
辛;しん − かのと − 金の弟
壬;じん − みずのえ − 水の兄
癸;き − みずのと − 水の弟
 昔の通信簿が、「甲、乙、丙、丁」となっていたように、この十干は当時の人には馴染みのあるものでした。
 十進法なので、よいことがあります。西暦の下一桁と必ず一致するのです。
   十干    甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸
   西暦下一桁 4、5、6、7、8、9、0、1、2、3
 たとえば、壬申の乱は672年。「壬」がつくときは「〜2年」になるのです。
 また、甲子園ができた1924年は、「甲」がつくから「〜4年」。
 戊辰戦争は?「戊」がつくから「〜8年」。そう、1868年です。
 ちなみに、今年2008年は、8なので、戊子(つちのえね)になります。来年は、己丑(つちのとうし)、再来年は庚寅(かのえとら)です。
 次回には、○年前を計算する方法を紹介します。

南風あったかげん記−号外−

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☆★☆ 拙稿紹介 ☆★☆
原稿依頼が来ていたものが出版されました。
 一つは『心を育てる学級経営10月号』(明治図書)
 今月のテーマは、「学級の危機的状況を自己診断する」。私に与えられたテーマは、「教室の規律はどうか」。ものと診断テストから視る教室の規律についてまとめてみました。
 もう一つが『中学校 学校力がUPする新教育課程マネジメント』(明治図書)
 15人による共著で、私は「総合的な学習の再生」を担当しました。15人のほとんどは、大学教授、校長です。  
 書店で見かけましたら、手にとってご覧ください。

南風あったかげん記−622−

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☆★☆ 中1ギャップ ☆★☆
 中1ギャップという言葉があります。物心が付いてからの人生の大半をおくってきた小学生の立場から、いきなり中学1年生になったとたん、難しくなる学習や教科担任制・部活動などの生活の変化になじめずに、不登校となったりいじめが急増するという現象です。新潟県教育委員会が名づけました。
 これをクリアする方策が、中学校から小学校へ出向くこと、小学校から中学校へ出向くことなのです。
 今日は有志応援団が東小学校で演舞を披露してきました。参加した生徒の中には東小出身の生徒もいましたが、曽野小出身の生徒が多く、児童にとっては知らない人も多くいたと思います。声や動作の大きさ、衣装など、小学校とはまるで異なる演舞を、児童は驚きの目で見ていました。
 今後は、南フェスの宣伝に、生徒会役員が両校の朝礼におじゃまをしてきます。卒業前には、1年生全員がそれぞれの学校へ出かけて、学校紹介を行います。
 小学生も、南フェスでは数多く南中へ来て、生徒が企画した各ブースで思う存分遊んでいきます。また、6年生の卒業近くには、中学校での授業見学会も行います。
 こうしたことの積み重ねで、南中では中1ギャップはかなり少ないのではと思っていますがいかがでしょうか。
 今日の有志応援団の演舞が、小学生思い出の一つになればと思います。

