最新更新日:2024/04/26
本日:count up42
昨日:37
総数:458701
紫におう 雲見が峰の 日々新しき 光をあびて 今に花咲く 若草若木 みんな元気に 元気にのびる ああ下品野 たのし学びや

1969年 フラワーブラボーコンクール優良賞 昭和44年

 聖火園が昭和42年に完成し、そのわずか2年後の昭和44年にフラワーブラボーコンクール(FBC)で春、秋共に優良賞を受賞しました。FBCとは、小中学校などを対象とした花壇コンクールで、学校環境の美化と豊かな情操教育、育てた苗を花壇などに植えることによる地域の快適な環境づくりに役立てることを目的として実施されています。昭和39年に岐阜県から始まり、現在は、愛知県、三重県、静岡県、滋賀県、長野県、福井県及び名古屋市でも行われているたいへん有名なコンクールです。シロクマ?の姿も見られます。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1968年 交通安全教室 昭和43年

 交通事故が多発する時代でした。昭和45年が歴代ワースト1位で死亡者数は16,765人でした。昨年(平成30年)が最少の3,532人で4〜5倍になっています。学校でも警察の方を講師としてお呼びして、交通安全教室が盛んにおこなわれていました。写真は昭和43年のものです。
歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1

1967年 彫塑台どこへ 昭和42年

画像1 画像1
 聖火園が完成したときには、彫塑台にシロクマ?が確かにいました。どこへ行ってしまったのでしょう。実は、プールの横に網で囲われています。ここで、たくさんの疑問がわいてきます。
(1)シロクマなのか。
(2)だれが作ったのか。
(3)どうしてプールの横に移動しているのか。
(4)どうして網で囲われているのか。
 さらに、これらの疑問に答えていくと新しい疑問に突き当たることでしょう。昭和42年以降のことなので下品野っ子のお父さんやお母さんなら知っているかもしれませんね。
 歴史ある下品野っ子です。

1967年 聖火園完成 昭和42年

 1964年に東京オリンピックが開催されました。それを記念して、東京オリンピック記念秋季大運動会が下品野小学校で開催されました。これになぞられて、教材観察池及び花壇を含めた聖火園の建設を当時の校長先生が発案されました。翌年からPTAの方々による勤労奉仕で建設が始まり、昭和42年4月7日に完成しました。こんな手記が残っています。
 前の校長先生の音頭で花いっぱいの学校にしようとPTAのみなさんと、炎天下や雨の中で、花だん作り作業をしたことは、ただ単なる花作りの仕事だけでなく、仕事をしながらPTAのみなさんと、心から親しくなることができ、また、どんなに教育論をかわしたことか、その仕事は次の校長に受け継がれ美しい花を咲かせ、実を結んだ。そして共通の仕事をしながら、その中で語り合うことは、本当に心から理解を深めることがでものだということを、私に教えてくれた。
 私は今もあの頃のときをときおりなつかしみながら、そこには本当の仕事の姿があるのだと思う。それは、共に笑い、泣いた当時のPTAの人たちだけのものかも知れないが、それは、品野の自然にも負けない、美しい花だと、時が過ぎれば過ぎるほど、貴重なものに思えてならない。
 聖火園の中央にはシロクマ?がいました。どこかで見かけたことはありませんか。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1963年 公民館兼講堂落成 昭和38年

 昭和38年12月5日、公民館兼講堂が完成しました。上左の写真は、公民館ができる前(昭和36年)、上右が公民館ができた後(昭和44年)の航空写真です。上下の写真は、落成式の様子です。下の写真は公民館の全景です。今のプールのあたりでしょうか。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

1961年 ジャングルジム すべり台完成、給食室改造 昭和36年

 4月30日には、ジャングルジム、すべり台が完成しました。写真を見るとすべり台つきジャングルジムでしょうか。また、9月9日には、給食室も改造工事が終了しました。下の写真が従来の給食室ですからずいぶん近代的に改造されました。このころから高度経済成長期に入り、どんどん施設が新しく作られていきます。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1960年 正門完成 昭和35年

 2月1日に正門が完成しました。写真から判断すると、今の品野西保育園のあたりでしょうか。今正門と呼ばれているところは、東門と呼ばれていました。
画像1 画像1

1959年 伊勢湾台風猛威を振るう 昭和34年

 瀬戸市に合併したその年の9月26日には風速50メートル以上と言われた伊勢湾台風が猛威をふるい、死者5000人以上、全半壊の家屋多数という戦後最大の被害となりました。写真は下品野小学校の被害の様子です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1959年 瀬戸市に合併 昭和34年

