最新更新日:2024/09/20 | |
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◇八幡小の歴史(給食風景)当時は児童全員が集合しても27名でしたから、給食時間には一つの教室でいっしょに食べました。もちろん校長をはじめ、教頭、担任、用務員・・・教職員もそろって食べました。写真からは、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきそうです。 コンピュータの画面ではわかりづらいですが、子どもたちが用意した給食ナフキンには「萩山小」など隣接した学校の名前が見られます。 当時の記録によれば「給食の座席をくじ引きで決めるのが楽しみ」、「これも子どもたちからの発案で・・」と書かれています。 家族的なムードでの給食、子どもたちの発想を大切にする・・いつの時代でも忘れてはならない「学校のありかた」かもしれません・・・ ◇八幡小の歴史(運動会→遠足に)1年生から6年生まで合わせても全校児童27人では、徒競走をはじめダンス、組み体操をしても盛り上がらないだろう・・ということから保護者と協議の結果、運動会は見送って、「お泊まり遠足」を実施することになりました。 10月8日〜9日にかけて校長はじめ5名の教員引率のもと、付知峡にある尾張旭市野外活動センターへ一泊二日の遠足に出かけました。 低・中学年も参加することから、職員の課題は「夜のおもらし対策」でした。相談の結果、校舎2〜3階の教室に設置してある黒板が新品・未使用で保護ビニールがかかったままだったので、それをカッターナイフで切り取って宿泊棟へ持ち込み、「シーツとふとんの間に敷いた・・」という涙ぐましいエピソードが残っています。 少人数だからこそ、「小回りのきく」という利点をいかした行事となりました。 残念ながら本校には「お泊まり遠足」の記録写真は残っていません。卒業生の方で当時の写真をお持ちの方は学校までご一報ください! ◇八幡小の歴史(わずか3名の修学旅行)当時の新聞記事によると、隣接する萩山小学校6年生の修学旅行に合流しての参加を計画していたようですが、やはり「1校にかわりなし」との意見で八幡小学校単独での実施となりました。 参加児童はわずか3名、引率教員は校長と担任(殿村先生)の2名。なんとも家族的な旅行となったのでしょうね・・・ ※こちらも当時の記録写真が保存されておりません、残念! ◇八幡小の歴史(校章の制定)校章のデザインは初代校長と親交の深かった伊藤高義 氏(洋画家 1926〜2011)によるものです。 保存された資料の中に「八幡という由緒ある名前と近代的な団地と学校の施設環境から、古い伝統の美風と近代的な精神の調和と結合をテーマに『八幡』という文字を篆書体(てんしょたい)風に図案化し、それを象徴した。」という伊藤氏のメモが残されています。 また、校章の「八幡」のなかには、「26」という隠し文字が入れられています。これは八幡小学校が瀬戸市内で小・中学校をあわせて26番目に創立されたことを意味しているそうです。(写真 上) このデザインにたどり着くまでに試作されたさまざまなアイディアスケッチも資料の中に見つけることができます。(写真 中) 校長室に飾られた絵画「チカワストラのインディオたち」(油彩 1974年 第59回二科展)も伊藤氏の作品であります。(写真 下) ◇八幡小の歴史(第1回 卒業式)わずか4名の卒業生(清水くん、小田くん、伊藤さん、早川さん)は保護者、教職員そして在校生(1年から5年生までの28名)に見まもられるなかで中島校長より一人ずつ卒業証書を受け取りました。(写真 上) まだ体育館が建設されていない当時、会場となったのは北館3階の音楽室(現在の家庭科室)でした。写真を見ると、音楽室と準備室とを仕切る壁はなく、アコーディオンカーテンが見えます。(写真 中) 当日の毎日新聞の夕刊には「卒業式 4人ぼっち」というタイトルで式のようすが紹介されています。(写真 下) ◇八幡小の歴史(昭和50年度)夏休みが明けた9月1日、予想はしていたものの、やっぱり驚くほどの数の転入生! 2学期からは教職員は6名増の17名、クラスの数も6学級から11学級に増えました! 昭和50年度に行われたおもな行事を紹介します。 【校内キャンプ】7月31日〜8月1日 夏休み期間中、5・6年生全員が参加したキャンプ。しかも校内で!キャンプファイヤーの後方に見えるのは八幡小学校の校舎のようです。子どもたちが校内のどこに宿泊したのか興味津々です・・・ 【第1回 運動会】9月28日 校章がプリントされ、八幡カラーの襟(えり)がまぶしい運動着の子どもたちの姿!校章がプリントされていない運動着の子は転入したばかりの子でしょうか? 【修学旅行】10月14日〜15日 静岡方面へ一泊二日の旅行に出かけました。