最新更新日:2024/05/20
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3つ目

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<三つ目は,「自分の経験+他者の経験」から学ぶことだ。本当にすごい人は,他者
の経験からも学んでいる。自分の経験から学べるものは「1」だから,他者の経験か
ら学べることは「N」になる。>

 これには,人の授業をたくさん見るということもあるし,著名な人の本をたくさん
読むということもあたる。特に,教育の場合,ある師を見つけて徹底的に学ぶことか
ら始まる。そして,その人のよさを学ぶことである。さらに示範授業などで書かれて
いることで,その人が悩んだところを見つけてどのように解決していったのかを学ぶ
ことである。だから,冒頭に「予習より復習」とあるが,本を読まない人はいつまで
も「1」の世界に止まることになる。さらに,反省的思考が働かない場合は,「1」
以下の世界になる。
 この休みに,たくさん本を読んでみてはどうだろう。

御立氏の話に戻る

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 御立氏の話に戻る。
<二つ目は,知識を取り入れること以上に『使う力』を意識した訓練と実践に時間を使うことである。「直感と論理の二重奏」の必要性を知ったら,実際にやってみて,身につけることに時間を使う。>

 この内容は,特に授業力をあげることに有効である。だから,私は,大学の講義の中でも解説ばかりしていないで,実際に役立つ教材研究,実際に体が動く授業という「行動化か」を目指しているのである。頭で考えることは大事である。でも,頭で考えたこととそれが実際にやってみれるかどうかは別である。また,実際にやってみても,それが授業にとって望ましいかどうかも別である。このあたりことについて,ほとんど研究されてこなかったと言えるだろう。志水塾では○つけ法や復唱法という単純なことを実技訓練しているのは『使う力』を意識してのことである。
 30分間,学年会などで机を囲んで教材研究するのならば,せめて10分間は実際にやってみることだ。特に,その人なりの特性・力量があるからまずやってみることなんだ。
 最近,ミニ授業と称して5分間授業,10分間授業を学生たちにやらせてみた。すると,たった5分間でもかなりの情報量が存在する。そして,5分間に表現できる力の差もかなりあるということを目の当たりにした。このときお手本のビデオとして使ったのが藤江小学校のN先生の導入である。本当に素晴らしい導入だった。大学院生に真似させてみたが,それがなかなかであった。特に院生の講義では,ビデオ撮影してそれを再生して見た。つまり振り返ってみた。すると,様々なくせが見つかった。

院生たちはこれを自覚した。ある院生は,あれからテレビのアナウンサーの様子を意識的に見るようになったという。大いなる進歩である。


☆「本質が見える人,ダマされる人」はどこが違うか

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☆「本質が見える人,ダマされる人」はどこが違うか
 プレジデント誌が上記のテーマで特集していた。
 冒頭の記事は,御立尚資氏(ボストンコンサルティング日本代表)である。タイトルは<「3×3のレンズ」と「定石+α」の思考法>である。
 氏の「3×3のレンズ」は,(1)拡散,(2)フォーカス,(3)ヒネリである。
 拡散とは,視野を広げることである。フォーカスとは,狭く深く見ることである。
ヒネリとは,思考をジャンプさせることであるという。これらのことについてはあまり記述されていないのでここまで。
 次に「なぜ今の時代は予習より復習が大事なのか」とある。
 20〜40年のビジネス人生を経験しているミドル層や経営者に対するメッセージである。
<一つ目は,予習より復習を重視すること。何かを面白いと感じたら,それだけで済まさずに「何が面白いのか」としつこく考える。成功したとき,失敗したときに「なぜだろう」と復習し,何回も反芻できる人はやはり伸びている。>

 この前提条件は,学校に予習をしてきている人に対して述べられていることである。

若い人には向かない。予習より復習を重視することはやさしいようでなかなか難しい。

 学校の授業でこの原理はどう活用されるのか。
 教師の立場でいえば,毎日の授業を振り返ることである。反省的な思考,つまりリフレクションである。これによって教訓が得られる。心理学では教訓帰納という。 この教訓を,まず出そうとしているか。
 次に,その教訓を書き出しているか。できれば,手帳や部屋の中で掲示して意識するとよい。教訓は身についたかという評価が必要である。
 身につかなければ身につくまでやることである。
 ○つけ法も復唱法も実際には結構大変なことである。スピードが遅いという教訓があればそれに対して日々練習して速くなっているかどうかである。
 声かけができないならば,授業中に少しでもでた「声かけ」をメモしているか。その中でうまくヒットした声かけをめもしているか。教師が忘れるというならば,子どもに算数作文で,先生からの助言でわかった一言をノートに記入してもらえば,それはその子自身にとっても貴重な財産となるし,教師にとっても貴重なものとなる。子どもにとっては,助言を意識化することでメタ認知化できるのである。なんとなくわかったのではない。この言葉のきっかけでわかったのだと意識化できるのである。

