最新更新日:2020/03/31
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3月24日(火)1〜5年生臨時登校日(9:10下校)  4月7日(火)にじの丘学園小中学校入学式  4月8日(水)にじの丘学園小中学校始業式                                

◇深川小のあゆみ(終戦をむかえる)

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 昭和19〜20年、戦争が激化する中、6年生は、勉強だけでなく、裏山を削ってならして芋畑(いもばたけ)を作るなどの奉仕作業に従事することが多くありました。印所(いんぞ)の奥の競馬場へは、畑の肥料にする馬糞(ばふん)をもらいに出かけたそうです。子どもたちが楽しみにしていた修学旅行はこの時期には行われませんでした。
 学校では「肝油(かんゆ)」の配給があり、子どもたちは夏休みに毎日一錠ずつ飲んだそうです。
 子どもたちは、出征する兵隊さんを瀬戸駅まで見送って、励ましたり裁縫(さいほう)の授業で、武運長久を祈って“千人針”を縫ったりしました。
 昭和20年になると毎晩のように空襲があり、名古屋市では焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲も多くなり、とうとう5月には、B-29爆撃機440機による空襲で国宝の名古屋城が炎上しました。
 一夜明けると、名古屋の町一帯は焼け野原で、天守閣が焼け落ちた名古屋城は石垣だけになっていました。
 8月には広島、長崎に原子爆弾が投下され、まもなく戦争は終結しました。
 深川小学校では8月16日の朝礼で、子どもたちは当時の校長先生から終戦に関する訓話を聞きました。

◇深川小のあゆみ(昭和21年〜23年)

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 戦争が終結して、混乱していた国内の情勢も少しずつ安定していきました。
 本校に保管されている「学校沿革誌」を読むと、
“昭和22年1月にアメリカ軍放出の脱脂粉乳(だっしふんにゅう)による補助給食が実施された”と記録されています。
 昭和22年3月31日、「教育基本法」(旧法)とともに「学校教育法」が公布・施行され、学校では民主主義国家をめざす教育内容がすすめられていくことになりました。
 こうした戦後の教育改革により、小・中学校から高校、大学までの「6・3・3・4制」の学校制度が生まれ、義務教育は小学校6年、中学校3年間の9ヵ年となりました。

 本校では、22年4月1日より、それまでの「瀬戸市深川国民学校」から「瀬戸市立深川小学校」と名称が変更になりました。この年の児童数は、1065名、23学級という記録が残っています。
(写真 1)
 新しくなった学校での入学式のようす(1947年 大阪府の学校の画像です)

 終戦直後の昭和20年頃に、学校で学習する教科やその内容について、連合国軍側の教育指令により再検討が加えられていましたが、新しい教科書はまだ準備できず、これまでのものを使用していました。
 教科書の中でも、国家主義的な色彩の強い内容や軍国主義をたたえる教材などは、削除されたり、訂正されたり、神話にもとづく歴史は、史実にもとづくものに改められたりしました。
 子どもが読むことが適切でない内容は、墨(すみ)などで塗りつぶして削除したので、こうした教科書は、“すみぬり教科書”などと呼ばれています。(写真 2・3)
 昭和22年4月、国定国語教科書など新たな教科書の使用が始まりました。
 同じ年の10月31日には「運動会」、そして翌年の3月には「学芸会」が開催されていることからも、少しずつ子どもたちが勉強に取り組む環境になり、学校生活がおだやかになってきたことがうかがえます。

 昭和23年4月には、「深川小学校父母と先生の会(PTA)」が発足しました。

 

◇深川小のあゆみ(昭和24〜26年度)

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 戦争の終結から4年ほどが経過して、世の中も混乱から少しずつ落ち着きが見られるようになり、学校現場も新たな教育制度のもとで、正常な姿をとりもどしてきました。
 戦後まもなくして始まった図工作品展が、昭和24年の5月には「開校記念図工作品展」と銘打って開催されました。
 7月7日には「七夕祭」も開催されました。

 昭和25年度の大きな出来事は、戦争によって中断されていた修学旅行が再開されたことでした。
 10月18日から6年生147名(引率 6名)が、奈良・京都の一泊二日の旅に出かけました。
 この年の4月より、祖東中学校へ本校の11教室を貸与したことが記録に残っています。

