最新更新日:2017/08/17
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新聞記事から(3月30日)

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 30日(水)の中日新聞(朝刊)に「東日本大震災義援金」の記事が掲載されていました。義援金を寄せた団体の中に「水南小学校児童会」の名前がありました。寄付金額は14万1585円と記載されています。
 以前に当ホームページでお知らせしたものより増額しているのは,受付を締め切ってからも義援金が寄せられたためです。

 あらためて,保護者および地域のみなさまのご支援・ご協力に感謝いたします。

支援物資を発送しました!

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 東北地方太平洋沖地震の被災地への支援物資を募集したところたくさんの品が学校へ届けられたことは当ホームページでお知らせしましたね。
 3月28日(月)の午後,水南小学校PTA役員さんをはじめ,教職員,そしてマメナシおじさんの協力を得て,支援物資の数量確認と箱詰めを行い,物資受け付け窓口の「資源リサイクルセンター」(東吉田町)へ届けてきました。(写真 1・2・3)
 水南小学校における支援物資の受付期間はわずか3日間でしたが,みなさんのご厚意で寄せられた物資の内訳は次のとおりでした。

 乾燥米飯(12食),包装米飯(104食)
 乾パン(7缶)
 即席めん(64食),カップ麺(46食)
 プルトップ式缶詰(143個)
 粉ミルク(13缶)
 大人用紙おむつ(118枚),乳幼児用紙おむつ(1254枚)
 生理用品(1959枚)

 段ボールに詰めてみると,サイズはさまざまでしたが合計15個になり,森島教諭が自宅から乗ってきた軽トラックの荷台いっぱいになりました。(写真 4)

 今回の支援物資を届けてくださった地域のみなさまにホームページの紙面をかりて御礼申し上げます。

 被災地のみなさんに少しでも明るい春が訪れることを願っています。
 

「水南小学校の歴史」をリンクしました!

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 本校には創立五〇周年を迎えた時に発行された記念誌「すいなん」が保管されています。
 記念誌「すいなん」をもとにして,水南小学校の歴史をダイジェストで紹介したものを「リンクのコーナー」でマイナーチェンジしてアップしましたので,時間に余裕があるときにご覧になってください。

記念誌「すいなん」より(歴史をたどって)

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 「あれ?なんか変だな?この校舎の写真・・」(写真 上)と思われた方も多いのではないでしょうか?この写真は、創立50周年記念誌「すいなん」(写真 下 昭和60年11月17日 発行)の1ページから選んだものです。昭和60年当時の運動会の練習風景の様子を撮影したもののようです。よく見ると、子どもたちの待ち合わせスポットになっているトチノキがまだ小さく、その横にも大きな木が数本立っていることに気づきます。さらに校舎の前に鉄棒が並んでいたり、南館(図書室・コンピュータ室)が建っていないので体育館の外壁もストレートに見えたりしています。
 記念誌「すいなん」を読んでいると、これまで知らなかったエピソードがいろいろとわかってきます。

記念誌「すいなん」より(校章について)

 体育館の壁面や児童玄関に掲げられた水南小学校の校章のデザイン(写真 上)が2代目であることはご存じですか?
 初代の校章は、水南小学校が創立された昭和11年に制定されたもので、当時の校旗の中央にあるようなデザインでした。(写真 中)学校の名称はその頃、「水野第一尋常小学校」でした。
 その後、名称は昭和16年に「水野村南国民学校」、同22年に「水野村立南小学校」となり、瀬戸市に合併した昭和26年、「瀬戸市立水南小学校」という現在の名称になりました。水南小学校という名称になったのに合わせて、校章と校歌も現在のものにかわりました。(写真 下)
 校章は、当時の5年生(阪野 渉さん)の考えたデザインが原案となっているそうで、小学校の「小」と「水南」の文字を図案化しているのだとか・・・・
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記念誌「すいなん」より(タイムカプセル)

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 来客用玄関に「タイムカプセル」が設置されているのをご存じですか?これは学校創立50周年を迎えた1985年度(昭和60)に作成されたものだそうです。当時は現在のようにアクリルケースでガードされていなかったみたいですね。(写真 上)
 カプセルの中には、当時の学校行事やPTA活動の記録写真をはじめ、学年通信(一年分)、その年の「10大ニュース」が載っている新聞、卒業式の模様を録音したテープ・・そして親から子、子から親へ30年後を空想して書いた手紙などが入れられて封印されています。(写真 下)また、当時在籍した児童の絵画や作文なども「もう一つのタイムカプセル」に入れて封印して、校舎内の「ある場所」にひっそりと保管されています。
 さて、時々卒業生の方から「いつ開封するのか?」という問い合わせの電話があります。二つのタイムカプセルを開封するのは創立80周年を迎える2015年です。その時はきっと盛大な記念式典が行われるでしょうね!
 