☆「ありがとう」を外化する

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 ☆「ありがとう」を外化する

 私の講演会の最後の部分で,否定的な言葉と肯定的な言葉について検討した。
 具体的には,否定的な言葉を見せて,反対の肯定的な言葉を書くように会場の先生
方に求めた。すると,楽しい,グッド,ナイス,素晴らしい,いいね・・・などと書
かれていた。
 一列の人のメモを見ながら取り出して読みだしていった。そうすると,なんと書か
れていないな言葉があった。
 それは,「ありがとう」と「感謝」そして,「幸せ」である。
 これらは肯定的な言葉ではないの?
 これが会場に来られた教師の言葉にないのである。頭にないからでてこないのであ
る。これでは教育はできないだろう。
 M先生はありがとうは書きましたよと発言した。いいですね。たぶん,90%の
人が書いていなかったと思う。ぜひ,教室で学校で「ありがとう」ワールドを実現し
ていってほしい。                                

研究授業のねらい

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■ 研究授業の大きなねらいは、授業者と子どもに自信を持ってもらいたいことだと思います。だから、周りの参観者も協力すべきだと思うのです。例えば、演劇を見るとき、観客がしらけていたらどうなるでしょう。反対に、拍手をして場を盛り上げたらどんなによいことでしょう。そうやって、成功すれば、観客も喜びですね。研究授業の場合も参観者も場の創造を心がけましょう。
 私は仕事柄研究会に呼ばれます。教室に入るときには、意識的に笑顔で望むようにしています。それが役目だと感じるからです。授業者は外部の講師に対して緊張します。その緊張を意識的に解き放すことなのです。そうして、授業者が頑張ってくれたらいいのですから。
 授業参観は、校内研究会・研究発表会は、教師が参観します。父母参観には父母が参観します。そのどちらも、授業参観には応援するような気持ちで望みたいものです。                                                                                   

研究授業が成功するために

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■成功するために
 では、どうすれば成功するでしょうか。
 そのための教師の上達論については、私もいろいろな著書で表しましたのでそちらをみてほしいのです。ここでは、研究授業の雰囲気づくりという視点で述べます。
 つまり、研究授業を参観する教師に問いかけたいと思います。あなたは、どのような立場で研究授業を見ていますか。                           
 ・どんな教材をするのだろうか。
 ・どんな指導法や指導技術を使うのだろうか。
 ・この先生の授業レベルはどの程度か。
 などが一般的のところでしょう。
 私は、参観する教師にこう願います。授業は、教師と子どもだけで作るものではない。参観する教師も作る責任があるということです。そんな馬鹿なという人がいるかもしれません。でも違うのです。授業は一つの生命場です。教室に存在する人が授業空間を作っていると考えて下さい。参観者が温かい目で見るのと、きびしい目で見るのとどれほど差が出ると思いますか。
 私はかつてとても雰囲気の悪い地域で示範授業をしたことがあります。とてもやりにくいものでした。
 ですから、授業者に対しても子どもに対しても、温かい目で応援すべきものなのです。なるほど、いい発問だとうなずいてみたり、とてもいい考えを発表したねと心から応援を送ってやりたいものです。そうすれば、授業も子どももいつもの教室の雰囲気にもどって授業を行うことができるはずです。船井氏の言葉で言えば、「親身法」で授業を参観するということです。
 ついつい、参観者は自分と比較します。特に、欠点を見つけて比較します。「ああ、あそこで間違ったな。」という具合です。こういう参観者は、教師としての力量がまだまだだと思います。より高いレベルの人は、どんな人からも長所を見つけることができます。初任者の場合も自分が未熟なので素直に学ぼうとします。ところが、ある程度授業がうまくなった人が、今度は自分が上だよといいたいために、つまり優越感を持ちたいために、人の欠点を見つけようとするのです。できれば、長所を見つけてうなずき学びたいものです。どんな授業だって長所はあるはずですから。
 船井氏は、「長所しか見えなければ本物である。」(「これから10年生き方の発見」サンマーク出版)と述べています。できれば、あなたも本物人間になってみませんか。そのようになるように努力してみませんか。そうすると、運がついてきますし、人も集まってきます。
 「新入社員をつれて、いろいろなお店や向上を見せて回り、『どうだ。君の感想をいってみなさい。』と聞くと、だいたい欠点ばかりならべるものです。長所のほうはめったにいいません。なぜかというと、新米さんの目には欠点ばかりが見えるからです。優秀な人間ほど、その傾向が強い。指摘はいちいちもっともで、その指摘がいかに正しくても、結果がよくなることは少ないのです。そのことがまだ新入社員には分からないのです。
 これが十年選手になると、欠点が目についてもいわなくなります。経験で欠点指摘や欠点是正が効果的でないことわ学ぶからで、欠点には目をつぶっても長所だけしかいわなくなります。ここまでくると、コンサルタントとしてはまあ一人前になっています。    さらに私のように経営コンサルタントを三十年もやっていますと、こんどは欠点が目に入らなくなります。いくら見ても欠点が見えなくて、長所ばかりが目に入ってくる。これがポイントで、ここまでくると自分も企業も面白いように伸びてきます。>