 昭和26年度に入ると、本山中学校が開校したことにともなって、12教室を貸与しました。
 12月7日には「校内マラソン大会」が開催されました。当時のマラソンコースは、下記のように、校外を走るものでした。

 学校 → 東印所 → 瀬戸公園 → 須原 → 学校

◇深川小のあゆみ(昭和27年度)

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昭和27年(1952)は、深川小学校にとっては記念すべき創立50周年をむかえた年でした。
 記念事業として「国旗掲揚塔」と、念願であった「プール」の建設が決定し、11月には記念式典が開催されました。プールが完成すれば、瀬戸市内の学校では最も早く開設されることになります。

 プールがまだ完成していないこの時代、7月にはPTA主催で臨海学校も開設され、子どもたちは知多半島へ出かけました。

 9月には「50周年記念運動会」が開催されたり、校舎の一部が移転したりするなど、いろいろな事業がつづきました。
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◇深川小のあゆみ(昭和28年度)

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 本校の創立50周年を記念する事業として昭和28年2月にプール建設工事が始まりました。
 7月29日、ついにプールが完成しました。(25m 5コース)建設にあたっては、プールとして予算がおりず、自治会やPTAの尽力で“防火用水”という目的で、ようやく工事が認可されたそうです。(創立80周年 記念誌より)
 完成当時、プールの水源は刎田町の井戸水で、パイプによって送られてきました。きっと当時の子どもたちは冷たい水の中で泳いでいたのでしょうね。プールの横には大きなガケが迫っていました。(ちょっと こわいですね)
 保管されている資料をみると、この時に完成したプールは、およそ30年間利用された後に取り壊され、少し西側に新しいプールが建設されたことがわかります。

◇深川小のあゆみ(昭和29年度)

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 深川小学校の校長室には、過去に作成された多くの卒業アルバムが保管されています。終戦間際の時代のものは保管されておらず、混乱期でアルバムそのものが作成されなかったのかもしれません。
 画像の昭和29年度の卒業アルバムが、戦後に作成されたアルバムの中で保管されている中で最も古いものになります。
 巻頭を飾る写真は、この二年前に行われた校舎移転にともなって設置された国旗掲揚塔が見えます。そして、校歌の歌詞が掲載されています。一番の歌詞を見ると・・・

 七百年のいにしえを 
 かたる陶祖の石碑は
 学舎近く そびえたり
 仰げ 苦心のその古を

 最後の一行で「仰(あお)げ 苦心のその古(かみ)を」とあるように、「古」という文字を「かみ」に当てていたことがわかります・・・(写真 1)

 卒業生の学級写真は、6年松組です。(写真 2)
 男子は学生服やつめ襟(えり)、女子はセーラー服が多いですね。男子が着用する衣服はこれ以降の数年間、大きな変化はありませんが、女子が着用するものは少しずつ変化していきます。

 昭和29年5月6日、「童話会」(読み聞かせ?)が低学年、高学年を対象に2回行われました。
 同年7月25日〜27日、二泊三日で知多半島(野間)へ臨海聚落(臨海実習?)へ出かけました。(5・6年生の希望者70名が参加。池田屋旅館で宿泊)

 最後は修学旅行の記念スナップです。昭和25年度の目的地は京都・奈良方面でしたが、29年度は伊勢・志摩方面に出かけたようで、真珠島で撮影が行われました。(写真 3)
いつの時期に目的地が変更になったのかについては、資料が残っておらず不明のままです。
 

◇深川小のあゆみ(昭和30 〜 31年度)

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 昭和30年度は、学級数20、児童数は1120人でした。
5月30日、ライオン歯磨(株式会社)から派遣された指導者による「歯みがき訓練」が行われました。
 同年10月25日には、「瀬戸市リズム体操祭」が南山中学校で開催され、本校から3・4年の男子と5・6年生の女子が参加しました。

