医療関係者の皆さん、ありがとうございます!  がんばろう日本! がんばろう南中!

南風あったかげん記−722−

☆★☆ 能・狂言公演 ☆★☆ 
 教育界では、「知識が先か、興味・関心が先か」というのはよく行われる議論です。今日は、知識を得てから実物を見ると、いかに興味・関心が高まるかというのを身にしみて実感しました。
 生の狂言や能を見るのは初めてではありませんが、説明を聞いての公演は初めての経験です。そこでは、いくつかの疑問が解けました。一例を挙げましょう。
Q「なぜ右手と右足がいっしょに出るのか?」A「農耕民族である日本人は、鍬を右手で振り下ろすときに右足が出る。それと同じ。」
Q「なぜすり足で歩くのか?」A「能面は微妙な角度の違いで表情が変わってしまう。角度を安定させるためにすり足で歩く。」
Q「目付け柱の目的は?」A「面(おもて)をつけた能楽師は、極端に視界が狭くなり、しかも下を向けないため、柱を目印に、自分の位置を把握する。ないと舞台から落ちそうで怖い。」
 そして、実際に狂言「蝸牛」、半能「高砂」を間近で鑑賞しました。
 音響機器のない時代のこと、その発声には何度聞いても驚かされます。また、大鼓や小鼓の声を出しながらの演奏には圧倒されます。タイミングをどうはかるのか、その秘密は今回もわかりませんでした。
 やはり、生はすごい。能楽堂へ行ってみたくなりました。

南風あったかげん記−号外−

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☆★☆ 東浦マラソン ☆★☆
 大会が終わりました。10kmですが、起伏が多く、ハードなコースでした。

南風あったかげん記−号外−

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東浦マラソンのために、あいち健康の森公園に来ています。多くの参加者が集まっています。

南風あったかげん記−721−

☆★☆ アンサンブル発表会 ☆★☆
 お知らせしたとおり、今日は丹葉地方吹奏楽協議会主催のアンサンブル発表会でした。丹葉地方吹奏楽協議会というのは、丹葉管内の中学校(含 滝中学校)15校の吹奏楽部で作っている、丹葉地方小中学校長会の一組織で、私が会長を務めています。
 立場上、始めと終わりの挨拶を務めることになっています。ここでは、終わりの挨拶の一部を紹介します。例によって、いつもアドリブですので、多少の違いはお許しを…。
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 みなさん、天井、側面を見てください。個性的な建物ですね。(扶桑文化会館は)昔の芝居小屋をイメージしたものです。これは、誰かが考えたのです。それを、「設計」といいます。そして、だれかが、設計図に合わせて建物を「建築」したのです。音楽でいうと、「設計」が作曲家、「建築」が演奏家です。
 「設計」には2種類あります。大雑把な設計をし、白い模型を作り全体のイメージをつかむのが「基本設計」、それでよしとなれば、細かなミリ単位の百ページ以上にわたる設計をするのが「本設計」です。
 「楽譜」は、音楽の設計図といわれています。それでは、楽譜は、「基本設計」でしょうか「本設計」でしょうか?みなさん、どう思います?
 実は、楽譜は「基本設計」なのです。フェルマータ(音を伸ばす記号)といっても、何秒の伸ばすかわかりません。フォルテやピアノといっても、どれほど強く、弱くしてよいのかもわかりません。あいまいなのです。そんなあいまいさで建物を建てたら、地震で壊れてしまいます。
 そのあいまいな設計に解釈を加えて色を着けるのが、大きな合奏なら指揮者であり、アンサンブルならみなさん自身なのです。
 今日は、客席で全チームの演奏を聴きました。まだまだ色の着いていない、基本設計段階の演奏が多くありました。ぜひ、みんなで話し合って、色を着けていってください。
 いくつか印象的な演奏がありましたが、特に心に残ったのが、演奏順11番の江南西部中学校SAX二重奏でした。
 シンプルな曲でしたが、アンサンブルがしっかりとできていました。やるべき事ができており、「あっ、これで良いんだ」と思いました。
 2人で合わなければ、3人では絶対に合いません。3人で合わなければ、4人で合いません。少人数で合わなければ、全員の合奏で合うわけはありません。もしかして合ったような気がするのは、実はごまかしているのです。開会式で、「アンサンブルは合奏の基礎」と言ったのは、そういうことです。
 まず、少人数で合わせること、そこから合奏は始まるのです。(以下略)
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 と、口で言うのは簡単ですが、実際には難しいものです。今日をきっかけに、少しでも向上のきっかけになれば幸いです。
写真は、今日のゲスト演奏、愛工大名電高校吹奏楽部3チームのみなさんです。
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南風あったかげん記−720−

