最新更新日:2024/09/20 | |
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魚入神社 −3−先日は小杁の魚入神社を取り上げました。『くさの井史』を読んでいたら、さらに詳しい記述がありました。 P15より引用します。 −−−−−−以下引用−−−−−−− 小杁にある村社魚入神社は「尾張本国帳」にいう葉栗郡従三位魚入天神、延喜式外の魚入神社の由緒をもつとしており、津田正生の「尾張国地名考」では魚入(うおいり)は庵入(いをいり)の転じたるものとして、庵入姫に由来するという。 また、尾張大海媛の孫で八坂入姫の腹に生まれた五百木姫の音が変化して、庵入姫となったもので、景行天皇の娘なりと「尾張誌」では見ている。 −−−−−−引用終わり−−−−−−− 「五百木」はいおきと読み、いをいり(庵入)と転じたことも十分考えられます。 「尾張誌」は、天保15年(1844年)に序のある近世後期のもので、愛知県図書館にある写本では丹羽郡だけでも、巻之三十六から巻之四十まで、260ページあります。 ここから https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/32.html 機会があれば後日紹介します。 江南市 誕生秘話 −3−
『くさの井史』より、江南市が誕生した当時の様子を紹介しています。
小玉市長が選挙に当選してからも、「古知野市」への市名変更、布袋町の分離問題に揺れていました。 8月末には、布袋地区を除いた分離予算が可決します。 その中で、市名変更案が廃案になります。 布袋地区の中で、市名変更案が廃案になった以上、脱退の理由はないという意見が出始めます。 その空気の中で、小玉市長は4町村の円満合併に向けて奔走します。 昭和30年度予算は満場一致で可決し、晴れて4月7日に祝賀の春を迎えます。 この間の出来事は、『くさの井史』には記述がありません。 ご存じの方は教えていただければ幸いです。 下の写真は、市制発足を祝う市役所の風景です。 10年後にできる現庁舎までは、古知野町役場を市役所として使っていました。 向かって車の左側に、初代小玉市長が写っています。 円満解決したことに、ほっとしてみえることでしょう。 小玉市長、おつかれさまでした。 江南市 誕生秘話 ー2−
江南市は、昭和29年6月1日に誕生しましたが、
・ 7月に旧古知野地区から市名を「古知野市」に変更せよと陳情 ・ 布袋地区はそれなら脱退すると表明。 ・ 7月9日には、江南市議会で布袋地区の分離を可決 商工業で発展している古知野 対 丹羽郡役所があった政治と文化の布袋のプライドをかけた戦いがありました。 どうなる?江南市! ここで市長選挙が行われました。 草井村鹿の子島出身の江南市擁護の小玉進亮氏が当選します。 下の新聞記事はその時のものです。 8月5日、最初の議会が、古知野南小学校の講堂で開かれました。 議長が布袋分離問題の責任をとり辞意を表明、布袋地区は総務委員会を除いて、議員をどの委員会にも送りません。 8月6日、布袋地区は分離予算を要求します。 8月10日、小玉市長は分離引き留めで動きますが、区長会では分離要求を県に陳情、古知野地区も古知野市へ変更せよと感情的に対立します。 宮田・草井地区もよい感情を持たず、市から脱退する空気も流れます。 江南市、ピンチ! 明日に続きます。 江南市 誕生秘話 ー1−今年は、江南市制 65周年なのです。 江南市は、昭和29年6月1日に誕生しました。 しかし、その裏には壮絶なドラマがあったのです。 今日は、『くさの井史』より、そのドラマを振り返ってみます。 後編P59より 昭和28年 10月 町村合併推進法 施行 当時は、合併の対象となる人口8千人以下の町村が17もありました。どこと一緒になるのかが大きな問題でした。 昭和29年(日付は中日新聞の掲載日です。) 1月21日 古知野町;市制実現促進を決議 同 布袋町;市制促進委員会開催 2月16日 古知野・宮田・草井の代表者会議で年度内合併となる。しかし、一部の宮田町幹部が反対し、振出しに戻る。 宮田で反対意見がありました。 2月23日 宮田町住民に意見を聞くと賛成多数のため三か町村合併協議会に委員を出す。 宮田が再び協議に加わりました。 2月26日 三町村で合併促進協議会開催。新市名西丹市。 しかし名前が変わります。 3月 三か町村は愛知県知事に、古知野市制認可を願い出る。 3月 4日 県の合併促進協議会が西丹市に布袋を加えるように勧告。 布袋町は、大口村、千秋村との間に合併熱が盛り上がっており、合併は不可能と考えられていました。 3月 9日 県から三か町村に布袋を加えるように勧奨。布袋からは、市名を「古知野」ではなく新しい名前にすること、市役所を古知野と布袋の間に置くという、二つの条件を出す。 結局、県には三か町村合併案は認められず、4月1日誕生は絶望的に。犬山市が4月1日に誕生しました。 この間にいろいろあり、 5月24日 4町村の合併が県議会で決定される。名前は、桑原知事の案で「江南市」に決まる。 丹葉市、久和野市、尾北市などが候補に挙がりました。 6月1日 江南市 誕生 しかし 7月 3日 旧古知野地区から「古知野市」に変更せよと陳情を受ける。一方、布袋地区はそれなら脱退すると表明。 7月 9日 江南市議会で布袋地区の分離を可決。 まさに誕生したばかりの江南市が分裂のピンチです! この先どうなるのでしょうか・・・。(続きます) 魚入神社 −2−一昨日は小杁の魚入神社を取り上げましたが、もう少し続けます。 『くさの井史』の記事から、推測ですが「蘆入(いおり)」→「魚入(うおいり)」→「小杁」となった可能性があると書きました。 