 画像のアルバムは、昭和31年度の卒業アルバムです。(写真 1)31年度の学級数は21,児童数は1156人でした。
 巻頭を飾る校舎の写真がこの年からカラーになりました。(写真 2)
 6年松組の学級写真を見ると、男子は学生服またはつめ襟(えり)を着用し、坊主頭にまじって、髪をすこし伸ばした姿もちらほら見られます。女子はスモックを着用して、おかっぱの人が多く見られます。
 授業では「そろばん」も習っていたようですね・・・
 
 

◇深川小のあゆみ(昭和32年度 −1− )

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 昭和32年(1957)は、深川地区が自然災害の恐ろしさを知った年でした。
 8月8日の集中豪雨は、瀬戸市内全域で大きな爪痕(つめあと)を残しました。品野地区では家屋の流失により8名の死者が出ました。
 深川地区では泉町で大規模な山崩れが起きて、40名近い人が生き埋めになりました。地元住民をはじめ、自衛隊の出動で23名が救出されましたが、22名の尊い命が失われました。深川小学校では児童3名が犠牲となりました。
 8月14日、災害犠牲者の市民葬が宝泉寺で執り行われ、本校からも職員・児童代表が参列しました。
 

◇深川小のあゆみ(昭和32年度 −2− )

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 泉町の災害が起きた翌年の3月8日、「水災慰霊碑の除幕式」が行われました。
 慰霊碑は、がけくずれなどで犠牲になられた方々の冥福を祈るとともに、ふたたびこのような惨事を繰り返さないことを願って、東西泉町と東西印所町の自治会の手で災害のあった場所に建てられました。(画像 1〜3)
 この災害で母親を失った北島さん(旧姓 若杉)の文章が「深川小学校 創立80周年記念誌」に掲載されているので紹介させていただきます。

 昭和33年8月、その日も雨。数日降り続いた雨に裏山のまわりの土がバタバタとくずれ落ち、北隣の家は土台の一角が雨水で大きくえぐられて穴があいた。
 夕方、雨がやんだ後、山の泥水が流れ込まないように「土嚢(どのう)」を積んだり、溝を掘ったりの作業が始まった。男手のない私の家では、母が出ていた。8時すぎになって帰らぬ母を心配して外へ出た。下の鈴木さんの家で作業の済んだ後、お菓子をつまみながら作業の苦労話に花が咲いているようだった。
 9時少し前だったろうか。私の家の南東からゴオーというものすごい音とともに白い土けむりが上がった。南の安田さんの家が土砂にのまれ、あっという間に消えたかと思うと、西下にある数軒の家が全部、つぎつぎに流れに押しつぶされて見えなくなった。土砂の流れた直後、山の上に池があったのではないかと思われるぐらいの水がどっと流れ、たちまち泥の海となった。くずれ去った家々のあたり(地底)から人々の「ウー、ウー」という、うめき声が聞こえた。
 私は最初、何が起こったのか見当がつかず、一瞬の出来事にしばし茫然としてしまった。われに帰った時には「母さん、母さん!」と大声で泣き叫ぶばかりで、何をするすべもなかった。
「どうもなかったか?」という言葉とともに母が帰ってくるのを私は願い、待つばかりだった。
 一夜明け、自衛隊が出動、生き埋めになった人々を捜し始めた。私は、一分一秒でも早く救出してほしいと願った。
 近くのお寺に一人二人と屍になった人々が運び込まれてきた。泥水で汚れた体をきれいに洗って、白い棺に入れていった。
 私は本堂に安置された母に最後のお別れをした。むらさき色にかわった母の顔を見て、最後のその時、残す三人のわが子を想い、さぞや無念であったろうと、流れる涙をとめるすべもなかった。
 その後、現場の山手の方は、砂防工事がなされ、家々があったところには新しい家が建ち、空き地は広場となっている。今もその地下には家財道具などが悲しい思い出とともに埋まっている。少し掘り返せば、あの夜のままである。
 当時19才の私も今は亡くなった母の年齢をすぎ、二人の子の親となって、母の無念がよりいっそう思われてならない。

◇深川小のあゆみ(昭和33年度)