南風あったかげん記−621−

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☆★☆ 体育大会の感想−2− ☆★☆
 体育大会感想シリーズの最後は、あるブログを引用して紹介します。9月22日の記事です。(一部抜粋)
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 (前半略)その中でも、午前中にお邪魔した南部中は学校が一丸となって作り上げた素晴らしい体育大会でした。なんだかこう、名古屋市内の高校の体育大会のようです。先生主導で、枠を作ってもらった中で楽しむというよりも、生徒たち、先生たち、皆で作り上げた体育大会といった感じでしたね。
 私がいいなぁと感じたポイントを挙げてみますね。
 ●プログラムに各競技の開始予定が書いてある。
 ●ここ最近の暑さ対策として、生徒たちにはブロックと同じ色の帽子を全員に配付。
 ●同じく暑さ対策として各ブロックごとに後ろにテントを設置。
 ●同じく暑さ対策としてプログラムの途中に休憩を入れている。
 ●各プログラムごとの大きな看板(校長先生のブログ参照)
 ●各クラスごとが制作した応援旗のようなもの
 ●父兄が生徒の席の後ろ側まで気軽に回れる雰囲気。
 ●先生たちが仮装させられるようなプログラム。
 ●生徒が勝手にしゃべったりする放送の柔らかさ。
 ●3年生はクラスごとに何度も円陣を組み、団結を高めていた。
 「よりよい体育大会にするために」ということがしっかりと話し合われてそれをしっかりと実行されているんでしょうね。
 そして、そんなポジティブな空気が学校を包んでいるんでしょうね。
 今回の体育大会が良いものであったということを端的に表した一枚の写真が校長先生のブログにありました。こちらです。
 http://www.schoolweb.ne.jp/weblog/index.php?id=...
 どんな1シーンかわかりませんが、推測するに、同じブロックである1年生に3年生が一緒に頑張ってくれたお礼を言うシーンじゃないかと思うんですよね。そこで3年生の女の子が感極まって涙を流しているんです。
 生徒にそこまでの思い入れを生み出した体育大会。間違いなく成功といっていいですよね。(以下略)
 http://sakura394.exblog.jp/ 9月22日より引用
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 昨年も紹介したブログですが、さすがですね。見る目が確かです。
 暑さ対策もさることながら、「父兄が生徒の席の後ろ側まで気軽に回れる雰囲気」「生徒が勝手にしゃべったりする放送の柔らかさ」などは、いわれて「なるほど。そんなんだ。」と認識を新たにしました。
 おそらく複数の学校を見ていらっしゃるのでしょう。学校の中にいると当たり前だと思っていることも、こうした確かな目をもった方に見ていただくと、とても参考になります。願わくば、応援合戦を見ていただき、どう感じられたかを聞かせていただきたかったところです。
 昨年も書きましたが、直接ご来校いただき、ご自分の目で見ていただいたことをこうして紹介していただけたことが何より嬉しく思います。
 これからも行事や授業公開日が続きます。保護者や地域のみなさん。ぜひ、南中へご来校ください。そして南中生をご覧ください。
  P.S. 上の写真では先生が空を飛んでいます!

南風あったかげん記−620−

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☆★☆ 体育大会の感想 ☆★☆
 体育大会名場面集−21−まで発信しました。これらについて、南中の保護者以外の方からもメッセージを頂きましたので紹介します。 
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 (前半略)それにしても、躍動感あふれるお写真がずら〜〜〜っと並んでいて、みなさんの鼓動や息づかいがここまで届いてきそうです。ひとりひとりが本当に生き生きしていて、中学生という、大人でもない子供でもない、中途半端だけれど、たった三年間限定だからこそのエネルギーが、きらきら輝いていて・・・・すばらしいですね。そして、そんな彼らを輝かせていらっしゃる先生方も素敵な集団なのでしょうね。憧れとジェラシーを覚えてしまいます。
 これからも楽しみにしています。
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 うれしいメールです。南中生の良い面を素直に感じ取っていただき、本当にありがたく思います。 
 生徒は頭を切り換えて、勉強、そして南フェスへと向かっていきます。今後とも生徒の様子を発信していきますので、私たちが気づかないところをご指摘いただけたらと思います。ありがとうございました。

南風あったかげん記−619−

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☆★☆ 工場見学 ☆★☆
月曜日の代休を利用して、岩倉市内にある工場を見学してきました。代休は、平日に工場を見ることができる絶好のチャンスなので、事前に予約をしておきました。
 上の写真は、北島町にある大原硝子店です。家庭や事業者から回収されたガラスビンを選別して細かく砕いて、カレット(右下)とよばれる再生原料までを作るのがこの工場の役目です。ここのカレットの7割は、石塚硝子で再生ビンに生まれ変わります。
 始めに色別に手で選別をします。その後粉砕し、ラベルをはがしゴミを選別します。その後、何段階もの工程を経て不純物を取り除き、最後は画像処理精製機(左下)で違う色のガラスも取り除きます。
 ガラスには、大きく分けて透明、茶色、緑色の3種類あり、その他、青や黒のビンがありますね。
 ここで問題です。いろいろな色のガラスを混ぜると何色になるでしょうか?
 何と透明に近づいていくそうです。光の三原色を混ぜると白になりますよね。それと同じ原理です。
 2軒目は、野寄町にあるミヨシ油脂(左上)を見学しました。以前は食品も作っていましたが、今では、私たちが直接目にするものは作っていません。排水や煙、土壌などの中の有害物質を固定化する、「環境産業製品」が主力です。また、ティッシュペーパーを柔らかくする柔軟剤など、他品種少量生産しています。需要のあるものを探して、次々に開発していかなければならない企業の研究開発の厳しさを見ることができました。
 3軒目は、北島町にある五条川右岸浄化センターです。一宮、犬山、江南、岩倉、大口、扶桑の4市2町の下水道の処理を担当します。ちなみに岩倉市は、五条川から西側のみで、南部中学校のような東側は岩倉団地の東にある五条川左岸浄化センターで処理しています。計画処理能力は15万立方m/日で、現在は2.1万立方m/日の能力があります。
 説明を聞いた後、実際に汚泥沈殿池、バクテリアに食べてもらう反応槽、最終沈殿池などを見学し、顕微鏡でバクテリアの様子も見せていただきました。 
私たちの生活になくてはならないものばかり。知らないところで、多くの人の働きがあって私たちのくらしが支えられていることを改めて感じた1日でした。
 お世話になりました。

