最新更新日:2024/10/31 | |
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江南市縁の七人の戦国武将 −8−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 こどもの日の今日は、信長の子織田 信雄です。 2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では、山崎裕太が演じました。 NHK大河番組HPには次のようにかかれていました。 信長の次男。本能寺の変の後、明智軍を攻めようと進軍するが、兵数が心もとないと撤退。清洲会議で織田家後継者の道を完全に断たれるが、のちに家康と組み、秀吉に対抗する。 また、三谷幸喜の映画「清洲会議」では、妻夫木聡がおおうつけとして演じていました。 映画HPでは、信長次男。おおうつけだが自分では頭が良いと思っている。秀吉によって信長後継に擁立される。というキャラクターとして紹介されていました。 この信雄も、他の尾張の武将と同様、豊臣と徳川の争いに翻弄されます。 信雄は、信長の第2子。もちろん吉乃の子です。 信長は伊勢平定のため、信雄を北畠具房の養子としました。 長島一向一揆や雑賀衆、伊賀攻めに、弟の信孝と共に参戦します。 本能寺の変の後には、尾張、伊勢、伊賀の100万石を得て、織田姓に戻ります。 賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、柴田勝家に付いた弟信孝を攻めて岐阜城を包囲、野間大坊に送り自害させています。 兄弟といえども厳しい世界です。 この後、秀吉からの大坂城の招待を拒否し、対立します。 信長の後継者を自認する信雄にとって、秀吉のとった行動は許せないものでした。 秀吉が信雄を攻撃するのに対し、信雄は徳川家康と同盟を結びます、というより助けを求めます。 これが小牧・長久手の戦いとなります。 家康が清洲城に到着した日、織田氏の家臣・池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を占拠します。 池田恒興は、姫路城を造った池田輝政の父です。 生駒屋敷(小折城)にいた信雄を訪ねた家康は、二人で富士塚古墳(写真下)に登って、秀吉側の動きを偵察したと言われています。 結果的に、領地を一部減らして秀吉と和睦。 長女(小姫)を秀吉の養女に出し、その小姫は徳川秀忠に嫁ぎます。 豊臣と徳川の間の微妙な位置関係に立ちます。 その後も、豊臣と徳川の間を立ち回り、子孫を存続させています。 優秀といわれた兄・信忠は早く命を落とし、それほどではなく、一部では「暗愚の将」とさえ言われた信雄の家系が続いていくのは皮肉です。 叔父有楽に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあったそうです。 『くさの井史』P.136には、「尾張は本能寺の変後、信雄が領主となる−曼陀羅寺へ禁制下る」と書かれています。 明日は、有楽を取り上げます。 来週の主な予定5月 5日(日) PTA役員会・委員会 8日(水) 月曜時間割 委員会 第1回学校運営協議会 9日(木) ホタル教室(4年) 10日(金) あゆの放流(3年) 江南市縁の七人の戦国武将 −7−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第7回は織田 信忠です。 信忠は、信雄・徳姫(見星院)同様、信長と生駒吉乃との間の子であり、信長の嫡男です。 15歳で浅井長政を攻め、その後長島一向一揆攻め、長篠の戦いに従軍します。 18歳で信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となります。 25歳では武田勝頼を攻め、先鋒として功をあげました。 しかし、本能寺の変では、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃しました。 歴史に「もし」は禁句と言われていますが、必ずしもそうとは言えません。 いろいろな状況を総合的に考えるトレーニングができると考えています。 もちろん正解はありませんが・・・ もし、信忠が二条城を脱出していたら・・・・ 天才の2世の割には優秀だといわれた信忠のことです。 跡取りとして、他の家臣団に命じて光秀を討伐したでしょう。 秀吉といえども、信忠には逆らえません。 織田家とその家臣団による天下統一の可能性は高かったと思います。 そして名古屋に幕府を開くのです。 などと、勝手な想像は楽しいですね。 【1年生】楽しかった遠足おいしいお弁当やおやつも食べて、楽しかったですね。 安全にも気をつけて歩くことができました。 今度はどこに行くのでしょうか。 楽しみですね。 【1年生】こんなことをがんばったよ初めての給食や授業を、一生懸命取り組むことができました。 これからも、一つずつできることを増やしていけるといいですね。 江南市縁の七人の戦国武将 −6−こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第6回は生駒 親正です。 この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。 1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。 本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます 60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。 高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。 そして、三中老のひとりなります。 三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。 生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。 ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。 五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。 どちらに付けばよいか苦悩します。 讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。 さらに子の生駒一正は東軍につかせます。 結果はもちろん東軍の勝利。 生駒家は安堵されます。 高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。 ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。 