最新更新日:2017/12/15
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12月15日(金):もちつき会     19日(火):4・5年「NHK出前授業」    20日(水):おおぞら組「4校交流会」(本校)   6年「5校交流会」(本校体育館)

☆深川小のあゆみ(明治時代の教科書)

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 深川小学校は、平成25年度に創立110年を迎えました。
 伝統ある深川小学校の歴史をしらべたり、校長室などに保管されている写真資料やお宝を少しずつアップしていこうかな・・と考えております。題して「深川小学校のあゆみ」です。
 今回は明治時代の教科書を紹介します。

 1903年(明治36)、愛知県東春日井郡瀬戸第二尋常小学校が創立されました。これが現在の深川小学校のはじまりです。当時の教員は4名、児童数は340名だったそうです。

 写真は文部省(現在の文部科学省)著作「尋常小学読本 四」の表紙です。(写真 上)裏表紙には持ち主である“瀬戸第二尋常小学校 第二学年 丹羽○○”ときれいな文字でかかれています。
 おそらく深川小を卒業された丹羽さんという人が大切に保管されていた昔の教科書を子どもたちの学習資料として寄贈してくださったのだと思います。
 ページを開くと、短編のお話をはじめ、母と子の会話文、全国の名所案内など、いろいろなジャンルの内容が書かれています。
 母と子の会話はとてもていねいな言葉づかいで、家族同士でも敬語がちゃんと使われていて、当時の親子関係のあるべき姿が描かれているようです。
 「第十九 奈良の大仏」では、
 “大仏ハ カネデ、コシラエテアッテ、高サ ガ、五丈三尺アマリ アリマス。ソレデ、奈良ノ大仏 ト イッテ タイソー 名高ウゴザイマス・・・”などと説明されています。(写真 中)
 また、「第五 東京(トーキョー)」では、日本で一番にぎやかな所として東京を紹介しています。流行の先端をいく銀座通りのイラストも入って、道の真ん中に電車が、その横を人力車が通っているようすを説明しています。(写真 下)
 きっと当時の子どもたちは、この解説を読んではるか遠くの大都会・東京にあこがれを抱いたことでしょうね。
 

☆深川小のあゆみ(大正12年度のアルバム −1−)

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校長室には、昭和以前の歴代の卒業アルバムが保管されています。
 アルバムという形式で校長室に残っている一番古いものは、1924年(大正13)3月に発行されたもので、タイトルは、「記念冩真帖」。当時、横書きの文字は、右から左へ読みました。学校名は「瀬戸第二尋常小学校」です。(写真 1)このアルバムは教員として当時勤務していた山田(加藤)貞一様より寄贈されたものであることが裏に記されています。
 ページをめくると最初に出てきたのが「教育勅語」、2ページ目が「戊申詔書」、さらに「木造校舎の写真」へとつづきます。(写真 2・3)
 児童と職員の氏名が記載されているだけですので、当時のようすがはっきりしません。そこでたよりになるのが「学校沿革誌」です。開校した明治36年から現代まで綿々と学校の出来事が墨書で記録された貴重な“お宝資料”であります。
 大正12年には関東地方で大きな震災が起こったことも記載されています。(写真 4・5)

☆深川小のあゆみ(大正12年度のアルバム −2−)

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 卒業生の写真は男子のページと女子のページの二つがあります。わんぱく坊主がいたのでしょうか、教室の窓ガラスの一枚が割れています。
 当時は男子組と女子組と分かれていたのかと思い、「学校沿革誌」(大正12年度の頁)を読んでみると、6年生は1組から3組まで記録されています。どうやら写真は学級に関係なく男女別に撮影されたようです。(写真 上・中)
 職員写真をみると、男性が多い構成であったことがわかります。女性は着物姿ですね。服装、眼鏡(サングラス?)、おひげなどのファッションやポーズなどから当時の雰囲気が伝わってきて、なかなか興味深いものがありますね。

☆深川小のあゆみ(大正14年度のアルバム)

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 今回は大正14年度の卒業アルバムです。表紙のデザインがなんともレトロ調ですね。(写真 1)
 大正14年という年はいろいろなことがありました。5月5日には「普通選挙法」が公布されて、満25歳以上の成年男子に選挙権が与えられました。(残念ながら当時の女性には選挙権はありませんでした)
 8月26日に瀬戸町は赤津村と合併しました。本校の学校名もこれまでの「瀬戸第二尋常小学校」から「深川尋常小学校」と変更になりました。
 10月1日には第2回の「国勢調査」も行われました。