南風あったかげん記−618−

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☆★☆ 体育大会 生徒の感想 ☆★☆
 今日も1年生の作文を紹介します。
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☆ 私の今までの体育大会(運動会)というものは、楽しいだけのものだったと思います。でも、みんなの涙を見て、「体育大会」って泣ける行事なんだと始めて実感しました。3年生の思いにこたえられなくて残念だったけど、3年生が私たちに教えてくれたものを、自分が3年生になったら後輩に伝えたいと思います。残念な結果になってしまったけど、逆にいろいろなことを教えてもらったのでよかったです。大縄では、練習よりもはるかに記録を超えて本当にうれしかったです。1年生で1位になった時には、大盛り上がりで楽しかったです。私も、先輩になりたいと思いました。

☆(前略)学年で1位になった時は、みんなではちまきを投げ、喜びました。その時私は、今までで一番私たちのクラスが団結したなと思いました。結局私たちのクラスは優勝できなくて悲しかったけど、その反面クラスが団結できてうれしかったです。

☆(前略)来年は今回よりもがんばって参加したいと思いました。応援がどのブロックも上手でステキでした。最後に先輩達が泣いていた姿がとても目に焼き付いています。先輩達に優勝させれなくて本当に残念でした。来年こそ、優勝させてあげたいのでがんばります。
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短時間に書かれたものなので、かえって本音が出やすいものです。ここに紹介したもの以外にも、3年生に勝たせたかったとか、団結できてよかったというものが多数ありました。毎日の授業だけでは伸ばせないことを伸ばしてくれるのが行事です。さしずめ、授業が「教」、行事が「育」。この両輪で「教育」が成立するのです。

南風あったかげん記−617−

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☆★☆ 体育大会 生徒の感想 ☆★☆ 
 今日は、始めての体育大会を経験した1年生の感想を紹介します。
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 小学校とは全く違う中学校の体育大会でした。どこが違うかというと、迫力や真剣さも違ったのですが、一番違ったのは「団結」です。どのブロックもみんなすごく団結力があって、絶対に優勝するぞということが伝わってきました。そのため負けた3年生はくやしさですごく泣いていました。その反対の勝った3年生は、喜びのあまりに感動して泣いていました。僕も、そういう3年生を見て、絶対に優勝してやるという気持ちが出てきて、どの競技にも真剣に取り組むことができました。
 南中の行事は素晴らしいと思いました。
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 勝っても泣き、負けても泣く。青春を象徴するような言葉です。そういう3年生を見て、自分を奮い立たせた1年生。これが、来年以降につながるのです。

南風あったかげん記−616−

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☆★☆ 体育大会 保護者の感想 ☆★☆
 ある保護者の方からうれしいメールをいただきました。お許しを得ましたので紹介します。
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岩倉南部中学校 校長先生はじめ職員の皆様
 昨日はとても感動的な体育大会をありがとうございました。
 生徒、職員、保護者が体育大会を成功させるんだという強い目標を持って、開催しているのがとてもよく伝わりあたたかさを感じました。
 特に生徒1人1人がとてもすばらしく、中学生らしい本来の姿を見たような気がしました。
 私は赤組の後ろから見ていたのですが、最下位でブロック席に戻ってくる仲間にも「お疲れさん」「がんばったね」とみんなが声をかけ、誰一人最下位を責めることもなく、とても明るく和気あいあいとした雰囲気がとてもすばらしく思えました。
 大縄の前にはクラスごとで円陣を組み、士気を高めみんなの気持ちを一つにして頑張っている姿もとてもよかったです。
 私の子は今年南部中学校に入学しましたが、毎日とても楽しく学校に行っている理由がわかったような気がします。
 もちろんその影には先生たちの努力があることもとても感謝しております。
 これから初めて体験する行事を通じて、子供が着実に成長していく段階を見ることがとても楽しみです。
 本当にすばらしい感動をありがとうございました。
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 こちらこそありがとうございました。こうして声を聞かせていただくと、私たちの次へのエネルギーになります。今後ともよろしくお願いします。