☆★☆ わたしたちの町 岩倉 ☆★☆
 かつて尾張上四郡を治めた岩倉城でしたが、信長に敗れてからの歴史はあまり語られません。昨日紹介した「わたしたちの町 岩倉」などから、その後の歴史を概観してみましょう。
 江戸時代になり、家康の子・義直が尾張藩主となります。岩倉は、国奉行・代官・郡奉行などにより治められました。天明年間には、小牧代官所ができ、尾張国の丹羽郡127村、春日井郡125村、美濃国の可児郡5村を治めていました。義直の別荘の一画につくられたもので、現在は看板があるのみです。
 明治になると、丹羽郡は犬山藩の知行所になります。その後、版籍奉還、廃藩置県が行われ、明治4年に犬山藩は犬山県となり、11月に名古屋県、翌年に愛知県になります。
 そのころの岩倉には、次の5つの役場が置かれていました。
 ○小折村(井上村、他に江南市の曽本村・小折村)
 ○石仏村(神野村・石仏村、他に一宮市佐野村・加納馬場村・芝原村)
 ○岩倉村(岩倉村・八剣村)
 ○伝法寺村(野寄村・北島村、他に一宮市伝法寺村など)
 ○岩倉羽根村(曽野村・大山寺村・岩倉羽根村・大地村・川井村)
 これらの村が、明治22年に合併し、次の4つの村になりました。
 ○岩倉村(岩倉)→ 明治25年 岩倉町
 ○幼 村(石仏、神野、八剣、井上、他に一宮市加納馬場・芝原)
 ○豊秋村(岩倉羽根、曽野、大地、川井、大山寺)
 ○島野村(北島、野寄)
さらに、明治39年5月1日、この一町三か村が合併して岩倉町が生まれました。このときに、加納馬場と芝原は千秋村へ分村しました。これが、昭和46年の市制へとつながるのです。
 岩倉市は、2年前が町制100年でした。そして3年後には市制40年を迎えます。

南風あったかげん記−719−

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☆★☆ 岩倉市の文化財 ☆★☆
 昨日の社会教育委員会に続き、今日は文化財保護委員会。市の会議が続きました。
 今日の会議で、「岩倉市が誇る文化財がある」という話題になりました。それが、この冊子の表紙になった宮廷式土器です。
 この冊子『わたしたちの町 岩倉』は、昭和40年発行の社会科副読本で、編集委員の名に、本校初代校長 長谷川芳郎先生の名前も見ることができます。
 この10ページに次のように説明されています。
−−−−−−−−以下引用−−−−−−−−
 宮廷式土器
 「わたしたちの町 岩倉」の表紙を一度見てください。すばらしい土器です。これが2000年も前にできた土器とはちょっと考えられないほどです。これは、昭和11年秋、石仏から出た土器で、世界美術全集にものせられ、全国的に知られています。うす赤色をおびた美しい土器で、宮廷式土器と呼ばれており、こうした土器は伊勢湾沿岸から多くでています。弥生式も後期になりますと、こんなすぐれたものが作られるまでに進歩したのです。宮廷式土器は石仏のほか、北島その他からも小型なものが出ており、破片は岩倉の各地からも見つかっています。
−−−−−−−−引用終わり−−−−−−−−
 補足しますと、この種の土器は、「日本近代考古学の父」とよばれた濱田 耕作がクレタ文明のパレス式と呼ばれる壺になぞらえて「パレス式」と命名したもので、尾張地方を代表する土器です。白い土器の表面が、赤く塗られています。
 その代表的な壺の一つが、石仏から見つかっているのです。これこそ、岩倉市が誇る文化財といえるでしょう。
 この壺は、現在研究用として、京都大学が所蔵しています。