 さてアルバムですが、表紙をめくると最初に出てくるのは、子どもたちと職員の集合写真です。(写真 2)この年の学級数は20、1216名の児童が在籍したと記録されています。
 職員写真は男性が洋服(背広または詰め襟の訓導服)、女性が和服(着物とはかま)です。学級写真は6年3組(担任:藤江先生)、かすりの着物で男子はりりしく学生帽をかぶっていますね。足もとを見ると、下駄(げた)や草履(ぞうり)にまじって靴(くつ)らしきものをはいている子もちらほら見られます。(写真 3〜4)
 この学級には、男子49名・女子26名 合計75名の子どもが一つの教室で勉強していたんです。(現在の深川小の全校児童数より多い!)
 さて、6年生の修学旅行ですが、2月2日より3泊4日で、電車を乗り継いで京都・奈良・三重方面に出かけました。
 初日は京都の名所、清水寺、三十三間堂、平安神宮を、二日目は奈良で、春日大社、若草山、大仏を見学(現在と同じようですね)。さらに三日目から三重県に滞在して、亀山、二見 夫婦岩さらには伊勢神宮まで参拝しました。旅行中の子どものおこづかいは50銭、たくさんのおみやげがかえたそうです。
 

☆深川小のあゆみ(昭和2年度のアルバム)

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 第一次世界大戦、その後の恐慌、銀行の倒産休業、関東大震災と激動と混乱の中、時代は「大正」から「昭和」にかわりました。
 これは昭和2年度の「記念寫眞帖」(卒業アルバム)の表紙です。四隅(すみ)に昆虫と雪印が配置されています。これを見た現代の小学生は何というでしょうか?
「ハエと雪の女王」、「蝉(セミ)と雪の結晶」、「トンボと雪マーク」・・・どれも不正解だと思います。
 おそらく・・・虫は「蛍(ホタル)」で、結晶は「雪」、中国の史書に登場する故事「蛍雪の功」をイメージしているのではないかと思います。
 蛍雪の功とは、中国・晋の時代、役人をめざす貧乏な二人の若者が、夏の夜は蛍(ホタル)を数十匹つかまえて絹の袋にいれて灯りをともして本を読み、冬の夜には窓辺に雪を積み上げて明かりをとって勉強して成功をおさめたお話から由来するもので、いかにも学校の卒業アルバムの表紙にぴったりのデザインではないでしょうか。(写真 1・2)
 さて、表紙をめくると運動場で撮影された写真が出てきます。体育の授業か運動会か説明がないのでちょっと内容は不明です。見物している人は運動着を着用していないですからねぇ・・・(写真 3)
 アルバムの後半に出てくる2枚の写真は、修学旅行の集合写真のようです。三重県二見町の夫婦岩を背景に記念撮影されていますね。それにしても断崖絶壁のようなところでのショットはいささかスリルありますねぇ。
 もう一枚は伊勢神宮で撮影されたものでしょうか?(写真 4)

☆深川小のあゆみ(昭和3〜4年度)

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 校長室には、めずらしい“つり鐘”が保管されています。つり鐘といってもお寺にあるようなビッグなものではありません。大きさがわかるようにCDケースが横に置かれていますが、高さは43cm、直径が30cmほどあります。(写真 上)今回は、このつり鐘の由来を紹介したいと思います。
 
 1903年(明治36)3月に建設された校舎は、児童数の増加に対応するため、およそ3年ごとに増築をくりかえしてきました。
 大正末期には1000人を超える児童数となり、時代は昭和にうつりかわっても児童数はどんどん増加していきました。
 1928年(昭和3)になると、老朽化した校舎が取り壊されて、2階建ての校舎が二棟建設されました。校舎増改築を記念して寄贈されたのが、このつり鐘だったのです。
 つり鐘の側面には、
「瀬戸深川尋常小学校 
 改築記念
 昭和四年三月
 寄贈者 加藤 龍蔵」
 と刻まれています。(写真 中)そして、反対側の側面には「特製品」の文字も見られます。(写真 下)

「創立八〇周年 記念誌」によれば、当時は校長室の北側につり下げられていたと記録されています。ひょっとしたら授業の始まりを告げるチャイムがわりに鳴らされていたのかもしれませんね。
 1929年(昭和4)は、市制が施行されて「瀬戸市」となり、学校名も「瀬戸深川尋常小学校」から「瀬戸市深川尋常小学校」に変更になったり、校舎が増改築されたりした記念すべき年でありますが、残念ながら当時の卒業アルバムは本校には保管されていません。
 