海岸の散策、登呂遺跡、久能山東照宮などを見学しました。 ◇八幡小の歴史(1975 航空写真)画像でははっきりわかりませんが、おそらく「人文字」をつくるにはやや人数が足りなかったのでしょうね。「校章」のまわりを四角に囲んで立っている人影がみえます。 校舎の北側にはまだ体育館もプールもなく、空き地が広がっています。(写真 上) こちらは山口地区の上空から撮影した1枚です。遅れていた住宅建設も急ピッチで進められていますが、まだ八幡台の25、26、30街区(現在の5、6、7丁目)あたりに家は見られません。(写真 下) ◇八幡小の歴史(昭和51年度)おもな行事は下記のとおりです。 【春の遠足】4月17日 潮干狩りに知多半島・若松海岸にでかけました。 【校内キャンプ】7月30日〜31日 前年度と同様、校内でキャンプ生活。5年生が参加しました。 【校舎本館の増築工事】8月17日〜3月28日 児童数増加に対応するために校舎東側に2、3階を増築 【秋の大運動会】10月3日 児童数の増加でいろいろな種目が実施できました。紅白対抗も盛り上がったのではにでしょうか・・(写真 上) 徒競走の写真です。靴のまま走る子、靴下で走る子、裸足の子などいろいろなスタイルがありますね。(写真 中) ダンス種目の写真。保護者といっしょに「瀬戸音頭」を踊りました。(写真 下) 「秋の大運動会」という名称からもわかるように、当時は「春の小運動会」も実施されていました。 ◇八幡小の歴史(1976 航空写真)現在の八幡台5〜7丁目でも住宅が建ち始めました。(写真 上) 児童数も500名を突破したので、「八幡」の校章を人文字で表現できるようになりました。(写真 下) ◇八幡小の歴史(1976 校舎増築工事)
住宅建設による児童数の増加、マンモス校化に対応すべく、1976年(昭和51)8月からスタートした本館東側に2、3階を付け足す工事は翌年の3月までつづき、校内は増築工事に明け暮れました。
校舎周囲には足場が組まれて作業音が周囲に響いたことでしょうね。 ◇八幡小の歴史(昭和52年度)【野外活動】7月12日〜13日 この年度より校内キャンプはやめて、定光寺自然休養林へ出かけてのキャンプ生活を行いました。 当時、運動場の東側を利用して登校する児童が雨の日になるとぬかるみに足をとられ、靴が濡れたり汚れたりしたので、中島校長をはじめとする職員作業によってコンクリートタイルが敷き詰められたことが新聞で紹介されました。(写真 上・「しんあいち新聞」の記事) このコンクリートタイルは30年以上経過した現在もちゃんと残って、歩道スペースを確保しています。(写真 下) この新聞記事から、現在は遠足などの行事の時にのみ開放する東門が、当時は日常的に利用されていたことがわかります。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 1)
1978年(昭和53)4月、開校5年目を迎えました。ここ数年で児童数もどんどん増加して744名、20学級となりました。特に低学年の児童数が多く、この年の1年生は「1年5組」までありました!
八幡小学校にはまだプールも屋内運動場(以下 体育館)もありませんでした。夏の水泳指導は、校外の「共栄プール」まで出かけていって行われました。 6月より始まった「待望の体育館建設工事」は年末に完了し、翌年の1月22日に「屋内運動場竣工式」が行われました。 ちなみに芸能界でアイドル歌手として活躍した石川さんはこの昭和53年度卒業生であります。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 2)「SETO PHOTO MATERIALS」(瀬戸市役所商工観光課 発行)によると、作者は、水野 義郎氏で1979年1月に完成したことが記されています。(写真 下) 「やきものの街・瀬戸」にふさわしく、市内の小・中学校の体育館の多くに陶製の校章が見られます。 ちなみに、八幡小学校と同じく菱野団地内の原山小学校の校章は青山 昇氏、萩山小学校は太田 鉄夫氏によってそれぞれ制作されています。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 3)
屋内運動場(体育館)が完成直後の1979年(昭和54)2月26日、今度は大規模な「環境緑化工事」がスタートしました。
