最新更新日:2024/10/31 | |
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一年間お世話になりました!八幡小の「2011年の重大ニュース」の一つは、やっぱり「耐震補強工事」ではないでしょうか?校舎壁面に「鉄骨ブレース」が組み込まれたり、全面塗装が施されたりして美しくリニューアルすることができました。また、トイレも改装工事が行われ、エコで使いやすいトイレになりました。工事期間中は作業音などで近隣にご迷惑をおかけしました。地域ならびに保護者のみなさまのご理解にあらためて感謝申し上げます。 冬休み企画として「八幡小学校の歴史」を特集してみました(HP右側リンクのコーナー)。知っていそうで知らなかった「八幡小の誕生のなぞ」を発見したり、お正月に帰省された卒業生のみなさんは思い出を共有したり・・時間のあるときにぜひご覧になってみてください。 2012年がみなさまにとって、健康で幸多き年でありますように! ◇八幡小の歴史(はじめに)平成23年の夏休みに「八幡小の歴史」というテーマで「自由研究」に取り組んで少しずつまとめたものをここに紹介させていただきます。まずは、校舎建設工事をはじめとする「開校前〜昭和59年度」までのおよそ10年間をまとめてみました。 校舎建設工事の頃の校門周辺のモノクロ写真。銀塩フィルムによる画像です。(写真 上)後方には松坂屋ストアのビルが見えます。基礎工事が行われているようで、何本も鉄骨がのびているのがわかります。 現在の校門周辺の風景(写真 下)。デジタルカメラによる撮影でカラー写真であります。(今の子どもたちには当たり前ですが・・・) 校舎が建設されて、マツザカヤストアの看板だけが見られます。 ◇八幡小の歴史(宝ヶ丘からのながめ)1968年(昭和43)10月に宝ヶ丘か幡山地区のあたりから撮影した写真が残っていました。当時の子どもたちはこのあたりの野山をかけまわって遊んだのでしょうね。(写真 上) 数年後、丘陵地は造成工事により住宅地へと変貌をとげようとしています。中央には大きなビルも建設されています。(写真 下) ◇八幡小の歴史(八幡小学校の建設予定地)
1960年代中期、いよいよ八幡小学校建設予定地の造成工事が始まりました。ブルドーザー、ショベルカーなどたくさんの工事車両が見られます。(写真 上)
だんだん整地され運動場らしくなってきます。これは現在のサッカーゴール(東側)のあたりから北の原山台、萩山台をながめているところです。(写真 中) なつかしいモノクロ写真です。どうやら校舎建設予定地を掘削しているようです。遠くにぽつんと見えるのは、一足先に完成した光陵中学校の校舎です。(写真 下) ◇八幡小の歴史(変貌する南部丘陵地)
1960年代後期から70年代初期にかけて、瀬戸市南部の丘陵地は新しい街へと生まれ変わりました。菱野ニュータウンの誕生です。
住宅地の完成にあわせて最初に原山小、二番目に萩山小、最後に、わが八幡小学校が開校していきました・・・ 写真 上:1968年(昭和43)10月 撮影 写真 中:造成工事中の菱野団地(撮影時期は不明) 写真 下:2011年(平成23)8月 撮影 ◇八幡小の歴史(校舎建設)やがて整地も完了し、いよいよ基礎工事に着手です。(写真 上) ずいぶん校舎の形がはっきりわかるようになってきました。むこうには松坂屋ストアのビルも建っています。また、校門の一部もできはじめ、運動場わきには工事現場事務所も見えます。(写真 下) 1970年代中期は、「石油危機(オイルショック)」から、建築資材の価格高騰や総需要抑制政策で菱野団地の住宅建設は「足踏み状態」がつづいていました。もちろん校舎建設にもそれが影響して、「1974年の2月に校舎完成」の予定は大幅に遅れ、5月まで延びる事態となりました。 ◇八幡小の歴史(遅れる住宅建設)
1970年代に入って日本をおそった石油危機(オイルショック)、トイレットペーパーを買うためにスーパーマーケットに行列ができたことが当時はニュースになりました。
