最新更新日:2024/09/21 | |
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今日の朝練習南風あったかげん記−709−昨日紹介した名岐鉄道一宮線は、名鉄の前身である名古屋電気鉄道が大正2年に開通させた路線です。当時はまだ名古屋本線がないため、名鉄としては、この一宮線が名古屋から一宮へ向かう唯一のルートでした。東海道本線よりも本数が格段に多く、多くの利用者があったそうです。ターミナル駅としての岩倉駅の価値の高さが想像できます。 当時の路線図を見つけました。出展 http://www007.upp.so-net.ne.jp/tankentai/Mitino... これを見ると、「稲荷前」駅があって、「大山寺」駅がないことがわかります。その他、「九ノ坪」「小折口」「宮後」「下野」という駅名が無くなっています。石原先生は「(一宮線などを)小学生の頃利用したことがある」、滝口先生は「小折口で降りた記憶がある」と言ってみえました。 同サイトには、当時の時刻表があり、東一宮から浅野駅まで6分、岩倉駅まで17分、押切町まで47分となっています。 鉄道の歴史も興味深いものですね。 校長先生との会食会事前に提出された校長先生へ一言欄には、「校長先生のおかげで、2年間自由にのびのびと過ごせました!!先生ありがとう!!」「南中のHPの校長日記とか読んでいると楽しいです。引退したけど、部活動の内容とかが書いてあって楽しいです。」などと書いてくれました。ありがとう! 世界の名画今日の授業左上 1組 数学科;「マイ・ペース」の練習問題を解いています。 右上 2組 英語科;Let's Read2を学習しています。 左下 3組 社会科;歴史の練習問題を解いています。 右下 4組 国語科;「扇の的」について話し合っています。 どのクラスも集中して取り組んでいました。 「命の授業」をご参観ください昨年の感想を一部紹介します。 今日の話を聞いて、ぼくはいつも両親に見守られているんだなと改めて思いました。そう思って助産師さんの話を自分と重ねて聞いてみました。「そういえば俺にもあのころ…」と思いながら聞いていると、なぜだか温かい気持ちになったような気がしました。まだ親みたいな気持ちは中学生のぼくにはわからないけど、いつか来るのだろうか?と少し未来を期待してみたりしました。いや、なってみたいな…。なんか今日の授業はとてもいいものを手に入れたような気がしてとてもよかったと思います。 12月11日(木)13:55〜14:50 武道館で開催します。 どなたでもご参観いただけます。(写真は昨年度のものです) 今日の朝練習PTA広報委員会みなさん、2学期終業式頃に発行される「岩南PTA 84号」をどうぞお楽しみに! そして委員のみなさん、本当にお疲れ様でした。 校長先生との会食会合唱コンクールのご案内あらためて、ご案内申し上げます。 1 期日 平成20年12月11日(木) 2 場所 体育館 ぜひご来校ください。 今日の授業上 1・2組 体育科;長距離走を計測しています。 左下 3組 数学科;一次関数のグラフの学習です。 右下 4組 国語科;「未来をひらく微生物」の学習です。 一生懸命は知る姿がさわやかです。 南風あったかげん記−708−昭和7年の地図を見ると、稲荷に駅があるではありませんか。ちょうど、現在もある踏切の南側です。行ってみると、こんもり盛り上がっているところがありました。ここがホームだったのかもしれません。 昭和21年の航空写真(中写真)を見ると、現在の南中や曽野小のあるあたりは、一面田畑であったことがわかります。 下の写真は、左上が大正初期の岩倉駅構内で、右端にある変電所は、現在明治村で保存されています。 右上は昭和初期の小牧線のホームです。一宮線のカーブがわかります。 左下は大正初期の岩倉駅全景です。西側から見たもので、一面畑です。車庫も見えます。 右下は犬山線の様子です。龍潭寺の西側を走っているのは現在も同じです。単線で一輌だけでした。 これらの時代を経て今があるのです。 昭和16年の今日は、太平洋戦争が始まった日です。 写真の出典は、『明治・大正・昭和 岩倉写真集』(岩倉市郷土研究会編) 昭和21年の航空写真の出典は、国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム です。 