宮田中学校の様子をお知らせしています。宮中生のがんばっている姿をご覧ください。

日本人で最初の英語通訳者 ジョン万次郎

画像1 画像1
新聞にジョン万次郎の新しい写真発見かと載っていましたのでジョン万次郎について調べてみました。

1827年、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男として生まれました。万次郎が8歳の頃に死去した父や、病弱な母と兄に代わって幼い頃から働きました。家が貧しく勉強の機会もまったくなかった万次郎です。

1841年、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難してしまったのです。5日半、漂流し奇跡的に伊豆諸島の無人島に漂着し143日間生活したんです。そこでアメリカの捕鯨船に仲間と共に救助されました。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされたのですが、万次郎だけは船長に頭の良さを気に入ら、そのまま一緒に航海に出、アメリカに渡るのです。この時、船名にちなみジョン・マン愛称をアメリカ人からつけられたのです。

同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、船長の養子となって一緒に暮らし、オックスフォード学校などで多くのことを学びました。民主主義や男女平等など、日本にはない新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験したのです。

そして何年か船関係の仕事をするのですが、お金を貯(た)め、ついに日本に帰る事を決心をしました。最初にハワイホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会するのです。(良かったですね)そして上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、日本へ向け出航したのです。

1851年、琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られました。薩摩藩では万次郎一行を厚遇(こうぐう)したのです。藩主・島津斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校の英語講師として招いています。

1853年、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘(しょうへい)されたのです。そして日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力したのです。

1898年、72歳で亡くなられています。

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
学校行事
4/30 PTA総会 授業参観 学年懇談
江南市立宮田中学校
〒483-8383
愛知県江南市後飛保町前川210
TEL:0587-55-1373
FAX:0587-55-1399