 長い深川小学校の歴史をみつめてきたつり鐘、今後も“学校のお宝”として、大切に保管していこうと思います。

☆深川小のあゆみ(昭和5年度のアルバム −1−)

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 昭和2年度につづき、今回は5年度の「記念寫眞帖(卒業アルバム)」を紹介させていただきます。昭和3年度〜昭和4年度のアルバムは確認できませんでした。
 校長室にはすべての年の卒業アルバムが保管されているわけではなく、ところどころ抜けた(?)年があります。これは初期のアルバムの大半が職員OBなどから寄贈されたものであるのが理由だと思われます。また、太平洋戦争が激化した頃(昭和10年代)から終戦直後の時代のものはほとんど残っておりません。
 瀬戸市深川尋常小学校という校名になった昭和初期の時代は、奉安所が新設されて教育勅語が納められたり、校門が建設されたり、児童が入隊する兵士を見送りにいったりする行事が行われました。
 「学校沿革誌」の昭和5年のページを見ると、6月25日が「母への感謝日」とされ、“図画・書き方(習字)、綴り方(作文)を作成して家へ持ち帰った”と記録されています。
 7月になると、「林間指導」(林間教室のこと?)や運動場で夕方から“ラヂオ体操屋外大会”が行われました。12月には「市内小学生野球大会」へ選手を派遣したことも記されています。
 
 さて、昭和5年度の卒業アルバムです。表紙に昆虫が描かれていますが、おしりの部分が光っているので、やはり「蛍(ほたる)」ですね。ただこの年は雪らしきものは描かれていません。
 ページをめくると「教育勅語」が出てきます。つづいて新築間もない講堂や玄関、そして校旗の写真が出てきます。
 職員写真で興味深いのは、男性は大正時代と同様に背広を着用していますが、女性は着物だけでなく洋服の人も見られます。
 巻末には宮前の「平田寫眞舘 謹寫」の文字があります。電話番号が3ケタなのはいかにも時代を感じますね。 

☆深川小のあゆみ(昭和5年度のアルバム −2−)

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 大正末期から増加してきた児童数、昭和5年度は学級数 25,全校児童数 1521名という記録が残っています。

 卒業アルバムには、児童の集合写真が2枚あります。戦前のドラマに登場する子どもたちの服装、髪型そのままですね。着物ばかりでなく、よく見ると洋服やセーラー服のようなものを着た女の子の姿もありますね。
 卒業生の写真は、一枚は男女混合、もう一枚は女子だけで撮影されています。これが学級ごとに撮影されたものなのでしょうか?この年の卒業生は185名、どんな学級編制であったのか、はっきりした記録が残っていないのが残念です。
 1929年(昭和4)に建設された2階建ての校舎とその前で整列する児童の姿がこのアルバムで紹介されています。

☆深川小のあゆみ(昭和6年度のアルバム)

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 昭和6年度の「卒業記念寫眞帖(卒業アルバム)」です。(写真 上)表紙はこれまでのカラー印刷ではなく、単色の厚紙になりました。イラストがないわけではなく、よく見ると、表紙右側にエンボス加工が施され、燭台(しょくだい:ろうそくをたてる台)に灯りがともされているようすが描かれています。現代のような電気スタンドではなく、“夜はろうそくの灯りで勉学に努めなさい”というメッセージでしょうか・・・(写真 中)
 ページをめくると、校旗と正面玄関の写真が見られます。校旗にはまだ旧名称の「第二尋常小学校」を意味する“二小”とデザインされた校章を見ることができます。
 そして正面玄関の校門はとてもりっぱですねぇ。門扉があることから朝夕に開閉されていたのでしょうね。画像ではわかりづらいですが、むかって右の門柱には「瀬戸市深川小学校」、左には「瀬戸商業実修学校」(大正14年5月に本校に併設されました)と立体的に表示されています。

「学校沿革誌」によると、5月29日、野球優勝戦が瀬戸球場で行われ、深川小学校と幡山小学校が対戦しました。
 6月4日の欄(らん)には、カタカナで“ムシバデー”の文字が見られます。そこには“市歯科医 来校、口腔衛生ニ関スル講話アリ”と説明されています。
 11月10日、謄写印刷の講習会が開かれました。当時の先生たちが“ガリ版印刷”の方法を勉強していたことがわかります。
 12月14日、“交通事故防止書方挙行”の文字も見られます。交通安全を呼びかける習字を子どもたちが書いたのでしょうか?

