最新更新日:2020/03/31 | |
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おかえりなさい! (2)
こちらは、もう一つのお宝である「木製の二宮金次郎 像」です。
館長さんらによって、厳重に梱包されたクッション材をとりはずしていきます。画像だけを見ると、ちょっとエジプトのミイラ発掘を想像してしまいました(^_^;) さて、学校の記録によれば、この二宮金次郎像、1980年(昭和55)ころに深川小学校OB(台湾在住)の方より寄贈されたものだそうです。 これからまた毎日、廊下を歩く子どもたちを見守り、りっぱな大人に成長できるよう、静かなメッセージをおくっていってくれることと思います。 1月・縦割り活動 (サッカー)今回も球技や鬼ごっこなど運動場や校庭をつかったスポーツ系の遊びが中心の「晴天案」と室内ゲームの「雨天案」の2種類を準備して計画がすすめられて、この日をむかえました。 子どもたちは病気によるお休みもなく、61名が校庭に全員集合!良い天気にも恵まれ、運動場には子どもたちの歓声がひびきました。 画像は3班と6班が合同で楽しんだサッカーのようすです。 1月・縦割り活動 (フットサル)
こちらは体育館で1班と5班が合同で行ったフットサルのゲームです。
1月・縦割り活動 (カンけり)
2班と4班の子どもたちは合同で「カンけり」を楽しみました。今日は先生たちが「鬼」です。ちょっとスリル満点でしたね。
学校給食週間(掲示物から)
職員室前の廊下にある壁面の給食掲示板には、おなじみの“今週の献立コーナー”のほかに、学校給食特集として「給食の歴史」についての写真や説明が千賀さん(栄養職員)によって掲示されています。
5年「水にとけた食塩をとり出すことができるか」 (1)5年生は理科の単元「物のとけ方」で、食塩やホウ酸を水に溶かす実験をとおして、物が水に溶ける量には限度があることや、溶ける量は水の温度や量によってちがったり、溶けやすい物質とそうでないものがあったりすることを学習します。 今回の実験では、食塩水から食塩を取り出せるかについて調べます。はじめに、「ろうと」や「ろ紙」をつかっての“ろ過”によって取り出す方法を試みましたが、ビーカーにポタポタと垂れる液体は透明にみえて、今ひとつはっきりした答えがわかりません。 そこで、アルコールランプを使って、食塩水を蒸発させてみることにしました・・・ 5年「水にとけた食塩をとり出すことができるか」 (2)
食塩水をアルコールランプで熱する実験です。液体が蒸発した後にどうなるかをたしかめます。
実験中に子どもたちがおしゃれな(?)めがねをかけていますが、これは「保護めがね」で、ふっとうした液が急に飛んで目などに入る事故を防ぐための器具で、教科書の中にも使用をすすめる記載があります。(安全に実験を行うことも大切なことですね) アルコールランプに点火して数分後、水分がなくなった蒸発皿の底には白い粉があらわれてきました・・・ 学校給食週間(完全学校給食スタート)この後もすこしずつ給食の実施が拡大して、いよいよ昭和27年、小麦粉の半額国庫補助が行われ4月より、全国すべての小学校を対象に「完全学校給食」が実施されました。 私(校長)も小学校の1年生まではミルクは牛乳ビンに入ってくるものではなく、アルマイト食器に注がれた温かい「脱脂粉乳」だったように記憶しています。 友だちとおしゃべりをしている間にミルクが冷めてくると、表面にうすい膜がはって、あの香りとぬるっとした食感がなんともビミョーだったものです・・・ おおぞら組「足ぶみ版画」 (1)今回は全職員が参観する中で、「足踏み版画」をテーマに授業がすすめられました。ネーミングからもわかるように手ではなく、足で版画を刷(す)るようです。 はじめに鏡にうつった自分の顔を見ながら、ポリエチレン板にボールペンをつかって自画像を描いていきます。“ポリスチレン”という柔らかい素材にボールペンで線を彫るので、木版画よりも抵抗感が少なく、楽しく作業がすすめられます。5年生の女の子は楽しそうに作業に集中しています。 彫りが終わったら、岡田教諭が準備した壁紙(凹凸のあるシール紙)を好きな形にはさみでカットして、背景にはっていきます。 6年生の男の子は背景の模様にも意味をもたせようと頑張っていました。 おおぞら組「足ぶみ版画」 (2)カラーインクがローラーにしっかりなじむように、ていねいに伸ばします。均等にインクがローラーについたら、さきほど彫ったポリスチレン板に色をつけます・・・ おおぞら組「足ぶみ版画」 (3)
いよいよ「刷り(すり)」の作業です。ネーミングのとおり、新聞紙の上に版(ポリスチレン板)を置いて、足で踏んでインクを紙に定着させます。