『くさの井史』には、それ以後に次の記述がありました。 後編P98 魚入神社の社殿建築費を、河原御料地の貸付代を備蓄することによって賄わんとする 明治35年の記事です。 P102 魚入神社の積立金に小網島よりの渡船場賃料代を入れる 明治36年。 P127 魚入神社の祭文殿新築にかかる明治42年。 P134 魚入神社の建築・他明治43年 P137 魚入神社の造営 明治44年に改築した時の碑「魚入祠改築費」が今も残っています。(写真下の上) P209 魚入神社社務所を青年会場に流用 昭和4年の記事です。今も残る社務所は、昭和4年に竣工しています。(写真下の下) 年齢はいつ増える?今日4月7日は愛知県議会議員選挙投票日。 問題です。 Q 4月7日の投票日に、実際に投票できるのは、次の誰でしょうか?投票できる人をすべて選んでください。 A 4月6日が18歳の誕生日の人 B 4月7日が18歳の誕生日の人 C 4月8日が18歳の誕生日の人 年齢の数え方は「年齢計算に関する法律」で決まっています。 <strong>○ 年齢計算ニ関スル法律 (明治35年12月2日法律第50号) 施行 明治35年12月22日 (1) 年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス (2) 民法第百四十三条ノ規定ハ年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス (3) 明治六年第三十六号布告ハ之ヲ廃止ス</font> 年齢計算は、民法143条を適用するということになっています。 民法143条;週,月又ハ年ノ始ヨリ期間ヲ起算セサルトキハ其期間ハ最後ノ週,月又ハ年ニ於テ其起算日ニ応答スル日ノ前日ヲ以テ満了ス これは、たとえば4月7日生まれの人は、4月6日午後12時で加算するという意味です。 もっと簡単に言うと、年齢は誕生日の前日に加算するのです。 これは年金や保険加入の際に月単位で満年齢を計算する場合にも関係してきます。11月1日生まれの人は、10月に1歳年齢が繰り上がってしまうので、年金も実際には19歳11カ月目から払わなければならないのです。しかし支給される時も1カ月早まりますが・・・。 この問題では、A・Bはもちろん、Cの4月8日生まれの人も投票する権利が与えられるのです。 また、他の有権者と同じように不在者投票もできます。ただし、期日前投票はできません。 不在者投票は立会人のもとで投票用紙を管理者が一時預かり、投票日に管理者が投票箱に入れるのに対し、期日前投票は有権者が直接投票用紙を投票箱に入れるからです。 あくまでも、投票箱に入れるのは18歳になってからなのです。 学校教育法では、第17条第1項において「保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、(略)これを小学校又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」と定めています。 また、「小学校の学年は、4月1日に始まり、翌年3月31日に終わる。」(学校教育法施行規則第59条)とあります。 これにより、4月1日に生まれた者は3月31日までに生まれた者と同じ学年となる(いわゆる「早生まれ」)のです。 例えば学年が2019年4月1日から始まる場合、2019年4月1日生まれの者は2019年3月31日に満6歳に達するので、2018年4月から小学校等に就学することになるのです。 これも、年齢は誕生日の前日に加算するからです。 魚入神社 −1−昨日は、天候に恵まれた中で入学式を行いました。入学式には桜が似合います。 学校の南にある小杁の魚入神社の桜も満開でした。 境内を歩くと、地域の皆さんにとても大切にされていると感じました。 実は、この魚入神社は、以前から気になっていました。なぜなら、おそらく、日本で唯一の神社名だからです。どうしてこの名になったのか? さらに小杁の「oiri」と魚入の「uoiri」が似ていること。魚入神社の名から小杁になったと聞いたことがありますが・・・。 あるサイトに、次のように説明されています。 江南市小杁町八幡東に所在する魚入神社は、創建年代などの由緒は不明である。『尾張国神名帳』に記載される「魚入神社」に相当する神社とされる。『寛文村々覚書』によれば、小杁村に熊野権現と富士浅間と八幡があるといい、このうちの熊野社が明治4年(1871)に魚入神社であるとされた。その後明治末年に富士浅間社と八幡社が合祀され現在に至る。祭神は伊弉冊尊・応神天皇・木花咲耶姫命である。 やや曖昧です。 出典 https://banbeimani.exblog.jp/9522625/ また、尾張の神社に多い蕃塀があります。(写真下の下) 『くさの井史』には、次の記述があります。 P50 式内社も式外社も共に古代からの神社としては知られているが、(中略)村久野、小杁、鹿の子島の関係分を記してみると、次のようである。 1 尾張国神名帳 従三位 蘆入(いおり)天神 ・・・・小杁の鎮守 従三位 伊福利天神 従三位 宇夫須那天神 ・・・小杁の魚入神社に関係あり 式内社・式外社は西暦900年代にまとめられたものです。「天神」とは「あまつかみ」で、天神様とは関係ありません。 さらに次が続きます。 2 参考 尾張本国帳 従三位 魚入神社 天神 一本作 正四位下蘆入部(いおりべ) ここにはすでに「魚入」の名があります。 推測ですが、「蘆入(いおり)」→「魚入(うおいり)」→「小杁」となった可能性を感じます。 それにしても、『くさの井史』はすごい。 明日に続きます。 戦前の入学式はいつ?