授業を参観するときの心得 親身法・本物は長所を見る

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授業を参観するときの心得 親身法・本物は長所を見る

■研究授業について (1)                               研究授業というのは何のためにあるのだろうか
 そのことが分かっていないから研究授業は現場を忙しくなるので必要ないという議論になるのではないだろうか。
 私はこう思います。
 教師は授業で勝負します。授業で子どもの知的な部分や精神的な部分を変容させます。だから、授業がへただとどうしようもないわけです。
 授業がうまくなりたいというのは、教師の願望です。ところがなかなかうまくならないのです。うまくなるというのは日頃の授業はなんとか子どもと対話しながらすすめますからどうにかこうにか進みます。
 でも、その毎日の授業が感動ある場面かどうかということになると疑わしいのです。私の18年の経験をもってしても毎日が感動だったなんてとても言えません。でも、最後の4年ぐらいはとても気楽に授業ができて子どもが意欲的になりました。そのきっかけはなんと言っても研究授業だったと思います。
 つまり、人は他人に認められて成長するのです。私の場合は、附属小学校での研究発表会がそれにあたります。この修羅場を何度もくぐりぬけると本当に授業って面白いものになります。たくさんの先生がきて、認めて下さる。そこには、嘘はありません。現実に子どもが楽しく算数の授業を受けていたかどうか、目の前にあるのですから。
 その後の協議会は楽しい一時です。どうだ、私は、コミュニケーションわここまで育てたぞ。という自負心でいっぱてです。
 さて、そこで研究授業は、教師だけが認められるのでしょうか。そんなことはありません。子どもも認められるのです。子どもの成長が認められます。そうすると子どもも自信がつくのです。何ヵ月も前から教材を考えてきて、子どもをきたえてきてその成果が評価されます。    
 そうすると、研究授業は、教師と子どもの両方にとって自信がつくチャンスというわけです。でも、逆の場合だってありえます。つまり、何ヵ月も前から教材を考えてきて、子どもをきたえてきてその成果が評価されます。授業をして失敗したとしたらどうなるでしょう。教師は自信をなくすのです。子どももその教師をみてまどいます。そうなると成功への道が転落への道へと進みます。だから、研究授業は、とても怖いものです。

三.学校経営の場面において包み込むこと

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三.学校経営の場面において包み込むこと

 A県のある研究校の話をしましょう。
 その学校は,私がかかわって3年目に算数科の研究発表と公開授業をしました。とてもうまくいきました。算数部会に所属している人はゼロという中で研究会が成功したのです。
 後日,校長先生からうかがった話です。
「先生,私は先生方に力をつけてほしいと願っていました。ですから,研究発表会をすることには賛成でした。でも,算数の専門はいないし,自信はありません。研究指定を受けるべきかどうか先生方の抵抗がもっとあると考えておりました。
 いよいよそれを決める職員会のことです。一番抵抗を示すと思われていた先生が,『村が希望するのならやらねばならない。』と力強く発言したのです。あれで情勢は傾きました。不思議なことです。
 また,二番目に抵抗した先生は,研究会が近づくと他の先生よりも頑張り始めたのです。私は,大げさにしないでいいといったのですが皆が頑張ってくれたのです。そして,研究会を迎えることができました。志水先生の支援があったこそ安心感がありました。」   この校長先生はとても謙虚な方です。週に3冊の本を読む読書家でもあります。音楽の堪能な方ですがそれも決して自分から職員にもらさず,先生方を支援してきました。第一,私の前では,抵抗を示した先生の悪口は決して述べたことはありません。また,責めません。  
 そういう意味では,若い先生方の力を肯定して成長を見守り,包み込んできたからこそ職員が一体化していったのだと思います。
 あなたのまわりで対立すること,矛盾することがありましたら,包み込むことを考えてみて下さい。

