最新更新日:2024/09/26 | |
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◇八幡小の歴史(昭和50年度)夏休みが明けた9月1日、予想はしていたものの、やっぱり驚くほどの数の転入生! 2学期からは教職員は6名増の17名、クラスの数も6学級から11学級に増えました! 昭和50年度に行われたおもな行事を紹介します。 【校内キャンプ】7月31日〜8月1日 夏休み期間中、5・6年生全員が参加したキャンプ。しかも校内で!キャンプファイヤーの後方に見えるのは八幡小学校の校舎のようです。子どもたちが校内のどこに宿泊したのか興味津々です・・・ 【第1回 運動会】9月28日 校章がプリントされ、八幡カラーの襟(えり)がまぶしい運動着の子どもたちの姿!校章がプリントされていない運動着の子は転入したばかりの子でしょうか? 【修学旅行】10月14日〜15日 静岡方面へ一泊二日の旅行に出かけました。海岸の散策、登呂遺跡、久能山東照宮などを見学しました。 ◇八幡小の歴史(1975 航空写真)画像でははっきりわかりませんが、おそらく「人文字」をつくるにはやや人数が足りなかったのでしょうね。「校章」のまわりを四角に囲んで立っている人影がみえます。 校舎の北側にはまだ体育館もプールもなく、空き地が広がっています。(写真 上) こちらは山口地区の上空から撮影した1枚です。遅れていた住宅建設も急ピッチで進められていますが、まだ八幡台の25、26、30街区(現在の5、6、7丁目)あたりに家は見られません。(写真 下) ◇八幡小の歴史(昭和51年度)おもな行事は下記のとおりです。 【春の遠足】4月17日 潮干狩りに知多半島・若松海岸にでかけました。 【校内キャンプ】7月30日〜31日 前年度と同様、校内でキャンプ生活。5年生が参加しました。 【校舎本館の増築工事】8月17日〜3月28日 児童数増加に対応するために校舎東側に2、3階を増築 【秋の大運動会】10月3日 児童数の増加でいろいろな種目が実施できました。紅白対抗も盛り上がったのではにでしょうか・・(写真 上) 徒競走の写真です。靴のまま走る子、靴下で走る子、裸足の子などいろいろなスタイルがありますね。(写真 中) ダンス種目の写真。保護者といっしょに「瀬戸音頭」を踊りました。(写真 下) 「秋の大運動会」という名称からもわかるように、当時は「春の小運動会」も実施されていました。 ◇八幡小の歴史(1976 航空写真)現在の八幡台5〜7丁目でも住宅が建ち始めました。(写真 上) 児童数も500名を突破したので、「八幡」の校章を人文字で表現できるようになりました。(写真 下) ◇八幡小の歴史(1976 校舎増築工事)
住宅建設による児童数の増加、マンモス校化に対応すべく、1976年(昭和51)8月からスタートした本館東側に2、3階を付け足す工事は翌年の3月までつづき、校内は増築工事に明け暮れました。
校舎周囲には足場が組まれて作業音が周囲に響いたことでしょうね。 ◇八幡小の歴史(昭和52年度)【野外活動】7月12日〜13日 この年度より校内キャンプはやめて、定光寺自然休養林へ出かけてのキャンプ生活を行いました。 当時、運動場の東側を利用して登校する児童が雨の日になるとぬかるみに足をとられ、靴が濡れたり汚れたりしたので、中島校長をはじめとする職員作業によってコンクリートタイルが敷き詰められたことが新聞で紹介されました。(写真 上・「しんあいち新聞」の記事) このコンクリートタイルは30年以上経過した現在もちゃんと残って、歩道スペースを確保しています。(写真 下) この新聞記事から、現在は遠足などの行事の時にのみ開放する東門が、当時は日常的に利用されていたことがわかります。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 1)
1978年(昭和53)4月、開校5年目を迎えました。ここ数年で児童数もどんどん増加して744名、20学級となりました。特に低学年の児童数が多く、この年の1年生は「1年5組」までありました!