南風あったかげん記−718−

☆★☆ 常識・非常識−2− ☆★☆
 さっそく、昨日の内容に対して賛成意見をいただきありがとうございました。私は反対意見も大歓迎です。賛否にかかわらず、ご意見をいただけたら幸いです。(syaraku@tcp-ip.or.jp
 ご批判を恐れずに書くなら…
 神奈川県立神田高校で、入試点数は合格なのに服装や態度で不合格にしたことがマスコミで報道されました。そこでは、校長や学校側の不適切な選抜方法を非難していました。 
 「教育者なら、入学させてから指導するべきだ。」「見かけで判断するのは差別だ。」
 この問題で、同校の校長は「不正」を働いたとして更迭されました。
 私は、マスコミ報道やこの「更迭処分」に、昨日と同様の印象を受けました。
 もう少し詳しく書くと、同校は、入学後の生徒指導の難しいと思われる生徒を、願書提出日と受験当日でチェックしていたそうです。
 その内容は、「まゆ毛をそっている」「スカート丈が極端に短い」「ピアスの穴があいている」「茶髪に染めている」「化粧をしている」などでした。
 髪が元々茶色の生徒もいますが、通常は誤解されないように事前に連絡をしておきます。今回の例は、初めから「学校のルールは守る気がない」というレベルの生徒たちなのです。知り合いの私学関係者は「私学なら一発でアウト」と言っていました。
 神奈川県教育委員会のHPによれば、前期選抜の選考基準として「各高等学校が事前に公表する“総合的選考にあたって重視する内容”に基づき、調査書及び面接の結果を資料として、総合的に選考し、合格者を決定する。」とありました。これが、愛知県では推薦入試に当たるものでしょう。「総合的」とあるので学校の裁量もあるはずです。
 ただ、後期試験(愛知の一般試験)では「各高等学校は、調査書及び学力検査の結果を資料として、第1次選考及び第2次選考を行うこととし、各受検者ごとに次に示す方法により選考を行う。」とあり、面接がありません。面接がないのに判断材料にしたことが問題になったのだと思います。愛知県では一般試験でも面接があるので、神田高校のようなことは問題にはならないと思います。
 現在、神田高校では、ここまで学校を建て直してきた前校長を戻すように、請願運動が起こっているそうです。

南風あったかげん記−717−

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☆★☆ 常識・非常識 ☆★☆
 今朝の読売新聞の一面トップは「小中に携帯 原則禁止を」でした。教育再生懇談会が提案する素案としての報道です。
 携帯電話に関しては、大阪の橋下知事の発言で波紋を呼んだばかりですが、これにより政府としての対応が求められることになります。
 私は、この報道には違和感を感じていました。「携帯電話を学校に持っていってよい学校があるの?」と驚きを覚えたからです。それどころか、報道では授業中でもさわっている子がいるとか…。
 知る限りの尾張の学校で、携帯電話を持ち込んでよい学校はないと思います。通院とかやむを得ない場合が仮にあったとしても、職員が預かるなどの処置をとっているのではないでしょうか。全国各地の知人に聞いても、それが主流なのではないかと思うのですが、こうした報道が流れると、一般の人は「学校に携帯を持っていくのはどこでもやっているの?」と勘違いされてしまいます。
 身の回りの常識と、こうした報道とのギャップを感じまるのです。
 先日、横浜で「トイレ掃除を復活させよう」という提案があり、波紋を呼んでいました。これも同種でしょう。昨日もお知らせしたとおり、南中では「トイレ掃除は心磨き」としてやっています。いわば「南中の常識」です。
全国的にも、学校のトイレを児童・生徒が掃除をするのは、まず圧倒的多数だと思います。
 しかし、横浜の反対論である「家庭でやらないことを学校でやらせるのはどうか」、「現場の教員からは衛生面を心配する声も挙がっている」などを読むと、常識・非常識の感覚が違うと感じました。
私たちは、広い視野で、バランス感覚を保っていかなければと考えています。