二.授業の場面において包み込むこと

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二.授業の場面において包み込むこと


 一年生の算数科の授業のことです。何番目の問題です。「子どもが10人ならんでいます。ただし君は,まえから7ばんめです。うしろからなんばんめでしょう。」
まえ○ ○ ○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○  
 このとき,慎一君は,考えこみました。
「うしろから4ばんめというのは分かる。でもこれでは簡単すぎる。算数の問題はもっと難しいはずだ。ひょっとしてただし君はもう一人いるのではないか。うしろから7ばんめか8ばんめにいる?」と反応しました。
 私は,このとき,「う−−ん。なるほどね。どうしてそう思ったの」と聞き返しました。すると慎一君は「だって,問題には,ただし君は一人です。とかいていないもの」と答えました。
 これにはまいりました。慎一君の考えは筋道がたっています。そうこうするうちに,洋介君が「それなら,ただし君が全員だったらどうなるのだろう」と言いました。
 さて,こんな反応がでてきたらあなたならどうしますか。生意気だと考えますか。
 私は,肯定しました。「なるほど,いい考えです。では,一人だとするとうしろから何番目ですか。」「うしろから4番目にするには,問題の文にどんな言葉を付け加えればいいでしょう。」
 こう切り返せば,子どもたちの考えは認められるのです。
 この事例から,授業のこつは「肯定して包み込む」ことだと言えますね。
 もう一つ,一年生の例をあげます。8+3の指導の場面です。子どもたちは,数えて答えをだします。指導のねらいは「8に2をたして10,10と1で11」という加数分解の考え方です。
 多くの教師は,数えることを否定します。しかし,数えることを否定しないで肯定するのです。「数えることのチャンピオンだね。では,10のかたまりを作る考え方も分かるかな。では,これからの算数で使う考え方なのでこれに挑戦してみましょう。」と話しかければ,素直に頑張るのです。子どもは新しい考え方に挑戦しようという意欲があります。それを,否定することから始めるか,肯定することから始めるかは,とても違いがあることですね。
 とすれば,教師は,子どもの発言をできるだけ肯定して包み込めるように,教材研究する必要がありますし,また,予想外の反応のときにも謙虚に受け止めるようにすればいいのです。   



包み込むことを考えよう

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包み込むことを考えよう     
                                                                                                    
一.包み込むことの定義
 最近,「船井論語」(ダイヤモンド社)という本がベストセラーになっています。この本は,船井幸雄氏の愛弟子ともいうべき中島孝志氏が船井氏の言葉を引用しながら,「人生編」や「成功編」について自由に語っているものです。
  ちなみに私のこの稿は,船井氏の言葉を借り手教育を語っているので「船井論語・教育編」といったところでしょうか。
 さて,今回は,船井氏の思想の原点ともいうべき「包み込みの発想」です。
 では,船井氏の言葉を引用してみましょう。
「大事なのは,それらの人や会社の生いたちが,自分の意にそわないからといって否定しないことである。
 この世の中に存在することは,どんなことでも,正しいとと肯定できるようになるのが,私は人間の努力目標だと思っている。
 すべてを包みこんで理解しようと考えてほしい。吉田茂元首相は,『俺は人を喰って生きている』といったが,すべての人をよいと考え包み込むことこそ大事である。そのときは毒であってもいつかは薬になる。食っても食あたりしないで栄養になる。
 なんでも包みこもうと努力すること。・・実行できることこそ,最大の努力目標だと考えてほしい。」(「包みこみの発想」サンマーク文庫)
 この包み込みの発想は,いろいろな思想を生み出します。例えば,包み込むためには,AorBからA&Bと考えること,すべてをプラス発想で現状を肯定すること,また過去オール善と考えて肯定することなどが連なってくるわけです。

◆長所を作る機会を持つ

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◆長所を作る機会を持つ

 ところで,長所伸展法でもう一ついいたいことがあります。子どもの長所が見えないときはどうするかという問題です。そのとき,教師の役目は,子どもに長所をつくってあげる機会を持つということです。例えば,係活動で仕事を持たせるのです。その仕事をまっとうさせて,そこをほめるようにすることです。長所を引き出すような場面の設定こそ,教師がなすべき仕事です。  
 教科指導でもこの手は使えます。例えば,発表することが苦手な子どもがいます。その子どもをいきなり黒板の前で発表させることは冒険です。そこでお勧めなのが二人対話法と呼ばれる方法です。算数の問題を子どもが解きました。それをいきなり発表させず,座席のままで隣の子どもに説明させるのです。説明を受けた子どもは,質問するのです。「この式はどういうことですか」と。5分もあれば,隣どうしでの説明は終わります。つまり,説明することに自信を持たせるのです。それから,発表させるのです。特に発表が苦手な子どもを意識して指名します。その瞬間をとらえて発表がうまくなったことをほめればいいのです。たった5分の訓練で子どもが発表に自信を持つわけです。       
 子どもの長所を見つけること,また長所をつくるような機会を設定することが教師の役目です。



◆長所伸展法が正しい方法

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◆長所伸展法が正しい方法

 船井氏はいいます。「会社の業績を伸ばす方法として,私がアドバイスする基本は『短所に目をつぶり,長所をほめる』やり方です。この方法は人を育てるにも役立つそうです。この方法にであってから,私は意識してこの方法を使うことにしています。例えば,仕事がら,現場の授業を見てアドバイスするのですが,基本的に長所を見つけるように心がけでいます。
すると,どんな授業でも見つけることができます。たとえば,「ノート指導がいい,板書がいい,あの子供の発言がいい」というように見つけて指導します。もちろん短所も見えますが,あまり触れないようにします。本人が「あそこの指導が悪かった。反省します。」と言えば,そうですね。よく気がつきましたね,と応対します。それから,指導の改善策についてお話しさせていただきます。これだけで,その先生は,元気になります。自信を持ちます。案外これだけでうまくいくのです。
 この方法はまどろっこしいようですが,その現場の小学校からもう一度来てほしいという依頼を受けることが多いので,長所伸展法は正しい道だといえそうです。