八幡小学校にはまだプールも屋内運動場(以下 体育館)もありませんでした。夏の水泳指導は、校外の「共栄プール」まで出かけていって行われました。 6月より始まった「待望の体育館建設工事」は年末に完了し、翌年の1月22日に「屋内運動場竣工式」が行われました。 ちなみに芸能界でアイドル歌手として活躍した石川さんはこの昭和53年度卒業生であります。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 2)「SETO PHOTO MATERIALS」(瀬戸市役所商工観光課 発行)によると、作者は、水野 義郎氏で1979年1月に完成したことが記されています。(写真 下) 「やきものの街・瀬戸」にふさわしく、市内の小・中学校の体育館の多くに陶製の校章が見られます。 ちなみに、八幡小学校と同じく菱野団地内の原山小学校の校章は青山 昇氏、萩山小学校は太田 鉄夫氏によってそれぞれ制作されています。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 3)
屋内運動場(体育館)が完成直後の1979年(昭和54)2月26日、今度は大規模な「環境緑化工事」がスタートしました。
この緑化工事は校門スロープ、運動場周囲にサザンカやサツキ、ツツジが植えられました。また、体育館前には芝生広場もつくられ、工事は3月22日に終了しました。 工事の中でもハイライトは、正面玄関前のロータリーへ楠(くすのき)を植樹したことでしょうか。 現在は枝をのばし、たくさんの葉をつけた楠(くすのき)もこの頃は、若くて細い幹の樹だったのですね。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 4)実は1979年(昭和54)2月〜3月末、楠(くすのき)の植樹と並行して、芝生広場がつくられたのです。これがその時の記録写真です。 写真 上:客土、山砂が運ばれて、整地が行われました。 写真 中:一面に芝がはられました。 写真 下:芝生広場が完成しました。 新築の体育館の壁には、取り付けられたばかりの「陶製の校章」が見られます。 ◇八幡小の歴史(昭和54年度)児童数の増加による教室不足とならぬよう、校舎北館の増築工事が9月より始まりました。 当時の「学校管理案」(昭和54年5月1日 現在)の校舎平面図はとても興味深い内容です。保健室が本館の一番西に配置されていることをはじめ、体育館前の芝生広場、図書室が北館の1階・東(現在のモアスクール)にあったことがわかります。(写真 上) 翌年の3月21日、増築工事完了により北館1階に2教室、2〜3階にそれぞれ3教室ずつの合計8教室が新たにできました。(写真 中・下) また、5月に運動場で築山造成工事が行われ、7月17日には図工準備室に設置された電気焼成窯の「火入れ式」が行われています。 サッカー部とミニバスケットボール部がチームを編成して瀬戸市の大会に初出場したのは、この昭和54年度でした。 ◇八幡小の歴史(昭和56年度)
この年、全校児童数が1047人、27学級。ついに1000人をこえる大規模校となりました。新入学の1年生だけでも5学級でした。当時の学級定員は「45人学級」ですので、現在の「40人学級」(一部35人学級)の規定で計算すると学級数はどうなるのでしょうか?
【瀬戸市小学生陸上記録会】6月7日 6年生400Mリレー「男子の部優勝」、「女子の部優勝」の「W優勝」という快挙でした。 【水泳指導】7月6日、10日、11日 当時、プールのない学校は名鉄バスなどに乗って、共栄プールや市民プールまで出かけていって体育の授業(水泳指導)を行いました。これは市民プールの低学年の授業のようです。(写真 1) 【交通安全教室】7月8日 名鉄バスの協力を得て安全指導の授業を行いました。飛び出しの危険やバスの運転手さんからの死角などについて学習している場面です。今となっては、バスのデザインがなんともレトロ(?)であります。(写真 2、3) 【秋の大運動会】9月27日 高学年の組体操の場面です。(写真 4)1000人を超える児童全員で行う準備運動(ラジオ体操)はどのように実施されたのでしょうか? 「体操隊形に開け!」との号令でどのように移動したのか興味津々です。 ◇八幡小の歴史(昭和57年度 1)クラスは1年1組から1年6組までありました!当時の定員数は「45人学級」でしたので、1教室で38〜39人の子どもたちが勉強していました。また、3年生の教室では1組から4組まですべて在籍数が44名!混み合った環境での学習活動となりました! 【せと市民祭】10月10日 はじめて鼓笛隊とバトン部が参加して、パレードで発表をしました。 【修学旅行】10月19日〜20日 目的地はこれまで静岡方面でしたが、この年より「滋賀・奈良方面」に変更となりました。 彦根城、奈良東大寺、宇治平等院鳳凰堂などを見学し、琵琶湖ツーリストホテルに宿泊しました。 ◇八幡小の歴史(昭和57年度 2)建設工事は2月8日に着工。