最新更新日:2024/04/26
本日:count up20
昨日:36
総数:458642
紫におう 雲見が峰の 日々新しき 光をあびて 今に花咲く 若草若木 みんな元気に 元気にのびる ああ下品野 たのし学びや

1963年 公民館兼講堂落成 昭和38年

 昭和38年12月5日、公民館兼講堂が完成しました。上左の写真は、公民館ができる前(昭和36年)、上右が公民館ができた後(昭和44年)の航空写真です。上下の写真は、落成式の様子です。下の写真は公民館の全景です。今のプールのあたりでしょうか。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

1961年 ジャングルジム すべり台完成、給食室改造 昭和36年

 4月30日には、ジャングルジム、すべり台が完成しました。写真を見るとすべり台つきジャングルジムでしょうか。また、9月9日には、給食室も改造工事が終了しました。下の写真が従来の給食室ですからずいぶん近代的に改造されました。このころから高度経済成長期に入り、どんどん施設が新しく作られていきます。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1960年 正門完成 昭和35年

 2月1日に正門が完成しました。写真から判断すると、今の品野西保育園のあたりでしょうか。今正門と呼ばれているところは、東門と呼ばれていました。
画像1 画像1

1959年 伊勢湾台風猛威を振るう 昭和34年

 瀬戸市に合併したその年の9月26日には風速50メートル以上と言われた伊勢湾台風が猛威をふるい、死者5000人以上、全半壊の家屋多数という戦後最大の被害となりました。写真は下品野小学校の被害の様子です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1959年 瀬戸市に合併 昭和34年

 品野地区の8カ村合併を様子は以下の通りです。
江戸時代末期、この地域は尾張国春日井郡であり、尾張藩領であった。
1880年(明治13年)2月5日
 春日井郡が東春日井郡と西春日井郡に分割され、この地 域は東春日井郡となる。
1889年(明治22年)
 沓掛村、下半田川村が合併し、掛川村となる。
 下品野村と中品野村が合併し、下品野村となる。
 上品野村、白岩村、片草村、上半田川村が合併し、上品野村となる。
1906年(明治39年)7月16日
 上品野村、下品野村、掛川村が合併し、品野村となる。
1924年(大正13年)1月1日
 町制施行し、品野町となる。
1959年(昭和34年)1月1日
 瀬戸市に合併される。
 これを見ると、瀬戸市は多くの村や町が合併して大きくなってきたのですね。そして、この時に今の「瀬戸市立下品野小学校」となったのです。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1957年 研究指定 昭和32年

画像1 画像1
こんな手記が残っています。
 下品野小学校は、私の母校である小学校尋常科6年と国民学校高等科2年の8年間、通学した学校である。私はこの学校に昭和32年から43年まで教員としてお世話になった。人工衛星打ち上げをはじめと、内外ともに話題が事欠かない。学校としては、計算技能単位学習を推進し(S33〜35)、算数科における「計算技能の向上」をめざし、自作問題集「計算の友」によって段階的に学習させた。(瀬戸市教育委員会研究指定)また、題材学習のを主とした教科(国語、算数、音楽、体育)について、教育効果を高めるための「学習形態」を研究し(S40)、導入段階における練習(試案)を作った。(愛日地方教育事務協議会研究指定)写真は、研究発表をしている様子です。今のようにプロジェクターでの発表ではありませんね。
 こんな頃から下品野小学校の教育研究が盛んにおこなわれていました。平成28年度、瀬戸市で一番にICT教育機器が導入されたのも納得のいくことです。平成29年度は瀬戸市教育委員会、平成30年度、31年度(令和元年度)は文部科学省の研究指定を受けています。
 歴史ある下品野小学校です。