今日、4月5日は入学式です。
希望に満ちたかわいい一年生に会えるのが楽しみです。 それでは、昭和16年には、入学式はいつ行われたのでしょうか? 下の写真をご覧ください。 そうです。 4月1日に始業式とともに行われています。 その他の年はどうでしょうか? 昭和17年 4月1日(水) 昭和18年 4月1日(木) 昭和19年 4月1日(土) 今と違って、土曜日でも行われていました。 入学式並びに奉告祭と書かれています。また、来校者に「高木神官」と書かれています。戦時色が強くなったことを感じさせます。 昭和21年 4月8日(月) 現在に近いですね。ところが、 昭和22年 4月14日(月) 遅いですね。受持発表 1年 〇〇 ・・・・・ 他は当分の間前年度担任受持と書かれていました。 担任発表は、何と、4月25日(金)に行われていました。 何があったのでしょうか・・・。 昭和16年の春の遠足はどこへ?昨日は、先生方が4月18日(6年生は19日)に予定されている春の遠足の下見を行いました。 それぞれ、弁当を食べる場所やトイレの数、危険個所はないかなどを確認しました。 それでは昭和16年の草井村国民学校の子どもたちの春の遠足はどこへ出かけたのでしょうか? 「学校日誌」の4月24日のページに次のように書かれています。 初一・二年 宮田町本郷裏 初三・四年 浅井村浅井山 初五・六年 楽田村茶臼山 高等科 城東村継鹿尾山 宮田町本郷までは片道約3km。おそらく河川敷まで行ったのでしょう。1,2年生179人が歩きました。 浅井村浅井山とは、一宮市の浅井山公園のことです。 片道約6kmを3,4年生219人が歩きました。 楽田村茶臼山とは、現在の青塚古墳のことでしょうか。 小牧長久手の合戦の際には、茶臼山砦といわれていました。 草井小学校からは7.7km。 195人が参加しました。 高等科は今の中学1,2年生。 継鹿尾山までは、9.4km。 131人が、往復約20kmを歩いたのです。 今の子どもたちは歩くことができるでしょうか? 学校日誌これは、学校教育法施行規則 第二十八条で定められた学校において備えなければならない表簿の一つです。 学校の日々のことが書かれています。 草井小学校の校長室には、昭和12年以後のものが保存されています。(それ以前のものもどこかにあるかもしれません。探してみます。) 上の写真は、昭和16年から22年(20年を除く)のものです。 昭和20年のものは、金庫には見当たりません。布袋小学校にも、昭和20年だけが所在不明でした。 その内容は、歴史の生き証人です。 例えば、昭和16年12月8日の記録には、米、英に対して宣戦の勅書 渙発セラルと書かれています。 この日の未明に真珠湾攻撃が行われました。 これが昭和20年8月15日まで続く太平洋戦争のきっかけとなりました。 「平成」は日本では戦争のない時代でした。「令和」の時代も平和を維持したいものです。 二宮尊徳石像今年度は、学校や草井小校区、江南市の歴史についての記事を載せていきます。 より詳しいことをご存知の方、家に史料(資料)があるという方は、ぜひともご教示ください。 第1回は、正門北側にある二宮尊徳石像です。 二宮尊徳の石像は、多くの学校に残されています。 草井小学校の石像の特徴は、他校が少年後期から青年前期のものであるのに対して、少年前期のものと見られることです。 『くさの井史』 P.226には、昭和9年3月31日のところに、次のように書かれています。 日本初等教育の理想的人間像としての二宮金次郎像が、県内各学校の校庭に建立されだしたのを機に、草井校にも少年時代の石像が、長谷栄輔(長谷撚糸機製作所の長谷善一氏の弟、古知野駅前の長谷撚糸機販売所を経営)によって寄附され、岡崎より運ばれ西正門前に建てられる。 その後、幾度の移動があり、昭和51年に現在の場所に落ち着きました。 草井小学校へご来校の際には、ぜひ近くでご覧ください。 |
江南市立草井小学校
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