足踏みは、村上教諭がオルガンで演奏する「ミッキーマウス・マーチ」のリズムにのって楽しく行いました。 曲の演奏が終わりました。しっかり足踏みをしたので、仕上がりが楽しみになってきました。 そ〜〜っと紙をめくってみると・・・ みごとに版画の完成です! インクの色を変えたりしながら2〜3枚ほど刷ったら、席にもどって今日の学習のふりかえりをして授業が終わりました。 1年「できるようになったこと」4時限目にもう一度、教室へおじゃますると子どもたちが水彩絵の具で着色をしていました。 1年生の生活科に「もう すぐ みんな にねんせい」という単元があります。その中に「できるようになったこと」というテーマで、小学校に入学してからこれまでに頑張ったことやできるようになったことを出し合って、自分や友だちの成長に気づく活動があります。 絵の制作は、まず大きな紙に寝ころがって、等身大のアウトライン(自分の姿)を描いてスタートしたそうです。 今すすめている着色が終わったら、体のまわりの余白に「できるようになったこと」や「がんばったこと」を書き込むのだそうです・・・ 6年「電気を利用した物をつくろう」6年生は理科の単元「電気とわたしたちのくらし」で、電気をつくり出したり、つくった電気を蓄えて、光や音、熱に変えてみたりする実験をとおして、エネルギー資源の有効利用について考える学習をします。 子どもたちはこれまでに、ハンドルのついた「手回し発電機」で、何もないところから電気をつくったり、電気を蓄えることのできるコンデンサーの存在を知って、豆電球や発光ダイオードをつないで点灯させたりしました。また、電熱線の太さを変えながら、強力な発砲ポリスチレンをカットする道具もつくってみました。 いよいよ学習のまとめとして、これまでの知識を応用して、「電気を利用した物」をつくる活動に入りました。 5年生の時にモーターを利用したおもちゃが家に保管されている子はそれを持参したり、6年生になって制作した実験キットの部品を材料にしたりして制作はスタートしました。 さっそく自分の設計した部品をつくるために、ポリスチレンの板を発熱カッターで切っている子やコンデンサーを利用して明かりがつく建物の構想を練る子の姿がありました。 【5年生の時の実験キットからヒントをもらう子】 http://www.city.seto.aichi.jp/education/school/... 自分の小学生の時に比較すると、最近の実験キットはリモコンで操作できたり、いろいろなアクションをしたりすることに、ただただ感心するばかりです。それに、ちゃんと一年前の教材を大切に保管していたことにも感心します・・・ 学校給食週間(戦中と戦後の給食)今週は「全国学校給食週間」ですので、給食の歴史についても少しふれてみたいと思います。 昭和10年代、太平洋戦争が激しくなってくると、人々の生活はだんだん苦しくなっていきました。食料や衣服、燃料(ねんりょう)など生活に欠かせない物も自由に手に入れることができなくなり、みんな、政府(せいふ)から配られるキップを持って品物を受けるようになりました。また、武器の材料にする金属も不足したので、家庭で使用する鍋ややかんなどの金属製品を提出しなければいけませんでした。 学校では、食料不足を補うため、運動場までが野菜などを育てる畑として使われるようになりました。(写真 4) それでも、人々は「ほしがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」といったスローガンで自分たちをはげましながら不自由な生活にたえていました。 給食のメニューもだんだん質素になり、以前のように栄養のあるものは出なくなりました。 「すいとん」は小麦粉に水を加えて練りまぜたものを汁物の中にいれて煮た食べ物です。瀬戸地方では“おちょんぼり”という名前でよばれていたそうです。(写真 5) 戦争が終わると、日本はアメリカの占領下におかれました。アメリカ軍は日本に食料を援助してくれましたが、その中にミルクがありました。ミルクといっても現在のような液体ではなく、粉ミルクを湯で溶かしたもので、「脱脂粉乳(だっしふんにゅう)」とよばれていました。 水野さんの紙芝居の一枚には戦争直後の学校のようすを思い出して描かれたものがあります。子どもたちが「餅つき」をしているように見えますが、これはカチカチに固まってしまった脱脂粉乳を溶けやすくするために細かく砕いている作業の場面でした。裏面の説明には次のように書いてあります。 昭和22年、学校給食が始まる。その前年度末、高等科生徒が一里塚の山へ薪(まき)を切り出しに行きました。 4月から学区のお母さんが、味噌汁とミルクの給食を作り、帰宅前に子どもたちに食べさせました。 