1955年 今井鎌三郎胸像除幕式 昭和30年

 昭和30年12月10日には、初代校長の今井鎌三郎先生の胸像の除幕式が行われました。上の写真左上が当時の胸像です。右上が芝生広場にある今の胸像です。まったく変わりがありません。上の写真の下が来賓玄関にある石こうで作られた胸像です。下の写真が除幕式の様子です。
 第11代早川治郎校長先生(昭和25年から31年3月まで)は以下のように記されています。
 今井先生の胸像、二宮金二郎の銅像があったが戦時中に供出され、その後、陶製の像が寄贈されていたが、ボールが当たり破損した。基台は立派であるため、初代校長の胸像を立てることになった。教え子のお骨折りで供金も集まり、職員室の写真をもとにして水南町の彫刻家能見八重夫さんに依頼した。少し太りすぎのようであるが感じがよくできているという話であった。毛布に包んで大切に黒崎の鋳造屋へ運んだ。値段は覚えていないが高いなあと思った。
 ここで、いくつかの疑問がわいてきます。
○ 戦時中の提出された胸像、昭和30年までの陶製の胸像は、いつ、だれが作ったのか。
○ 芝生広場にある胸像と来賓玄関にある胸像との関係は。
能見八重夫さんは来賓玄関の石こうの胸像を作り、それをもとに芝生広場の銅製の胸像を作ったという推測ができます。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

1953年 2階建校舎 給食室 改築 昭和28年

 昭和28年には、2階建校舎と給食室が改築になりました。第二次世界大戦が終わって、少しずつ日本の経済も安定し、新築、増築、改築されるようになってきました。上が2階建校舎、中がその竣工式、下が給食室の写真です。今では影も形も残っていません。
 給食の歴史を探ってみました。以下の記録が残っていました。
 私の母校である下品野小学校にお世話になったのは昭和24年からです。入った当時は、みそ汁だけの給食でしたが、みんな喜んで食べました。その後、ミルク給食になり、道具のないまま手製のあわたて器(竹ぼうき)を使ってあわをたてたり、固くなったミルクをふるいにかけて溶かしたりしたこともありました。昭和28年2階建ての新校舎が建ち、その時給食室も新築されて10月8日より完全給食が実施されました。3人の給食婦さん、それにPTAのお母さん達の助けによって・・・・最初の日の献立は、ひじきのに付けで大きなはそりにいっぱい作られました。それ以降昭和38年3月まで同じ給食室で色々な献立の給食を作り児童達の偏食矯正に体力の増進にと力を入れてきました。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1952年 第3代伊藤源三郎校長記念碑除幕式 昭和27年

 明治41年に伊藤源三郎先生が第3代校長に着任され、15年間校長をつとめられました。その遺徳を偲んで岩屋堂に記念碑が建てられました。記念碑に記されている内容は、1908年をご覧ください。上の写真は、当時開催された除幕式の様子です。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1948年 PTA発足 昭和23年

 昭和23年3月にPTAが発足しました。家庭教育と社会教育を担当する教育上必要な組織であること、従来の後援会とはちがうこと、などの説明をアメリカ人の中尉し、三教室いっぱいの盛況ぶりでした。当時は、六三制やPTAなどわからないことばかりであったと記されています。
この年は、8月に教育勅語を返還したり、10月に第1回の教育委員の選挙があったりと教育が大きく変わっていった年となりました。
画像1 画像1

1947年 学校給食はじまる 昭和22年

 昭和22年4月1日、六三制が施行され品野町立下品野小学校が発足しました。戦時中は軍隊の宿舎に転用され破損がひどく、教室に復帰するのが大変だったそうです。ガラス戸を作ってもガラスはなく補修は不可能でした。
 昭和21年12月14日に東京、神奈川、千葉の三都県の学校で試験給食が実施されました。下品野小学校で学校給食が始まったのが、翌年の昭和22年11月とありますから、下のような写真の給食だったのでしょう。ミルク(脱脂粉乳)とトマトシチュー(スキムミルクと輸入トマトケチャップ)です。脱脂粉乳はアメリカから無償で与えられていました。主食のパンやごはんがなく、とうてい給食とはよべるものではありませんでした。
画像1 画像1