江南市縁の七人の戦国武将 −5−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 第5回も生駒利豊です。 数年前に、江南市歴史民俗資料館で「生駒家文書展」が開かれました。 上の写真がその時の様子です。 この古文書は、尾張徳川家の徳川綱義(後の3代藩主・綱誠)が、その守役であった、生駒家6代生駒利勝に宛てたものです。次のように書いてあります。 露月死去 可為力落候 謹言 五月十日 綱義(花押) ここでの、「露月」とは、利勝の父(5代利豊)のことです。 「可為力落候」は「力落としたるべきそうろう」と読みます。 あなたのお父さんが亡くなり、私も力を落としましたという内容のお悔やみです。 尾張徳川家の跡取りが、家臣にこのような書状を渡すことは珍しく、生駒家をいかに重視していたかがわかります。 写真上の下は6代生駒利勝の「遺書」です。 1688年に書かれたもので、今で言う「家訓」に当たります。 利勝が、その子宗勝へ書いたもので、当主としての心得を示したものです。 3条に分かれている第1条を見てみましょう。 一 忠功ハ不及申ニ先祖ヲ祭ル者ハ 冥加ニ叶也、就中露月尊君ノ 儀全ク粗略不可有、家伝記在 所古実覚え置、子孫ニ相伝 専用也、若妻子ニ愛着アラハ 可為家絶事 おおよその意味です。 「忠孝は言うまでもなく、先祖を祭るのは神仏の加護を得ることができる。とりわけ、先代(5代利豊)は疎略に扱ってはいけない。生駒家の歴史について子孫に伝えるのが(当主の)勤めだ。もし先祖より妻子に愛着が偏ると、この家は絶えてしまうに違いない。」 5代利豊から見ると、利勝は外孫に当たります。 すなわち利豊は、利勝の母方の祖父。 利勝が先祖を大切にしてきたことが実によくわかります。 実物はたいへんコンパクトで、片手にすっぽり収まる大きさです。 身近な所に置いておき、すぐに見ることができるようにしていたものと思われます。 「遺書」の第2条から、利勝の人柄や、当時の武家の暮らしぶりを想像してみてください。 一 勝手方身体ヲ第一可持立、 不如意ニ無之様ニ心掛常々不 失軍役等勤メ可被申人ハ、何時 不慮ノ儀出来流牢難知也、 一家知人中ニ無御苦労ヲ掛間 敷也、惣テ借金取持加判口入 断申達シ曽テ被仕間次敷事 主観的、かつおおよその解釈です。(間違っているかもしれません。) 「会計担当者は健康に気をつけるように。日ごろから失うことのないように、貧窮しないように心掛けるように。軍事上の負担をすることになると、何が起こるかわからない。みんなに迷惑をかけてはいけない。借金をしたり、連帯保証人になるようなことはしてはいけない。」 当主としては、やはり家計への気遣いが感じられます。 この遺書(家訓)の巻末には、次のように書かれています。 「この3条を、年中、2ヶ月に1回は目を通して守るように。これを守らないと、先祖や父母までが不幸になる。もちろん、後の代にもおよぶので、代々に伝達するように。」 生駒家中興の祖と言われる利勝らしい言葉です。 3年生 4月の授業風景図工では自分で書いた絵を立たせて立ち上がった絵の世界を作っています。 みんないろいろな発想で絵を立たせながら描いているので、どんな世界ができあがるのかがとても楽しみです。 3年生の最初の1ヶ月☆ゴールデンウィークでは4月の疲れをしっかりとって下さいね。 5月からは運動会の練習も本格的に始まりますので早寝早起きをしてリズムを崩さないように楽しい連休を過ごして下さい。 連休明けに元気な姿を見られることを楽しみにしています。 江南市縁の七人の戦国武将 −4−藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。 その七人の武将を順に紹介しています。 記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。 令和時代初めてとなる第4回は生駒利豊です。 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4c/49ce..." border="0"> 生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。 まずは、吉乃の兄、家長です。 家長は、初めは犬山織田氏についていました。 妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。 信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。 信長創世期の家臣だったのです。 その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。 家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。 利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。 関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。 以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。 ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。 宝頂山墓地(写真下)には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。 中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。 奥が家長夫妻です。 6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。 生駒家に養子として迎えられました。 尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。 利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。 初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。 碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。 『くさの井史』には、 P.111「小折に在した生駒氏のこと−犬山の織田氏に従い、後信長に属する」 P.153「生駒利豊の兄と姉」 他、P.157,P.159,p.162,p.163 に登場します。 次回も利勝について紹介します。 令和元年の始まりさぁ、草の井っ子のみなさん! これからの時代を生きる力を 草井小で育み、鍛え、磨きましょう!! |
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