最新更新日:2024/09/26 | |
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南風あったかげん記−729−徳川歴代将軍の正室となった女性は18人います。どうやって選ばれたのでしょうか? 家康と秀忠の相手は大名家出身でした。戦国期を生き延び、勢力伸長を図るための政略結婚といえるでしょう。 三代家光以降は、公家が続きます。他の大名との格の違いを示すためです。家光が鷹司家、家綱は伏見宮、すなわち宮家から正室を迎えています。綱吉、家宣は鷹司家、近衛家から迎えました。 そして七代家継は皇女との縁組みが成立します。この時家継は6歳、相手の八十宮は生後一ヶ月でした。しかし、結納の儀を終えた2ヶ月後に、家継はわずか8歳で亡くなりました。八十宮は以後未亡人として生涯を過ごしました。これは、大奥内の権力争いの結果生じたことです。映画「大奥」で有名な「絵島生島事件」も一連の事件です。 吉宗、家重、家治は、それぞれ宮家から迎えました。 一橋家から将軍になった家斉は、島津家から正室を迎えています。それが茂姫、それまで篤姫といいました。天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものです。ここからも一橋家と島津家の関係がわかります。家斉は55人の子がいましたが、その子の縁談や毎年の化粧料が財政の大きな負担になりました。 家慶は宮家から迎えています そして家定。鷹司家、一条家から迎えた正室を亡くし、3人目が篤姫(写真左)であることは皆さんご存じの通り。外様である島津家から迎えた点、そして家茂は公武合体政策で和宮(写真中)を迎えたことなど、まさに幕末動乱期の政局であることがわかります。 最後の慶喜は、一条家の養女美賀子(写真右)と結婚したが、美賀子は大奥に入ることはありませんでした。 このように、徳川家御台所は、政略結婚期、安定期の各上げ期、動乱期と、それぞれの時代における重要な役割を果たしていたのです。 |
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