1947年 終戦直後の思い出 昭和22年

 下品野小学校の先生が思い出を綴った資料を見つけましたので記載します。
 昭和18年9月30日に新卒で赴任をし、途中で兵役でぬけていますが、30年3月31日まで奉職をしていました。その間、最も印象に残っているのは終戦直後のいろいろな出来ごとです。
 午後、早引をさせてくださいと女の子が言ってきました。わけを聞いてもなかなか教えてくれませんでしたが、午後、山へヨーノメを採りに行かねばならぬとのことでした。何にするのか見当もつかなかったので問いただしたら、お米が足りないのでヨーノメ(食用になる若い木の芽)の雑炊を炊くのだと小さな声で答えてくれました。悪いことを聞いたなと今でもその子の顔をはっきり覚えております。
 学校にウシが飼ってあったのもこの頃です。各地でウシ泥棒が横行していたので、宿直を2人でして一晩中ウシの番をしたことも幾度かあります。寒い夜などは、手綱を宿直室まで引き込んで、布団の中から手綱の手ごたえでウシの存在を確認したものでした。これは当時の若い先生の大事な仕事でした。滑稽と言うか、時と共に流れた世の移り変わりを痛感いたします。
 上の写真は、運動場でとれたかぼちゃのの品表会の様子です。下の写真は筆者の先生と5年生の学級の子どもたちです。1クラス何人だったか数えられますか。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1946年 子どもたちの服装 昭和21年

 これは昭和21年、終戦直後の高等科卒業生(今の6年生)の写真です。はきものはわらぞうりかげたで、くつをはいている子は学級へ配給になったくつが抽選で当たった幸運な子です。女子はみんなモンペですが、モンペもズボンもみんなつぎはぎです。当時のお母さんの苦労、暖かい愛情がにじみ出ています。子どもたちはみんなドッヂボールをしました。ドッヂボールといってもゴム製品がないので、お茶の実とサヤヌカを中につめて、ボロをつなぎよせ集めて自分たちでぬい合わせたドッヂボールでした。
歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

子どもたちの服装の変遷(明治から昭和初期)

 子どもたちの服装に注目してみました。上から順に明治40年、大正9年、昭和9年の撮影です。着物から少しづつ学生服に変わってきています。履物は順にげたからくつに変わっています。明治のころは女の子はまげを結っているようです。男の子はみんな学生帽をかぶっています。今は見かけなくなりました。
歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1925年 大正の校舎

 学校名についてはもう少し変遷があります。
昭和16年  品野町立下品野国民学校(国民学校令施行)
昭和22年  品野町立下品野小学校(6・3制施行)
昭和34年  瀬戸市立下品野小学校(瀬戸市へ合併)
 校舎は、一番上が大正14年、二番目が昭和2年(幼稚園も併設されました)、一番下が昭和29年です。
歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1910年 頌徳碑建設 明治43年

 初代今井鎌三郎校長先生は、教育行脚と称して各家々を訪問したり、庚申講や念仏講に出席して教育の必要性を説きました。着任当時の就学率49.83%、出席率56.76%に対して、明治40年には就学率98.65%、出席率94.75%まで向上しました。
 今井先生は月給をそっくり村長のもとへ提出し、一日も早く新校舎を建設するよう懇請されました。その話を聞いた善明老尼も寄付をして、校長の意思を尊重するように乞われました。そこで明治35年の新校舎の竣工をみたわけです。
 明治43年(1910年)には、今井校長先生の頌徳(しょうとく)をたたえて有志、門下生によって岩屋堂に碑が建てられました。歴史ある下品野小学校です。 
画像1 画像1
画像2 画像2