記念誌「すいなん」より(卒業アルバム)

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 記念誌「すいなん」を調べるなかで疑問点や興味のある出来事もいろいろ出てきました。
 いろいろな出来事を検証するために校長室で保管されている卒業アルバムを整理していたら,「瀬戸市立水南小学校」と名称変更が行われた昭和26年度のアルバムを見つけました。(写真 上)表紙は無色の厚紙にエンボス加工でなぜか「帆船のイラスト」があしらわれています。タイトルも「卒業記念帖」と書かれています。
 卒業生(6年)の学級写真を見ると2ページあり,6年A組,B組という名称でした。もちろんセピアカラーがまぶしい写真です!(写真 中)
 平成20年度の卒業アルバムと比較してみると,大きさもずいぶん違いますね。(写真 下)

記念誌「すいなん」より(借家学校)

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「水南小学校 沿革史」を読むと,水野村の児童が瀬戸町にある小学校へ通学することを禁止されたため,その対策として「水野村大字上水野安土に三浦眞次郎氏所有の借家27坪(2軒)を借り受けて分教場とし,尋常科第3学年までの児童を収容,当時在籍児童は55名であった。」と書かれています。記録から当時の連区の人々は,子どもたちのために仮校舎を準備しようと奔走したことがうかがえます。
 この仮校舎のことについて,記念誌には「借家学校」というユニークな名前で紹介されています。学校のイラストを見ると,追分から陶生病院前にいたるカーブの道はこの当時からあったことがわかります。(写真 上)また,体育などの運動は向かいの空き地(仮 運動場)で行われていたのですね。(写真 中)
 記念誌には昭和17年当時の陶生病院前の踏切の写真が掲載されています。踏切横には「陶生病院指定眼鏡販売所」(?)という看板が見えます。そして,奥のほうに「借家学校」の仮校舎が見えます。(写真 下)

記念誌「すいなん」より(水南小学校のルーツ)

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 陶生病院前の踏切(名鉄瀬戸線)を越えてカーブを曲がったあたりに(写真 上),昭和初期に水南小学校のルーツになる分教場の仮校舎がありました。記念誌の発行された昭和60年代にはまだ追分町に当時の面影を残したままの校舎(建物)がありました。(写真 下)私もこの風景はかすかながら記憶に残っています。
 時代は昭和初期・・・水南地区に住む学齢児童は本来,水野村立水野尋常高等小学校(現在の水野小学校)へ通学するきまりになっていました。しかし,水野高等小までの通学路は人家が少なく,山坂を越えねばならず,登校するために片道50分近くの時間を要しました。また,生活圏が瀬戸であることなどを理由に,多くの児童は瀬戸(当時は市制が施行されていないため「瀬戸町」と呼びました)に寄留して道泉小,陶原小や效範小などへ通学していました。
 昭和2年度末,水野村安土,南山地区在住の児童が瀬戸町の学校へ通学することは禁止されたため,いよいよ分教場の設置の機運が高まります・・・

記念誌「すいなん」より(分教場の新築)

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 昭和3年当時、水南地区に住む子どもたちは水野村大字上水野安土(現在の陶生病院の南)に借家を借り受けて準備した分教場へ通っていたことは当HPで紹介させていただきました。
 昭和4年9月、地域の皆さんの念願がかない分教場(借家分校)の移転が決まります。県有地1万5千坪の払い下げを受けて、水野村大字上水野405番地(現在の水南小学校の土地)に校舎が新築されました。イラストを見ると、現在と同じように学校の南側を孫田川が流れ、現在の公民館のあたりで蛇行して広い道路(現在の国道155号線)と交差していたことがわかります。(写真 上)
 この分教場では、1・2年生と3・4年生の児童がそれぞれ1組の複式学級(複数の学年で編制された学級)で学習をしたそうです。
 学校のシンボルといわれているクスノキはこの年(昭和4年)の暮れに愛知県所有の苗場から移植されたそうです。現在は大木となり、夏の暑い日には大きな木陰をつくって子どもたちの休憩場所になったり、またある時は下校後の親子の待ち合わせ場所になったりしています。(写真 下)