 歯の健康や交通事故の防止など、子どもたちの課題は昔も今も同じなんですね。

 色のついた表紙のアルバムはこの年までで、翌年からはシンプルな無地の表紙になっていきます。

☆深川小のあゆみ(昭和7年度のアルバム)

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 昭和6年度から9年度までの「卒業記念寫眞帖」4冊です。
 昭和7年度より表紙が無地で紙質もやや柔らかめのものに変わります。
 裏表紙を見ると年ごとにアルバム制作の業者さんが異なり、「瀬戸市北榮町 伊里寫眞舘」や「瀬戸市朝日町 原田寫眞舘」の名前が見られます。
 画像ではわかりづらいのですが、右半分にエンボス加工が施されたデザインは継承されています。ろうそくの灯りの横には新たに蛍(ホタル)の光も加えて描かれています。
 さて昭和7年度のアルバムを開くと、校庭の写真が出てきます。よく見るとバスケットボールのゴールらしき器具が見られます。もうこの頃に子どもたちはバスケットボールを楽しんでいたようですね。
 学級写真は6年3組です。男子はみな学生帽をかぶっているのはこれまでと同じですが、着物より圧倒的に学生服を着用する児童が多いです。女子は、着物、セーラー服、洋服などが混在していますが、帽子をかぶったりしておしゃれをする子も出てきたようです。
  「学校沿革誌」を見ると、7月12日に“海人草(駆虫薬)服用”の記述が見られます。
 昭和初期から戦後にかけての時代は、人糞などを畑作物の肥料にしていた背景もあって、人の小腸などに寄生するミミズに似た形状の回虫が見つかるケースが多くあり、回虫やノミ、シラミと人が共存する時代でありました。
 学校でもその対策をとることが課題であり、海人草(かいにんそう)は回虫を駆除するための薬でした。
 戦前に小学生だった人たちには、「アタマジラミ退治にDDT噴霧と回虫駆除の海人草服用」がセットで懐かしくもあり、いまわしい(?)記憶になっているそうです。

☆深川小のあゆみ(昭和8年度のアルバム −1−)

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 昭和8年度の卒業アルバムです。タイトルは「卒業記念」とだけ表記され、無地(白)の紙にエンボス加工が施されているだけのシンプルなデザインです。(写真 1)
 表紙をめくると、はじめに「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)、それにつづいて「戊申詔書」、「国民精神作興ニ関スル詔書」とつづきます。
 学校の正門の写真につづいて出てくるのが、校庭に並ぶ子どもたちの姿です。これは朝礼の風景でしょうか?(写真 2)
 この年の児童数はとうとう1800人を超えてしまいました。(1832人 29学級)どんなふうに授業が行われていたのか興味津々です。
 写真は6年1組の学級写真です。(写真 3)

☆深川小のあゆみ(昭和8年度のアルバム −2−)

 6年生の学級数は4組までありました。興味深いのは、6年2組は女の子だけで編制された女子組、3組は男の子だけの男子組であったことです。(写真 1・2)
 最後の6年4組は、男女混合の学級でした。(写真 3)

 10月18日〜19日には、6年生が奈良・伊勢方面に修学旅行に出かけました。旅行先では記念撮影が行われ、奈良で2枚、伊勢神宮、二見の夫婦岩でそれぞれ1枚ずつ合計4枚の写真がアルバムにおさめられています。画像はそのうちの2枚です。(写真 3・4)
 左(下)の写真は奈良の若草山で撮影されたものでしょうか?引率の女性教師が着物姿であるのが時代を感じさせます。上の写真は、興福寺(奈良)の五重塔をバックにして撮影されたもののようです。ちょうどシャッターチャンスに鹿二頭が飛び入り参加しているのか、撮影者があえて連れてきたのか不明ですが、子どもたちの楽しそうな顔がまぶしいです。鹿の後方にいてちゃんと写っていない子もいますが、のどかな雰囲気が伝わってくる一枚です。
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☆深川小のあゆみ(昭和10年度のアルバム)

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 昭和9年度の児童数は1968人、学級数はいよいよ「30」をこえました(31学級)
 児童数の増加によって、2年生は2組〜6組において“二部授業”が始まりました。
 「二部授業」とは、急激に児童数が増えた場合、収容する教室が不足したり。対応する教員が配置できなかったりすることに対応するため、授業を午前と午後の二部に分けて行う授業のことです。
 この頃から校内では、防空演習や避難訓練などが実施されるなど、少しずつ戦争の足音が聞こえてくる時代となります。