 なお、本校PTAが10月に行った携帯電話アンケートの結果は、12月18日発行の「岩南PTA第84号」でお知らせします。

南風あったかげん記−716−

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☆★☆ 今日の朝礼 ☆★☆
今日の朝礼の紹介をします。
 「COSMOS」の合唱をバックに、合唱コンクールのスライドショーを行なった後、冬休みの日誌「WINTER LIFE」の紹介をしました。
「WINTER LIFE」は、尾張小中学校長会が編集発行しているもので、知多を除く尾張の小中学校教諭が分担して執筆しています。丹葉地区は、中学校1年生を担当しており、各教科の代表20名ほどが集まり、編集会議を行います。
 そこで練られた原稿を持ち寄り、尾張10地区の代表、教科の専門委員が集まり、さらに検討をします。各地区の担当校長も15名参加します。表紙の絵も各校から募集をし、地区で選ばれたものを、さらに尾張で投票で選びます。こうして計6回練られた原稿を、最後に部会長のいる一宮地区で、さらに綿密に点検するのです。
 「WINTER LIFE」はこのように多くの人が関わり、時間をかけて作成したものです。大切にしてもらえたらと思います。
 次に、「名古屋電気鉄道」の路線図を紹介しました。校長日記−709−で取り上げたもので、岩倉駅がターミナル駅として、重要な役割を果たしていたことを説明しました。
 さらに、小牧線(岩倉支線)の当時の写真を紹介しました。
 最後に、問題を出しました。「岩倉中学校のあるところは、戦前は何があったのでしょうか?」答えは「競馬場です。」
 正月には親戚が集まる機会があることでしょう。ぜひ、その機会をとらえて地域の昔の話を聞いてみましょう。そこで聞いた話を、将来、自分の子どもや孫に語り継ぐことは、みんなの責任なのですから…。  

南風あったかげん記−715−

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☆★☆ D&Mフェスティバル−2− ☆★☆
 多くの感想をいただきました。
 「多世代が集まる良い機会だと思います。」
 「このような会をぜひ継続してください。」
 「それぞれの人が自分の力を発揮してすばらしいと思いました。」
 「若者の発表の機会を与えていただき、ありがとうございました。」
 おやじの会のあり方はいろいろあってよいと思います。このような統一性のない会の企画は行政では難しく、ボランティア団体だからこそできることだと思っています。 
 長い目で、育てていきたいと考えています。

南風あったかげん記−714−

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☆★☆ D&Mフェスティバル−1− ☆★☆
 今日で7回目の開催になりました。
 7年前におやじの会を立ち上げ、何か若い人たちが多世代の人と関わることのできる場はないかと考えて始めたのが「ダンス&ミュージックフェスティバル」です。当初はロックバンドから、胡弓、演歌までありましたが、ロックバンドは別の機会を設けて、今の形に落ち着きました。今日も、他世代が一堂に会して、フラダンスからヒップホップ、鳴子踊りなど、いろいろな踊りや音楽に触れることができました。
 その頃は、世代ごとに、ジャンルごとに楽しむ機会はあっても、交わるということはなかったように思います。それをひとつの場に集めたのがこのイベントです。

南風あったかげん記−号外−

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☆★☆ 第7回D&Mフェスティバル ☆★☆
 今日は、おおぐちおやじの会主催 第7回D&Mフェスティバルに来ています。現在琉球國 祭り太鼓のリハーサルが行われています。

南風あったかげん記−713−

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☆★☆ 付家老 成瀬氏 ☆★☆
 犬山市民総合大学の概略を報告します。
 「付家老」はご存じですか?
 付家老とは、家康が尾張・水戸・紀州へ送った子の補佐役として、側近の家臣であった五家を付けたということです。成瀬氏は家康の側近中の側近でしたが、尾張徳川家に付けられました。もちろん、これらの五家は、将軍に直属する大名と同格の待遇を与えられると共に、三家のそれぞれで執政の最高責任者に任じられていました。このように「付家老」は、一方では将軍に直属しており、他方では御三家の家臣でもあるという、二君に仕える特別な存在でした。
 具体的には、尾張家が成瀬家と竹越家、紀州家が水野家と安藤家、水戸家が中山家の五家を指します。
 私見ですが、尾張の徳川義直は、家康との考え方に若干のずれがあり、最も側近であった成瀬氏を付けたのではないでしょうか。
 古文書を見ると、成瀬氏は、次第に尾張藩の家老であるとの認識が明確になってきます。
 この時の文書には「尾張殿家老」(宝永四年『御触書寛保集成』)と書かれています。この「殿」も興味深いところです。
 敬称は「様」が最上級で、「上様」は将軍のことです。尾張藩の主も、はじめは家康の分身ということで「様」扱いでしたが、時が経つにつれて、他の大名と同様「殿」に変わっています。「殿」は、御三家が諸大名に成り下がったしるしなのです。
 江戸と尾張のそのあたりの認識の違いが、あとあと影響するのです。
 画像は、尾張と美濃における成瀬氏の所領を黒丸で表したものです。知多や美濃にも所領があったことがわかります。

南風あったかげん記−号外−

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☆★☆ 犬山市民総合大学 ☆★☆
 今日は、犬山市民総合大学に来ています。テーマは「付家老成瀬氏」。二代正虎についての話が中心です。詳細は後ほど報告します。