1908年 第3代校長着任 明治41年

 明治41年に伊藤源三郎先生が第3代校長に着任され、15年間校長をつとめられました。その遺徳を偲んで岩屋堂に碑が建てられました。このように記されています。

 先生は、明治十五年一月一日、愛知郡幡山村菱野に誕生。若くしてその資を認められ、下品野小学校今井校長の許に代用教員として薫陶を享け、明治三十六年、愛知県第一師範学校卒業後、瀬戸町外八ケ村二高等小学校に奉職。同四十一年、再び下品野尋常小学校訓導兼校長として着任。爾来十五年間名利をよそに孜々として本町教育に盡粋され、その教えを享けた者壱千五百余名。
 先生は体躯堂々、温容溢るる如く高潔なる人格に加うるに、激務の寸暇を割いて博く研鑽を怠らず。特に語学は最も蘊奥を極められ、典型的な師表として村を挙げて信望を聚められていた。後、瀬戸窯業学校に転じられ、左職約五ケ年で退職された。第二次世界大戦のために二男、三男を失われ、戦災者として最も不遇の中に昭和二十五年十二月二十八日、六十九才を以て尊い教育者としての生涯を終わられた。その訃を哀み、その徳を追尊する子弟相集いここに碑を建て先生の遺徳を永遠に伝えんとするものである。
   昭和二十五年五月建立  門下生一同
歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1907年 明治の下品野小学校

 明治40年3月15日に校名が下品野村立下品野尋常小学校から品野村立下品野尋常小学校に変わりました。4月6日には今井初代校長が亡くなられ、第2代大野覺太郎が赴任されました。明治41年には第3代伊藤源三郎校長先生が15年間務められました。上の写真は校長室にある3代の校長先生方です。左から今井、大野、伊藤校長先生です。下の写真は伊藤校長先生と在校生との記念写真です。
 こんなことが記されています。
 その頃の科目には、読み方、修身、算術、書き方、つづり方、体操、唱歌でした。4年生になると、ソロバンもありました。当時は成績の悪いものは落第でまた1年同じ授業を受けたものでした。成績の良い者から席順が決められていて一等の者が一番後ろに並んだものでした。
 私が級長(学級委員)の時に、ある生徒が2、3人さつまいもを弁当に持ってきた時に、「これは弁当ではないから、明日からは本当の弁当を持ってこさせるように父兄に話して来い」と言いつけを伝えたこともありました。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

1907年 第二代・三代校長

 第二代校長大野覺太郎先生、第三代校長伊藤源三郎先生について調べてみました。任期については、
初代今井校長 明治24年4月〜明治40年4月 17年1月
二代大野校長 明治40年10月〜明治41年4月 6月
三代伊藤校長 明治41年4月〜大正12年4月 15年1月
と、第二代大野校長は圧倒的に短期であり、記述もほとんどありません。写真のように第三代の伊藤校長先生を第二代校長として「第二代校長伊藤源三郎先生使用辞書」と誤記されている和英辞典が校長室に残っています。
 第三代伊藤校長については、温厚、篤実、研究熱心とされています。青年会を発起し、無給で小学4年を終えた約120人の生徒(当時は小学4年生で卒業していました)に夜、勉強を教えたことが記されています。講義の中で「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬ成けり」を例に出し、何事でもやろうと思えばやれるから心をくじけないように行えと教えたそうです。後に英語で中等教員の資格を得て瀬戸の窯業学校に転勤されました。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1891年 今井鎌三郎先生の略歴

 初代校長の今井鎌三郎先生の略歴を紹介します。
明治元年(1868)愛知県西加茂郡高橋村寺部の農家に生まれる。
明治12年(1879)小学校卒業後校長に望まれ、母校の授業補助となる。(11歳)
明治20年(1887)愛知県師範学校へ入学。
明治24年(1891)中品野学校に校長として赴任。(23歳)
明治40年(1907)4月6日登校前に机に向かって読書中に脳溢血(のういっけつ)で倒れ、そのまま死亡。(39歳)
 今井先生が校長先生になられた1年後に中品野学校から下品野村立下品野尋常小学校と改名しました。これが下品野小学校の創立と捉えたらいいのでしょうか。
 明治35年(1902)には、下品野植田に新校舎が建てられました。下の写真が現存する一番古い写真です。歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

「いじめ」根絶に向けて

警報発令時の登下校

学校だより

学校評価アンケート結果

学年通信

安全マップ

瀬戸市立下品野小学校
〒480-1207
愛知県瀬戸市品野町6丁目223
TEL:0561-41-0074
FAX:0561-41-3044