資材の価格高騰、そして総需要抑制等が要因となって住宅建設は計画どおりにすすみませんでした。このため、八幡台への入居も足踏み状態がつづきました。 写真は住宅建設中の「11〜12街区」です。当時は「○丁目」ではなく「○街区」で呼んでいたのですね。 2枚の写真は同じ場所を撮影したものです。遠くに「菱野第一住宅」のビル、そして屋上に建てられた松坂屋ストアの看板、八幡小学校の校舎も中央に見えます。 ◇八幡小の歴史(校舎完成まであと一歩)八幡小学校の校舎は未完成で、「新年度4月の開校」は見送られました。運動場のあちらこちらに工事車両が見られます。また本館と北館をむすぶ「空中廊下」にもまだ屋根がかかっていません。 歩道橋ちかくにある建物は「東海銀行」です。(その後、「瀬戸信用金庫」が営業) 建築資材の価格高騰、総需要抑制により住宅建設が遅れていて、1丁目、3丁目に住宅は見られません。 やがて、学校の向こうに見える14街区(現在の2丁目)の2,3,4,5,7,8,9,10棟がようやく最初の入居者を迎えました。 ◇八幡小の歴史(クイズです!)さてクイズです。これは現在の何丁目のあたりか・・・・わかりますか? 八幡小の歴史(クイズの答え)
◇ 上で出題されたクイズ(写真 上)の答えを発表します。
正解は、八幡台8丁目〜9丁目の風景でした。昭和40年代ははっきり見えた松坂屋ストアの看板やビルも現在では、たくさんの住宅が建ち並んだために、わずかに看板だけが見えます。(写真 中) 3枚目の写真は、八幡小学校・校舎建設中に撮影されたものです。現在の9丁目あたりに建物は見られず、ただの空き地だったんですね。 画像からははっきりわかりませんが、現在の「2丁目5棟」の壁に取り付けられた数字も当時は、「14−5」(14街区の5棟)となっています。(写真 下) ◇八幡小の歴史(運動場の整備)いよいよ最終段階、運動場の整地や側溝、フェンスの設置工事が始まります。 ◇八幡小の歴史(2学期にオープン!)住宅建設の大幅な遅れによる異例の2学期開校です。9月2日(月)午前10時30分より教職員6名、全校児童27名で「開校式・始業式」が行われました。 この日、児童は保護者同伴で登校し、始業式も職員室で保護者の見守る中で行われました。教職員、保護者、全校児童そろっての貴重な記念写真もありました。(写真 上) 県営、分譲住宅が完成する数年後には、マンモス校となることを想定して建設された校舎でありながら、過疎地にある学校のような児童数(27名)で、担任が2学年かけ持ちの「複式授業」という形式がとられました。 また、月曜日に朝礼を行っても広い広い運動場にはぽつんと27名の子どもしかおりませんでした。(写真 中) 現代の子どもたちがそんな話を聞いたらきっと「うらやましいなぁ場所取りをしなくてもよいから・・」と言うかもしれませんね。でも、この人数では野球もサッカーもチームが編成できません。少人数はそれなりのなやみがあるようです。 指導スタッフは次のとおり・・(写真 下) 1・2年生(山下学級)・・・担任 山下 春代 3・4年生(加藤学級)・・・担任 加藤 まり子 5・6年生(殿村学級)・・・担任 殿村 末美 理科、書写(3、5年生)・・教頭(松原 純) 道徳(4、6年生)・・・・・校長(中島 猛一) 2学期開校、都市部にありながらの「複式授業」、校長も授業を担当する・・開校時のユニークなエピソードでした。 ◇八幡小の歴史(竣工式)夏休みが明けた9月、八幡小学校の職員室を会場にして、瀬戸市長、教育関係者をお招きしての「竣工式」が行われました。 当時の式次第を見ると、「一同敬礼」とか「万歳三唱」など、時代を感じさせる表現が見られます・・・ ◇八幡小の歴史(五十四の瞳)開校時に在籍した27名の児童のようすをもう少しくわしく説明したいと思います。 27名の学年別の人数はつぎのとおりです。(写真 上) 1年生・・・・・5名 2年生・・・・・7名 3年生・・・・・2名 4年生・・・・・6名 5年生・・・・・4名 6年生・・・・・3名 27名のうち、19名の児童は9月の開校前から八幡台に入居しており、1学期の間は隣接する萩山小に17名、原山小、幡山東小にそれぞれ1名ずつが通学して、新設校の開校を待ちました。 この後、学年末までに6年生は1名の転入があり、在籍4名となります。 教師3名が27名を担任する複式学級の授業(写真 下)もこの昭和49年度限定のもので、住宅がどんどん完成して八幡台への入居者が増加すると、翌年の4月には児童数が150名をこえ、1学年1学級の単式授業となりました。 ◇八幡小の歴史(開校時の体育)5、6年生合同の体育の授業のようです。みんな仲良く「縄跳び」をやっています。 当時の体育では、男子は白の運動着(上)に白のトレパン(下)を着用、女子はトレパン、ブルマなどいろいろですね。おそらく転校する前の学校の運動着を流用しているのだと思われます。