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最新更新日:2024/06/15 |
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南風あったかげん記−706−![]() 「篤姫」に関して質問をいただきました。 Q1「無血開城に向けた篤姫のめざましい働きは史実なのですか?」 Q2「官軍は中山道や東海道を東へ進みましたが、尾張徳川家は抵抗しなかったのですか?」 A1 実は私もよくわかりません。ただ、今回時代考証を担当した大石 学教授が解説しています。 「時代考証の作業の過程で明らかになった事実があります。それは、大奥が徳川家存亡の危機の中で、旗本ら家臣団に対して権力を発動したという事実です。」 そして、徳川家家臣への指示を出す「内政」と、自分たちのお付きの女中たちに書状を持たせ、東海道は川崎宿、中山道は大宮宿、甲州道中は府中宿へと、官軍の陣に派遣するという「外交」を展開したということです。どうやら、史実のようですね。 ここをご覧ください。 http://www9.nhk.or.jp/taiga/topics/rekisi/index... A2 これはするどい質問ですね。本来名古屋城は、西からの江戸防衛の防波堤のはずです。なぜこの時は機能しなかったのでしょうか。 実は、初代尾張藩主の義直は尊皇思想なのです。そのため、以後の藩主は、時折江戸徳川家と対立していました。幕末に最も権力のあった14代藩主慶勝も尊皇攘夷を主張していたのです。 当時は尾張藩内でも、朝廷派と佐幕派の対立が激化しましたが、慶勝は佐幕派を弾圧(青松葉事件)しています。そして、東海道・中山道を抑え、官軍の江戸攻めを支援したのです。 しかし、新政府での尾張藩の扱いは、貢献度に見合ったものではありませんでした。「名古屋県」という名前すらもらえませんでした。 「篤姫」は今日を含めて、あと2回です。 |
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