南風あったかげん記−712−

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☆★☆ 合唱コンクール感想 ☆★☆
 今日は、生徒の感想の一部を紹介します。
☆ 三年間の中で言葉に表せないくらい最高な一日になりました。一日一日の練習で積み上げていった歌は、自分の心にすごく響き、「走る川」のイメージを声に出すことができました。毎日の練習がすごく楽しくて、学級全員が一つになれた瞬間を本番で感じることができました。吉田さんの笑顔で緊張がほぐれて歌い終わることができました。歌い終わったときは涙が出てしまいました。学年合唱で先生たちが泣いていてまた涙が出てしまい、校歌が歌えませんでした。この学年、この学級だったから、大変な練習も乗り越えられたし、最後に達成感を得ることができたと思います。一緒に喜び合えたり、泣き合ったりできる仲間は大切だなと思いました。忘れられない思い出となりました。

☆ 三年間の中の最後の合唱コンクールだったので金賞が取りたかった。でも金賞は取れなかったけど、他にも手に入れたものはたくさんあると思う。自分たちが今まで合唱コンクールに向けていろんな練習をしてきた。クラスの中の団結も今までよりは、ずっと良くなったと思う。自分たちは、仲間との協力や団結力が合唱コンクールを通して良くなったことが収穫だと思う。三年間の中の最後の合唱コンクールはもう終わってしまったけど、自分や他の人の心には、合唱コンクールの思い出が一生残るだろう。自分も、合唱コンクールの思い出や今からでも作れる思い出を、可能な限り作っていきたいと思う。

 まず、3年2組の感想だけを読んでみたのですが、全員の感想がすばらしかったことに驚きました。「他のクラスも応援していました」「先生たちのおかげ」など、それぞれに感じたことを素直に表現していました。これだけの力を与えてくれた合唱コンクール。ここで生徒が得たものを、大切に伸ばしていきたいと心を新たにしました。

南風あったかげん記−711−

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☆★☆ 合唱コンクール ☆★☆
 今日もやっぱり感動しました。保護者の皆様からも多くの感想をいただきました。その一部を紹介します。

☆ 今日はとてもすばらしい一日になりました。どれぞれのクラスが心を一つにして美しい歌声を聞かせてくれたと思います。みんなで協力し、ひとつのもとを作り上げたということがよくわかりました。美しい歌声と一生懸命に取り組む姿に、感動し鳥肌が立ちました。生徒のみなさん、感動をありがとう。 
☆ 毎年とても楽しみにしています。この会場にきて子どもたちの歌声に包まれると、他では味わえない感動をいただけます。3年間見せていただいて、学年ごとに親の心境もその時々でずいぶん変わり、その心境を通じて見る自分の子どもの姿も各学年あるのだとわかりました。
 3年生の学年合唱、本当にすばらしかったと思います。みんなの真剣な思いが伝わりました。義務教育の終わりを感じました。3年間、ありがとうございました。

 すばらしい感想をありがとうございました。私は、次のような話をしました。
 合唱は、協力が必要です。たとえば、和音は3つの音が必要ですが、それぞれの役割があります。「ドミソ」の和音、「ミ」が半音下がるだけで、長調から短調に変わってしまいます。楽譜は、どの音も大切な役割を果たしているのです。いらない音はありません。
 これはみんなも同じ。クラスの誰もが大切な役割を果たしています。いらない人はいません。
 今回、曲を作り上げる中で、協力の大切さを学んだと思います。ぜひ、3学期が終わるまで、学級の中でさらに高めていってほしいと思います。