 品野地区の8カ村合併を様子は以下の通りです。
江戸時代末期、この地域は尾張国春日井郡であり、尾張藩領であった。
1880年(明治13年)2月5日
 春日井郡が東春日井郡と西春日井郡に分割され、この地 域は東春日井郡となる。
1889年(明治22年)
 沓掛村、下半田川村が合併し、掛川村となる。
 下品野村と中品野村が合併し、下品野村となる。
 上品野村、白岩村、片草村、上半田川村が合併し、上品野村となる。
1906年(明治39年)7月16日
 上品野村、下品野村、掛川村が合併し、品野村となる。
1924年(大正13年)1月1日
 町制施行し、品野町となる。
1959年(昭和34年)1月1日
 瀬戸市に合併される。
 これを見ると、瀬戸市は多くの村や町が合併して大きくなってきたのですね。そして、この時に今の「瀬戸市立下品野小学校」となったのです。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1957年 研究指定 昭和32年

画像1 画像1
こんな手記が残っています。
 下品野小学校は、私の母校である小学校尋常科6年と国民学校高等科2年の8年間、通学した学校である。私はこの学校に昭和32年から43年まで教員としてお世話になった。人工衛星打ち上げをはじめと、内外ともに話題が事欠かない。学校としては、計算技能単位学習を推進し(S33〜35)、算数科における「計算技能の向上」をめざし、自作問題集「計算の友」によって段階的に学習させた。(瀬戸市教育委員会研究指定)また、題材学習のを主とした教科(国語、算数、音楽、体育)について、教育効果を高めるための「学習形態」を研究し(S40)、導入段階における練習(試案)を作った。(愛日地方教育事務協議会研究指定)写真は、研究発表をしている様子です。今のようにプロジェクターでの発表ではありませんね。
 こんな頃から下品野小学校の教育研究が盛んにおこなわれていました。平成28年度、瀬戸市で一番にICT教育機器が導入されたのも納得のいくことです。平成29年度は瀬戸市教育委員会、平成30年度、31年度(令和元年度)は文部科学省の研究指定を受けています。
 歴史ある下品野小学校です。

1955年 今井鎌三郎胸像除幕式 昭和30年

 昭和30年12月10日には、初代校長の今井鎌三郎先生の胸像の除幕式が行われました。上の写真左上が当時の胸像です。右上が芝生広場にある今の胸像です。まったく変わりがありません。上の写真の下が来賓玄関にある石こうで作られた胸像です。下の写真が除幕式の様子です。
 第11代早川治郎校長先生(昭和25年から31年3月まで)は以下のように記されています。
 今井先生の胸像、二宮金二郎の銅像があったが戦時中に供出され、その後、陶製の像が寄贈されていたが、ボールが当たり破損した。基台は立派であるため、初代校長の胸像を立てることになった。教え子のお骨折りで供金も集まり、職員室の写真をもとにして水南町の彫刻家能見八重夫さんに依頼した。少し太りすぎのようであるが感じがよくできているという話であった。毛布に包んで大切に黒崎の鋳造屋へ運んだ。値段は覚えていないが高いなあと思った。
 ここで、いくつかの疑問がわいてきます。
○ 戦時中の提出された胸像、昭和30年までの陶製の胸像は、いつ、だれが作ったのか。
○ 芝生広場にある胸像と来賓玄関にある胸像との関係は。
能見八重夫さんは来賓玄関の石こうの胸像を作り、それをもとに芝生広場の銅製の胸像を作ったという推測ができます。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

1953年 2階建校舎 給食室 改築 昭和28年

 昭和28年には、2階建校舎と給食室が改築になりました。第二次世界大戦が終わって、少しずつ日本の経済も安定し、新築、増築、改築されるようになってきました。上が2階建校舎、中がその竣工式、下が給食室の写真です。今では影も形も残っていません。
 給食の歴史を探ってみました。以下の記録が残っていました。
 私の母校である下品野小学校にお世話になったのは昭和24年からです。入った当時は、みそ汁だけの給食でしたが、みんな喜んで食べました。その後、ミルク給食になり、道具のないまま手製のあわたて器(竹ぼうき)を使ってあわをたてたり、固くなったミルクをふるいにかけて溶かしたりしたこともありました。昭和28年2階建ての新校舎が建ち、その時給食室も新築されて10月8日より完全給食が実施されました。3人の給食婦さん、それにPTAのお母さん達の助けによって・・・・最初の日の献立は、ひじきのに付けで大きなはそりにいっぱい作られました。それ以降昭和38年3月まで同じ給食室で色々な献立の給食を作り児童達の偏食矯正に体力の増進にと力を入れてきました。
 歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1952年 第3代伊藤源三郎校長記念碑除幕式 昭和27年

 明治41年に伊藤源三郎先生が第3代校長に着任され、15年間校長をつとめられました。その遺徳を偲んで岩屋堂に記念碑が建てられました。記念碑に記されている内容は、1908年をご覧ください。上の写真は、当時開催された除幕式の様子です。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1948年 PTA発足 昭和23年

 昭和23年3月にPTAが発足しました。家庭教育と社会教育を担当する教育上必要な組織であること、従来の後援会とはちがうこと、などの説明をアメリカ人の中尉し、三教室いっぱいの盛況ぶりでした。当時は、六三制やPTAなどわからないことばかりであったと記されています。
この年は、8月に教育勅語を返還したり、10月に第1回の教育委員の選挙があったりと教育が大きく変わっていった年となりました。
画像1 画像1

