最新更新日:2024/09/24 | |
本日:5
昨日:166 総数:944944 |
魚入神社 −1−昨日は、天候に恵まれた中で入学式を行いました。入学式には桜が似合います。 学校の南にある小杁の魚入神社の桜も満開でした。 境内を歩くと、地域の皆さんにとても大切にされていると感じました。 実は、この魚入神社は、以前から気になっていました。なぜなら、おそらく、日本で唯一の神社名だからです。どうしてこの名になったのか? さらに小杁の「oiri」と魚入の「uoiri」が似ていること。魚入神社の名から小杁になったと聞いたことがありますが・・・。 あるサイトに、次のように説明されています。 江南市小杁町八幡東に所在する魚入神社は、創建年代などの由緒は不明である。『尾張国神名帳』に記載される「魚入神社」に相当する神社とされる。『寛文村々覚書』によれば、小杁村に熊野権現と富士浅間と八幡があるといい、このうちの熊野社が明治4年(1871)に魚入神社であるとされた。その後明治末年に富士浅間社と八幡社が合祀され現在に至る。祭神は伊弉冊尊・応神天皇・木花咲耶姫命である。 やや曖昧です。 出典 https://banbeimani.exblog.jp/9522625/ また、尾張の神社に多い蕃塀があります。(写真下の下) 『くさの井史』には、次の記述があります。 P50 式内社も式外社も共に古代からの神社としては知られているが、(中略)村久野、小杁、鹿の子島の関係分を記してみると、次のようである。 1 尾張国神名帳 従三位 蘆入(いおり)天神 ・・・・小杁の鎮守 従三位 伊福利天神 従三位 宇夫須那天神 ・・・小杁の魚入神社に関係あり 式内社・式外社は西暦900年代にまとめられたものです。「天神」とは「あまつかみ」で、天神様とは関係ありません。 さらに次が続きます。 2 参考 尾張本国帳 従三位 魚入神社 天神 一本作 正四位下蘆入部(いおりべ) ここにはすでに「魚入」の名があります。 推測ですが、「蘆入(いおり)」→「魚入(うおいり)」→「小杁」となった可能性を感じます。 それにしても、『くさの井史』はすごい。 明日に続きます。 戦前の入学式はいつ?
今日、4月5日は入学式です。
希望に満ちたかわいい一年生に会えるのが楽しみです。 それでは、昭和16年には、入学式はいつ行われたのでしょうか? 下の写真をご覧ください。 そうです。 4月1日に始業式とともに行われています。 その他の年はどうでしょうか? 昭和17年 4月1日(水) 昭和18年 4月1日(木) 昭和19年 4月1日(土) 今と違って、土曜日でも行われていました。 入学式並びに奉告祭と書かれています。また、来校者に「高木神官」と書かれています。戦時色が強くなったことを感じさせます。 昭和21年 4月8日(月) 現在に近いですね。ところが、 昭和22年 4月14日(月) 遅いですね。受持発表 1年 〇〇 ・・・・・ 他は当分の間前年度担任受持と書かれていました。 担任発表は、何と、4月25日(金)に行われていました。 何があったのでしょうか・・・。 昭和16年の春の遠足はどこへ?昨日は、先生方が4月18日(6年生は19日)に予定されている春の遠足の下見を行いました。 それぞれ、弁当を食べる場所やトイレの数、危険個所はないかなどを確認しました。 それでは昭和16年の草井村国民学校の子どもたちの春の遠足はどこへ出かけたのでしょうか? 「学校日誌」の4月24日のページに次のように書かれています。 初一・二年 宮田町本郷裏 初三・四年 浅井村浅井山 初五・六年 楽田村茶臼山 高等科 城東村継鹿尾山 宮田町本郷までは片道約3km。おそらく河川敷まで行ったのでしょう。1,2年生179人が歩きました。 浅井村浅井山とは、一宮市の浅井山公園のことです。 片道約6kmを3,4年生219人が歩きました。 楽田村茶臼山とは、現在の青塚古墳のことでしょうか。 小牧長久手の合戦の際には、茶臼山砦といわれていました。 草井小学校からは7.7km。 195人が参加しました。 高等科は今の中学1,2年生。 継鹿尾山までは、9.4km。 131人が、往復約20kmを歩いたのです。 今の子どもたちは歩くことができるでしょうか? 学校日誌これは、学校教育法施行規則 第二十八条で定められた学校において備えなければならない表簿の一つです。 学校の日々のことが書かれています。 草井小学校の校長室には、昭和12年以後のものが保存されています。(それ以前のものもどこかにあるかもしれません。探してみます。) 上の写真は、昭和16年から22年(20年を除く)のものです。 昭和20年のものは、金庫には見当たりません。布袋小学校にも、昭和20年だけが所在不明でした。 その内容は、歴史の生き証人です。 例えば、昭和16年12月8日の記録には、米、英に対して宣戦の勅書 渙発セラルと書かれています。 この日の未明に真珠湾攻撃が行われました。 これが昭和20年8月15日まで続く太平洋戦争のきっかけとなりました。 「平成」は日本では戦争のない時代でした。「令和」の時代も平和を維持したいものです。 二宮尊徳石像今年度は、学校や草井小校区、江南市の歴史についての記事を載せていきます。 より詳しいことをご存知の方、家に史料(資料)があるという方は、ぜひともご教示ください。 第1回は、正門北側にある二宮尊徳石像です。 二宮尊徳の石像は、多くの学校に残されています。 草井小学校の石像の特徴は、他校が少年後期から青年前期のものであるのに対して、少年前期のものと見られることです。 『くさの井史』 P.226には、昭和9年3月31日のところに、次のように書かれています。 日本初等教育の理想的人間像としての二宮金次郎像が、県内各学校の校庭に建立されだしたのを機に、草井校にも少年時代の石像が、長谷栄輔(長谷撚糸機製作所の長谷善一氏の弟、古知野駅前の長谷撚糸機販売所を経営)によって寄附され、岡崎より運ばれ西正門前に建てられる。 その後、幾度の移動があり、昭和51年に現在の場所に落ち着きました。 草井小学校へご来校の際には、ぜひ近くでご覧ください。 |
江南市立草井小学校
〒483-8409 愛知県江南市小杁町長者毛西1 TEL:0587-57-8333 FAX:0587-57-6922 |