最新更新日:2024/04/26
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第1ステージ「出会い」 4月5日〜6月2日

将来を嘱望して、現在の発展を怠ることなかれ

「どうせ結果が同じなら、努力したって、しなくたって同じじゃないか!」
以前、そんなセリフを聞いたことがありました。僕はその時「そんなことはない。」と強い口調で言いました。たとえ同じ結果になろうとも、とにかく一歩前へ進むことが重要で、その一歩を踏み出していたために、後になって何かが変わるということが人生には案外多いからです。
“小さい努力で大きな幸せ”は虫の良い話です。むしろ“大きい努力で小さな幸せ”が当然ではないかと思うのです。“小さい努力で大きな幸せ”を期待すると、うまくいかなかったときに不満が出たり愚痴を言いたくなったりします。“大きい努力で小さな幸せ”を想っていると人生に余裕が出てきます。そして感謝する心が生まれます。
 そんなことを考えていた時、ふと「将来を嘱望して、現在の発展を怠ることなかれ。」という島安二郎の座右の銘が思い浮かんできました。
島安二郎は、日本の鉄道技術の草分け的存在で“車両の神様”と呼ばれた人物です。親の意向で医学の道を志すことにしましたが、志望を途中変更して帝國大學工科大学機械工学科へ進み、卒業後関西鉄道に入社、その後逓信省に移ります。ドイツへ2度留学して最新の鉄道事業を見聞調査し、鉄道の国有化、規格の統一、機関車の改良・国産化、自動連結器の導入、空気ブレーキの導入、「あじあ号」の設計などで活躍します。鉄道の高速化を図るため、悲願の広軌化(線路の幅を広くする)を目指し、田健治郎、後藤新平などの広軌化派の理解を得ますが、実現一歩手前のところで狭軌派の原敬の反対にあい、計画は空しく断念。島安二郎は鉄道院技監を退職します。
昭和12年、中島知久平(中島飛行機社長)が鉄道大臣になると、大陸との連結運輸が叫ばれ、「幹線構想」が動き出します。昭和14年には鉄道省直轄の幹線調査会が設置され、島安次郎が委員長となります。この委員会で「弾丸列車」の俗称で「新幹線構想」が発表されます。内容は複線電化、長距離高速度列車の集中運転(貨車列車など走らせない)、そして待望の広軌(1435mm)。まさに現在の新幹線そのままの構想でした。努力に努力をかさねて計画がスタートした昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入します。そこでまたしても計画は中止。最後の最後まで政治に翻弄された島安二郎でした。
 その子、島秀雄は、大正4(1925)東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し鉄道省に入省します。そこでC53以降に設計された全ての機関車の設計に携わり、C53のほかD51などの名機を設計します。昭和24年日本国有鉄道が発足。国鉄がスタートして間もない昭和26年6月、京浜東北線桜木町駅で電車が炎上し、多数の死傷者を出す事故が起きます。その時の工作局長だった島秀雄は責任をとって辞職します。
数年後、新たに国鉄総裁に就任した十河信二に請われ、技師長として国鉄に復帰。秀雄の急務は、鉄道輸送の限界状態の解消と東京オリンピック開催のため、1日も早く新幹線を完成させることでした。そこで秀雄は、過去の失敗経験から世界銀行に8000万ドルの借款を得て、計画の変更や後戻りができないように手を打ちます。たぶん、クビを覚悟の上での借金だったと思います。
昭和39年10月1日、オリンピック開催のわずか9日前に新幹線が開業します。ただし、華やかな開業セレモニーの場に、島秀雄の姿はありませんでした。新幹線の費用超過の責任をとらされ国鉄を辞職したからです。秀雄は自宅のテレビで、東京駅を出発する新幹線を見ながら穏やかに微笑んでいたと言います。

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