1947年 学校給食はじまる 昭和22年

 昭和22年4月1日、六三制が施行され品野町立下品野小学校が発足しました。戦時中は軍隊の宿舎に転用され破損がひどく、教室に復帰するのが大変だったそうです。ガラス戸を作ってもガラスはなく補修は不可能でした。
 昭和21年12月14日に東京、神奈川、千葉の三都県の学校で試験給食が実施されました。下品野小学校で学校給食が始まったのが、翌年の昭和22年11月とありますから、下のような写真の給食だったのでしょう。ミルク(脱脂粉乳)とトマトシチュー(スキムミルクと輸入トマトケチャップ)です。脱脂粉乳はアメリカから無償で与えられていました。主食のパンやごはんがなく、とうてい給食とはよべるものではありませんでした。
画像1 画像1

1947年 終戦直後の思い出 昭和22年

 下品野小学校の先生が思い出を綴った資料を見つけましたので記載します。
 昭和18年9月30日に新卒で赴任をし、途中で兵役でぬけていますが、30年3月31日まで奉職をしていました。その間、最も印象に残っているのは終戦直後のいろいろな出来ごとです。
 午後、早引をさせてくださいと女の子が言ってきました。わけを聞いてもなかなか教えてくれませんでしたが、午後、山へヨーノメを採りに行かねばならぬとのことでした。何にするのか見当もつかなかったので問いただしたら、お米が足りないのでヨーノメ(食用になる若い木の芽)の雑炊を炊くのだと小さな声で答えてくれました。悪いことを聞いたなと今でもその子の顔をはっきり覚えております。
 学校にウシが飼ってあったのもこの頃です。各地でウシ泥棒が横行していたので、宿直を2人でして一晩中ウシの番をしたことも幾度かあります。寒い夜などは、手綱を宿直室まで引き込んで、布団の中から手綱の手ごたえでウシの存在を確認したものでした。これは当時の若い先生の大事な仕事でした。滑稽と言うか、時と共に流れた世の移り変わりを痛感いたします。
 上の写真は、運動場でとれたかぼちゃのの品表会の様子です。下の写真は筆者の先生と5年生の学級の子どもたちです。1クラス何人だったか数えられますか。
 歴史ある下品野小学校です。

画像1 画像1
画像2 画像2

1946年 子どもたちの服装 昭和21年

 これは昭和21年、終戦直後の高等科卒業生(今の6年生)の写真です。はきものはわらぞうりかげたで、くつをはいている子は学級へ配給になったくつが抽選で当たった幸運な子です。女子はみんなモンペですが、モンペもズボンもみんなつぎはぎです。当時のお母さんの苦労、暖かい愛情がにじみ出ています。子どもたちはみんなドッヂボールをしました。ドッヂボールといってもゴム製品がないので、お茶の実とサヤヌカを中につめて、ボロをつなぎよせ集めて自分たちでぬい合わせたドッヂボールでした。
歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2

子どもたちの服装の変遷(明治から昭和初期)

 子どもたちの服装に注目してみました。上から順に明治40年、大正9年、昭和9年の撮影です。着物から少しづつ学生服に変わってきています。履物は順にげたからくつに変わっています。明治のころは女の子はまげを結っているようです。男の子はみんな学生帽をかぶっています。今は見かけなくなりました。
歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1925年 大正の校舎

 学校名についてはもう少し変遷があります。
昭和16年  品野町立下品野国民学校(国民学校令施行)
昭和22年  品野町立下品野小学校(6・3制施行)
昭和34年  瀬戸市立下品野小学校(瀬戸市へ合併)
 校舎は、一番上が大正14年、二番目が昭和2年(幼稚園も併設されました)、一番下が昭和29年です。
歴史ある下品野小学校です。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

1910年 頌徳碑建設 明治43年

 初代今井鎌三郎校長先生は、教育行脚と称して各家々を訪問したり、庚申講や念仏講に出席して教育の必要性を説きました。着任当時の就学率49.83%、出席率56.76%に対して、明治40年には就学率98.65%、出席率94.75%まで向上しました。
 今井先生は月給をそっくり村長のもとへ提出し、一日も早く新校舎を建設するよう懇請されました。その話を聞いた善明老尼も寄付をして、校長の意思を尊重するように乞われました。そこで明治35年の新校舎の竣工をみたわけです。
 明治43年(1910年)には、今井校長先生の頌徳(しょうとく)をたたえて有志、門下生によって岩屋堂に碑が建てられました。歴史ある下品野小学校です。 
画像1 画像1
画像2 画像2
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
瀬戸市立下品野小学校
〒480-1207
愛知県瀬戸市品野町6丁目223
TEL:0561-41-0074
FAX:0561-41-3044