 昭和10年度はついに児童数が2000人台に突入しました。(2069人、33学級)また9月、これまで深川小学校に併設されていた瀬戸市商業実修学校は「瀬戸市立深川青年学校」と校名が変更になりました。
 12月、室戸台風によって被害を受けた校舎に対して、鉄製の支柱による補強や土台取り替え工事が行われました。
 さて画像は「昭和10年度」の卒業記念帖(卒業アルバム)の表紙です。(写真 上)紙質がすこし厚手になり、茶色系の着色がされています。タイトルの「卒業記念帖」もゴールドの文字になって、おなじみとなった“ホタルとロウソクの灯り”が立体的にあしらわれています。
 ページを開くと、朝礼風景でしょうか。日の丸が掲揚されているのをたくさんの児童が注目しています。(写真 中)私が小学生だった昭和40年代も朝礼ではしばしば国旗掲揚が行われていたことを思い出しました。
 6年生は5組までありました。写真を見るといずれの学級も男女混合で編制されていたようです。
 最後は修学旅行の写真です。伊勢神宮と奈良の史跡をまわったようですね。(写真 下)

☆深川小のあゆみ(昭和11年度)

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 卒業記念帖(卒業アルバム)です。金文字のタイトルやエンボス加工など表紙デザインは、前年度のものを踏襲しています。(写真 1)
 昭和11年度は、深川小学校111年の歴史の中で児童数がピークに達した年であります。この年の児童数は2114名、クラス数は35学級! 今では想像できないですね。この年には下記のようなできごとが「学校沿革誌」の中に記録されています。

 9月 1日 養護室寄贈

10月 3日 風雨強く、青年団出動。職員とともに協力して児童を家庭へ送り届ける。

10月23日 奉安殿建設のための地鎮祭挙行

 これまで普通教室を改修して「式場教室」として“奉安室”を設置していましたが、新たに運動場西に教育勅語などを厳正に保管するための奉安殿建設がすすめられました。

 さて、卒業アルバムです。職員の集合写真では男性も女性も洋服ばかりで、着物姿は見られません。そして、にこやかに笑みをうかべる人が見られて、のどかなムードが伝わってきます。(写真 2)
 6年生は5クラスあって、6年1組だけが男女混合の編制ではじまり、2組(女子組)、3組(男子組)、4組(女子組)、5組(男子組)とつづきます。
 修学旅行の思い出のページです。奈良県では若草山を、三重県では二見の夫婦岩をバックに記念撮影をしています。軍靴の音がひたひたと聞こえるこの時代、職員や子どもたちの表情から、そんな背景がありつつも楽しい旅行をすごしていたことがうかがえます。(写真 3・4)

 夏休みの「深川小学校のあゆみ」はこれでひとまず終わりです。また、冬休みにはこの続編を公開できたら・・と思います。

☆深川小のあゆみ(昭和12〜13年度  −1−)

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 昭和12年に起こった日中戦争を契機に、日本は戦争への道をすすみ、16年12月8日には太平洋戦争へと突入していきます。
 昭和13年には、「国民精神総動員」の政策が打ち出され、国民の戦意昂揚のため、「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの戦時標語が掲げられる世の中になっていきました。
 戦況の激化にともなって、防空訓練、農耕作業、工場への学徒動員や勤労奉仕作業などが重視され、子どもたちは、落ち着いて机にむかう授業どころではなくなっていました。
 昭和13年4月には新入学児童による深川神社参拝(写真 1)や町内別の日参団が組織されて、登校の道すがらの参拝などが日課となりました。
 また、瀬戸駅での出征兵士の見送りや名古屋陸軍病院への慰問など、“銃後奉公”が強化された時代でした。
 昭和13年度の「卒業記念寫眞帖」(卒業アルバム)には、運動場での朝礼風景を撮影した写真が掲載されています。当時のクラスは36学級、児童数は2093人という記録が残っています。
 運動の北西には、前年に建設された奉安殿が見えます。背景の湯之根町のあたりには窯場の煙突が林立し、さらにむこうには山並がつづいています。

☆深川小のあゆみ(昭和12〜13年度  −2−)