南風あったかげん記−710−

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☆★☆ 明日は合唱コンクール ☆★☆
 昨年の合唱コンクールの最後に、校長の言葉というのがありました。感極まって、涙で言葉が出ませんでした。
 何とか、言葉にしたのが次のものです。昨年の校長日記から紹介します。
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 「保護者のみなさま、良かったよという方、拍手をお願いします。」(多数)
 「南中生のみんな、がんばってうたったよという人、拍手してください。」(多数)
 「歌う」ということは、体と心のバランスが保たれていないとできません。例えば、風邪をひいてしまったら、歌いたくてもきれいな声で歌うことはできません。同様に、心が風邪をひいてしまっても、やはり歌うことはできません。今拍手できた人は、心も体も健康なのです。今日は、本当に、すばらしい歌声を聴くことができました。本当はここまでご指導いただいた佐野先生にお話しをいただきたいところですが、代わってひとクラスごとにコメントします。( 中 略 )
 4月の入学式に、「中学生は根っこを伸ばす時期」という話をしました。根っこって…、心なのです。根っこが伸びれば、根っこが太くなれば、少々の風が吹いても倒れることはありません。そして、将来、必ず大きな花を付けます。
 今日の合唱コンクールとそれに向けた準備、さらに言えば、体育大会から、南中ふれあいフェスティバル、そして合唱コンクールと、みんなの根っこは大きく成長しました。さらに伸ばして、南中で中学校生活を送ってよかったと思えるようにしてください。
−−−−−−−−−−引用終わり−−−−−−−−−−
 何も準備なしに話した言葉というのは、本音が出やすいものです。以上の内容は、その時頭に浮かんだことを素直に表現したものなのでしょう。
明日はいよいよ合唱コンクール。どんなドラマが生まれるのか。楽しみです。青春のエネルギーを、ぜひ、ご自分の目でお確かめください。
 (写真は昨年のものです。)

南風あったかげん記−709−

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☆★☆ 名古屋電気鉄道 ☆★☆
 昨日紹介した名岐鉄道一宮線は、名鉄の前身である名古屋電気鉄道が大正2年に開通させた路線です。当時はまだ名古屋本線がないため、名鉄としては、この一宮線が名古屋から一宮へ向かう唯一のルートでした。東海道本線よりも本数が格段に多く、多くの利用者があったそうです。ターミナル駅としての岩倉駅の価値の高さが想像できます。
当時の路線図を見つけました。出展 http://www007.upp.so-net.ne.jp/tankentai/Mitino... 
 これを見ると、「稲荷前」駅があって、「大山寺」駅がないことがわかります。その他、「九ノ坪」「小折口」「宮後」「下野」という駅名が無くなっています。石原先生は「(一宮線などを)小学生の頃利用したことがある」、滝口先生は「小折口で降りた記憶がある」と言ってみえました。
同サイトには、当時の時刻表があり、東一宮から浅野駅まで6分、岩倉駅まで17分、押切町まで47分となっています。
 鉄道の歴史も興味深いものですね。

南風あったかげん記−708−

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☆★☆ 今日の朝礼−2− ☆★☆
 昭和7年の地図を見ると、稲荷に駅があるではありませんか。ちょうど、現在もある踏切の南側です。行ってみると、こんもり盛り上がっているところがありました。ここがホームだったのかもしれません。
 昭和21年の航空写真(中写真)を見ると、現在の南中や曽野小のあるあたりは、一面田畑であったことがわかります。
 下の写真は、左上が大正初期の岩倉駅構内で、右端にある変電所は、現在明治村で保存されています。
 右上は昭和初期の小牧線のホームです。一宮線のカーブがわかります。
 左下は大正初期の岩倉駅全景です。西側から見たもので、一面畑です。車庫も見えます。
 右下は犬山線の様子です。龍潭寺の西側を走っているのは現在も同じです。単線で一輌だけでした。
 これらの時代を経て今があるのです。
 昭和16年の今日は、太平洋戦争が始まった日です。
 写真の出典は、『明治・大正・昭和 岩倉写真集』(岩倉市郷土研究会編)
 昭和21年の航空写真の出典は、国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム です。

南風あったかげん記−707−

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☆★☆ 今日の朝礼−1− ☆★☆
 今日の朝礼の話を紹介します。
 「西市町西畑田の信号の上を、名草線が立体交差しているのはなぜでしょう?」(上写真左下)
 その答えは、古い地図を見るとわかります。
 県道浅野岩倉線は、かつては線路が通っていたのです。写真左下は、昭和14年頃の一宮線です。写真左上は、大正時代の岩倉駅です。現在の東側です。
 同様に、小牧にも鉄道が通っていました。中写真を見るとよくわかります。地図には「名岐鉄道小牧線」と書かれています。後の、「名鉄岩倉支線」です。ここには、「中市場駅」もありました。それは、中島屋幟店の南側、南側車線にホーム、北側車線に線路があったと、幟店の松浦さんが証言していただけました。
 町並みには、線路があった名残が残っています。次に駅東へ行ったら、眺めてみてください。
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行事予定
12/21 冬至
一期一会荘フリーマーケットボランティア
12/22 終業式
12/23 天皇誕生日
12/25 アンサンブルコンテスト
岩倉市立南部中学校
〒482-0003
愛知県岩倉市曽野町江毛1
TEL:0587-66-3181
FAX:0587-37-9517