 昭和33年度の学級数は22、全校の児童数は、1222人でした。
 「学校沿革誌」には、“東便所が「水洗式浄化便所」に改装した。”という記録が残っています。
 卒業アルバムを開いてみると、木造校舎の教室でたくさんの子どもたちがひしめきあって勉学に励んでいるにぎやかな音が聞こえてきそうです。(写真 1〜3)
 学級写真の他に、修学旅行、遠足、運動会、さらには「部活動」(現在のクラブや委員会の時間)のページもあります。
 “体育部”(現在の体育委員会のようなものでしょうか)の写真を見ると、子どもたちにまじって帽子をかぶった二宮金次郎の石像も写っています。なんだか戦後10年近くが経過しての平和な世の中の空気が伝わってくる写真ですね。(写真 4 右)
 
 
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◇深川小のあゆみ(昭和34年度 −1− )

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 昭和34年度は、学級数が22,全校の児童数は1109人でした。34年度は、いろいろな校内施設が建設されたり、補修されたりした年でした。
 7月には、プールを囲む塀(へい)が建設されました。リニューアルしたばかりのプールで行われた水泳の授業風景です。当時は、男子も女子も現在のようなスクール水着はなく、自由だったようですね。(写真 1〜4)
 夏休み期間には、東、北校舎の大屋根コンクリート瓦(かわら)のふきかえ工事や教室の塗装工事が行われました。

 これより一ヶ月もたたないうちに、猛烈な強さの台風が襲来したことによって、校内施設が甚大な被害を受けることなど、このときは誰も予想すらしていませんでした・・・

◇深川小のあゆみ(昭和34年度 −2− )

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 1959年(昭和34)9月26日、台風15号(伊勢湾台風)がこの地方を直撃して、紀伊半島から東海地方にかけて甚大な被害をおよぼしました。(写真 1)
 和歌山県、三重県、愛知県、奈良県、日本アルプスの岐阜県を中心に犠牲者は5098人。そのうち死者4697人、行方不明者401人、負傷者38921人にのぼりました。名古屋市南部では満潮時と重なったために、家屋の流失や貯木場から流れてきた木材による破壊などの被害が大きくなりました。(写真 2)
 瀬戸市内でも、負傷者94人、全半壊家屋が824戸にのぼりました。わが深川小学校にもこの台風の爪痕(つめあと)が残され、裁縫室の天井板が飛散したのをはじめ、理科準備室の壁が倒壊、校舎の屋根瓦の4割ほどが飛散、ガラス破損が1200枚という記録が残されています。(写真 3・4)

 台風15号は犠牲者が3,000人以上出したことから“伊勢湾台風”と呼ばれるようになり、室戸台風、枕崎台風とあわせて「昭和の三大台風」に挙げられています。
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◇深川小のあゆみ(昭和34年度 −3− )

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 画像は、昭和34年度の卒業アルバムです。巻頭のページには、当時の校長先生の肖像や校舎の写真が掲載されています。(写真 上、中)
 学級のページを見ると、6年生は5組まであったことがわかります。この学級には児童が50名もいました・・・

◇深川小のあゆみ(昭和34年度 −4− )

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 昭和34年度の卒業アルバムには、伊勢湾台風を特集したページがありました。このことからもこの台風の被害の大きさが伝わってきます。(写真 上)
 この年の卒業アルバムに修学旅行を特集したページはありません。例年は秋に修学旅行へ出かけるのですが、台風の被害が甚大で延期を余儀なくされ、実施したのは年が明けてからの3月7日〜8日でした。そのため、写真掲載がアルバム編集に間に合わなかったのでしょう。旅行先は「伊勢・志摩方面」でした。

◇深川小のあゆみ(昭和35年度)

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 昭和35年度の卒業アルバムです。終戦直後は1700人ほどいた児童数は少しずつ減少傾向をみせはじめ、この年にとうとう1000人を割り、962人になりました。(学級数は20)
 4月に入って、ようやく伊勢湾台風(前年9月)によって破損した校内施設の修復工事がはじまりました。
 昭和31年度より始まった「全国学力調査(学力テスト)」の抽出校に深川小があたり、10月5日、6年生が参加しました。11月には、校門およびその周辺の工事が行われました。