58年度の1学期完成をめざし、体育館南側で基礎工事が進みます・・・ ◇八幡小の歴史(昭和58年度 1)2月から始まったプール建設工事が6月に終了しました。(写真 上・中) これまでのように校外の市民プールや共栄プールに出かけなくても、自校で水泳指導がたっぷりできるようになりました。 7月5日、雨の降る中「プール竣工式」が行われ、7日に「プール開き」が行われました。その時の貴重なスナップが残っています。はちまきをして「初泳ぎ」を披露しているのは岡田校長のようですね。(写真 下) 八幡小のプール設計にあたっては、「機能的なプール」をめざして体育主任を中心に議論したり、すでにプールが設置されている学校(瀬戸市立深川小、水南小、萩山小、豊明市立館小学校など)を視察したりして、要望も出されました。特に目新しいのはシャワーの水が上からだけでなく横からも吹き出すことでした。(もちろん当時は冷水シャワーでしたが・・・) お父さん、お母さんの小学生の頃、遊泳前に「関所」のように通過しなければいけなかった「腰部消毒槽」(ようぶしょうどくそう)の存在を覚えていらっしゃいますか? 当時の小学生は担任の先生が目を光らせる中、消毒液がたっぷり入った水槽にゆっくり10を数えるまでつからなければいけませんでした。つ〜〜んと鼻をつく塩素の臭いがする、冷た〜〜い消毒液も、今となってはほろ苦い思い出の一つですね。 ◇八幡小の歴史(昭和58年度 2)
この年度あたりから八幡小学校の部活動が快進撃をはじめます。
サッカー部、野球部、ミニバスケットボール部はいろいろな大会において洗練されたプレイを見せ、つねに上位にランキングします。そして、冬季に行われた「第10回瀬戸地方小学生サッカー大会」でサッカー部(写真 上・中)が、「第9回瀬戸地方ミニバスケットボール大会」でバスケットボール部がそれぞれ優勝!学校沿革誌の表現をかりると、「アベック優勝」という快挙を達成しました。 創部からわずか数年でたくさんのトロフィー、楯を獲得し、八幡小学校は市内においてスポーツの強豪校としても有名になっていきました。(写真 下) ◇八幡小の歴史(1984 航空写真)児童数は1193名と過去最高となり、1,2,3,4,6年生がそれぞれ5学級、5年生が4学級とまさに「マンモス校」でありました。 「創立10周年」を記念して、さまざまな事業が行われました。航空写真も撮影されました。 ◇八幡小の歴史(昭和59年度 1)また「創立10周年」をむかえて、校内ではさまざまな環境整備事業が行われました。 築山のかさ上げをはじめ、ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の植樹や運動場東側の側溝改修工事(4月)、防球ネット設置、児童トイレのタイル改装工事(5月)、砂場改修工事(1月)が行われました。 10月7日の「創立10周年記念大運動会」には職員作業で制作された大看板が飾られました。(キャプテン翼の描かれた看板から当時の子どもたちのブームがわかりますね) 忘れてはならないのが、人気遊具「虹の橋」が完成(1月)したのも昭和59年度でした。 スポーツの分野では、夏の大会でサッカー部が「準優勝」、バスケットボール部が堂々の「優勝」。冬の大会では、サッカー部、バスケットボール部が「アベック優勝」をしました。 昭和59年度、サッカー部は「冬の大会2年連続優勝」、バスケットボール部(女子)は「夏・冬連覇!」の快挙を達成し、『八幡小学校の部活動・黄金時代』の幕開けとなりました。 ◇八幡小の歴史(昭和59年度 2)◇八幡小の歴史(昭和59年度 3)
1984年(昭和59)9月、創立10周年を記念して校歌が制定されました。
校歌の作曲は、水谷 昌平(みずたに しょうへい)氏、作詞は当時の八幡小の校長であった岡田 榮一(おかだ えいいち)氏が担当しました。 岡田氏は朝から夕方まで八幡小学校で元気に過ごす子どもたちの姿を見て、1番から3番までの歌詞を書かれました。また、人と人との結びつきを大切にし、心豊かに育ってほしいという願いもこの歌詞に込められたそうです。 そして、「校歌のしおり」のあとがきの中に次のような言葉を寄せられています。 “ 胸をはって、歌うことのできる校歌ができました。この歌から、はちきれる心を、夢を、全身いっぱいに感じてほしいのです。 唇に校歌を口ずさむとき、決して絶望はないと思います。校歌よ、あなたは児童の道標であり、人生のバックボーンなのです。 いつまでも「誇りある八幡小学校」、「ふるさとの歌」として、みなさんの胸の中に長く生き続けることを願っています。 そして、みなさんの夢が豊かに実ることを念じつつ・・・・” 校歌制定に先立って、校歌の歌唱テープ、カラオケテープが制作されました。 レコーディングは、5月7日にYAMAHA 東山センター(名古屋市千種区)の「STUDIO WING (スタジオ ウイング)」で行われました。 その音源が録音されたマスターテープは現在も校長室で大切に保管されています。 |
瀬戸市立八幡小学校
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