◆「ある」と思うことから始まる

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◆「ある」と思うことから始まる

 そもそも,船井氏の教育の原点は,「人間には能力はある」としている点です。「ある」と考えていることが大きいのです。「ある」から引き出す(educate)ことができます。引き出すの教師の役目です。
 反対に,「人間には能力がない」と考える立場もあります。「ない」と考えるから「教えてあげる」のだという立場です。「ない」と考えているのは,それは,人間の研究がたりない人です。脳の研究からいっても,「ない」のではなく,生まれつき「ある」のです。人間の脳は,一生かかっても5%しか使われていません。5%ですよ。後の95%は眠っているのです。使われずに一生を閉じるのです。5%の脳だけでも,人間はこれだけの素晴らしい文明を作り上げてきたのです。他の動物にはできなかったことです。
 だとすると,後の95%が使われだしたらとてつもなく大きなことができるはずです。現在の科学では,また,教育学では,残りの95%を使うノウハウが未知なだけです。ですから,「人間には能力がある」という立場で,子どもを見ていくべきだと思います。
 あるとき,中学1年生のある生徒が英語が苦手で困っていました。テストをしても一桁の点です。英語の教師は,この生徒に能力がないとあきらめました。ところが,その生徒の母親は,そんなことはない。この子どもには能力があると思って,一から特訓を始めたのです。そうして,3ケ月後,80点をとりました。英語の教師は,担任に「あの生徒ははどんな生徒か」と質問したそうです。そして,その後は,母親の力も借りずに英語を勉強していったそうです。
 この事例を聞いて,私は思いました。「人間の能力は無限である」と。母親とその子どもにはよい機会だったわけです。しかし,本来は,英語の教師がやるべきことです。週に4時間も生徒と接しながら,何一つ有効な手立てをうたなかった教師は失格です。その教師は,他の生徒にも評判が悪く,親からも不平が出ていたそうです。複数の親の証言があるからまちがいないでしょう。当然,その教師の運も落ちているわけです。
 そこで,「能力はある」という立場にたったら,いかに「引き出す」かということが問題なわけです。それが,船井氏のいう「長所伸展法」なのです。以前にも他の論文で,この長所伸展法について論じましたので,要点だけのべます。


船井幸雄の人間学から見た教育のあり方

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 ◆人間の能力は無限である

 船井幸雄氏は今年相次いで,単著をだされました。その第一は,6月に「百匹目の猿」(サンマーク出版」,7月に「エバァへの道」(PHP研究所)です。
 第一の「百匹目の猿」に教育について述べられている所が多いので,この本の中から取り上げてみましょう。
 「人の知的能力、人間性などいくら引っ張り出してても枯渇することがありません。きたえればきたえるほど豊じょうになります。他の資源と異なり有限ということがありません。人の器にはくめども尽きぬ能力が眠っているのです。」
 この3行と船井氏の人間の能力に対する基本的な態度です。つまり,人間は無限の資源を持っている,と言っているわけです。教師にとってこの言葉を信じるかいなかで教育の方向が変わってきます。
「あの子どもは,どうせこの程度だから」「いくら支援しても変わらないから,この程度でいいや」などど考えてはいませんか。上の発言をする教師は,能力の無限性を信じていないと思われます。「そんなこと言われるけれど,あの子どもはこのような思考しかしないではないか」と反論されることがあります。
 でも,私はそれは子どもの能力が眠っているからだととらえます。

鏡の理の応用

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■教師と子どもとの関係
 あなたは、教室に入るとき何に気をつけて入りますか。私は、ニコニコ顔で入るようにします。
 特に、最近示範授業で飛び込みの授業をすることがありますが、教室に入るときには、笑顔で入るようにします。そして、座席表をもとに全員の名前を呼びます。初対面なのでこの5分間が決め手なのです。名前を呼びながら、元気な声には「いい声だ」と励まし、元気のない声には「給食食べたのかな」などと冗談をいいながら進めるのです。全員の名前が終わると、子どもは安心感に包まれます。それから、本時の課題に入ります。
 どんなときでも教師は、笑顔でいたいものです。例え、体の調子が悪くとも、また心の悩みがあっても、それを顔に出してはいけません。そんな顔は、子どもとは関係のないことです。プロなら出すべきではありません。
 笑顔の効用は、第一に子どもたちに安心感を与えます。第二に、子どもの心にゆとりが生じます。このゆとりが知的好奇心へのとびらを開く鍵となります。授業とは何かということを私は「子どもの心をオープンにさせて、教材に出会わせることによって問いの発生を生じ、解決させていく活動である。」ととらえています。
 付け足していうと、「教師と子どもの波動現象の生命体である。心の波を起こし、知的好奇心から探究心がもととなって解決していく活動である。」となります。
 ですから,授業は,まず、心ありきですから、教師の笑顔が授業の出発点なのです。船井氏は、「温顔無敵」ともいっています。いつもニコニコしていれば、心配は無用ということでしょう。
 現在、私は大学で教鞭をとっていますが、講義をするときもニコニコして話します。また、講演も同様です。すると、学生も先生方も安心して私の話を受け入れてくれます。
 ところが、以前の私は,反対の授業もありました。顔にいやな感情を表して授業をしていたこともありました。私が未熟だったせいです。やはり、笑顔を出すためには、日頃から感情のコントロールをして、しかも教えることに自信を持つ必要があります。教育実習生がドキドキした表情をしているのは、自信がないので当然です。いやいや教育実習生だけではありません。私が参観した授業の中で、自信のない表情をした教師もいました。当然、表情は暗いのです。これだと、教えられる子どもは、この教師の言うことが本当なのかどうか疑心暗鬼といったところです。そのためにも教材研究は必要ですね。