記念誌「すいなん」より(水南小学校 創立)

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 昭和11年4月,これまで水野尋常高等小学校の分教場という施設から,いよいよ正式にひとつの学校として生まれ変わることになり,ここから水南小学校の歴史がスタートします。
 学校の名称は「水野第一尋常小学校」,校長先生は波多野 昇,児童数193名,学級数は6でした。
 創立時は教室数や教員数も不足していたため,「二部教授」(午前と午後にわけて,別の児童が登校して行う授業)が行われましたが途中から廃止されました。
 卒業写真を見ると,男子は制服が多く,女子はセーラー服をはじめ,セーターあり,着物あり・・さまざまでした。
 この当時も現代と同じように「卒業写真」ということで前日には散髪にいったり,写真用に着ていく服をあれこれ準備したのでしょうか?職員も子どもたちもとても格好良く写っています。(写真 上)
 新しい名称でスタートしたこの年,学校の徴章(校章)のデザインも新たに制定されました。(写真 下)

記念誌「すいなん」より(二宮金次郎像)

 歴史のある学校(戦前からある学校?)をたずねると,校庭に「二宮尊徳像」を見かけることが多いです。わが水南小学校も校舎前の学校園の中に設置されています。(写真)
 二宮 尊徳は,江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、農村復興政策を指導した農政家・思想家です。一般的には「二宮金次郎」という通称で親しまれています。像を見た子どもたちは「あの人,本読みながら歩いたら危ないがんねぇ・・」と言ったりします。
 たしかに子どもたちにとっては、二宮尊徳の少年時代の「薪を背負って本を読む」という勤勉な子どものイメージが強いですが,成人してからの倹約,開拓,農村復興など多くの業績・逸話についてはあまり知られていないようです。
 「学校沿革史」や「記念誌」には,昭和13年11月に「二宮尊徳石像の除幕式挙行」の記録が残されています。こうした資料を読んでいくうちに,本校における二宮像についての疑問点などがいろいろと出てきました・・・・
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記念誌「すいなん」より(動き回る?二宮尊徳像)

 二宮尊徳像については「移転した」という記録は残っていますが,その移転先についての資料がないため謎が多いです。「創立50周年記念誌」や「卒業記念アルバム」,「記録写真」などを調べると,設置場所が転々としていることがわかります。
 最初の写真は撮影年代が不明です。二宮像は校舎の前に設置されています。旧校舎は第1校舎から第4校舎までありました。二宮像が置かれたのはどの校舎前なのかについては、はっきりしません。(写真 上)

 2枚目の写真は,とても樹木の多い林の中で撮影されたものです。水南小学校OB(60代の男性)から以前に「二宮像を山の中で見た記憶がある。」というお話を聞いたことがあります。この写真が撮影された場所は敷地内のどこなのか,また時代もはっきりしません。(写真 中)
 
 最後の写真は,1971年度(昭和46)の卒業アルバムの中で見つけたものです。当時の二宮像は講堂(現在のプールの場所にあった建物)の玄関のあたりにありました。(写真 下)
 
 二宮像の設置場所について,何か情報をお持ちの方はお知らせください。
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記念誌「すいなん」より(戦時下の学校)

1931年(昭和6)、満州事変をきっかけに日本と中国との対立は、やがて太平洋戦争へと拡大していきます。
 戦争への足音は徐々に学校現場にも響き始めました。子どもたちは「日参団」として、毎日のように「戦勝祈願」のために小金神社などへ行きました。(写真 上)
 昭和19年2月には、児童体位向上を目的に「味噌汁給食」が始まりました。
同年12月の名古屋大空襲の際には、「高射砲破片や機銃弾などが本校の校庭にも落下した・・」という記録が残されています。
 戦中・戦後と食糧難が続き、空いた土地を見つけて野菜作りが行われる光景が見られました。(写真 中 6年社会科教科書より)
 水南小学校の敷地内でもイモなどが栽培されました。写真は担任の先生と一緒に収穫したイモを計量している場面です。苦しい生活でしたが写真にうつった子どもたちの明るい表情にホッとさせられます。(写真 下)

 戦中・戦後のわずかな期間に学校の名称は次のように変わりました。

昭和16年4月 水野村南国民学校と改称
昭和22年4月 水野村立南小学校と改称



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記念誌「すいなん」より(水南小学校と改称!)