南風あったかげん記−615−

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☆★☆ 体育大会 生徒の感想 ☆★☆
 今日は、3年生の生徒の感想文を紹介します。
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 昨日の体育大会は、とても心に残る最高の日になりました。夏休みから、必死になってがんばって踊った「応援」は、苦しいながらも、すごく楽しかったです。本番も「間違えないように」ではなく、「楽しく笑顔で」の方が強かったです。もちろん間違えてはいけないけれど、それ以前に笑顔で踊れたことで優勝できたんだと思います。
 始まってからは、ただただ必死になっていて、今でもよく覚えていませんが、閉会式での発表は涙が出るほど嬉しかったし、みんなで取った「優勝」だということははっきり覚えています。これから先、忘れることはないと思います。というか、絶対忘れません。
 みんなが一つになって踊った「応援」は、この先の行事にもつなげられる「絆」に変われたんじゃないかなと思いました。最後の体育大会は、一番の最高の日になりました。
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 「間違えないように」ではなく「楽しく笑顔で」
 とてもいい言葉です。自分だけでなく、見てもらう人にも楽しめるような応援をしたいという思いが伝わってきます。この思いは、1・2年生も受け継がれることでしょう。
 保護者の皆様からの体育大会の感想を募集します。学校のアドレスか私のアドレス(syaraku@tcp-ip.or.jp)までお送りいただければ幸いです。この校長日記で紹介しても良いかどうかもお書き添えいただければありがたいです。

南風あったかげん記−614−

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☆★☆ 体育大会校長挨拶 ☆★☆
 台風が早く通り過ぎ、暑すぎず、風もなく、天候に恵まれた最高の一日となり、無事体育大会を終えることができました。今日のために多くの方にご協力を頂きました。あらためてお礼申し上げます。
 写真は、3年生が1年生の教室でお礼を言っている場面です。涙で言葉にならない場面もありましたが、十分気持ちは伝わったと思います。こうして、伝統は引き継がれていくのです。
 開会式、閉会式で挨拶をする機会がありました。いつものようにあらかじめ原稿をつくらないので、記憶を頼りに概略をお伝えします。
【開会式】
 (元気のよい挨拶の後で)そのみんなの元気で、台風を押し出してしまったようです。素晴らしい天気になりました。かえって暑すぎることが心配なので、今年は全員に帽子を用意しました。さらに、各ブロックにテントを準備しました。自分の体調は自分で管理し、水分を補給し適宜休んでください。
 ところで、ラグビーの試合終了は何というかわかりますか?「ノーサイド」と言います。これで敵・味方がないという、スポーツマンシップを象徴する言葉です。しかしこの言葉の裏には、たとえ100対0で勝っていても、負けていても、ノーサイドの瞬間までは全力でプレーしようという思想が込められているのです。
 今日は、競技、応援とも、ノーサイドまでは全力を尽くしてください。そして、ノーサイドで、全員で讃え合いましょう。
ご来賓、保護者・地域の皆様。早朝よりご来校ありがとうございました。南中生の、元気と笑顔をぜひご覧頂きたいと思います。
【閉会式】
 すがすがしい気分です。ナイス元気!ナイス笑顔!でした。本当に素晴らしい体育祭でした。
 とりわけ、各学年の優勝クラス、優勝した黄色ブロック、新記録を出した2チームのみなさん、おめでとう。
 ここで、体育大会のノーサイドを宣言します。
 ここから後は、がんばったすべての人を讃えたいと思います。また、縁の下の力持ちとして陰で支えてくれた人、応援してくれた人、すべてと感謝し合いたいと思います。 
 最後までご参観いただきました、ご来賓、保護者・地域の皆様。南中では、南中フェスティバル、合唱コンクールと、生徒が活躍する姿をご覧いただける行事が続きます。ぜひ、これからも子どもたちの姿を見るためにご来校ください。