この緑化工事は校門スロープ、運動場周囲にサザンカやサツキ、ツツジが植えられました。また、体育館前には芝生広場もつくられ、工事は3月22日に終了しました。 工事の中でもハイライトは、正面玄関前のロータリーへ楠(くすのき)を植樹したことでしょうか。 現在は枝をのばし、たくさんの葉をつけた楠(くすのき)もこの頃は、若くて細い幹の樹だったのですね。 ◇八幡小の歴史(昭和53年度 4)実は1979年(昭和54)2月〜3月末、楠(くすのき)の植樹と並行して、芝生広場がつくられたのです。これがその時の記録写真です。 写真 上:客土、山砂が運ばれて、整地が行われました。 写真 中:一面に芝がはられました。 写真 下:芝生広場が完成しました。 新築の体育館の壁には、取り付けられたばかりの「陶製の校章」が見られます。 ◇八幡小の歴史(昭和54年度)児童数の増加による教室不足とならぬよう、校舎北館の増築工事が9月より始まりました。 当時の「学校管理案」(昭和54年5月1日 現在)の校舎平面図はとても興味深い内容です。保健室が本館の一番西に配置されていることをはじめ、体育館前の芝生広場、図書室が北館の1階・東(現在のモアスクール)にあったことがわかります。(写真 上) 翌年の3月21日、増築工事完了により北館1階に2教室、2〜3階にそれぞれ3教室ずつの合計8教室が新たにできました。(写真 中・下) また、5月に運動場で築山造成工事が行われ、7月17日には図工準備室に設置された電気焼成窯の「火入れ式」が行われています。 サッカー部とミニバスケットボール部がチームを編成して瀬戸市の大会に初出場したのは、この昭和54年度でした。 ◇八幡小の歴史(昭和56年度)
この年、全校児童数が1047人、27学級。ついに1000人をこえる大規模校となりました。新入学の1年生だけでも5学級でした。当時の学級定員は「45人学級」ですので、現在の「40人学級」(一部35人学級)の規定で計算すると学級数はどうなるのでしょうか?
【瀬戸市小学生陸上記録会】6月7日 6年生400Mリレー「男子の部優勝」、「女子の部優勝」の「W優勝」という快挙でした。 【水泳指導】7月6日、10日、11日 当時、プールのない学校は名鉄バスなどに乗って、共栄プールや市民プールまで出かけていって体育の授業(水泳指導)を行いました。これは市民プールの低学年の授業のようです。(写真 1) 【交通安全教室】7月8日 名鉄バスの協力を得て安全指導の授業を行いました。飛び出しの危険やバスの運転手さんからの死角などについて学習している場面です。今となっては、バスのデザインがなんともレトロ(?)であります。(写真 2、3) 【秋の大運動会】9月27日 高学年の組体操の場面です。(写真 4)1000人を超える児童全員で行う準備運動(ラジオ体操)はどのように実施されたのでしょうか? 「体操隊形に開け!」との号令でどのように移動したのか興味津々です。 ◇八幡小の歴史(昭和57年度 1)クラスは1年1組から1年6組までありました!当時の定員数は「45人学級」でしたので、1教室で38〜39人の子どもたちが勉強していました。また、3年生の教室では1組から4組まですべて在籍数が44名!混み合った環境での学習活動となりました! 【せと市民祭】10月10日 はじめて鼓笛隊とバトン部が参加して、パレードで発表をしました。 【修学旅行】10月19日〜20日 目的地はこれまで静岡方面でしたが、この年より「滋賀・奈良方面」に変更となりました。 彦根城、奈良東大寺、宇治平等院鳳凰堂などを見学し、琵琶湖ツーリストホテルに宿泊しました。 ◇八幡小の歴史(昭和57年度 2)建設工事は2月8日に着工。58年度の1学期完成をめざし、体育館南側で基礎工事が進みます・・・ ◇八幡小の歴史(昭和58年度 1)2月から始まったプール建設工事が6月に終了しました。(写真 上・中) これまでのように校外の市民プールや共栄プールに出かけなくても、自校で水泳指導がたっぷりできるようになりました。 7月5日、雨の降る中「プール竣工式」が行われ、7日に「プール開き」が行われました。その時の貴重なスナップが残っています。はちまきをして「初泳ぎ」を披露しているのは岡田校長のようですね。(写真 下) 八幡小のプール設計にあたっては、「機能的なプール」をめざして体育主任を中心に議論したり、すでにプールが設置されている学校(瀬戸市立深川小、水南小、萩山小、豊明市立館小学校など)を視察したりして、要望も出されました。特に目新しいのはシャワーの水が上からだけでなく横からも吹き出すことでした。(もちろん当時は冷水シャワーでしたが・・・) お父さん、お母さんの小学生の頃、遊泳前に「関所」のように通過しなければいけなかった「腰部消毒槽」(ようぶしょうどくそう)の存在を覚えていらっしゃいますか? 当時の小学生は担任の先生が目を光らせる中、消毒液がたっぷり入った水槽にゆっくり10を数えるまでつからなければいけませんでした。つ〜〜んと鼻をつく塩素の臭いがする、冷た〜〜い消毒液も、今となってはほろ苦い思い出の一つですね。 |
瀬戸市立八幡小学校
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