 

■鏡の原理の3つの法則

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■鏡の原理の3つの法則
 教育とは,教師と子どもと親との信頼関係で成り立っています。この信頼関係に役立つのが船井幸雄が言う「鏡の理」なのです。船井氏はつぎのように述べています。
「船井幸雄の実践・人生道場」ダイヤモンド社 (一九九六) より          「人間にとって最も大事なことは「信頼されること」と「それに応えること」の2つです。そのための意義が、「鏡の原理の3つの法則」です。
(1) 他人の自分への態度は、自分の他人への態度の反映である。
(2) 人に好かれようと思ったら、まず自分から相手を好きになること。
(3) 人には優しく接する、特に相手が弱っている 時はそうすること。
 相手の一番してほしいことを、相手が一番喜ぶ方法で、相手が一番望んでいる時にしてあげることが、人間としての信用を獲得し、信頼を築くベストの方法です。人間は謙虚な人が好きです。それは、自分を受け入れてくれる、好きなことをいわせてくれるからであり、自分を認めてくれるのだから当然好きになります。」
 上の3つの法則は、教育ではぴったり当てはまります。教師と子どもとの関係,子どもと子どもとの関係,教師と親との関係などは、上の3つの法則にのっとっています。

三 大事法を教えよう

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三 大事法を教えよう
 子どもを大事にすることとともに、子どもに対して「大事にすること」のよさを教えたいものです。
 第一に、生き物を大事にすることです。
 動物や植物を大事にするということは、生命を大事にすることにつながります。さらに、万物の霊長類である人間を大事にすることに、教え、実践させるのです。こうすれば、いじめなど考えられなくなります。
 偏差値や学歴だけを一番大事にしようとするから社会がゆがみ、子どもの心もゆがんでくるのです。一番の根源は、この世にうまれてきた「いのち」を大事にすることに価値をおくべきなのです。一つの「いのち」は、それなりの役割を持って生まれてきたはずだと考え、お互いが大事にすることによって社会が生成発展するのだという認識が重要です。 また、モノを大事にすれば消費社会から節約社会・リサイクル社会へと転換できます。

四 ある指導主事の話
 愛知県の一宮の指導主事から伺った話です。
 あるとき、その主事が中学校に勤務していたときの話です。同僚の先生が職員室で電話をしていました。「ああ、忘れ物したのか。それなら、先 生は学校で待っているから、とりにきなさい」と話していました。
 この電話を聞いて、その主事の先生は、その教師に対して叱ったそうです。「子どもが学校で忘れ物をしたらどうして届けてやらないのか。届けてやれば、教師の子どもへの思いやりが届くではないか」と。また、「わざわざ届けてくれたことに感謝して、子どもの方は心を入れ換えることになるだろう。ついでに家庭訪問もできるではないか」と。
 この話を伺って、私もハッとしました。この主事の先生は子どもを本当に大事にしているのだなと感じました。そこまでつくせる教師というのは素晴らしいと思いました。
 ついでに言いますと、この主事が中学校の教師でいた頃、その学校の学力テストは全国でもトップレベルであったそうです。教師が子どもを徹底的に大事にする。子どももそれに応えるという姿がそこに見られます。子どもを大事にしたからこそ成績が向上したわけです。
 別に甘やかせとはいっていません。大事にしてほしいということです。