6年男子がリヤカーで市場から給食の材料を運び、固まったミルクを杵(きね)で粉にしました。(写真 5) U & I今日は音楽劇の中で発表する曲「 U & I 」(若松 歓 : 作)の歌唱を集中的に練習しました。 全体を二つのグループにわかれて、一つのグループが歌唱をする時は、もう一つがそれを聴いて気づいたことやアドバイスを発表します。 それを交互に行う中で、だんだん美しい声が教室に響きはじめます・・・ 版画展 入選作品(写真 上) 1年 宮村くんの作品 「とびだした りゅう」 (写真 中) 4年 山田さんの作品 「リコーダーをふく私」 (写真 下) 5年 大嶽くんの作品 「運動会の組体操」 代表作品は4月に行われる「第47回 子ども版画展」(会場:パルティせと)に展示される予定です。 全国学校給食週間瀬戸市では,「学校給食週間」にちなんで、郷土料理や愛知県産の食材を使用した‘ 期間限定の給食メニュー ’が登場します! それを前に「全国学校給食週間」のはじまりについて少しふれてみたいと思います・・・ 明治22年,山形県鶴岡市の小学校でお弁当を持って来ることのできない貧しい子どもたちに学校を建てたお坊さんが昼食を出したのが,日本での「学校給食のはじまり」と言われています。 そのときのメニューが,おにぎり,焼き魚,漬け物だったそうです。その当時の子どもたちはみんな喜んで食べたそうです。(写真) 明治22年にはじめて実施されて以来、全国各地に広がってきた学校給食も太平洋戦争の始まりとともに中断されてしまいました。 戦後、食糧難による児童の栄養状態の悪化を背景に、学校給食実施の必要性が叫ばれるようになり、昭和21年にララ(Licensed Agencies for Relief in Asia)より、給食用物資寄贈を受けて学校給食を再開することになりました。 まず試験的に、東京、神奈川、千葉で、児童約25万人に対して学校給食を実施することになりました。 それ以来、給食物資の贈呈式が行われた12月24日を「学校給食記念日」と定めました。 その後,昭和25年に、ララ(LARA)、ユニセフ等による給食用物資の寄贈に対する感謝の意を表するとともに、学校給食が戦後に再開できた意義を考え、新たに「学校給食週間」が定められました。 でも、“記念日”はまさにクリスマス、それから1週間を「学校給食週間」に設定しても冬休みに入ってしまうため、実施する期間を一ヶ月ずらして、1月24日から1月30日までの1週間となりました。 ちなみに、瀬戸市で給食が再開されたのは昭和22年。その時のメニューは、「蒸したさつま芋」と「子どもたちが校庭で育てた小麦を使用して打たれたうどん」だったそうです。 音楽劇の発表にむけて(1月23日)
このところ5時限の“おやくそく”となってきました、1・2年合同で発表する音楽劇の稽古風景です。
セリフの内容から、どうやら猫がいろいろ登場するストーリーのようです。(写真 1・2) この写真はけっして遊んでいるのではありません。ステージにあがったら、他の登場人物がセリフを話している場面もボーッとしているわけにはいきません。自分のセリフがない時でも「猫らしい演技」をしているところなんです。(写真 3) たしかにうちの猫もこんなしぐさをしていますねぇ・・・ 静かなブーム・・・寒くなり始めた12月頃より、4年生の女子の間で「一輪車」が静かなブームになってきました。 冬休み前には、へっぴり腰で、50センチほど前へ進めただけで拍手喝采だった子どもたちですが、まさに“継続は力なり”、こつこつ練習を重ねてきて、今ではご覧のように、こんなに上手になりました。 【上手になった姿を動画で・・・】 http://www.city.seto.aichi.jp/education/school/... 足助屋敷へレッツ・ゴー!
3年生は社会科「かわってきた人々のくらし」という単元で、古い道具をさがして調べたり、その道具を使っていた当時の生活について考えたりする学習に取り組んでいます。
1月23日(金)、3年1組の子どもたちは社会科の学習のたしかめをするために校外学習に出かけました。目的地は豊田市にある「三州足助屋敷」です。紅葉で有名な香嵐渓といったほうがわかりやすいかもしれません。 今日は担任の藤谷教諭のほかに引率の補助として、学校サポーターの守屋さんにも一日、付き添っていただきます。 午前8時40分、職員室前に整列した子どもたちは、職員室や2〜3階で勉強する子どもたちに 「いってきま〜〜す!」の挨拶を元気にしました。 ファミリー交流館前に待機しているマイクロバス(瀬戸市)に乗車、予定どおりの時刻に足助屋敷めざして発車しました。 |
瀬戸市立深川小学校
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