 戦争が終結して6年が経過しました。時代は,軍靴の足音からかわって,平和の歌声が徐々に聞かれるようになりました。
 昭和26年5月3日,水野村が瀬戸市に合併したのを機に,学校の名称も現在と同じ「瀬戸市立水南小学校」となりました。7月には夜の校庭の特設ステージ(?)で「七夕祭り」が開催されました。戦後の平和な時代を象徴しているような出来事です。(写真 上)11月には第4校舎も完成して「落成記念式典」が行われました。この写真は当時の「卒業写真帖」の1ページから引用したものです。校庭で遊ぶ子どもたちの歓声が聞こえてきそうです。(写真 中)
 昭和27年3月,奉安殿の跡地には「児童憲章制定記念碑」が建てられました。また,第2代の校歌(現在の曲)が制定されたり,校章(現在のもの 写真 下)も改定されたりしました。校章は,当時5年生の阪野 渉さんの原案をもとにデザインされています。校章のデザインに子どものアイディアが採用されるなんて素晴らしいことです。
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記念誌「すいなん」より(昭和30年度)

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 戦後10年を迎え世の中も安定してきました。昭和30年12月、女子の制服(?)としてスモックの採用が決まりました。翌年以降、学級写真を見るとスモックを着用した女子の姿が見られるようになります。小学校の南の山にテントを張ってキャンプをした記録写真が残されています。(写真 上)
 この年、創立20周年記念誌も発行されました。水南小学校にはわずか1冊だけ保管されている貴重なものです。全40ページからなり、構成は卒業者名簿と20年間の学校の歴史がつづられています。表紙だけが2色刷でよく見ると、新旧の校章が背景にあしらわれた凝ったデザインです。(写真 中)中身はわら半紙にガリ版で印刷された手作り感たっぷりの冊子です。(写真 下)

記念誌「すいなん」より(小学生の制服)

 昭和31年度からの学級写真には,前年度の決定を受けて女子がスモックを着用している姿を見ることができます。ここからしばらくの間,男子は学生服,女子はスモックを着用して撮影された学級写真が続きます。(写真 上)
 昭和40年度から数年間は男子は黒っぽい(紺?)のセーター,女子はスモックを着用した姿が見られ,昭和44年度に男子も女子もスモック姿となります。(写真 下)
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記念誌「すいなん」より(昭和34年 伊勢湾台風)

 昭和34年9月26日(土曜日),伊勢湾台風が紀伊半島に上陸し、東海地方を中心に近畿から東海の広範囲で大きな被害を及ぼしました。死者・行方不明者は5,098人、負傷者39,000人にのぼり、明治以来最大の被害を出した・・と言われています。(写真 社会科「はばたく大愛知」より)
 水南小学校には「ガラス破損97枚,かわら合計1135枚,昇降口全壊3カ所,煙突2本,電話不通,そしてクスノキの枝が折れる。」という被害の記録が残っています。
 
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記念誌「すいなん」より(公民館 兼 講堂 完成)

 昭和35年10月8日,第4校舎の西側(現在のプール)に新しい建物が完成します。「水南公民館兼講堂」がそれです。(写真 上)
 卒業写真の撮影場所もそれまでは第3校舎の前あたりでしたが,この年から講堂前に変わりました。また,卒業アルバムの巻頭写真にも新しい講堂周辺の風景がよく使用されました。(写真 中)
 講堂の近くの南門は現在も水南公民館駐車場の入り口あたりに残っていますね。(写真 下)
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記念誌「すいなん」より(創立30周年)

 昭和40年11月3日,創立30周年を記念した式典が開催されました。また,沿革史として「水南30年の歩み」が編集・発行されました。創立20年記念誌にくらべてページ数は少ないパンフレット形式ですが,写真などが多く使用されていて,見応えがあります。(写真 上・下)
 この記念誌も本校にはわずか1冊が残るのみで,耐火金庫で大切に保管されています。
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月予定
4/6 入学式
瀬戸市立水南小学校
〒489-0069
愛知県瀬戸市東松山町154
TEL:0561-82-2084
FAX:0561-82-2829