南風あったかげん記−613−

☆★☆ 続社会科こぼれ話−7− ☆★☆ 
 いよいよ体育大会。応援合戦の練習風景をHPで見た他校の保護者の方からも「がんばってください!」というメールを頂きました。ありがとうございました。
 さて、本校職員からの質問です。元号ってどうやって覚えるのですか?コツがありますか?
 う〜ん。まず、元号について考えてみましょう。
 今は、「一世一元の制」を採っており、天皇が変わらない限り元号は変わりません。しかし、明治より前は、「改元」といって、天皇在位中でも吉事や凶事があると変えていました。一代の天皇で6〜7回代わることはざらにありました。後花園天皇は9種類の元号が使われました。
 ここをご覧ください http://www.nnc.or.jp/~a-si/gen-700.html 
 さて、江戸時代に人は「何年前」というのをどうやって計算したのでしょうか。たとえば、寛文5年に生まれて元禄13年になくなった徳川光圀は何歳でなくなった?
 結論から言うと、干支(えと)を用いたと思われます。子、丑、寅、……の十二支と、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、……の十干とセット。ちなみに、甲子園は「甲子(きのえね)」という干支の年につくられました。
 年賀状でおなじみの十二支はともかく、十干の方はあまり聞かれませんが、西暦が採用される前はとても便利でした。
 たとえば今年の干支は「戊子(つちのえね)」です。10年前の1998年は戊寅(つちのえとら)、20年前の1988年は戊辰(つちのえたつ)と、いずれも最初に十干の「戊」がつきます。だから、「戊」のつく年なら、10の倍数年前とすぐに分かるのです。
 ここまでのことは、次のサイトを見るとわかりやすいと思います。
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/... 
 続きは次回…。

南風あったかげん記−612−

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☆★☆ 応援合戦 ☆★☆ 
 いよいよ20日の体育大会が迫ってきました。台風の動きが気になりますが、20日ができない時は21日(日)に順延します。21日には天候が回復しそうですので、いずれにしても多くの方に見ていただけそうです。どうぞご参観をよろしくお願いします。
 昨日は、全ブロックがグランドで応援練習を行いました。
 流れのある黄ブロック、要素が豊富な緑ブロック、笑顔が素晴らしい赤ブロック、声が大きい青ブロック、それぞれ個性がありました。まだまだ未完成の部分もありさらなる練習が必要ですが、ここまで、ほとんど3年生を中心とした生徒の力だけでやってきました。これまでの3年生の活躍は、それは見事なものでした。その成果をぜひとも当日ご覧ください。
 また、応援合戦に参加していない生徒は、学級幕、門柱を作成した生徒です。その作品の出来映えにもご注目ください。

南風あったかげん記−611−

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☆★☆ 続社会科こぼれ話−7− ☆★☆ 
 「石」の話題の続きです。「石」とは、米の容積であり、領地の広さでしたね。その他の視点を考えてみましょう。
【 兵 力 】
 司馬遼太郎の『関ヶ原』だったかと思いますが、戦国時代の戦闘員の動員能力は、およそ「1万石につき250人」だったと書いてありました。19万石の石田三成は、250×19=4750。関ヶ原の戦いでの石田軍は約5000人と言われているので、なるほどという数式です。
 しかし、平和な江戸時代になると減ります。加賀100万石の前田家で1万人といわれているので、せいぜい1%です。長州藩36万9000石が禁門の変で動員した3000人という数もわかります。 
【 財 力 】
 江戸中期には、米の仲介業者である札差が武士から買う米の値段は、1石1斗=1両でした。前に1石=1両と書きましたが、この1斗分が手数料なのでしょうか。
 たとえば1万石の領地から得られる年貢米を5000石とすると4500両。今のお金に換算すると、1両=10万円として、4億5千万円です。
 ここから諸経費を引いて、1%の動員兵力100人で割ると…。苦しい生活であったことが予想されます。
 ところで、紀伊国屋文左衛門が江戸城をも焼いた明暦の大火の時に、木曽の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にしました。なんと1千億円です。先ほどの計算式に当てはめると、222万石の大名に匹敵します。
【 家 格 】
 大名家には家格があります。石高、官位、徳川家との関係などを総合して決まります。外様は、石高と家格が比例していたと言ってもよいでしょう。
 石高の評価は、秀吉時代の「太閤検地」(写真)が基本となっています。薩摩藩は、実際に米は30万石足らずしか獲れなかったのですが、太閤検地で60万石以上とされ、江戸幕府からは77万石と評価されてしまいます。江戸幕府は、この石高で労役(御手伝普請)を割り当てるので、薩摩藩は大きな負担を強いられたわけです。
 一方、他のほとんどの藩では、公の石高の評定(表高)よりも、実高の方が何割も高いというのが普通でした。秀吉の頃に比べて、米の生産性が高まったためです。
 薩摩藩がなぜこれだけ高い評価を得たのか疑問ですが、米以外の収入もすでに織り込んでいたようです。
 水戸藩も、薩摩藩同様、実高は表高を下回っていました。これは、徳川御三家の一つとして見栄を張ったためのようです。
 ちなみに、尾張藩は表高55万石に対し実高は80万石超だったようです。
 詳しくは、http://homepage3.nifty.com/ksatake/index.html をご覧ください。
 「石」とは、米の容積、領地の広さであり、兵力・財力・家格を表す、広義の概念なのです。
 「○○石」の意味がわかりましたか?