大事法を知り、実践しよう

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大事法を知り、実践しよう


一、大事法とは何か 
 船井幸雄氏の文章から、まず引用します。
 『人でもモノでも大事にすれば集まってきますが、そうでないと逃げていきます。   お金を貯める人は、お金を大事にします。人材を育てるのが上手な人は、人を大事にする人です。植物や動物は大事にすると必ず答えてくれます。機械や道具も大事にすれば長期間使えます。大事にすることは、とんでもない効果を与えてくれるのです。     したがって、人でもモノでも当然大事にしたほうがよいのです。』(「実践経営道場」より(PHP研究所))要するに、「大事にすれば集まってくる」という原理で、これを大事法といいます。
 二 子どもを大事にすること
 教育の世界では、人が関わるのは、子ども、親、同僚ということになります。今回は、子どもを大事にすることを考えてみましょう。
 読者の教師はそんなこと当然のことだと言われるでしょう。
 ところが、何年も教師をやってくると大事法を忘れてしまうのです。というよりは、感覚がマヒしてくるということでしょう。
 教師というのは、いつもいつも「先生、先生」と呼ばれていますからついつい偉くなったような気分でいます。子どもが本当に困った気分になっていても、それが分からないことが多いのです。子どもは先生の言うことを聞かざるをえませんから我慢していることが多いのです。
 船井氏は、小売店で大事法を実践するためには、「お客のいうことを徹底的にきくことである」と述べています。当然のことですが、これが難しいのです。         教育の世界で考えてみますと、大事法は、子どものいうことを徹底して聞くことです。  例えば、1年生の子どもは、教師のところへ「ぼく、昨日遊園地へ行ってきたんだよ」などど教師に報告にきます。これらを全部聞いてやることなのです。私も1年生の担任のときには、午前中はおトイレにもいけなかったほどです。取り合えず聞くことです。   つぎに、授業の中で子どもの多様な発想を聞くことです。この場合は、単に聞くだけではいけません。その子どもの考えを受入れ、つまり認めてどこがいいのかをほめることなのです。多様な発想をさせても結局教師が持つ正解を提示して終わりになるという授業は、一見認めたようで実は認めてていないのです。
 算数科の授業ではそういうのはよくあることです。例えば、算数科では学習のめあてを子どもに考えさせておきながら、教師の期待するものがないと画用紙に予め書いておいたカードで示すことがあります。これではサギです。あの場面を見ると、私はこの教師の姿勢を疑います。子どもに考えさせたら、子どもの言葉で板書するべきです。まとめの場面でも教師が書いたまとめを提示するのも感心しません。
 もし、授業で教師の考える反応がでないときは、素直にあやまるべきです。そうすれば、子どもは教師に対して素直に学習する姿勢になります。 そうすると、大事法というのは、子どもの気持ちになって何を求めているかを考えて、子どもの欲求にしたがいつつ、教師が意図的に指導していくことだと思います。
 何事も素直にならなければ実行できません。
 さらに、大事法の根底には、大事にしたいという気持ちが生まれなければなりません。それは、子どもがいるから私は教えることができ、それが教師の私にとっての喜びであると考えるべきなのです。子どもの存在が私にとってありがたいという気持ちになってこそ、大事にしたいという気持ちが発生します。言い換えれば、子どもに感謝するということです。

3.生成発展の理の教育学的応用

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3.生成発展の理の教育学的応用
 生成発展の理を認めれば,教育の目的が明確になり教育のあり方も変わってきます。  教育の目的は,世の中の生成発展に寄与する人間を育てることです。つまり、「世のため人のために役立つ人間に育てる」ことです。決して自分自身のためだけではないのです。
 戦後の教育にこの視点が欠落していました。エゴが暗々裏に助長されてきたのです。だから,もうけるためには公害という私害を発生させても平気でした。また、宗教による殺人も行われました。いじめも自分だけよければいいというエゴの表れです。
 戦前の教育が国家のためを強調しすぎた結果,戦後はその反動が強いわけです。しかし,世のため人のために生きるというのは,時代を越えた真理です。アメリカの個人主義の影響も強かったのでしょう。エゴという自由がのさばり,責任ある行動が忘れられました。
 ここで、創造主を仮定するといいことがあります。「創造主は、人間に地球をよくするという使命を与えて、生成発展に寄与すると、その人間に喜びを与え、運というツキを与える。」これは、船井氏の理論をもとにした私の仮説です。
 子どもは、大人になって世の中に役に立つ必要があります。そのためには、学ぶ必要があります。生成発展してきた原理、社会、経済、科学、工学、人間、生物、地球などの進化してきた文化遺産を学ぶ必要があります。大脳新皮質が他の生物に比べてとてつもなく大きいのはそのためだと考えられます。
 創造主は、常にご褒美を考えています。学習したら快感ホルモンを出していい気持ちにさせてくれるのです。これが反対だと、誰が学習を続けると思いますか。人間の構造はうまくできています。最近、脳に関係する本をよく読むのですが、その構造の素晴らしさに創造主の存在を仮定せざるをえません。
 最近、船井氏は,創造主のことを至高存在という表現を用いていますが、どちらでもかまいません。
 世のため人のためというのは、大人になると身近に感じられます。例えば、私は算数教育の講演や示範授業をしたりします。そんなとき。終わって本当に共感してもらうと、お役に立てたという実感がわきます。後日、お礼のお手紙などを戴いたら本当によかったという気持ちになります。また、算数科の授業相談も受けます。相談にのること自体も嬉しいことですが、相談者の研究授業を成功させたときは、我がことのように嬉しいです。こういうとき、脳内モルヒネが出ており。脳波はα波がθ波になって脳が蘇生化しているときなのです。
 そこで、教師にとっての生成発展の理をどう受け止めればいいのでしょうか。
 実は、教育そのものが「世のため人のため」になっていることは自明ですね。つまり、子どもに知識や知恵を授け、引き出し、思いやりの心を育てることこそ、生成発展に寄与していると言えます。だから、子どもに学ぶ喜びを感じさせるような授業をして、共に生きることの大切さを教えていることが保障することです。
 そうすれば、子どもも教師も運がツクのです。 しかし、逆の場合はとても恐ろしい原理となります。子どもに学ぶ喜びを感じさせず、自分勝手な子どもに育てると、子どもも教師も運が落ちるのです。
 その運のよさは、教師の人相や雰囲気、教室の雰囲気に確実に表れます。だからこそ、教師は子どもへの教育は真剣に取り組まねばなりません。しかも、世の中は生成発展しているということは教える内容も生成発展しているのです。例えば教科書だって常に新しい内容を盛り込んでいます。それを絶えず教師は勉強しなければいけないのです。以前勉強した知識だけで教えようとするところに怠惰な心があるのです。そうして。子どもは教師を見放すのです。20代は20代なりに、40代は40代なりの授業ができなくてはなりません。マンネリが大敵です。読書と人から学ことを一生続けることです。
 私は、先週(2月22日)5年の「割合」の所を示範授業しました。初めての挑戦です。意識して生成発展の理を使っています。今日26日に子ども達から作文が届きました。とても嬉しい気持ちです。人生は常に新鮮な気持ちで取組みたいと考えています。
 さて、子どもの時代でも世のため人のためを意識させることができます。学級集団の中での役割を持たせて活動させることです。共生・共創の中でこそ、この意識が育ちます。また、本誌の趣旨であるボランティアは、外の社会との関わりにおいて世のため人のために役に立つことができる絶好のチャンスとも言えます。