南風あったかげん記−707−今日の朝礼の話を紹介します。 「西市町西畑田の信号の上を、名草線が立体交差しているのはなぜでしょう?」(上写真左下) その答えは、古い地図を見るとわかります。 県道浅野岩倉線は、かつては線路が通っていたのです。写真左下は、昭和14年頃の一宮線です。写真左上は、大正時代の岩倉駅です。現在の東側です。 同様に、小牧にも鉄道が通っていました。中写真を見るとよくわかります。地図には「名岐鉄道小牧線」と書かれています。後の、「名鉄岩倉支線」です。ここには、「中市場駅」もありました。それは、中島屋幟店の南側、南側車線にホーム、北側車線に線路があったと、幟店の松浦さんが証言していただけました。 町並みには、線路があった名残が残っています。次に駅東へ行ったら、眺めてみてください。 今日の朝練習TSP楯争奪卓球大会南風あったかげん記−706−「篤姫」に関して質問をいただきました。 Q1「無血開城に向けた篤姫のめざましい働きは史実なのですか?」 Q2「官軍は中山道や東海道を東へ進みましたが、尾張徳川家は抵抗しなかったのですか?」 A1 実は私もよくわかりません。ただ、今回時代考証を担当した大石 学教授が解説しています。 「時代考証の作業の過程で明らかになった事実があります。それは、大奥が徳川家存亡の危機の中で、旗本ら家臣団に対して権力を発動したという事実です。」 そして、徳川家家臣への指示を出す「内政」と、自分たちのお付きの女中たちに書状を持たせ、東海道は川崎宿、中山道は大宮宿、甲州道中は府中宿へと、官軍の陣に派遣するという「外交」を展開したということです。どうやら、史実のようですね。 ここをご覧ください。 http://www9.nhk.or.jp/taiga/topics/rekisi/index... A2 これはするどい質問ですね。本来名古屋城は、西からの江戸防衛の防波堤のはずです。なぜこの時は機能しなかったのでしょうか。 実は、初代尾張藩主の義直は尊皇思想なのです。そのため、以後の藩主は、時折江戸徳川家と対立していました。幕末に最も権力のあった14代藩主慶勝も尊皇攘夷を主張していたのです。 当時は尾張藩内でも、朝廷派と佐幕派の対立が激化しましたが、慶勝は佐幕派を弾圧(青松葉事件)しています。そして、東海道・中山道を抑え、官軍の江戸攻めを支援したのです。 しかし、新政府での尾張藩の扱いは、貢献度に見合ったものではありませんでした。「名古屋県」という名前すらもらえませんでした。 「篤姫」は今日を含めて、あと2回です。 南風あったかげん記−705−今日は犬山市民総合大学−中近世史学科を受講してきました。テーマは、〜付家老の成立と成瀬家の歴史〜の1講目、「家康と成瀬氏」でした。 成瀬氏は、ご存じの通り犬山の殿様で、元和三年以降、代々犬山城の城主を務めました。今日は、成瀬家として初代城主の成瀬正成とその父正一、正成の前の犬山城主 平岩親吉、そして大久保長安を通して、家康の側近の実態に迫るのがねらいでした。とても興味深く聴くことができました。 成瀬正一は、はじめは武田信玄に仕え、姉川の戦いで家康に仕えるようになりました。有名な「長篠合戦屏風図」では、武田軍の旗指物の識別や鉄砲隊の指揮を行っています。○印が正一で、「あの旗はだれそれ」と教えているところです。武田軍に詳しいため重宝されました。 その息子、正成は、本多正純、安藤直次とともに閣老、すなわち側近を務め、政務を司ります。小牧長久手の戦いで、17才ながら武功を挙げ、根来組といわれる百人組の鉄砲隊の長となります。これは家康軍の最年少記録です。 この後、尾張徳川家の家老で、犬山城主となりました。 家康は、経済官僚タイプの大久保長安、武力に長けた側近中の側近としての成瀬正成、その両者の中間に当たる平岩親吉をうまく使い分けていたという話が続きました。 話の合間に、軍役負担は土地台帳に基づき、そのために検地があったとか、朱印が仕えるのは将軍のみなど、いろいろなエピソードを交えた興味深い講義でした。 第2講は1週間後です。 TSP楯争奪卓球大会PTAコーラスボランティア 廃品回収 |
岩倉市立南部中学校
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