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 子どもたちが整然と並ぶ運動場の北西に見えるのが、昭和12年に完成した「奉安殿(ほうあんでん)」です。(画像 1)
 奉安殿には「教育勅語」および「御真影(ごしんえい:天皇などの肖像)」が保管されており、当時、奉安殿は敬虔な所とされ、その前を通るときはおじぎをするように教育されていました。(深川小学校 創立80周年記念誌より)
 昭和12年頃の校地図(画像 2)を現在のもの(画像 3)と比較してみると、当時は児童数の増加に対応するために、校舎の増築で「ロの字」に建物が並んでいることがわかります。
 これらの木造校舎は老朽化にともない、昭和40年代に入ると裏山が採土・整地されて、そこにコンクリート製のモダンな校舎が建て替えられていきました。
 最後は卒業アルバムに掲載された学級写真です。6年生は6学級があり、1組から3組までが男子組、4組から6組までが女子組でした。
 写真は6年6組です。(画像 4)

☆深川小のあゆみ(昭和15年度)

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 昭和15年度の「卒業記念寫眞帖」(卒業アルバム)からの画像です。
 昭和15年4月1日、「高等科」の5学級(259名)が併置されたことにより、学校の名前が「瀬戸市深川尋常高等小学校」と改称されました。
(翌年には、瀬戸市深川国民学校とまたまた変更になるのですが・・)
 当時の校舎は、敷地の南側(現在の運動場のある部分)に建設されていました。児童は道路に面して東西にのびる緩やかなスロープをのぼって木造校舎に入っていきました。上の丸枠にあるものは、運動場に設置された「奉安殿」です。(写真 1)
これは朝礼風景ですね。(写真 2)記念誌によれば、全校児童数は1742名いました。
 奉安殿の横では日の丸(国旗)が掲揚されて、職員、児童がじっと注目しています。(そういえば、私が小学生の頃も、毎週月曜日の朝礼のたびに国旗が掲揚されていました)
 6年生は、男子組は「松組」、「竹組」、「梅組」の3学級、女子組は、「雪組」、「月組」、「花組」(どこかの歌劇団のようですね)の3学級のあわせて6学級ありました。
これは、6年竹組(男子組)の学級写真です。(写真 3)

 高等科が併置されたことから、「勤労奉仕作業」がさかんに行われるようになりました。
 高等科の児童は、木炭運搬や水害復旧工事、森林公園での農耕作業などに従事しました。また全校児童による「砂場造り」をはじめ、初等科児童の「どんぐり拾い」、「食用の野草集め」さらには山へ行っての「兎狩り(うさぎがり)」も実施されたことが記録されています。
 6月に、校内では、学級対抗の「すもう大会」も開催されました。

☆深川小のあゆみ(昭和17〜18年度)

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 昭和16年3月に「国民学校令」が公布されたことにより、4月より学校の名称は「瀬戸市深川尋常高等小学校」から「瀬戸市深川国民学校」と変更になりました。また、初等科(小学校)の教科は、国民科(修身・国語・国史・地理)や理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道])、芸能科(音楽・習字・図画・工作・女子に関しては裁縫)に分けられて指導されました。
 特に戦時下ということで、質実剛健をめざして心身を強化する活動が重視され、体錬科での授業では男子に相撲が取り入れられて、校内をはじめ校外で開催された「学童相撲大会」へも本校児童が参加した記録が残されています。
 当時、朝日新聞社から贈呈された“学童相撲大会参加”を記念した陶製の楯が校長室には今も保管されています。70年以上の時を経過していますが、釉薬をかけて完成した焼き物は現在も当時のままの色彩、輝きを保っています。(写真 上)
 昭和17年2月28日の日曜日、宮前で公演中のサーカスから火災が発生しました。火のまわりが早く、たちまち燃え広がって、13名の犠牲者を出す惨事となりました。
 深川小の児童は、3名が死亡、2名が負傷したそうです。(写真 中)
 昭和17年11月6日から7日にかけて、初等科6年の児童176名が修学旅行に出かけました。
 戦況の激化は、国民生活のさまざな場面に影を落としましたが、修学旅行の内容も縮小されて、これまで二泊三日で伊勢・奈良方面を目的地にしていた旅行は、宿泊数が一泊二日に短縮されて、目的地も伊勢のみになりました。
 画像は、伊勢の内宮、宇治橋をバックに撮影された男子組の集合記念写真です。(写真 下)

 初等科の修学旅行はこの年を最後に中断され、戦後(昭和25年度)に再開されるまで、しばらく空白の期間がつづきます。また、この時期の卒業アルバムは校長室には残っていません・・・
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瀬戸市立深川小学校
〒489-0074
愛知県瀬戸市宮脇町53
TEL:0561-82-2272
FAX:0561-82-2362