最新更新日:2024/04/29
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笑瀾万丈37 ☆当時の附属小学校の人事の基本

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☆当時の附属小学校の人事の基本

ここで、筑波大学附属小学校の人事について述べておく。附属小学校の人事は退職される人の郷里から選出するというのがルールである。愛知教育大学のように、附属学校の教員は、愛知県・名古屋市との交流人事ではない。赴任すれば、以前の地域は退職となる。だから、まさに、行き場がない世界である。33歳で赴任して、60歳まで勤めあげるというのが基本である。だからこそ、打ち込んで学ぶことができる。自分なりの指導理論を組み立てるには、少なくとも五年くらい腰を落ち着けてやる必要がある。
ところで、筑波大学附属小学校の教官には、神戸市出身の人はいなかった。だから、普通は、この人事はありえないことである。実は、私の前任者のK先生が途中退職されたのである。Kさんは、東京教育大学出身であった。つまり、後の筑波大学である。だから、Kさんの後任は、筑波大学にお願いしようということになった。そのため、恩師の三輪先生のところに依頼がきたというわけである。三輪先生は、大阪教育大学のときの恩師である。それが、私が大学院に通う頃には、筑波大学の教授として栄転されていた。三輪先生としても、誰を推薦しようかと迷ったはずである。まさに私はついている。
大阪教育大学の頃、卒論の指導教官として三輪先生にお願いし、兵庫教育大学大学院の頃には、佐々木先生にお願いした。その当時、筑波大学附属小学校の存在もまた赴任の話も全くおこっていなかった。だから、偶然×偶然くらいの確率である。
私がついていた原因を振り返ってみよう。
何がよかったのかというと、教えてもらう指導教員は自分が選択したこと、それゆえにたくさん学ばせていただいた。それが結果的によかった。勉強は大好きであった。一生懸命やったのである。ゼミ仲間の中でもがんばった。もう一歩先を踏み込んでいた。つまり、どういう場面でも一生懸命やっていた。それが評価されたのだと思う。決して出し惜しみはしなかった。

教訓:どういう場面でも一生懸命やることである。それを誰かが見ている。
教訓:マイナスだと思っていたのが、後から、プラスの配慮だったという  ことがある。宇宙の配慮であろう。


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