(写真 上) 3、4年生合同の授業でしょうか?雨が降ると水はけの悪い運動場はしばらく使用できないので、このように校舎内で体育を行っていました。何といっても全校児童数27名ですから校舎の2〜3階は空き部屋で「貸し切り状態」となります。写真が撮影されたのは「2階の渡り廊下」のようですね。(写真 中) 朝の体力つくりのためのマラソン風景ですね。全校児童で走ってもこんな感じです。朝もやの中に新たに建ちはじめた住宅が見られます。(写真 下) ◇八幡小の歴史(給食風景)当時は児童全員が集合しても27名でしたから、給食時間には一つの教室でいっしょに食べました。もちろん校長をはじめ、教頭、担任、用務員・・・教職員もそろって食べました。写真からは、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきそうです。 コンピュータの画面ではわかりづらいですが、子どもたちが用意した給食ナフキンには「萩山小」など隣接した学校の名前が見られます。 当時の記録によれば「給食の座席をくじ引きで決めるのが楽しみ」、「これも子どもたちからの発案で・・」と書かれています。 家族的なムードでの給食、子どもたちの発想を大切にする・・いつの時代でも忘れてはならない「学校のありかた」かもしれません・・・ ◇八幡小の歴史(運動会→遠足に)1年生から6年生まで合わせても全校児童27人では、徒競走をはじめダンス、組み体操をしても盛り上がらないだろう・・ということから保護者と協議の結果、運動会は見送って、「お泊まり遠足」を実施することになりました。 10月8日〜9日にかけて校長はじめ5名の教員引率のもと、付知峡にある尾張旭市野外活動センターへ一泊二日の遠足に出かけました。 低・中学年も参加することから、職員の課題は「夜のおもらし対策」でした。相談の結果、校舎2〜3階の教室に設置してある黒板が新品・未使用で保護ビニールがかかったままだったので、それをカッターナイフで切り取って宿泊棟へ持ち込み、「シーツとふとんの間に敷いた・・」という涙ぐましいエピソードが残っています。 少人数だからこそ、「小回りのきく」という利点をいかした行事となりました。 残念ながら本校には「お泊まり遠足」の記録写真は残っていません。卒業生の方で当時の写真をお持ちの方は学校までご一報ください! ◇八幡小の歴史(わずか3名の修学旅行)当時の新聞記事によると、隣接する萩山小学校6年生の修学旅行に合流しての参加を計画していたようですが、やはり「1校にかわりなし」との意見で八幡小学校単独での実施となりました。 参加児童はわずか3名、引率教員は校長と担任(殿村先生)の2名。なんとも家族的な旅行となったのでしょうね・・・ ※こちらも当時の記録写真が保存されておりません、残念! ◇八幡小の歴史(校章の制定)校章のデザインは初代校長と親交の深かった伊藤高義 氏(洋画家 1926〜2011)によるものです。 保存された資料の中に「八幡という由緒ある名前と近代的な団地と学校の施設環境から、古い伝統の美風と近代的な精神の調和と結合をテーマに『八幡』という文字を篆書体(てんしょたい)風に図案化し、それを象徴した。」という伊藤氏のメモが残されています。 また、校章の「八幡」のなかには、「26」という隠し文字が入れられています。これは八幡小学校が瀬戸市内で小・中学校をあわせて26番目に創立されたことを意味しているそうです。(写真 上) このデザインにたどり着くまでに試作されたさまざまなアイディアスケッチも資料の中に見つけることができます。(写真 中) 校長室に飾られた絵画「チカワストラのインディオたち」(油彩 1974年 第59回二科展)も伊藤氏の作品であります。(写真 下) ◇八幡小の歴史(第1回 卒業式)わずか4名の卒業生(清水くん、小田くん、伊藤さん、早川さん)は保護者、教職員そして在校生(1年から5年生までの28名)に見まもられるなかで中島校長より一人ずつ卒業証書を受け取りました。(写真 上) まだ体育館が建設されていない当時、会場となったのは北館3階の音楽室(現在の家庭科室)でした。写真を見ると、音楽室と準備室とを仕切る壁はなく、アコーディオンカーテンが見えます。(写真 中) 当日の毎日新聞の夕刊には「卒業式 4人ぼっち」というタイトルで式のようすが紹介されています。(写真 下) |
瀬戸市立八幡小学校
〒489-0861 愛知県瀬戸市八幡台3丁目1 TEL:0561-82-4445 FAX:0561-82-4027 |