三、『AandB』への教育への適用

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 三、『AandB』への教育への適用  
 「新しい学力観」について考えてみます。新しい学力観は明らかに評価の観点から登場してきました。四つの評価項目の順序が変わりました。
(1)関心・意欲・態度、(2)数学的な考え方、(3)表現・処理、(4)知識・理解です。
この変更は画期的なことです。従来、知識偏重からの脱却するためにはいい政策でした。もっと授業を楽しくして子どもの意欲を高めて下さいという願いです。
 さて、ここからが問題です。位置づけは理解できても実際の運用を正しくしないと道を誤るのです。AorBの視点に立つと、今までの全面否定になってしまいます。つまり、過去は間違っていてこれからは正しいということになります。
 そうすると、新しい学力観を提唱するお偉い人は年配の人が多いでしょうが、その人達は過去の人間ですから新しい学力観を主張すること自体意味がなくなります。そうではないのです。過去にも子ども主体の素晴らしい授業実践もあったのです。過去があって現在があり未来があるのです。だから、過去のいいところに学び新しい学力観を目指していけばいいのです。だから、「新しい」という文字ばかりが強調されると危険です。AandBの立場に立てば、年配の方は自信を持って新しい学力観を主張できます。      
 さて、上の評価の四つの観点について考えてみましょう。私の専門は算数科教育学ですが、この歴史をひもとくと二つの主張の対立ばかりです。即ち、「知識・理解、技能」対「数学的な考え方、関心・意欲・態度」の繰り返しです。生活単元学習、系統主義、現代化運動、基礎・基本、問題解決運動など対立の繰り返しです。その結果、どちらの主張も勝ったとえ言えません。それは、AorBの立場に立ったからです。
 算数科ではどちらが欠けても失敗するのです。問題解決をしようとしてもかけ算九九の基礎的技能は大事なのです。新しい学力観で関心・意欲・態度の面ばかり強調されますが、授業が表面的な楽しさだけで終われば、結局子どもに基礎的な学力がつかないのです。文部省は決して知識・理解・技能を軽視せよとは言っていません。現場で指導にあたる人は、文部省が出した資料をもっと吟味してほしいものです。
 AandBの立場で、(1)から(4)までがバランスのとれた四拍子ひろった学力観が必要です。特に、算数科は累積性の強い教科なので基礎的なことが「分かる」「できる」ことが絶対必要なのです。それを子どもたちに保障してから、さらに思考力・表現力・判断力をめざしていくべきです。
 そう考えると、今度の新しい学力観は教師にとってしんどいことなのです。これまでだと、どちらかの立場に立てばよかったのが、みんな大事だよと言われているのですから。
 AorBからAandBへの視点に立つと、指導と支援、個別学習と集団学習、問題解決型授業と説明型授業、管理職と教職員、などの関係が見えてくるはずです。対立ではなく共生・共創へと調和を図るように考えてみて下さい。






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