◇深川小のあゆみ(昭和36年度)

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昭和36年度の卒業アルバムの表紙です。(写真 上)
 学級数19,全校児童は888人でした。職員写真には6年生の担任の先生たちが別枠で紹介されています。6年生は4クラスあったようですね。
 先生たちの背後に写っている自動車は、“てんとう虫”の愛称で親しまれた名車スバル360(富士重工業)です。だれが所有していたのでしょうか・・・(写真 中)
 6年1組のページを見ると、担任の先生と肩を組んで、笑顔がこぼれる子どもたちの表情から楽しい学級のムードが伝わってきます。(写真 下)
 この年の5月27日、集中豪雨によって校舎の雨漏りが激しく、臨時休校になったことが「学校沿革誌」に記録されています。
 
 

◇深川小のあゆみ(昭和37年度  −1− )

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 昭和37年度の卒業アルバムです。
 学級数は18,児童数 782人でした。5月から給食費が1食につき25円となりました。
 この年は記念すべき「開校60周年」にあたる年で、記念式典や作品展が開催され、そのようすが卒業アルバムにも特集ページがあります。

◇深川小のあゆみ(昭和37年度  −2− )

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 昭和37年度卒業アルバムの巻頭ページです。(写真 上)
 注目すべきは、校歌の歌詞(二番)が現在のものとすこし異なるところと、校庭のようすがはっきりわかる写真が掲載されていることです。
 旧校舎は現在の運動場のあるところに建設されていました。ちょうど「コの字」に5棟の校舎が配置されて、中庭もありました。中央には二宮金次郎の石像も確認できます。そして国旗(校旗)掲揚塔のむこう(現在の体育館のあたり)は、一段低くなっていたようです。
 当時の子どもたちは校舎北側にある運動場で体育の授業を受けたり、放課に遊んだりしていました。(写真 中)
 アルバムの巻頭に掲載されている写真は、航空写真(昭和39年頃)の☆印のあたりから西側にむかって中庭を撮影したものと思われます。(写真 下)
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◇深川小のあゆみ(昭和38年度)

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 この年、深川小学校の児童2名がNHKの人気テレビ番組「魔法のじゅうたん」に出演しました。
 この番組は、「徹子の部屋」や著書「窓ぎわのトットちゃん」などでおなじみの黒柳徹子さんが司会者を務める子ども向けバラエティ番組(モノクロ放送)でした。
 黒柳徹子さんと一般の子どもたちが、当時としては最新の特殊撮影技術を駆使して、あたかも「魔法のじゅうたん」に乗って空を飛び回っているかのような演出をして、全国の街を紹介する番組でした。
 4月10日、学校を代表して児童会長の加藤くん、副会長の水野さんの二人が東京のNHK東京放送会館(千代田区内幸町)まで出かけていって番組は放送されました。
 黒柳さんが「アブラカダブラ!」と呪文を唱えると、三人(黒柳さん、二人の児童)を乗せたじゅうたんが大きく広がって、宙に浮きます。じゅうたんに乗った二人の児童は、空の上から陶磁器の街・瀬戸を全国に紹介した後、ビルの屋上に無事に着陸して番組は終了となりました。
 NHKの技術の粋を集めて、クロマキー技術とヘリコプター撮影の映像が合成された演出、夢あふれる映像が連続するこの番組に、当時の子どもたちは夢中になったそうです。

◇深川小のあゆみ(昭和39年度 −1− )

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 昭和39年度の卒業アルバムの巻頭を飾る校舎と校長先生の写真です。
 この頃のアルバムから、モノクロ写真のまわりにカラーのイラストなどがあしらわれたりするようになりました。(写真 1・2)
 昭和39年(1964)当時の日本は高度経済成長期で、10月1日には、東京駅 - 新大阪駅間に東海道新幹線が開業、同月の10日には、東京オリンピックの開会式が盛大に行われました。(この時のエンブレム、かっこいいですね!)
 この開会式にあわせてオリンピック競技などを視聴するためのテレビ5台を、深川小PTAと地域の方より寄贈していただきました。
 この年から給食費は一食30円になりました。
 
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瀬戸市立深川小学校
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