最新更新日:2024/09/21 | |
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体育大会プログラムふれ愛ギャラリー 「野田武男」絵画展<赤目四十八滝> 水のある 風景が好きだといった 君の言葉を 思い出しながら 描いた 赤目四十八滝 あなたは 気に入ってくれましたか 今日の授業左上 1組 数学科;「一次関数の利用」の問題を解いています。 右上 2組 英語科;Unit4の学習です。よくできました! 左下 3組 社会科;「フランス文化の広がり」の学習です。 右下 4組 国語科;「盆土産」を学習しています。今日は、比喩の学習です。 どのクラスも温かい雰囲気を感じます。 南風あったかげん記−613−
☆★☆ 続社会科こぼれ話−7− ☆★☆
いよいよ体育大会。応援合戦の練習風景をHPで見た他校の保護者の方からも「がんばってください!」というメールを頂きました。ありがとうございました。 さて、本校職員からの質問です。元号ってどうやって覚えるのですか?コツがありますか? う〜ん。まず、元号について考えてみましょう。 今は、「一世一元の制」を採っており、天皇が変わらない限り元号は変わりません。しかし、明治より前は、「改元」といって、天皇在位中でも吉事や凶事があると変えていました。一代の天皇で6〜7回代わることはざらにありました。後花園天皇は9種類の元号が使われました。 ここをご覧ください http://www.nnc.or.jp/~a-si/gen-700.html さて、江戸時代に人は「何年前」というのをどうやって計算したのでしょうか。たとえば、寛文5年に生まれて元禄13年になくなった徳川光圀は何歳でなくなった? 結論から言うと、干支(えと)を用いたと思われます。子、丑、寅、……の十二支と、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、……の十干とセット。ちなみに、甲子園は「甲子(きのえね)」という干支の年につくられました。 年賀状でおなじみの十二支はともかく、十干の方はあまり聞かれませんが、西暦が採用される前はとても便利でした。 たとえば今年の干支は「戊子(つちのえね)」です。10年前の1998年は戊寅(つちのえとら)、20年前の1988年は戊辰(つちのえたつ)と、いずれも最初に十干の「戊」がつきます。だから、「戊」のつく年なら、10の倍数年前とすぐに分かるのです。 ここまでのことは、次のサイトを見るとわかりやすいと思います。 http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/... 続きは次回…。 今日の朝練習準備、大詰め…体育大会全体練習南風あったかげん記−612−いよいよ20日の体育大会が迫ってきました。台風の動きが気になりますが、20日ができない時は21日(日)に順延します。21日には天候が回復しそうですので、いずれにしても多くの方に見ていただけそうです。どうぞご参観をよろしくお願いします。 昨日は、全ブロックがグランドで応援練習を行いました。 流れのある黄ブロック、要素が豊富な緑ブロック、笑顔が素晴らしい赤ブロック、声が大きい青ブロック、それぞれ個性がありました。まだまだ未完成の部分もありさらなる練習が必要ですが、ここまで、ほとんど3年生を中心とした生徒の力だけでやってきました。これまでの3年生の活躍は、それは見事なものでした。その成果をぜひとも当日ご覧ください。 また、応援合戦に参加していない生徒は、学級幕、門柱を作成した生徒です。その作品の出来映えにもご注目ください。 今日の授業右上・左上 1・2組 体育科;体育大会の練習をしています。 左下 3組 国語科;「大人になれなかった弟たちへ」で話し合っています。 右下 4組 英語科;提案・申し出・指示をしよう。 どのクラスも明るい雰囲気です。 ふれ愛ギャラリー 「野田武男」絵画展<東尋坊> 広々とした 海を見ていたら 自分が小さく見えた 岩に打ち寄せる波しぶきが 何もかも投げ出したくなる 私の弱さをさらっていった 今日の朝練習今日の駅伝練習今日の応援練習−2−今日の応援練習−1−台風情報をリンクしました画像は、台風 第13号 9月17日 9時 予想進路図です。 http://www.imocwx.com/typ.htm 今日の授業右上・左上 1・2組 体育科;体育大会の練習をしています。 左下 3組 数学科;因数分解による2次方程式を学習しています。 右下 4組 英語科;Let's Read を学習しています。 どのクラスも明るい雰囲気で、楽しく学習しています。 ふれ愛ギャラリー富士山 「あれになろう、これになろうと 焦心(あせ)るより、 富士のように、黙って自分を 動かないものに創りあげろ。 世間へ媚(こ)びずに 世間から仰がれるようになれば 自然と自分の値うちは 世の人がきめてくれる。」 日本を代表する 富士山と桜を描いていたら 吉川英治の小説 「宮本武蔵」の中にあった言葉が 心に迫ってきました。 南風あったかげん記−611−「石」の話題の続きです。「石」とは、米の容積であり、領地の広さでしたね。その他の視点を考えてみましょう。 【 兵 力 】 司馬遼太郎の『関ヶ原』だったかと思いますが、戦国時代の戦闘員の動員能力は、およそ「1万石につき250人」だったと書いてありました。19万石の石田三成は、250×19=4750。関ヶ原の戦いでの石田軍は約5000人と言われているので、なるほどという数式です。 しかし、平和な江戸時代になると減ります。加賀100万石の前田家で1万人といわれているので、せいぜい1%です。長州藩36万9000石が禁門の変で動員した3000人という数もわかります。 【 財 力 】 江戸中期には、米の仲介業者である札差が武士から買う米の値段は、1石1斗=1両でした。前に1石=1両と書きましたが、この1斗分が手数料なのでしょうか。 たとえば1万石の領地から得られる年貢米を5000石とすると4500両。今のお金に換算すると、1両=10万円として、4億5千万円です。 ここから諸経費を引いて、1%の動員兵力100人で割ると…。苦しい生活であったことが予想されます。 ところで、紀伊国屋文左衛門が江戸城をも焼いた明暦の大火の時に、木曽の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にしました。なんと1千億円です。先ほどの計算式に当てはめると、222万石の大名に匹敵します。 【 家 格 】 大名家には家格があります。石高、官位、徳川家との関係などを総合して決まります。外様は、石高と家格が比例していたと言ってもよいでしょう。 石高の評価は、秀吉時代の「太閤検地」(写真)が基本となっています。薩摩藩は、実際に米は30万石足らずしか獲れなかったのですが、太閤検地で60万石以上とされ、江戸幕府からは77万石と評価されてしまいます。江戸幕府は、この石高で労役(御手伝普請)を割り当てるので、薩摩藩は大きな負担を強いられたわけです。 一方、他のほとんどの藩では、公の石高の評定(表高)よりも、実高の方が何割も高いというのが普通でした。秀吉の頃に比べて、米の生産性が高まったためです。 薩摩藩がなぜこれだけ高い評価を得たのか疑問ですが、米以外の収入もすでに織り込んでいたようです。 水戸藩も、薩摩藩同様、実高は表高を下回っていました。これは、徳川御三家の一つとして見栄を張ったためのようです。 ちなみに、尾張藩は表高55万石に対し実高は80万石超だったようです。 詳しくは、http://homepage3.nifty.com/ksatake/index.html をご覧ください。 「石」とは、米の容積、領地の広さであり、兵力・財力・家格を表す、広義の概念なのです。 「○○石」の意味がわかりましたか? 今日の朝練習今日の駅伝練習 |
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