南風あったかげん記−610−

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☆★☆ 今日の朝礼 ☆★☆
 私からは野田武男さんの紹介をしました。野田さんは606号で紹介した通り、仕事上の事故で下半身が麻痺してしまった方です。失意の中から、リハビリのために口で絵を描くことを学び、ある時自分の描いた絵が人に喜びを与えたことを知り、絵を描くことを自分の人生譜とされた方です。
 生きるとは?生きがいとは?語りかけてくれるような絵の数々です。
 10月3日まで、ふれあいギャラリーで絵画展を行っています。体育大会の昼休み中、10月3日の授業参観でも見ていただくことができます。どうぞご来校ください。
 次に、この夏にマレーシアへ訪問した3名の生徒による報告会「国際集会」を行いました。相手の学校先、ホームステイ先での日本との違いに驚き、親しくなると文化の違いを超えて友情が芽生えたことを語ってくれました。
 やってみないと、行ってみないとわからないことがあります。ぜひとも、いろいろなことに挑戦し、生きる力を自分でつけていってくれる、そんな生徒になってほしいと考えています。

南風あったかげん記−号外−

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☆★☆ 明治村へ行って来ました ☆★☆
 敬老の日の今日は、明治村へ行って来ました。
 昨年、文化庁芸術拠点形成事業として、小中学校の社会科教師と博物館明治村が連携して錦絵を学習に活かせないかと取り組んだ事業があり、私も参加したためにその成果を見に行くためでした。
 さらに、今日は明治村の村長・小沢昭一氏が来村し講演をされるということで、その講演時間に合わせて行って来ました。
 「明治村 錦絵れきし探偵団」と題されたパネルが各所に置かれ、私たちが作成したパンフが置かれていました。敬老の日の今日は、お年寄りが無料ということで数多くの来村者がいましたが、パンフを手にとって、錦絵を見ている人を見るとうれしくなりました。
 小沢昭一氏の講演は、テレビやラジオで知る通りの絶妙のタッチ。もうすぐ80歳という年齢を感じさせないおもしろさがありました。
 明治村は、日本中でも一級の施設です。みんなで応援しましょう!

南風あったかげん記−609−

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☆★☆ 続社会科こぼれ話−6− ☆★☆
 前回の続きです。
 「1石」とは、容積の単位であり、一般には米の容積(180リットル=2.5俵)ということが分かりましたね。
 これをふまえて、武士の給料について考えてみましょう。
 幕府に仕える旗本や御家人は、大きく2通りの給与制でした。
 一つは、知行取りで「石」で表示されます。もう一つは、蔵米取りで「俵」で表示されました。
 「知行取り」は、一定の知行地(領地)を割り当てられ、そこから年貢を取り立てて俸禄にしました。
 山内一豊(写真)は千代と結婚し、400石を与えられていましたが、この400石が知行地です。これは、面積ではなく、400石の米が獲れる田(400反)を含む土地全体を指します。
 知行取りは、その領地についての警察権・裁判権をもっていました。また、領地から人夫を徴用でき、野菜や特産物に税をかけることが出来ました。
 400石といっても、4公6民の場合は4割が年貢なので、160石(400俵)が実収入です。ただし、領地を支配するには家来が必要となります。家来とその家族を養わないといけません。また、米の収穫高は天候に左右され、また、知行所からの米の運搬費などの出費もありました。
 これに対して「蔵米取り」は米の現物で支給されました。蔵米取り400俵というと、その400俵を年3回に分けてもらっていました。
 これで分かると思いますが、知行取り400石と蔵米取り400俵とでは、実収入が変わらないことが分かります。実際には、これらに、扶持米という扶養手当みたいなものもつきました。
 ただし、いずれにしても物価は上がり、米の価値は下がっていくので、これらの武士はだんだん貧乏になっていきます。
 まとめると、「石」とは、米の容積であり、領地の広さを指すのです。でも、まだあります。次回に続きます。
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